良守の受難2朝は苦手だ。陽の光は眩しいし、眠たいし、学校に行かなくてはならない。
「いってきます」
玄関で靴を履き終えて、振り返らずに学校へ行くことを告げる。父さんには面と向かって言っているので、これはジジイへの最低限のマナーとして放ったもの。断じて最近家に居着いている黒い塊へ向けてでは無かった。
しかし…
「あれ?良守、もう行くのか」
「あ?」
声がして振り返ると、居た。黒の着流しに黒の帯を締めた俺の兄貴が。今日は誰の葬式ですか?ってくらい全身黒い。
「行ってらっしゃい」
「うるせー」
「そこは素直に行ってきます、だろ」
はぁーもうこのくだりもう何回目だよ。めんどくせえ。俺、先に行ってきますって言ってるし別にイチイチいいだろ。つーか兄貴が勝手に見送ってるだけじゃん。って言ってやりたいけど、後が怖いから無視をする。
なんでか兄貴が実家に帰ってきてから、毎朝こうだ。正直いってメーワクだった。
ただでさえ朝は苦手なのに、兄貴が元気で益々鬱陶しい。
「あ、良守。忘れ物」
「はぁ?」
お前に何がわかる。と凄むが、兄貴はにっこり笑ってこう言った。
「行ってきますのチュー」
ガラピシャッ。
容赦なく扉を閉めて兄貴を遮断した。
前言撤回、朝は苦手ではなく嫌いだ。
理由、兄貴がウゼェ。以上。
「はぁ……」
なぜだか今日は外の空気が美味く感じる。それは家にずっと兄貴が居る生活が続いており、ストレスで息が詰まっているせいかもしれない。
コーヒー牛乳をチューチュー吸いながら、見慣れた通学路をぼんやり歩いた。町は平和そのものだ。家の中だって、荒んでいるのは俺だけ。兄貴が居て心が落ち着かなくなる人間は、俺の知る限り少数だ。いや嘘だ、そんな人間に出会ったことがない。だからこの気持ちは誰にもわかって貰えない。なんだか、俺は世界でひとりぼっちな気がした。
これが疎外感、というやつなのだろうか。だとしても何故俺がそんなものを感じなくてはならないのだ。
そんなヤケクソな気持ちで、今日はコーヒー牛乳を三本同時に飲んでやる。そうしなきゃやってられない。俺を癒してくれるのはコーヒー牛乳だけ。最近はこのひとときのために生きているといっても過言では無い、というのは流石に大袈裟か。
学校は正直いって面倒臭いけれど、楽しいことだってある。月に一度は給食でコーヒー牛乳が出るし、家庭科や美術の授業は興味深く面白い。
そしてなにより、学校には兄貴が居ない。はい、もうそれだけで最高。味気ない通学の時間も今では天にも登る尊さすら感じてしまう。だって家にいれば何かと兄貴に絡まれて、なんつーかこう……もやもやするし。
「なんで通学で一気に呑んじゃうの?」
「ブフーッ」
真横で嫌な声がして、思わずコーヒー牛乳吹き出しちまった。声の主はそんな反応なんのその。勿体ないねと笑う程度で、なんでか俺に歩幅を合わせて隣を歩いている。
「俺てっきり朝、昼、帰りに1本ずつ飲むのかと」
「なんでいる!!!」
目を三角にして吠えるも兄貴は笑って「散歩」だと言う。
「あっそ。じゃあな俺は学校に行く」
俺は結界を使って人の家の屋根に飛び移った。いつぞや時音が俺を巻こうとした、あのルートを使って通学してやる。
「元気いいなー」
「なんで着いてくんの!!!」
あははと笑いながら兄貴がヒョイヒョイ着いてきた。正気か、朝っぱらからふざけんな!俺は躍起になって逃げ出すが、兄貴は涼しい顔して俺の跡を追ってくる。
「夜行の頭領がこんなことしていいわけ!」
「野暮なこと言うな、今はオフだ」
「だったら家で休んでろバカ!」
「それじゃ体がなまっちゃうし、適度に運動もしないとね」
「知るか!他所でやれ!着いてくんな!」
考えたくは無いが、もしかしてあの時の時音はこんな気持ちだったのだろうか。そう思うと非常に悪い事をした気持ちに苛まれると同時に、コイツと一緒にはされたくねえ気持ちに襲われて心臓がジクジク苦しい。
俺は半ば諦めた気持ちで、歩道へ降り立った。
「なんだ。追いかけっこは、もうおしまい?」
「兄貴…」
この際だ。面と向かってハッキリ言ってやろう。
最近の兄貴は変だ。それに正直、こういうのは迷惑なんだ。前に俺を夜行に勧誘したいって言ってたけど、このしつこい嫌がらせは俺を仲間にしたいからなの?だからこんな変な媚の売り方してるわけ?もし万が一そうなら、金輪際やめてほしい。こんなふうに扱われたらどうしていいのか分からない。
だって俺は兄貴のこと……
「なに?じっと見つめて」
「いや、その」
言ってやれ。言うんだ。
ハッキリ、もう付きまとうのは止めてくれって。
兄貴はきっとわかってくれる。
はなから無理な話じゃないか。俺の将来はまだ不確かであやふやで、地に足すらついていないのに、そんなやつが兄貴の手足になるなんて無理だ。
「もしかして見惚れた?」
は?
「本当、良守って俺のこと大好きだよなー」
プチッ。
俺の中で何かがブチ切れた。そして言いたかった言葉が全てどこかへ吹き飛んだ。
「大っ嫌い!!!!」
思わず数キロ先まで響くほどデカい声で罵倒してしまった。
ハッとして兄貴の様子を伺う。いつもなら笑って殴りかかって来そうなものだが、何の反撃もして来ない。それどころか立ち尽くし、俯いて震えているではないか。
えッうそ、泣いた???
あの兄貴が?うそだろ?俺なんぞに暴言吐かれてワンワン泣くタマか?あの屈強な、何でも一捻りで倒せそうな兄貴が???
「あ、……」
何か言葉を掛けようとして、やめた。
兄貴だって馬鹿じゃない。俺が嫌がってるって分かっててああいう態度を取り続けてきたんだ。
なのに俺ばかり我慢し続けなきゃいけない道理はないだろう。俺には俺の言い分があって、兄貴には兄貴のやり方がある。
でも、例えそうだとしても…だからってそれを理由にナイフのように相手に突き刺していいわけじゃない。そんなこと頭では分かっている。
だが一度放った言葉はどうやったって取り消せないのだ。俺は嫌だった。ずっと嫌だって態度に示してたけど、兄貴はそれを無視してきたじゃないか。
ちょっとくらい、傷つけたって……
そんな言い訳が頭に浮かんで、俺はもう後には引けなくたっていた。
兄貴は、まだ俯いて立ち尽くしている。
「っ……」
もう嫌だ、この気まずい空気に耐えられない。学校にも行かなきゃ遅刻してしまうし、このまま逃げ出してしまおう。
そして動き出そうとした瞬間、ゾワッとした感覚が体中を駆け巡った。ブリキ人形のように後ろを振り返ると、兄貴がゆっくり顔を上げて此方を見つめる。
「全く。酷いことを、言うなぁ」
「ひッ」
その物腰の柔らかな口調とは裏腹な形相に、足先から震え上がりながら背筋がピンッと伸びた。
「途中まで一緒に行こうよ」
嫌だ。
「行こう」
「はい……」
そのとき見た兄貴は今まで出会ったどんな妖よりもおぞましく、そして、コイツだけは絶対に敵に回してはいけないのだと本能に深く刻まれる程度には恐かった。
俺の受難は続く。