袖の猫【泉+レオ】 舞台袖とは波止場なのかもしれない。ここから一歩足を踏み出せば、そこには熱気が渦巻く大海のような舞台が広がっている。
その一歩を踏み出すために一呼吸入れる場所が、こんな風に薄暗がりと柔らかで重たい布で包まれていることは嫌いじゃない。ここに立てば自然と身体がチューニングされる。そういうふうに自分を調整してきた。モデルとして、アイドルとして、誰でもない瀬名泉を見てもらうために。身体にほどよい緊張感を走らせる後押しをしてくれる、心地よい場所。
だけど、今日はちょっと、あまりに居心地が悪かった。
「暑い〜、あつい〜、フィレンツェでもこんな暑いなんて聞いてないぞ! これも全部セナのせい! あっ、ごめん、嘘! セナは何も悪くない! でも、ああ、蘇ってきた、インスピレーションが蘇ってきた! そう、これは『意地悪なセナの全身にカビが生えて悶え苦しんで死ねばいいなの歌』の変奏曲!」
「冗談じゃなく本気で生えてきそうだからやめて」
声をひそめるべき場所でも我関せず、声を張り上げるれおくんに頭痛がする。内容もひどいし、布と布の狭い隙間に器用に潜り込んで床に転がっているようすは戯れる猫みたいで、下手をすると弾みで蹴飛ばしてしまいそうになる。早朝という時間帯ということもあって、まだ少し目覚めきれていない身体をコントロールしなければいけないというのに、これでは舞台にあがれそうにない。
「いいじゃん、いいじゃん、今はリハーサル、しかも幕間! 今のうちにめいいっぱい感情を爆発させておけ!」
「リハーサルにもならないから文句言ってるんだけど?」
こちらも盛大にため息をついてやる。冷房が入る前のホールにはスタッフしかいない。しかも予定より早い時間帯のため、なおさら少ない。だからこのようすを咎める人もいない。自由気ままなれおくんにはもってこいだろうが、そろそろこの巨大な猫をどうにかしないと俺の方に支障が出る。
「あっ、猫だ! セナ、猫がいるぞ!」
一括りにした髪をしっぽのように揺らして、れおくんが一際大きく声をあげる。猫? あんたが一番猫っぽいってのに?
「いや、ほら、本当に猫だって! って、あれっ、もしかしてお前、リトル・ジョン!? わはは! ひっさしぶりー!」
「は? いや何言ってるの、れおくん?」
布の合間に身体を突っ込んだれおくんを引き摺り出すと、その腕には見たことのある猫が抱えられていた。他人の空似じゃない、俺自身も何度か手を伸ばし、抱えて、撫でたことのある姿に、舞台袖の薄暗がりがゆらめいた気がした。よく見れば、れおくんの格好もおかしい。もうとっくの昔に脱いだはずの空色のブレザーに青色のネクタイ姿が、たなびく幕から現れる。
「ほら、セナも撫でて」
手を引かれて、猫の身体に触れる。柔らかくて、温かくて、蒸し暑いはずなのに冷えきっている俺の手を拒まずに受け入れてくれる。このままどこまでも手を埋めてしまいそうな感覚に、これが夢だと気がついた。
「……またうまくいかなかったわけか」
独り言だったが、制服姿のれおくんは、そうみたいだな、とあっけらかんと笑った。猫はぐにぐにと身体をくねらせて、いっそう深く俺の手を包み込んでいく。このまま腕も、肩も、終いには身体も包み込まれたら、そこにはきっとあの五人で立つ懐かしい香りに満ちているに違いない。
そこからすぐに手を抜けない自分に苦笑してしまう。自分に懐いてくれる存在から離れ難くて、むしろ恋しくて、こんなの夢の中でしか見せられないホームシックだ。
「どうする? このままカビが生えるまでこうしてる?」
「ははっ、冗談やめてよねぇ。ホームシックというなら、登場人物が少なすぎるんだけどぉ?」
最後にするりとリトル・ジョンの丸い頭を撫でてやれば、れおくんの腕から抜け出して音もなく床に降りて幕間に消えていった。
「わかってるじゃん。じゃあ、早くいってこい、セナ」
暑さにつられて鳴きだした蝉の声が、舞台袖にまで聞こえてくる。いや、これは舞台に立つものに向けられる無数の拍手だ。その音につられて胸を小突いたのは、あいつの姿を勝手に借りてきた俺自身の手。永遠の幕間なんて存在しないことを身体に刻みつけるため、俺は波止場から光の大海へと一歩踏み出した。