『声』 君の声が聴きたいよ。
独りでいる夜は、ふとそう思う。
静かな部屋に響く微かなコール音。
特別なその音に、左馬刻はベッドの中でふと意識を浮上させる。薄い月明かりに手にした画面を見れば、見覚えのある名前が自分を呼んでいた。
「……あぁ?」
あの人が自分を呼んでいるという事実に、つい素直に頬がゆるむ。そんな自分を内心笑いながら、その自嘲さえどこかここちよい。
我ながら、業が深いと思うが。
しかし、共に目に入った現在時刻に首を傾げる。少なくとも、あの人が何の用もなくかけてくるような時間ではなかった。
数回のコール音の後、留守番電話になる直前に画面をタップする。
着信画面が通話のそれに切り替わり、あの人と空間が繋がる。
「よぉ、先生。」
『左馬刻君……ごめんね、起こしてしまったかな。』
控えめなその声に、喉の奥で緩く笑う。
別に、起きていても不思議はない時間なのだが、寂雷には自分のことなどお見通しらしい。
だから、素直に頷いておく。
「ああ。ま、たいしたことねーわ。
それより、こんな時間に電話を寄越すなんて先生こそ何かあったのか?」
この男が、神宮寺寂雷が他人を頼る事なんてまずない。常にはない事に、自分の手が必要な何事かが起こったのかとつい身構えるが、電話の向こうから聞こえてきたのは柔らかな笑い声。
『ああ……違うよ。大丈夫。
そういうことではないから。』
「じゃあ、なんだよ。」
『ん……』
「センセー?」
珍しく言いよどむ寂雷に首を傾げる。今日は、色々といつもとは違うことが起きる様だ。
それでも大人しく待っていると、低く呟くような声が耳に届いた。
『……君の声が、聴きたくなった。と言ったら君は怒るかな。』
「……っ」
不意に投げられた意外すぎる台詞にぶわっと体温が上がる。きっと、顔も赤くなっているに違いない。
そんな左馬刻など気づかぬように、寂雷が言葉を連ねる。
『なんでだろうね、月を見ていたら独りが少しばかり寂しくてね。』
気づけば、君を思いだしていたよ。すまないね。
どこか、淡々とした低い艶のある声が機械を通して左馬刻の耳を犯す。
この声が直に耳に落とされる衝撃を、もう自分は知っていた。
機械に、先生の声を再現なんて本当は出来ねーんだろうな。
そんな埒もない事を考えながら、少しの音も聞き漏らすまいと耳を澄ます。
「謝ることじゃねぇよ。先生。」
『迷惑ではないかい?
こんな時間に、ましてや君を起こしてまで。』
「そんなことを言うあんたが、遠慮せずかけてきてくれたことが俺は嬉しいんだよ。」
それだけ、俺の声が聞きたかったんだろ。
耳元に囁きかけるように言葉を選べば、電話の向こうで落ちる吐息。
『……ありがとう、左馬刻君。』
音のない世界に、それはやけに響いた。
ん?
ハマの街を見下ろす最上階。
この部屋までは、街の喧噪は届かない。空調の緩い風がさらりと頬を撫でて。けれど他に音はないはずなのに。
なんだ?
何かが、左馬刻の神経に触れた。
『そう、言ってもらえて嬉しいよ、……左馬刻君?』
黙り込む自分をどう思ったのか、寂雷が訝しげにその名を呼ぶ。
スマホから聞こえるその声におかしなところはない。ないのだが。
『ん……どうか、したのかい?』
時折混じる吐息が左馬刻をざわつかせる。それは、まるで。
「先生、」
『ん?何かな?』
不自然に息を止める仕草。聞こえるはずもない音が、左馬刻の耳を密やかに犯す。それは、まるで。
「あんた……何を、してるんだ?」
思わずそう問いかけてしまった左馬刻に、けれど寂雷は答えない。
『何?と聞かれてもね。
月を……見ているだけ、だよ。』
くすくすと笑う、その声に混じるのは。
この耳を犯す、その音は。
「本当に、それだけか?」
『では、何をしていると君は思うのかな?』
左馬刻が声に込めた恫喝に、寂雷が気付かぬ筈もないのに。それでも、楽しげな声は変わらない。
「……っ」
その声に、もらす吐息に微かに混じる艶。気付かないと思っているのだろうそれが、左馬刻をひどく苛立たせる。
言うべきかどうかなど、考えずとも分かりながら左馬刻はあえて口にした。
「聞いてんのはこっちだろ。
答えろよ先生。」
『ふふ、なんだろうね。』
あくまでも楽しげな、からかうような響きに募る苛立ち。
けれど、それは。その苛立ちは。
「なぁ、先生。
一人で楽しむのは感心しねぇな。」
『ん?』
こちらも笑いながらそう言ってやれば、機械の向こう側で空気が変わる。
「楽しそうじゃねぇか。
どうせなら俺も混ぜてくれよ。」
『……左馬刻君?』
その声に混じる戸惑いに溜飲を下げる。
「俺様の声をおかずにマスかくくらいなら、俺を呼べよ。」
『…………』
「バレねぇとでも思ってたのかよ。
なぁ、先生。俺様の声はそんなにイイか?」
責めるような口調はけれど楽しげに。
ああ、さっきまで先生の声がやたら楽しげだったのはこういうことか。
そんなことを思いながらベッドに体を起こす。
「勿体ねぇことするなよ、先生。」
『なにがかな?』
「俺を呼べよ。……無駄打ちなんてさせねぇからな。」
あんたは俺のもんだろ、先生。
そして、俺はあんたのもんだ。だから。
『ふふ、そうだったね。
……本当に、呼んでしまってもいいのかい。』
「いいから、さっさと呼べよ。」
そーいうとこまどろっこしいんだよ。
通話を開いたまま、クローゼットから適当に引っ張り出した服を雑に羽織る。
港を渡る風の音に耳を澄ませて、けれど手に取ったコートはベッドに放り投げた。
どうせ外を歩くわけでなし、こんなもんでいいか。
「で、どーすんだセンセー。」
『来て欲しいな、左馬刻君。』
君に、どうか触れさせて。
熱を隠さないそのつぶやきに、体の奥がぞくりと震える。あの人が、俺を捕らえるそのまなざしが体にまとわりつくようで。
「……30分で行ってやんよ。
イくなよ、センセー。」
『さて、どうしようかな。』
「おい、」
車のキーを手にしてすごめば機械の向こうから楽しげに笑う気配。
大丈夫だよ、とまるで俺をあやすように低い声がのどをくすぐる。
『聞いていてあげるから、早くおいで。』
「センセーこそ手ぇ止めんなよ。」
全部、俺に聞かせてろよ。
『いいのかい、そんなことを言って。』
「いいんだよ。」
俺があんたを受け止める瞬間まで、全部俺に聞かせろよ。……そう。
41.750kmが、ゼロになるまで。