どっちがいいですか? まいったな……。
練習を終えて備品の片付けをしていた。他の部員は練習終わりの合図で早々に部室に引き上げ、一人で何台ものハードルを片付けていた。雑用は一年が、そういう慣習だと聞いている。同時に入部した1年は15名。残りの14名も上級生とともに部室へ引き上げていた。――仕方ない。みんな疲れていたんだと思う。俺は体力だけが取り柄だから。
すっかり日が暮れてから部室に戻って唖然とした。荒らされたロッカー、あるはずの制服が忽然と姿を消して、不格好に切られたジャージのズボンだけが転がっていた。ユニホームの短パンでは流石に電車にのるのは憚れる。かと言ってこのジャージを穿くことも難しい。
途方に暮れて部室の外へ顔を向けた。
校舎に行けば誰かいるだろうか……居たとして、その人は俺に救いを差し伸べてくれるだろうか…
「あ……花沢、勇作」
低く艶のある声でフルネームを呼ばれ、振り返ると黒く大きな目が印象的な生徒が立っていた。名札の色が赤い。ということは、二年生の〝尾形〟さん?
「あの……どこかで?」
「この高校に居て〝花沢勇作〟を知らない人なんていないでしょう」
「そうなんですか?」
「あなた、有名人ですよ。高潔が制服を着て歩いているって」
「そんなことは……」
黒い目でじっと頭の先からつま先まで舐めるように見られて、ユニホームの丈が下着とそう変わらないこと、練習終わりで汗をたくさんかいていたこと、たった一人で部室に取り残されていること、そんな色々が急に恥ずかしくなって、逃げ出したくなった。部室に引っ込もうと、ドアノブに手をかけた。
「花沢さん、俺ね、ここの鍵を回収してこいって言われて来たんです。早く着替えてはくれませんか」
月曜日の今日はバレー部顧問の菊田先生が最終の鍵担当だったはずだ。そう思い出して納得した。菊田先生なら生徒を遣いに出すこともやりそうだと思ったからだ。いつも薄暗い職員室でぼんやりとシンガポールのガイドブックを退屈そうに眺めて、鍵の返却を待っている。
しかし、まいったな。着替えるにも、着替える服がないのだ。「…… あの……」言い淀んでいると、尾形さんの視線はちらりと部室の中を一瞥した。黒い目がスッと細まり、右の口端がくいと上を向いた。ニヤリと笑う、と言うのはこういう表情のことだと思った。
「ははぁ。高潔に着せる服がないのか」
「……」
黙っていると、尾形さんは徐ろに自分のベルトに手をかけてこう言った。
「花沢さん、どっちがいいです?」
「え……どっち、とは?」
ガチャガチャとバックルを弄り、ベルトを抜くと今度はスラックスのウエストのホックを外しファスナーをおろした。
「え! ちょっと、尾形さん?!」
慌てた。混乱している。部室の外、校舎からもグラウンドの外からも見ようと思えば見える場所で尾形さんは堂々と、且つ素早い動作でスラックスを脱ぎ始めた。わけが分からないせいなのか、同性の着替えなど山程目にしているはずなのに尾形さんの白い指先から目が離せなくて、心臓が口から飛び出そうなほどバクバクとしていた。見てはいけないものを見ている気がする。目を背けるべきなのに、それが出来なかった。
するりと指が濃紺のスラックスを下ろした――。
「制服とジャージ、どっちがいいです? 丈が足りないのは勘弁してください」
尾形さんは脱いだばかりのスラックスを左手に持ち、右手でスラックスの下に履いていた臙脂色のジャージを指さした。
「あなた1年だから、この色は嫌ですよね。一番ダサいと評判の小豆ジャージ」
「……はわ……、ジャージ履かれてたんですね」
「当たり前じゃないですか、このクソ寒いのに制服一枚の馬鹿がどこにいるんです?」
「だって重ね履き…校則違反じゃなかったですか」
「ふっ、噂通りのお人だ。校則なんて誰も守っていませんよ。ほら、早くしてください。俺が菊田に嫌味を言われちまう」
すみません、すみませんと二回謝って尾形さんの手からスラックスを受け取った。すっかり冷え切った身体に、尾形さんのスラックスは暖かくて涙が出そうになった。
「明日、必ず返します」
「いつでもいいですよ。そんなことより鍵を早く」
部室の鍵をかけて手渡すと、尾形さんは臙脂色のボトムに濃厚の制服のジャケットを着たチグハグな格好で校舎に駆けて行った。俺は、貸してもらった濃紺のスラックスの上に、無事だった深緑のジャージを羽織って、いつまでもその背中を見送った。