褒美をやる、来い走れと言われれば、走る。
飛べと言われれば、飛ぶ。
行って来いと言われれば、行って来る。
待っていろと言われれば、ずっと待っている。
張り込みをしろと言われれば、何日だろうが張り込みをする。
加藤春、という男は、そうした向こう見ずで真っ直ぐな男であった。
だが。
撃てと言われれば、撃つ。
それが出来なくなってどれぐらい経っただろうか。
あの日を境に、加藤の性質はがらりと変わってしまった。
加藤の持つSub性は閉じ、そして花開くことは無くなった。
加藤の未来に、主人を得る無二の幸福を味わう瞬間は永遠に訪れない。
◆
さてこの世でダイナミクス性を持つ者は幸せだ。他人に身を預ける喜び。信頼という名の支配を与える喜び。
ダイナミクスの代償行為でSMが流行っているが、そんなものはダイナミクスのもたらす本当の支配・被支配の崇高さに比べたら何ということはない。
ただの性的嗜好と同じに見てもらっては困る──と、いうのが世間におけるダイナミクスへの見方だ。
毎日のようにマッチングパーティが開かれて、唯一のDom、Subを互いに求める者が集う。それはさながら白人優位の如く。
Normal差別をやめよう、という主張が生まれる程度には、この世におけるダイナミクスの優位は明らかであった。
「加藤さんって~、Subなんですよね?確か」
「って、聞いてますけどね。一課で色々あって、今、Normalっぽくなっちゃってるみたいっすよ」
加藤と神戸がまさにその一課の応援に行っている最中、現対本部では、『Domパートナーの不倫!?パートナーのSubを捨ててプレイ』という若手男性俳優のゴシップネタを切っ掛けに、だらだらとダイナミクスの話で盛り上がっていた。
ちなみに、残された面々はNormalである。ダイナミクスは憧れられているが、それはそうとダイナミクス性持ちはそう多くない。
そのついで、流れ弾のように不在の加藤の話になった。
「加藤さんって、なんか強引なところはDomっぽいのに~」
「そうっすねぇ。強引だし、すーぐ太陽になけ!を見せて来ようとするし…」
「でも~、なんだかんだ応援にも行くし、奉仕するのは好き、とか~」
「あ~………あり得ますね」
本人にとっては至って迷惑な話である。
ダイナミクス性をオープンにするかどうかは本人の自由意志で、大概の人間はオープンにすることを選ぶ。
ただ、そのプレイ内容については大っぴらにせず、また口にしないのが常である。なぜなら、Domというのは元来、独占欲がとても強い。
うっかりプレイ内容が漏れて、別の人間がそのSubの姿を想像するだけで妬くし、もっと言えば過去に別のDomとプレイしていた内容が耳に入ろうものなら、理不尽にお仕置きしたくなる。
そういう生き物なのである。
だからこそ、特にSubは自分のプレイについて想像されるのを嫌う節があった。
とはいえそういう繊細な部分については、Normalの想像がいまひとつ及ばない。しょせん、別の世界の人間なのである。
◆
一課の応援といっても、任されるのは絶対に犯人が来ないと分かりきっている逃走ルートの見張りだ。
公用車の中は禁煙である。助手席に座った神戸も愛用の葉巻が吸えず、ただぼんやりとひとけのない道を眺めていた。
そのうち、無線で犯人確保の一報を聞く。帰るか、と、加藤がぽつりと零してエンジンを掛けた。
行動を共にすることが多い二人だが、会話は多い方ではない。
初めの内は気を使って加藤があれやこれやと話しかけていたが、あまりにも回答が素っ気ない神戸に早々に嫌気がさして以降は、職務中に弾む会話は無かった。
「神戸さん、ちょっといいですか」
と、そこへ星野がやってきて助手席の窓を叩く。ウィンドウが下がり、神戸の耳元に星野が唇を近付けた。
何を話したのか、タイミング悪く電車が通りかかって加藤には聞き取れず、電車が去った頃にはでは、と言って星野が去っていくところだった。
加藤が神戸の横顔を見る。
「何だったんだ」
「大した用ではない」
成る程、用は用だったんだなと思いながら加藤はドライブにシフトを入れて車を発進させた。
普段、神戸の匂いといえば葉巻の香りである。
煙草とは明らかに違う、苦味のある馥郁たる香りとでも言おうか。とにかく、神戸といえばその香りの印象であった。それが、どうだ。朝から禁煙で過ごしていたせいか、神戸の纏う香りが違う気がする。
赤信号で止まったタイミングで、加藤はなんの気無しに身をかがめて、助手席に置かれた神戸の手に鼻を近付けた。 くん、と匂いを嗅ぐと、神戸がすごい勢いで反応した。
「何をしている」
「何って、匂い嗅いだんだよ。お前今日すげぇいい匂いする」
うっとりと加藤が呟くのを見下ろし、神戸はさっき星野が言ったことを思い出す。
『神戸さん、ちょっと良いですか。
加藤さんが、その。…今日、すごくSubのオーラ、漏れてます』
「そうか」
『差し出がましいかもしれませんが、可能な限り早めにケアしてあげて下さい。…では』
きっと、出来損ないのSubだと知れ渡っている加藤といつも行動を共にしているから、神戸がDomで加藤の相手だと思われたのだろう。
半分外れで半分正解だ。神戸はDomである。だが、加藤とはプレイをする仲に無い。
神戸は、神戸家の跡取りとして、行きずりでプレイをしないだけの自制心を身に着けていた。
無論、体調に考慮した発散はする。だがそれも、外で無闇にDom性を発揮しないためだけのものだ。
だからこそ、職場でプレイメイトを持つという発想そのものが、神戸にはない。
無いはずだ。
「っと、悪い」
クラクションが鳴らされて、ハッとした加藤が顔を上げ車を発進させた。従順に伏せられた鼻先が黒手袋の右手から離れるのを、神戸は惜しいと思う。思ってしまう。
「加藤警部補。この後、時間はあるか」
「どした。何か気になることでもあったか。戻って報告書ぐらいだし、別に良いぞ」
「そうか」
加藤のはしばみ色の瞳は運転中だから、話していても神戸の方は見ない。
神戸はそれが妙に、腹が立った。
腹が立ったのだ。
「……加藤、」
かとう。
三文字ぶんの音が滑らかなテノールで紡がれた瞬間、加藤の全身に鳥肌が立った。耳障りな高い音を立て、突然急ブレーキがかかる。がくんと互いの身体が前のめりに倒れ、そして元の姿勢に戻った頃には、ハンドルを握り締めたままの加藤が神戸を凝視していた。その視線が自分だけを映していることが、大変に心地良い。
「お前…、なんで…、」
Glareを出していることは、加藤にも分かったようだ。
わななく唇が靴先に口付けられる瞬間が見たい、と、神戸は思った。
「加藤。…最も近い五つ星ホテルまで、今すぐに案内しろ」
ウィンカーが出される。力をもって言い渡される言葉は、半ば強制的な命令として加藤を縛った。
と、神戸は思っていた。
◆
ホテルに着いた。車寄せに停めるとホテルマンがキーを預かるという。何も問われない上、視線も普通だ。一流ホテルというだけあった。
神戸はヒュスクに命じて既にチェックインを済ませている。案内を断り、カードキーだけを受け取り何も言わずただ進んでいく神戸の少し後ろを、加藤が落ち着かなさげにくっついていっていた。毛足の長い絨毯にフカフカと靴底が沈み込む。
キーでエレベーターに乗り込むと、一瞬だけ重力を感じするすると箱が上へ上っていく。いつもと違う張り詰めたような沈黙だった。加藤も、神戸も、一言も口を聞かない。
チン、とややレトロな音と共にドアが開く。降り立った瞬間見事なまでの青空が出迎えた。
最上階だ。この部屋のほかに部屋はない。エレベーターを降りたエントランスは、都内の冬の晴れ間を一つの絵画として設計されていた。見事だな、と、加藤の口から思わず言葉が零れだす。それで緊張が解れ改めて、部屋の重厚な扉の前で加藤は神戸に向き直った。
「それで、何だよ、いきなり。お前とホテルでする用事なんて無いよな、神戸」
「そうだな」
「…さっき、コマンド出したことと関係があんのか」
「ああ」
「……お前、Domだったんだな」
そうだと思ってたけどよ、とぽつりと漏らす加藤が逡巡するように視線を落としては、くしゃくしゃと髪をかき乱した。
加藤がSubなのは有名な話だ。事前に調べて知ってはいたが、入庁後、噂話に疎い神戸ですら耳にしたことがある位だ。
はっきり言ってしまえば、星野と同じようにして、神戸が加藤との関係を揶揄われたのは一度や二度ではない。治ったか、具合はどうだ、その数だけ好かれてもいるのだろうと取り合っていなかったが、明確に否定しなかったことが却って噂の尾ひれを増したらしい。Domだと明言していないのに、いつの間にか神戸がDomであることは知れ渡っていた。その、当事者たる加藤を除いて。
「知らなかったのはお前ぐらいだ」
「………それ、どういう意味だよ。俺がSubとして失格だって言いたいのか?」
「そうではない」
「じゃあ、何だよ!」
語気を荒げる加藤を押しのけて、ただ一室、このフロアに用意された部屋の扉の前に神戸は立つ。
カードキーを翳すと、ごく小さな解錠音がした。
それが分かる程度には、静かだ。
両開きの扉のうち片方の把手を引いて、神戸は立ち尽くす加藤を振り返った。
「俺は、ダイナミクスの本能だけでプレイをしたことは、これまでにただの一度も無い」
神戸の声は低くよく通る。
生まれながらにして人を従わせる側なんだな、と加藤は思う。
「それで?」
「……先ほど、お前が俺の手に伏せをした。…気づいたら、Glareを、出していた」
「言いたいことがあるならハッキリ言え、神戸」
この生まれついたDomである神戸に命令を出せるのは、この世の中祖母と加藤ぐらいだ。
それを加藤は自覚していない、と、神戸は思う。
長い睫毛が一度伏せられた。瞬き一つの間に、スレートグレーの瞳が真っ直ぐ加藤を射抜いた。
「部屋の中に入ったならば、同意とみなす」
「つまり?」
「プレイを行う」
「だから?」
「……俺について来い、加藤」
「はー……あのな、神戸、」
一歩、加藤が足を踏み出す。神戸の手に握られたカードキーを、まるで手を繋ぐようにして加藤が優しく奪い取った。
神戸の目が見開かれると、くしゃ、と加藤の両目が細められる。
扉を開けて入れと促しているのに、ついて来いと言い放つ矛盾。
ついて来いと言ったにも関わらず、扉を押さえたまま一歩も動かない矛盾。
神戸は、加藤がついて来ないかもしれない恐怖を乗り越えられない、可愛いDomだ。
その信頼を預かりたい、と久々に加藤は思ったのだ。思えたのだ。
「お誘いとしちゃ及第点以下だ、次回に期待だな。
俺が今、Sub性機能してねぇのはお前も知ってるだろ。それでも良ければしようぜ、神戸。
…ただ、そうだな。一つだけ約束してくれ。もし、俺が良い子にお前の命令が聴けたら。一つだけで良い、俺の言うことを何でも聞いてくれ」
加藤は別世界の入り口である、スイートルームの部屋の敷居を軽々と跨いだ。
入り口にカードポケットがあるのは、ビジネスホテルと何ら変わりない。
指先で差し込むとぱっと灯りが点った。弾かれたように、神戸が加藤の後に続いた。
◆
「神戸……、」
神戸の持つ視線の魔力に取り憑かれ、加藤は一歩も動けない。
けぶるように睫毛が臥せられてようやく息を吸う。音も無く息を吸い込んだ神戸の咥える葉巻があかく燃えてから、少し縮んだ灰へと変わる。
上を向くでなく、さりとて下を向くでもない真っ直ぐ前を向き煙を吐き出す顎の線が泣きたくなるほど繊細で、葉巻をただ下ろす仕草すら宗教画のように美しくて、座した神戸にただひれ伏したくなる。
気付けば、ソファの前に膝をつき、縋るようにして見上げていた。
kneelの姿勢だ。
Subとしての基本である。
どうしたらいいか分からなくて、加藤はぎゅっと眉をひそめ膝に置いた手を握り込む。
神戸は何も言わない。だが、瞳と口元が僅かに緩み、この行動を肯定していた。
赦された気がして、加藤の双眸がくしゃっと歪む。
「神戸。…良いか?」
問う加藤を前に神戸は静かに息を吐き、灰皿に葉巻を預ける。嗅ぎ慣れた香りが加藤の鼻を痺れさせた。この、いかにも主人然とした男に普段なら覚えるはずの反発心が雲散している。自然、頭を垂れて床を向く。
と、そこで唐突な疑問が湧いた。
―――この男、セーフワードという概念はあるのだろうか?
何にしろ御曹司だ。相手に断るという選択肢は無かったに違いない。
はっとした加藤が顔を上げる。気づいたか、とでも言いたげにあくどい笑みを浮かべた神戸が立ち上がり、こちらを見下ろしていた。
悪戯をする少年のような笑みだと思った。
「這え。頭を床につけろ、加藤警部補」
よりによって最も頭に来る役職名で加藤を呼びつけた神戸の下したコマンドに喉の奥でうなりながらも、加藤はこみ上げる喜びを抑えることは出来ず、額を床に擦り付けた。
Subとしての喜びが、確かにそこにある。
Subとは、仕える主人を選ぶ傲慢な奴隷である。
命令をしてもいいだろうか、その不安ごと飲み込んで信頼して欲しい。
きっと応えるから、無茶苦茶なことを命じて欲しい。
そう、命令の後にとびきり甘い褒美があればより最高だ。
年下で後輩な上司の、誰にも見せぬカワイイ顔であるとか。
「褒美をやる、来い」と、最後の最後に言われるまであとどれ位命令を貰えるだろうか。
加藤の伏せた顔が幸せに歪んでいた。