『箱根旅行記』~食欲の秋~『もしもし、左馬刻君?』
その声に逆らえる奴なんて、いない。
連休が取れたのでドライブに付き合って欲しいと、突然の誘いに頷いた左馬刻は寂雷が運転するアルファードに乗って国道1号を西に向かっていた。
代わり映えのない街並みを追い越して、人気のない海岸線を横目に古い城下町に入る。
途中、道の駅で腹拵えをして、今度はキツい傾斜の道を山へと向かった。
「道の駅、ではなくてあれは漁港の駅だよ。」
「……どっちだっていいだろ。」
至極冷静なツッコミにふんと鼻を鳴らせば、運転席でくすりと笑う気配。軽くあしらわれるその感覚が悔しくも心地よく。
ハマよりも一足先に色づき始めた山の稜線を見るとはなしに眺めやる。
狭い空間に二人きり。言葉少ないやり取りも不快ではなく。家にいるよりもむしろ寛いでいる自分にどこかくすぐったい気分になる。
「どうかしたかい?」
「いや。いい加減種明かししてくれてもいいんじゃねぇか、センセー。」
「何のことかな。」
「一国走ってるときはショウナンにでも出るのかと思えば一息にオダワラまで来ちまった。で、今度は山越えだ。
センセーの目的地はどこなんだ?」
「ふふ、ようやく聞いてくれたね。」
「あのな……ま、いいか。で、どこだ?」
「内緒だよ。」
「おい、」
「冗談だよ。もうすぐ着くから。」
「……楽しそうだな、」
「そうだね、楽しいよ。」
言いながら、車は急カーブを幾つか抜けて次第に深い木々の中へと入っていく。
「こっちってなんかあったか?」
「この道を真っ直ぐ進めばアシノコだよ。さっきの道を曲がればゴウラだね。」
「で、センセーが行くのはどちらでもねぇ、と。」
言う気のない寂雷の言葉を先取りすれば、良く出来ましたとばかりに左手がついと頬をなぞる。猫を甘やかすようなその仕草を振り払うより、俺は。
悪戯な指を捕らえて、左馬刻はちゅっと音を立ててキスを落とした。
「危ないよ、左馬刻君。」
「先にちょっかいかけてきたのはセンセーだろ。」
「仕方ないね、」
ちょっと返してね。
するりと俺の手から抜け出して、シフトレバーを操作する。かなり奥まったそこは、別荘が点在するエリアの一つのようだった。
砂利が敷かれた区画に車を止め、車を降りる寂雷に左馬刻もまた外に出る。
オダワラの港より更に一段下がった気温に、ハイネックの襟を抑えてぶるりと首をすくめる。
「ここは?」
目の前に立つ洋館と言ってもいい一軒家に寂雷を見やれば、彼は迷いなく玄関に立つ人物に歩み寄り声をかけた。
「久しぶり、急な話で悪かったね。」
「いいえ。ここは坊ちゃんのものでもありますから、いつでも気兼ねなくお声かけください。」
「『坊ちゃん』という年でもないのだけれどね。」
「このじいにとっては何時までも『坊ちゃん』ですよ。
こちらのパンお好きでしたでしょう。朝食にどうぞ。」
「貴方には敵わないな。ありがとう。」
「勿体ないお言葉です。では、ごゆっくりお寛ぎください。」
寂雷の後に立つ自分にも一礼して、いっそ執事服でも似合いそうな老人は森へ消えていった。
「さ、入って。しばらく使ってないけど、手入れはされてるはずだから。」
「…………待ってくれ。」
「?」
「色々端折りすぎなんだよ、アンタは。
一からきっちり説明してくれや。」
「ああ。ここは神宮寺の家が持っている別荘だよ。先程の彼は祖父の代から管理人を務めていてね、おかげで私は未だに子供扱いだよ。」
そういう寂雷に気負いはなく、彼にとってはごく普通のことなのだとイヤでも分かる。
そういう世界を知らぬ訳でもない。自分も『普通』ではないことは自覚していても。
「やっぱ、そっち側の人間なんだな。センセーは。」
「左馬刻君?」
「俺とは住む世界が違うわ。」
ぽつりと呟いた言葉をどう取ったのか、寂雷が左馬刻へと向き直る。自分は、一体どう取って欲しいのだろうか。
自分を見下ろす宵色の瞳を、今は見返す気分にはなれない。
「そうだね。」
「っ」
「人は誰も、同じ世界を見ることはできない。同じ視点を持つことはできないから。
でもね、同じ世界に在ることは必要かい?」
「ひでぇな、センセー」
突き放すような物言いに、けれど触れる手は温かく。
端から同じ世界など望んではいないのだとお互い分かっているから。らしくない感傷ごと飲み込むように手を伸ばしその唇を奪う。
「……」
黙って抱き寄せてくれる腕の力に身を任せて。
「ほら、中を案内してくれよ。センセー。
今日はお泊まりなんだろ?」
「ふふ、そうだよ、
君とゆっくり過ごしたくてね。」
「そりゃ光栄だ。
なら夕飯は腕を振るわせてもらおうか。」
「おや?」
「そのためだろうよ、あの荷物は。」
トランクのクーラーボックスを揶揄してニヤリと笑う。
「せいぜい『ゆっくり』しようぜ、センセー。」