【寂左】鷹で嵐で大いなる歌「道がすっかり色づいたね」
そう言うと、左馬刻は無言で寂雷を見上げた。
「以前ここを歩いた時は、まだ街路樹には色濃い緑の葉が生い茂っていましたから」
紅葉よりも鮮やかな瞳が、葉の溜まった足元を、周囲を映してから、またこちらに戻ってくる。
「秋が好きなのか?」
「ええ好きですよ。左馬刻君は?」
「まあまあ」
美という概念は一体誰が作ったものなのだろう。人が生まれるずっと昔の原初からそんなものが存在したかのように、微に入り細に入り、端々まで自然は美しい。
「例え誰に教わらなくとも、我々は何かを美しいと思うのかな」
イチョウの葉が、不規則的な軌道で舞い落ち左馬刻の上着に引っかかった。寒い時期において当たり前のことかもしれないが、今日の彼は軽装とはいえ長袖に上着も羽織っていて安心する。葉を手に取り、顔の横に掲げてみた。
「何してんだ」
「左馬刻君は、何色でも似合うね」
「え……、ありがとよ」
本人の白っぽい印象のせいだろうか。海の景色も、燃える夕日も、バトル会場の舞台を照らすライトも、彼の肌や髪を透かしてよく映える。
左馬刻は寂雷からイチョウの葉を受け取ると、気を遣ったのか、街路樹が途切れるまでそれを手に持ったまま歩いた。
「うちに来るの久しぶりだな、せんせえ」
自宅へ到着すると、左馬刻はケトルで湯を沸かし、ミルで豆を挽いてくれた。珈琲豆の良い香りが漂う。急な逢瀬にも関わらず、広い部屋はよく片付いている。その中で、ダイニングテーブルには硯と、幾枚かの半紙が置かれていた。
「あー、片すわ」
「これもしかして、組の行事の」
「せんせえ俺様の字知ってんだろ。あのままじゃ格好つかねえから」
「練習しているんだね」
組織が新年会の意味合いで行う事始めでは、幹部が翌年の目標を書き初めするのだという。練習とはいえきちんと硯で墨を磨っているのか。極端に行き当たりばったりなところと、手間を惜しまないところが、彼の中で不思議なバランスで混在している。
淹れたての珈琲を出してくれた青年は多少、バツが悪そうな表情をしていた。温かな液体を飲み込むと、その深い薫りと熱が身体中に染み渡る。
「ありがとう。美味しい」
「……おう」
「もしかして今、格好がつかないと思ってるんですか?」
「そりゃ」
「努力は素晴らしいことです」
「他の奴には見せられねえよ」
左馬刻は寂雷のすぐ隣に腰掛けた。いつからか、二人の時は決まってそのように座っている。
「私には、見せてくれるんだね」
じっと紅玉の瞳を見つめると、まだ難しそうな顔をしながら見つめ返される。幾つもの煌めきを湛えた深い色。
「アンタは笑わねえし、憐れんだりもしねえだろ」
「そういう人は他にも居るでしょう。嬉しいな。左馬刻君が私に見せてくれるものがたくさんあるのは」
顔に熱を篭らせ、小さく呻いて、青年は額を押し付けるように肩へと寄り掛かってきた。
「……せんせえ」
「話を戻すけど」
「戻すのか……」
すぐ傍の頭を撫でる。毛質の柔らかい、ふわふわとした感触が心地よい。
「左馬刻君の文字は左馬刻君自身が表れているようで、私は好きだな」
昔から、この青年は人前で字を書くのを嫌っていた。字の形だけでなく、漢字を知らないのもコンプレックスのようだった。いわゆる半グレに属する者の間では珍しくないことだ。残念ながら、教わる環境に恵まれないことは、この時代にもままある。
「せんせえ、好きとかいう感情あんの?」
「え。今さら、君は何を言っているんだい」
「はは」
「左馬刻君」
彼は笑ったまま顔を上げ、寂雷の頬に軽く唇を付けてから立ち上がった。キッチンへと向かう左馬刻へ伸ばし掛けた腕には、こちらの分のエプロンを放り投げられた。
冷蔵庫の食材と、スーパーで一緒に選んできたものと、組み合わさってどんどん形になってゆく。自宅である分か、左馬刻の手際はいつにも増して良かった。二人で料理する機会はあるが、ほとんどは寂雷の家へ来てもらっているのだ。
「ご馳走だね」
「もうすぐ年末だしパーッといこうぜ。次いつ会えるか分かんねえし」
「まだまだ君と良いお年を言い交わす気は無いのですが……」
とはいえ急患対応等で約束をキャンセルせざるを得ないことは時折あった。昨年のクリスマスディナーなんて、気づけば待ち合わせの時間になっており慌てて謝罪の連絡を入れたのだ。華やいだ空間に一人待ちぼうけをさせてしまったことを思うと寂雷は今でも胸が痛む。左馬刻は少しも怒らなかったが、あれから外食の約束は殆どしていない。
左馬刻がエプロンを外し、冷蔵庫からビールを取り出した。
「せんせえ何飲む……?」
「お茶かお水を貰えるかな。記憶を飛ばしたくはないからね」
「おー」
グラスへ注がれたミネラルウォーターとビールで乾杯した。
「本格的な中華を作ったのは初めてだけど、こんなに美味しいものなんだね」
「ン、角煮は成功だな。そっちの鍋はどうだ?」
「これ鍋なんですか?」
汁は無い。赤みを帯びた煮込みのような鍋は、香りからして様々な香辛料が組み合わさっている。寂雷はニンニクと生姜を任されて、それだけでももりもりと投入した。手始めに豚肉と白菜を口に含めば、複雑な味が広がる。
「絶妙な辛みですね」
「折角の蟹が無駄にならなくてよかったな」
「ええ。蟹も、砂肝も、油揚げも、きのこも……とても美味しいです」
「ハマで店畳んじまった親父に教わったんだ。具材はかなりバリエーションあるみてえだが」
「左馬刻君なら、お店が継げるんじゃないかな?」
「せんせえも一緒なら考えてやる」
「そうなのかい? うーん……」
冗談だと思ったのか、左馬刻は笑って寂雷の膝を叩いた。
大勢の命を救うことを最善と考えここまで来たのに、この頃は違う思考に捉われてしまうことがある。大勢よりも特定の誰かを。大切なものが増してゆくのを感じるたび、それらを奪ってきたのだろう自身の罪もまた強く意識された。スパイラル。堂々巡りだ。これが正常といえるのか、寂雷は殆ど生まれて初めて、自分に自信が持てなかった。強さは意思とそれに基づいた行動にあるというのに。
「もしかして、こういうのが巷でいう『好き過ぎて心が苦しい』ということなのかな……」
「よく分かんねえけど、たぶん違うだろうな」
そうすげなく否定して、左馬刻はクラゲのサラダを寂雷の取り皿へ足してくれた。
あらかた食事が終わり、隣の青年はウィスキーをちびちびと飲んで白い顔を赤く染めている。服で隠れた部分も同じように染まっていることを寂雷は知っていた。
「書き初めの練習をした紙は、見せて貰えないのかい?」
「そんなん捨てちまったわ」
「今は書けないか」
「酔っ払いの字が見たいとは悪趣味だぜせんせえ」
「そうだね。ごめんね」
言いながらも、左馬刻は食事の器をテーブルの端へ避け、先ほど片付けた筈の道具を再び並べだした。硯で墨を丁寧に磨る姿は、背筋が伸び凜としている。そのまま振り向いて当たり前のように寂雷へ筆を渡してくるものだから、受け取ってしまった。
「え?」
「せんせえなんか書いてくれよ」
「私が? 何か……。素面とはいえ、突然だと難しいものですね」
驚くほど思い浮かばない。いや、浮かぶのはどれも自分を正確に表わすとはいえない言葉なのだ。それらしいものを、さっさと書いてしまえばいいのかもしれないが。静寂が、水槽へ水を注いだようにたっぷりと肩へのし掛かってくる。
「別になんでもいーんだぜ」
そう言って左馬刻は寂雷から筆を受け取ると、少し考えて書き始めた。目を見開く。そこには『神宮寺寂雷』と書かれたのだ。
「やっぱ下手くそだな」
「そんなことはありません」
こんなに自分の名前をじっくり見るのは初めてだ。筆の入る角度、勢いのあるはらいやはね、生命力を感じさせる点の打ち方。全てに左馬刻が居る。
「ふむ」
自分は自分でしかないというのもまた真理だった。
「いつまで見てんだよ……」
「待って。これは私が貰えるのかな? 職場に貼っておきたい」
「やめとけ!」
寂雷は再び筆を握ると、硯へ浸し、今度は迷い無く『碧棺左馬刻』としたためる。それを左馬刻もじっと見た。
「……交換してもらおうと思って書いたんだけれど、これは非常に照れくさいね」
「ふは、互いにテメエの名前の紙持ってるとか意味分からねえ」
筆が乗って、頭に浮かんだ言葉をどんどん書いていった。夕食の鍋の名前を教えてもらったり、冬に出掛けたい温泉について話しながら、互いに文字へ表してゆく。
「なんだこれ」
「リルケの詩だよ」
「ふーん、せんせえは物知りだな」
「とんでもない」
青年が寂雷の肩に頭を乗せるようにした。頬はまだ淡く色づいたままだ。その温度が知りたくて、手のひらでぴたりと覆う。少し汗ばんでいる。
「君に気づかせて貰うこともたくさんある」
まつ毛の瞬きに合わせ、唇を重ねた。上下の唇を順番に挟むようにして引っ張り、吸う。表面の温度と柔らかさだけでは満足できず舌を差し入れた。口内は溶けそうに熱く、舌は柔らかに寂雷を招く。舌先でつつくたび、じわじわと甘い唾液が滲んだ。気づけば左馬刻をソファーの背もたれへ押し付けるような格好になっている。互いにはあはあと息が弾んだ。
「せんせ、明日仕事じゃねえの」
「うん。でもしたいな」
殆ど唇をくっ付けたまま話した。腿をさするだけで、青年がぴくりと震える。
「準備してねえ」
「一緒にするよ」
「……恥ずいんだって」
「でも、私には見せてくれるんだよね?」
潤んだ目のふちを舐める。手は既に服の中に入り込み、相手の知り得る全てを求め撫で始めていた。
『私は神を 太古の塔をめぐり
もう千年もめぐっているが
まだ知らない 私が鷹なのか 嵐なのか
それとも大いなる歌なのかを』
起きたのは寂雷の方が遅かった。少ししつこくしてしまって、あんなに乱れていたのに、さすが若者の回復力だ。スウェットを上下拝借してからリビングへ行くと、昨晩の食事も書道まがいの痕跡も、すっかり片付けられて残っていない。
「おはよう」
「はよ」
「詩を吟じていなかった?」
「ぶはっ、なん、ねえわ」
「君の声だった気がしたけど、夢かな」
左馬刻は上半身にパーカーを羽織っただけで、生々しい鬱血のあとが見え隠れしていた。その集中具合でおそらく、寂雷の好む箇所が明瞭になっている。
「今日晴れだってよ」
「よかった」
「どの道タクシー呼ぶだろ」
「昨日の道を少し歩きたいな」
「そんなに好きか。秋が」
換気扇のスイッチを押して彼は煙草を吸い始める。
「一緒に歩いてくれますか?」
朝日に照らされる白い男を想像し、寂雷の口角が上がった。
了