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    斑猫ゆき

    キメツとk田一中心。

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    斑猫ゆき

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    9月のキ学炭魘(たんたみ)本の進捗③です。

    4 善逸、怪しき声を聞くこと

     車の元に戻った頃には一時を回っていて、約束の一時間にはなんとか間に合った次第だった。小走りで道を駆け戻ったふたりを、宇髄は腕組みしながら待っていた。他の皆も既に機材のセッティングを終えていて、マイクを振り回して遊ぶ伊之助を善逸が引きずられながらも宥めすかしているのが遠景に見える。
    「おう、お前ら遅かったな。もう始めるぞ。衣装はもう車の中にあるから」
    「すみません! 今着替えます」
     あたふたと、炭治郎は民尾の手を引いて車に乗り込んだ。先程山頂で撮影したときの炭治郎の衣装と合わせて、民尾のための着物がソファの上に置かれている。それを各々手に取って、ふたりは撮影の準備を急ぐ。
    「ちょっと、炭治郎。左前になってる。さっきも言ったじゃない。それに、男の着物はそんなに襟詰めない。シャツ着てるなら尚更。もう少し緩めて」
    「あ、すみません……」
     炭治郎がスタンドカラーシャツの上に羽織ろうとした着物。その合わせ目をくいと引っ張り、民尾は自分の着付けを中断して、襦袢姿で炭治郎の方へ寄り添う。
     衣装担当は主に民尾の仕事だった。普段のスーツで固めている姿からは想像もつかないが、民尾は和装の着付けに造詣が深い。それは浴衣くらいしか着たことがない和装初心者が多く、強いて言えば煉獄が剣道着に慣れているくらいのものだった一行にとって、思いも寄らない助け船となった。ただ、何故こんな特技を、と本人に聞いても、『まあ、色々ね』とはぐらかすばかりではあったが。
     くつろげた前開き部分を合わせ直す民尾を、炭治郎はポカンとした顔で見下ろしている。されるがままになっている身体をよそに、心は何故か不思議なほどに凪いでいた。先程の廃駅での一件といい、こんなに穏やかに彼に近づくことがあっただろうか、と。
     それを思い、炭治郎の唇がふと笑みの形に結ばれた。それを不審げにねめつけて、民尾は首を傾ける。
    「……何がおかしいの?」
    「だって、いつもは俺が民尾さんの服を直すじゃないですか。電車でお尻出してるとき」
     電車で迷惑行為を繰り広げる民尾を押さえ付けて捕まえるのは、既に炭治郎の日常になりつつあった。そのときに乱れた……というよりも意図的に脱ぎ去られた衣服を直してやるのも。
     駅員へ引き渡す間に、ほんの短いながらも会話を交わすこともある。駅舎の周辺で顔を合わせ、少しばかり話し込むことも、最近は増えてきた。けれど、いつも最後は煙に巻かれて終わってしまう。縛り上げた縄を物理的に外して逃げるだけではなく、こころのひとかけすらもつかみ取る前にするりと掌を抜けて行ってしまう、彼。
     だから、炭治郎はなんとか糸口を見つけたかった。あのみどりの駅で見つけた、カメラのファインダーを覗く澄んだ目を。あのひたむきな視線を引き出すことが出来れば、不可解に過ぎる彼の一端に触れることが出来るような気がしたから。
    「ふーん、確かにそうかもねぇ」
     民尾は事も無げにひらと手を振ると、はたりと瞼を伏せる。切れ目のない表情。そうして徐に手に取った炭治郎の袴を投げ渡すと、自分の着替えに戻っていった。
     とりつくしまもない背中に、炭治郎は手を伸ばしかけて、すぐに降ろした。もうすぐ撮影だ。あまり時間を掛けている訳にも行かないだろう。そんな意識が、追い縋る気持ちを理性で留める。
     そこから、二人の会話は途切れた。
     淡々と、これから作られていく役のために、外面だけが整っていって。
     ふたりが着付けを終えたのち、撮影は川を渡った土手のほうへ移動して行われた。川面を挟んで東西に広がる畑の跡は、端の方に僅かに雑草が茂っているものの、荒れ果てているという印象はなかった。これも、宇髄の言っていたように此処を引き払った元住民やその遺族達が整備をしているおかげなのだろうか。
     家屋の群れとは反対の北西に続く河原道へ立ち、炭治郎はぼんやりとそんなことを考える。ちらと道の先を見れば、遠近法で掌に乗りそうなサイズに縮小された民尾の姿があった。オーバーサイズの羽織で首元と肩幅を誤魔化しているのも相俟って、遠目からは性別すら判然としない。
     その表情の仔細に目を凝らそうとしたところで、慌てて意識を逸らす。あまり意識してしまうと、台本で想定されているシーンと食い違ってしまう、と。
     そんなふたりの姿を、カメラを構えた善逸とマイクを掲げた伊之助が追っていた。
    「よし、じゃいくぞ。さん、に、いち……」
     宇髄の手にしたカチンコが、白と黒のストライプで空間を切った。
     乾いた音が、山の中の空気を映画のワンシーンに変える。

     ――遠景から、探偵が歩いている様子がカメラに映し出されていく。地面は平坦であるものの、慣れない田舎道を進むせいか、若干足取りは覚束ない。土埃を立てながら進む彼の右手側に、細い川が道と並行して流れている。不意に吹き付ける風が帽子を浚いかけて、探偵はそれをふわふわとした癖毛に押しつけて目深に被り直す。その拍子に風に流されかけた耳飾りがから、と鳴った。
     急に、探偵の顔がクローズアップされた。何かを見つけたように見開かれる瞳。すぐにカットが変わり、背中側から探偵の姿が映し出される。段々と引き気味になっていくカメラが彼の視線の先を映し出した途端、細い声が通る。
    『お待ちしておりました。竈門炭治郎、さん』
     行く手に立っていたのは、ひとりの女性だった。肩で切り揃えられた断髪は濡羽に艶めき、それと同じくらいに深い黒で染め上げられた着物は仕立ての良いものながら、年頃の娘らしい華やかさはない。その上に羽織る『夢』という文字が散らされた意匠の羽織が、水面を渡ってくる風をはらんで僅かにはためいていた。
    『貴女は……』
    『民尾、と申します。この度炭治郎さんにこの村の調査をお願いした、宇髄家の長女です』
    『ああ、お迎えに来てくださったんですね。ご丁寧に、どうも』
    『ええ、こちらこそ、遠路はるばる有り難うございます』
     お互いに頭を下げてから、民尾に促されるまま、探偵は上流に向けて歩み出す。カメラもそれを追って、ふたりの背中を映している。川面から反射する光の帯が、剥き出しの土や草陰に零れては景色をゆらめかせていた。
     少し進むと畑のあぜ道に、ふたりの青年が立っているのが見える。二人とも手拭いでほっかむりをしている為、顔の造作は窺えない。畑仕事の合間のひと息、といったところだろう。探偵は声を張り上げて、ふたりに挨拶する。
    『この村の方ですか、こんにちは! 私立探偵の竈門炭治郎と申します!』
     けれども返事はなく、青年達はぷいと背を向けるばかりだった。何やら頭を突き合わせて話し込む様子の彼らを眼下にし、探偵は引き攣った声で民尾を振り返る。
    『……な、なんだか、とげとげしいですね』
    『無理もありません。私がいますから。私が、夢違観音様のしきたりを破ったから……』
    『夢違観音様……?』
    『この村の守り神、のようなものです』
    『守り神……というと』
     民尾は俯き、ほそと息を吐く。その面立ちへ不意に落ちた影は、日射しが遮られたせいばかりではないようだった。生白い横顔がアップになる。その向こう側から探偵の顔が、気遣わしげに覗いている。
    『はい、この春夢村では、毎年の春に夢違観音様のお告げを聞くために村の娘がひとり選ばれ、お堂に籠もるという伝統行事があるのですが、今年の春……あ』
     ふいと、民尾は言葉を止める。半開きの唇が、艶めかしく空を食んだ。顔を上げた先に、見えるものは……

    「よーし、カットだ!」
     カン、と青空を挟んでカチンコが閉じ、撮影が締めくくられた。
     炭治郎と民尾のすぐ横でガンマイクを掲げていた伊之助が、歓声を上げて柄を握り直す。土手の下に控えていた教師陣も、緩やかな傾斜を登ってきてそれに合流する。背の低い雑草が踏み分けられる音が、軽快に風を切っていく。
    「うむ! 良い演技だった! 俺も負けていられないな」
    「俯きすぎたかも知れないが、あれでよかったか…?」
    「いーんだよ。お前のメインの役は交番の駐在さんだからな。顔が見えたらモブ兼任がバレるだろ」
     宇髄は笑って、頬被りを解いていた冨岡の背中を叩く。その隣で、同じく村人の扮装をしていた煉獄が、額の汗を拭っていた。教師陣の盛り上がりを遠目に、カメラを抱えたままの善逸が何やらぶつぶつと呟いている。
    「炭治郎、すっげえ堂々としてたな……あの変質者の人も……ああ、俺大丈夫かなぁ。俺が犯人だ、って意識しちゃって……逆に、怪しい感じになっちゃわないかなぁ……」
     この後のシーンは、ひとり探偵を迎えにいったヒロインを追いかけてきた弟役の伊之助と、婚約者――この事件の真犯人――であるところの善逸が登場する手はずになっていた。
     できるだけ人数の不足をカバーするため、機材担当は明確には決めていない。次からは善逸と伊之助が役に徹する代わり、冨岡と煉獄が音声やカメラに移る番だ。準備時間を短縮するために、既にサスペンダー付きのズボンにシャツという衣装に着替えながらカメラの役をこなしていたが、やはり出番が近づくにつれて緊張と共に実感が迫ってくる。武者震いを抑えきれず、善逸は自分で自分の肩を抱いた。
    「大丈夫だよ。たくさん台本の読み合わせしたろ。あの通りに出来れば心配ないさ」
    「ビビってんのかぁ紋逸? 情けねえなぁ!」
     炭治郎と伊之助が、両側から激励を送る。伊之助は着付けの楽な甚平を纏っており、既に合わせが開きかけている。ただ、それを見越して伊之助の役どころは『山で遊んでばかりの粗野な少年』という造形をなされているため、別段咎め立てするものはいなかった。級友ふたりに励まされてもまだ視線を虚ろに彷徨わせている善逸の肩を、後ろから宇髄が力まかせに揉み始める。
    「ちょ、先生痛い! 痛いですってぇ!」
    「自信持てよ、我妻。モテたいんだろ。だったら、ド派手に演じきってみやがれ!」
     身も蓋もない言葉ではあったが、善逸としては心を奮い立たせるのにぴったりの檄だったらしい。たちまち口元がだらしなく歪み、足取りも軽くなる。じんじんと染む肩の痛みも、すぐに吹き飛んだらしい。煉獄にカメラを渡し、スキップせんばかりの勢いで、川上に向かって土手を駆けていく。
    「よっし、行くぞ伊之助ぇ! 煉獄先生、あとはお願いします!」
    「うむ、俺も応援しているぞ、我妻少年!」
    「わーってるっての! 命令してんじゃねえよ!」
     叫ぶ伊之助が善逸の背中を追い、賑やかしさが道を遠ざかっていく。それを、民尾の横顔が茫洋と見つめていた。隣に立つ彼の落ち着いた様子を眺めやり、改めて、炭治郎も気合いを入れ直そうと深く息を吸い込む。
     そうして、シーンが再開される。
     言葉を途切れさせた民尾は、道の先を見据える。正面から捉えられた花緑青の瞳。
     切り替わったカメラがその視線を辿ると、林の中で待機していた伊之助と善逸が奥の道から歩いてくる。何も言わずに探偵を迎えにいった民尾を追って来たふたり。その顔をそれぞれアップにしながら、紹介が始まる。
     そんな、手はずだったのだが。
    「イヤあああぁああああああああああぁぁああ!」
     唐突に響き渡った叫びに、全員の視線が一斉に林の中へと向いた。
     炭治郎は、何事かと林の中へ目を凝らす。けれど、深く視界を阻んだ山林は、うず高く伸びた下生えも相俟って、咄嗟にはその内側を覗くことは出来なかった。
     程なくして、殆ど転びそうになりながら坂道を全速力で駆けてくる善逸と、それを追う伊之助の姿が見えてきた。林道が土手の上に開け、剥き出しの地面に切り替わるところで何度も足を取られながらも、なんとか歩調を取り繕って炭治郎と民尾の方へ向けて走ってくる。でたらめに手を振り回しながら金髪を風で乱して近づく友人の姿に一種凄絶なものを感じ取って、炭治郎の背筋に冷たいものが流れる。
    「落ち着けって、善逸! 落ち着きやがれったら!」
     伊之助の声も困惑が混じっているものの、善逸に比べればまだ冷静さを帯びていた。けれどもそれなりに慌てているのか、珍しく名前を間違えずに叫んでいる。何度も手を伸ばし、前を行く善逸を宥めようとしていたが、逃げ足は尋常の速度ではない。結局、一度もその背中を捕らえることもなく、ふたりは撮影隊の元へと辿り着いていた。
    「おいどうした我妻、嘴平! 何があった?」
     駆け寄ってきた宇髄が、上がった息を整える二人に問いかけた。
     善逸は弾かれたように顔を上げ、青ざめた顔でまくしたて始める。けれど、上手く呂律が回らないらしく、譫言のようにただ一つの言葉を繰り返すだけだった。
    「でででで、出た! 出たぁっ!」
    「何がだよ?」
     訝しげに首を傾げる宇髄に、善逸は掴みかからんばかりに顔を近づける。他の皆も何事かと集まりはじめ、一時撮影は中断される。
    「ゆ、ゆ、幽霊ですよぉっ! 出て行けって! 言ってた!」
     その言葉に、皆が顔を見合わせる。広がったざわめきを裂くように、善逸はなおも叫び続ける。
    「木の根っこの下とか! すっごい高い木の上とかからぁ! あんな場所に人間いないでしょ!?」
    「本当なのか、我妻少年、嘴平少年!」
     煉獄の問いに、伊之助が深く頷く。
    「本当だ! めっちゃ気色悪りぃ声だった!」
    「……宇髄」
    「ああ、流石に確かめねえとな」
     冨岡に促され、宇髄は林の方を見据える。しがみついてきた善逸の背中を軽く叩いて安心させてやりながら、やんわりとそちらの方角へと誘導する。それに続き、炭治郎たちも土手の上を進んでいく。
     木々の密集した林の中は薄暗く、犇めいた枝が魔女の掌のように空を覆い隠していた。小径は半ば雑草と落ち葉に埋もれてはいたが、小さな石積みで区切られていることで、なんとか道としての体を成している。善逸は初めのうちは断固として林の中に入りたがらなかったが、全員でいれば怖くないと宥めすかされて、やっと覚悟を決めた次第だった。七人は離れないよう固まって、彼が声を聞いたという枯れかけた葉が溜まった杉の根元だとか、樹冠の辺りだとかをしきりに覗き込んでいるが、はかばかしい結果は得られない。
    「……なんにも聞こえねえぞ、我妻」
    「ほ、ほんとにしたんですってばぁ!」
     叫び声はただ幹の間に掻き消えていくばかりで、耳を澄ましても、自分達以外のひとの気配はしなかった。時折、葉擦れの音が耳を掠めるくらいのもので。途切れることなく続く小さな破裂音は、近くにあるという滝から聞こえてくるものだろうか。けれど、それは距離に薄められてあまりにもか細く、人間の声と勘違いするには無理があるようにも思える。
     はらと、民尾が乾いた笑いを零す。
    「気のせいだったんじゃない? 怖いと思ってると、ただの風の音でもそれっぽく聞こえるものだからねぇ」
    「え、ええ……そうかなぁ……」
     怯えと困惑が入り交じった目で、善逸は改めて辺りを見渡す。
     皆が足を止めた今、ただ静寂だけが林の中に満ちている。針葉樹の尖った葉に砕かれた光が、まるで礫のように一向に向けて擲たれていた。何も、起こらない。何も、聞こえない。あまりの静けさに、寧ろ何者かが息を潜めているのではないか、なんて疑念すら湧いてくる程に。
     広がる枝葉に隠された道の先を見やり、伊之助がぼそりと呟く。
    「……やっぱここ、すげぇ嫌な感じがする」


       5 夜宴たけなわになること

     ぱちぱちと、炎の爆ぜる音がする。
     縦横無尽に広がる夜の中に、ランタンの明かりでつくられたほんの僅かな隙間。その中心に置かれたロースターが、歓声と肉の焼ける匂いを弾くように熱を渡らせていた。辺りに満ちた夜の黒は濃密で、暴かれるのはせいぜい森の表面にある葉陰の凹凸だけ。それでも、夕食時の明るい喧噪はちいさな光の中で確かに巡り続けていた。
    「っしゃあ! 肉だ肉っ!」
    「おう、食え食え! 明日に向けて英気を養わねぇとだからな!」
     威勢良く皿に盛られた焼き肉を掻き込む伊之助。その向かいで宇髄が網の上が空いた端から新しい肉をトングで追加している。伊之助が時たま火の通り方が十分でないものへ手を伸ばそうとすると、反対の手で持った菜箸でぴしゃりと牽制する。その度に巻き起こる侃々諤々の騒動と、間欠的な笑い声。
     その姿を遠目に見ながら、善逸は組み立て式のベンチに座って、もそもそと冷めかけた肉とピーマンとを咀嚼していた。味が悪い訳ではないけれど、全くもって食が進まない。俯いて見下ろした皿の上で、刻一刻と具材から熱が逃げていく。それは分かっていても、胸の中がぐるぐると廻り続けて、新しいものを身体の中に入れさせてくれなかった。
     思えば、あの幽霊騒動のせいなのだろう。
     あれから目立った怪異はなく、撮影は滞りなく予定のシーンまで取り終わった。万事は順調。
     それでも、善逸の中にはまだ根深い恐怖が巣くっていた。
    (あれ、絶対に人間の声だったよ。俺たち以外の誰かがいるんだ。誰かが……)
     善逸はプラスチック製のフォークを強く握りしめる。
     分からないものへの恐怖。不安。ただそれだけが、この非日常的な体験を素直に楽しませてくれない。自分が作り上げた文章が映像として昇華されていくのは、確かに代えがたい喜びがある。のだけれど。
     唐突に、ベンチが軋んだ。自分以外の重みが、隣に座っていることにそれで気づく。ふと顔を上げると、快活な笑顔とかち合った。煉獄の金色の髪が、ランタンの暖色を浴びて柔らかく光を渡らせている。
    「我妻少年。ちょっとシナリオについて話したいのだが、構わないだろうか」
    「あっ……はい」
     手にした台本を掲げる煉獄に、善逸は慌てて頷く。
    「うむ。先程の撮影の際に言われていた、この村の守り神であるという〈夢違観音〉というものだが、これは法隆寺に安置されている国宝の〈夢違観音像〉のことで相違ないだろうか?」
     大きな目をぱちぱちと瞬かせて、善逸は呆けた表情で煉獄を見上げる。あまりにも予想外の質問に、咄嗟に言葉が出てこない。やっとのことで吐き出せた声も、うわずってぎこちなく。
    「あっ、いや……なんとなく響きがいいから使おうかなって思っただけで、そんなに深く考えてなかった、デス……はい」
     気まずそうに俯き、皿の上のウインナーをフォークの先でつつく。耳障りの良い、謎めいた単語を選んでしまっただけだという自覚はあれど、それを面と向かって指摘されるとなかなかに辛いものがある。そんな善逸の様子を見て取ってか、煉獄は優しく彼の背に手を添える。
    「いや、俺も撮影より前にきちんと聞いて詰めておくべきだったな。何処かで見たような言葉だという気はしていたが、台詞として音で聞いてやっと思い出したんだ。すまないな」
     気遣わしげに眉を寄せた煉獄に、善逸はふるふると首を振る。こうも真剣に、自分の作り上げたひとつの世界について考えてくれている人間がいる。その事実を受け止めて、不思議と不安が和らいでいく。ひとつ頭を往復させる度に、胸の中で回っていた憂いが消えていくようで。
    「えっ! いや、そんな……」
    「ふむ。となると、もう少しその辺りを絡めた設定を組んでおき、明日の撮影の時にどこかで説明をするシーンを入れるべきかも知れないな。そうしたら我妻少年。少し相談させて貰おう」
    「え、あ。はいっ、ありがとうございます!」
     皿を傍らに置いて、ふたりは話し込む姿勢に入った。ポケットから抜き出したボールペンで、聞き取った言葉を煉獄が片端から台本の余白にメモしていく。そうしているうち、善逸の表情からは怯えを含んだこわばりが抜け落ち、もう既に目の前の事象へと入り込んでいるように見えた。帳の降りた青黒い森を背景に、物語が解かれてはまた違う形に編み上げられていく。
     それを少し離れた椅子から眺めやりながら、炭治郎が感慨深げにぽつりと呟いた。
    「やっぱり、煉獄先生って歴史の先生なんだなぁ……」
    「やっぱり、って。なんだか変な言い回しだね」
     折りたたみのアウトドアチェアの肘掛けに頬杖をついて、隣にいた民尾が首を傾げる。それに炭治郎は屈託のない笑顔を向ける。
    「はい、いつも歴史の授業は座学が殆どなくて、大体が騎馬戦なので」
     思わず顔をしかめた民尾。黒い夜に縁取られた表情が、実際よりも更に険を深く見せていた。
    「……なにそれ……ほんと、君たち学校ぐるみでマトモじゃないねぇ」
    「いつも電車でお尻出している民尾さんに言われたくないですよ」
    「大きなお世話。って言うかさっきからさぁ、俺の方ばっかりじゃない。お友達の方に行ったら?」
     これ見よがしに盛大な溜息をついて、民尾は横目で炭治郎を睨み付けた。そうして、皿の上のタマネギを一枚口に放り込んで、ゆっくりと咀嚼し始める。話しかけるなという牽制とも見える行動に、けれど炭治郎は気づいた素振りもなく笑うばかりで。
    「だって、この中で民尾さんと前々からの付き合いがあるのは俺だけでしょう? 俺がいなければ、民尾さんひとりぼっちになっちゃうじゃないですか。さみしいですよ、そんなの」
     朗らかな笑顔。
     自分の言葉の正当性を善意だと信じて疑わない、凪いだ湖のような表情。水面を覗き込むものをその細部までくまなく映し出し、暴き立ててしまう。その鬱屈も、劣等感も、醜さも、全て。
     民尾は顔を背けると、強く唇を噛んだ。笑みの形につくった口角は、そのままに。
    「……そういうの、善意だと思ってる訳? お前」
    「え……」
     空間に落とされた声。それはすぐに夜に融けて、薄青い色に滲んでしまう。
     込められた想いは放散して、誰にも、自分にすら、届くことなく。
    「一人でいるからってさみしいとか、ぼっちとか、人をバカにしてるでしょ」
    「そんな、俺は……」
     顔を上げた民尾の笑顔には、明らかな嘲りが含まれていた。弁解のために開いた唇はうまく言葉を選びかねて、ただ空を切るばかり。まるで、口の中で言葉が消えてなくなって行くようにも思えた。すぐ隣にいるはずなのに、数十センチの隙間がどうしようもなく遠い。
     どう、言葉を尽くせば、彼に届くのか。
     いくら想いを巡らせても、上手く繋げない。
     あの廃駅で見せた一瞬の綻びは、もう既に今の彼にはなくて。
    「ほうは、はまど、ほのひほの、ひうほおひだ」
     喃語に近い、くぐもった声。
     唐突に挟まれたそれに、炭治郎と民尾は顔を見合わせる。
     声の方を見やれば、冨岡が頬を膨らませながら口をもごもごさせている最中だった。
    「……冨岡先生。あの、口の中のもの飲み込んでから喋って頂けると……」
     炭治郎は若干脱力した面持ちで、苦く笑った。
     冨岡は食事の時に喋ることが出来ない。口いっぱいに食べ物を詰め込む癖があるので、無理に発声しようとすれば先のような有様になるからだ。それは本人も理解しており、学校では昼休みになると非常階段の裏に行ってひとりで昼食を取るのが常だった。
     そんな冨岡が、食事を押してでもふたりに伝えたい、というのは。
    「……そうだ、竈門。そのひとの言うとおりだ」
     繰り返された言葉が今度は明瞭な音声で、ふたりの耳に届く。
    「ひとりになるのも、ひとりでいるのも、本人の意志であればそれは立派な選択だ。それを他人の尺度で測って哀れむのは、見当違いも甚だしい。お互いを理解することと馴れ合うことは違う」
     思わぬ方向からの舌鋒は、過たず炭治郎の胸を刺した。ぐ、と息を飲み込んで、膝の上に置いた皿に視線を落とす。
    「……なんだ、マトモなやつもいるんだね。そういうことだよ。優等生の竈門炭治郎くん」
     意を得たりと唇を歪めた民尾は、身を乗り出して炭治郎の顎を指先で持ち上げ、瞳を覗き込む。突きつけられる視線。それはあまりにもつめたいもので。
    「人の心に、土足で入り込まないで」
    「う……」
     炭治郎は思わず口ごもってしまう。
     顎を支えていた民尾の手が離れて、がくりと頭が揺れる。助けを求めるように冨岡の方へ視線を動かすけれど、既に彼は食事に戻ってしまっていた。所在なく立ち尽くす炭治郎。ロースターの方から聞こえる騒がしさが、距離にくるまれて消える。そのまま、声も出せなくて。
     不意に、口の周りに飛んだ焼き肉のタレを手の甲で拭いながら、冨岡は一度だけ頷いた。しっかと、炭治郎の方を見据えて。
     深い色の瞳は、何処か暖かかった。炭治郎は思わず息を呑む。お互いの行き違いに気づいたなら、あとはふたりの問題だと。そう、言われている気がした。じっと見つめ合うだけでも、相手の気持ちは分かる。かつて冨岡自身が言っていた言葉。それを、体現するように。言葉がどれほどすれ違おうとも、お互いを理解するやり方は必ずあるのだと。
     冨岡へと深く頷きを返してから、改めて、炭治郎は民尾の瞳を見据える。水の色を湛えたそれは僅かに震えていて、ほんの僅かな光に縁取られた薄笑みとは、どうにも噛み合っていないように思えた。
     ああ、そうだ。
     炭治郎は漸く得心する。その内側に含まれる感情は移り変わっていても、ここまで民尾はいちども笑顔を途切れさせていなかった。まるで、その下にあるほんとうの感情を押し隠しているように。
     けれど、炭治郎の嗅覚は嗅ぎ取っていた。皮肉の下にあるもの。ほんの少しの悲哀。他人を傷つける分だけ、民尾も傷ついている。寧ろ、傷つけられる前に傷つくことで、自身を守っているのかも知れなかった。それに、民尾自身が気づいているのかは別として。
     人間は、本当に辛いときは笑うことしかできない。
     そんな事を聞いたのはいつだったか。
    浮かんできた連想が、この情景に繋がるものかはわからないけれど。
    「……だったら」
     意を決して、炭治郎は顔を上げた。
     そうして、席を立ちかけた民尾の裾を引く。しっかと、その勿忘草色の瞳を見据えたまま。
    「俺がただ民尾さんと一緒にいたいから、って言ったら、納得してくれますか?」
     一人でありたいという気持ちを自分勝手だと評するのならば、誰かを独りにしたくないというのもまた傲慢なのかもしれない。
     それでも、炭治郎は彼のほんとうの心の在処を知りたかった。
     あの廃駅で見せた一瞬の。そして、彼を初めて見かけたとき、あの瞳の底にあった煌めきを。
     結ばれる視線は、まるで流れ星のように夜を駆けて。
    「……勝手にすれば」
     そう呟いたとき、やっと、民尾の笑顔は薄まっていた。
     炭治郎の手を振り払おうとしたのだろう腕が、するりと脱落する。そのまま、言葉は途切れた。視線を逸らそうとした民尾の顔を覗き込んで、炭治郎が追いかける。それを避けてあらぬ方を向けば、それに追随して。どちらかが音を上げるまで、終わらない鬼ごっこ。
     バーベキューの喧噪はそれを咎めることもなく続く。ただ無数の星明かりが天頂に紗をかけて、ふたりを見下ろすばかりだった。

         *

     既に消灯時間はとっくに過ぎていたが、善逸はなかなか寝付けていなかった。
     一行を乗せてきたキャンピングカーは、ソファを畳むことで後部スペースが二段ベッドへと早変わりする。上段に冨岡と民尾、下段に生徒三人が寝ており、宇髄と煉獄は運転席及び助手席を限界まで倒して寝床にしていた。カーテンの降りたリアウィンドウを足下の方に見やりながら、善逸は冴えた目を擦る。
     人里離れた廃村には星月より他にあかりもなく、暗がりに慣れてきた目ですら、薄手の布地を透かすことも出来なかった。ほんの少しだけ開いた隙間から見えるぬばたまが、硝子一枚隔てた空間の暗さを物語るばかりで。
    (やっぱり、聞き間違いだったかなぁ……)
     煉獄とシナリオの再構築を行い、その後にもう一度変更点を踏まえて全員で読み合わせ。そんな充実した流れの中で、大分不安は和らいでは来ていた。
     けれど夜の暗さに引き戻されて、心はまた、あの林の中に戻ってしまう。
     人間が潜むことが出来るとは到底思えない地点から響いてきた、あの不気味な声たち。出て行けと輪唱するそれらの圧力が、言葉づらとは裏腹に眠りから善逸を引き戻してしまう。
     とはいえ、善逸とて無為無策で手をこまねいていた訳ではない。元来臆病な己を見越して、夜中尿意で起きないように水分摂取を控え、寝る前にしっかりと廃交番の中にカーテンと共にしつらえた簡易トイレで用を足してきた。用意は万端、の筈だった。用意だけは。
     それでも、寝付けなければ何の意味も無い。
     目の前では炭治郎が、既にとっぷりと穏やかな寝息を立てている。自分もそれに続くため、羊でも数えようと善逸は瞼を閉じる。けれど、一匹も柵を跳び越えることもないうちに、いきなり背中を蹴られた。咄嗟に身体をこごめて、小さく悲鳴を上げる。そこに伊之助の盛大ないびきが、追い打ちを掛けるように覆い被さった。どうやら先の一撃は彼の寝返りによるものらしい。身体全体をよじって炭治郎の方へと距離を詰めながら、善逸はそれでもわずかな安堵を感じていた。
     そもそも、寝相が絶望的に悪い伊之助にもみくちゃにされることを覚悟してでも布団の中央を陣取ったのも、人肌が近くにある安心感が欲しかったからだった。両脇を固める友人達の気配が、頭上にある大人達の音が、善逸にはいまどうにも心強く思えた。その実感と、筋肉を突き通し内臓までも染み渡る痛みに幾分現実へ引き戻されて、ふるふると首を降る。
    (うう、やめやめ! とっとと寝て、明日に備えなきゃ……)
     布団を頭から被ろうとしたそのとき、鼓膜が震えた。
    「……えっ?」
     それはおそらく、車からかなり離れた場所から届いたものだった。
     距離にして、およそ数十メートル。それでも善逸の鋭敏な聴覚は、その微かな音を捕らえて離さない。聞き違いかと振り切ろうとした瞬間、またひとつ。断続的に鳴る慎ましやかな虫の声とは違う、重量を伴って地を踏みしめる音。
     けれど、獣でもない。獣の足はあんなゴムのように摩擦を含んだ音は立てない。あれは、靴底が地面を擦ったとき特有の響きだ。善逸は息を呑む。だとしたら、あれは。
     あれは、人間の足音。
     それも、複数の。
    (うううう嘘でしょ!? 足音……え。足、あんの!? ってことは幽霊じゃない? いや、でも怖い話で足音が……って良くあるし……え、え……)
     ノイズがかかったように混迷していく思考。刻一刻と滲みを増していくそれをよそに、足音は着実に近づいてくる。一歩、また一歩、と。
     恐慌に揺れる胸の中とは裏腹に、頭の片隅にやけに冷静な部分があった。あの様子だと、歩いてくるのは三人。履いているのはスニーカー。それから、それから。暗闇の中でより一層研ぎ澄まされた耳が、無情にも善逸の頭に情報を流し込んでくる。引きつれた笑みが唇に浮かぶ。もう、笑うことしか出来なくて。
    「お、おい。たんじろ……いのすけぇ……」
     両隣に眠る友人達を揺り起こそうと、善逸は寝床から身を起こす。迫り上がった視線がリアウィンドウとかち合った。
     ほどなく足音が、止まる。けれど、その元が消えたのではない。
     わかる。わかってしまう。だって。
     カーテンを透かした、ほんの僅かな月明かり。
     それを逆光に浴びて、くろぐろと三つの影が車内を覗き込むように佇んでいるから。
    「ひ、あ」
     掠れた声だけが、喉を滑る。
     最早それ以上の音を感じ取るいとまもなく、善逸の意識は途切れた。


       6 ラジオ体操は万事を助くこと

     夜半の露が徐々に昇り始めた太陽に当てられて、空気を濡らす朝。
     薄青い靄が満ちた林の中を、民尾はカメラを片手で支えながら進んでいた。暗闇が冷やしていた空気がシャツ越しに肌へ染みて、ほんの少しだけ身体が震えた。踏みしめた地面は湿った落ち葉で覆われている。遠くで唸りを上げる水音は、夜の帳を引き揚げていく音にも似て。
     皆がまだ眠りの内にある頃に、民尾はそっと起き出してきていた。そうして土手を辿ってやってきたのが、昨日善逸と伊之助が怪異に見舞われたというこの北西の林だった。
    (幽霊が現れたのは、この林に入ったときだけ。となれば)
     道を逸れて、民尾は木々の間に入り込む。頭上を仰げば、杉の葉に細かく切り刻まれた薄明かりが段々と趨勢を増していく。それでも、木々の天辺までは数多い枝に遮られて見通すことは出来なかった。民尾はふるりとかぶりを振る。
    (何かがあるはず。幽霊の振りをするなんて大袈裟な事をしてでも隠したい何かが)
     善逸は、木の上や根元から声がしたと言っていた。流石に樹冠の辺りは調べられなくても、足下であれば調査は容易だ。腕を広げて抱きかかえても足りない程に成長した杉の木の根元を、ひとつひとつ覗き込んでいく。間伐もされないままにこの樹齢まで育った樹木の群れが、村が打ち捨てられた時間の長さを無理矢理教え込んでくるような錯覚。
     それを振り払いながら、民尾は袖を鼻に当てて呼吸する。杉の香りが、柔らかく意識を痺れさせてくるのを、自分の匂いで相殺して。
     斜面を登っていく内、ふと民尾の足が止まった。その目は、一本の杉の木の根元に向けられている。大きく湾曲して持ち上がった根の辺りだけ、他と比べてやけに落ち葉の溜まりが浅い。民尾は屈み込むと、僅かな堆積を手で押しのけ、地面と根との間に出来た洞を覗き込んだ。青い闇が未だに蟠ったそこを容易に見通すことは出来なかったが、目を細めるうちに、ぼんやりと内側が見えてくる。
     その奥に見えた丸いフォルムの何かを、左手を伸ばして掴み出す。奥で何かに引っかかって、容易には動かなかったが、梢の隙間から差した陽の光が、僅かに引き出された網目状の黒い塊を照らした。いくつかのスイッチがついた、それは紛れもなく人工のもので。
    (……スピーカー? ってことは、昨日の声も……)
     背を丸めて屈み込み、民尾は更にスピーカーらしき機械を検分すべく、根元に顔を近づける。一点に向けられた意識が、周囲への警戒心を奪っていく。
    そのせいで、間近に迫っている気配に気づくのが遅れた。
     かさ、と下草を踏みしめる音。
    何か背後にいることを悟って振り返ろうとした瞬間に、民尾の首は何者かに巻き取られていた。
    「ぐ、っ。あ」
     土臭さと、皮脂の酸化した匂い。
     思わず、吐き気が込み上げる。けれどその喉も、ぎりぎりと締め付けられて、塞がれていく。腕を首の周りに巻き付けて、肘を折り曲げることで血流を止めて、相手の意識を失わせる。柔道で言う、三角締めの要領。はくと唇で細かく空を切り、苦しい息の下で、民尾は確信する。こんな物理手段に頼ってくるのであれば、相手は人間だ、紛れもなく。
     握り込んだ右手はだらりと下げて、民尾は左手の爪を、相手の腕に食い込ませる。半ば腐りかけたような湿った感触が気色悪い。溜まった垢が緩衝材になってでもいるのか、さして効果は薄いようだった。徐々に失われていく酸素が、思考を片端から手放させていく。抵抗を止め、空へ落ちる左腕。それでも、握った右手を緩めることはしなかった。苦悶の声が、朝の林へ溶けていく。
     もはやこれまでかと、民尾は自嘲を込めて唇を歪める。
    けれどそのとき、不意に耳朶へ叩き付けられる叫びがあった。
    「よし、では嘴平少年! 一日の計は朝にあり! これよりラジオ体操を始める!」
    「おうっ!」
     二つの声は朝靄を裂き、林の中にまでもあまねく届いていた。
     爽やかに、強烈に。
     時ならぬ大声に、酸欠の民尾は危うく意識を手放しかけていた。耳を突くとまではいかないまでも、虚を突かれるには充分な、力強い声。
     アレは確か、伊之助と、煉獄とかいう教師。
     視線だけを動かして姿を探るけれど、林の中にふたりらしき人影は見当たらなかった。そもそもラジオ体操と言うけれど、音源すら聞こえてこない。ということは、それを遙かに上回る声量でふたりが喋っている、ということで。
    (嘘でしょ。河原に出てるとしても、どれだけ大声なわけ?)
     その困惑は相手も同様だったらしく、ほんの僅かながら民尾の拘束が緩んだ。新鮮な空気が、喉に滑り込む。刹那の眩めきとともに、明晰になる意識。
     その隙を見逃さず、膝の力を抜き、一気に姿勢を落として屈み込む。相手が民尾という支えを失ってバランスを崩したのを見計らって、民尾はその腹へと肘打ちを叩き込んだ。脂肪に埋もれた軟らかい肉の中に、腕が沈む感覚。その奥に潜む内臓へと確実にダメージを与えるために、角度を絞り、最小限の接地面積に圧力をかけられるようにして。
    「ぐぼっ」
     呻き声とともに、完全に民尾の喉が解放された。二、三歩よろめいたあとに、旋回するように木々の間を、切れ切れの息が立ち回る。咳き込みながら民尾は振り返り、ようやく相手の姿を視界に納める。
     それは襤褸切れをいくつも継ぎ合わせたような奇怪な装いをした、小太りの男だった。頭もすっぽりと布地に覆われているため、面立ちは判然としない。如何にも小汚い外見のそれに今さらながら嫌悪が湧いて出て、木の幹に身体が触れていた部分をなすりつける。腕に立てた爪の間に垢が詰まっているのを、めくれ上がった樹皮に引っかけて掻き出した。あとで手を洗いたい、と辟易して、民尾は改めて男の方を見る。
     男はふらふらと斜面を登り、滝のあるという方角へ向けて逃げていくところだった。その背中を、民尾は冷ややかに見送っていた。深追いはしない。何人仲間がいるかだって分からないのに、独りで乗り込んでいくなんて自殺行為でしかないのだから。男の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、民尾は辺りを見渡し、踵を返した。
     木の根に躓かないように注意を払いながら、民尾は小径の方へと戻っていく。河原に続くそれを辿っていく中で、つらつらと思考を繋ぎ合わせていく。
     おそらく、この村に入ったときから、自分達は監視されている。それならば、民尾がグループの中で排斥されていることや、廃線を目当てのひとつとしてやってきたことは向こうもおぼろげには理解しているだろう。この村を探ることが一行の総意でない以上、民尾が男との遭遇を口外しなければ、もう少しだけは泳がせていてくれる筈。希望的観測ではあるけれど。
     とはいえ、そうそう時間は無い。炭治郎たちの話では村での撮影を終えるのが今日の夕方。その後はもう一泊し、日が出てから寄り道しつつ家路を辿るという旅程らしかったが、向こうがそこまで我慢してくれるとも考えづらい。とすると、今日の午後くらいには勝負をつけなくては。
    「しっかし、愚かだよねぇ。いきなり口封じせずに、よく見ろっての」
     小声で、民尾は呟いた。右手の中に握り込んだマイクロシャッターリモコンを尻のポケットにしまい直して、ぺろりと舌を出す。
     大砲のようなレンズを連ねた一眼カメラは囮だ。こちらがあれば、ファインダーを覗き込んでいないなら写真も撮れる筈がないと、相手は勝手に勘違いしてくれる。本命はポケットから撮影部だけを出したスマートフォンだ。静音改造されたそれは既に何度か起動させていて、位置情報を含めて確実に端末とクラウドとに記録されている筈だった。
    「いち、にっ、さんっ、し!」
    「ごー、ろく、しちっ、はち!」
     脳天気なまでに快活な掛け声が、民尾めがけて飛んでくる。それも今では、特に不快とは感じなかった。
     もう既に太陽は完全に山の端から姿を現わしたらしく、ささめく日射しが木立の間を埋め尽くしている。光と声に向けて、民尾はゆっくりと林を抜けていった。
     川辺に降りて冷たい水で念入りに手を洗ったのち、土手道を戻っていく。予想通り林にほど近い川べりまで出ていた二人が、掛け声に合わせて快活に手足を振り上げて何やら踊っていた。
     煉獄が腹の底から出した音に、負けじと伊之助が声を張り上げる。動きからして既にラジオ体操は終えて次の何かを舞っているようだが、動きが激しいせいか先程よりは若干音量が絞られている為、何なのかは近づくまで判然としなかった。一応ラジオはふたりの足下に残っている。人間の声量にすら負ける頼りないポケットラジオは、どうにも肩身が狭そうに民尾の目には見えていた。お構いなしに、煉獄と伊之助は声を振りまく。
    「ヤーレン、ソーラン、ソーランッ!」
    「……って、なんでソーラン節?」
     思わず口から転がり出た疑問に、煉獄が深く腰を落として答える。
    「うむ! 普段の休みであれば、朝はラジオ体操のあとに弟と剣道の稽古をするのだが、今日は稽古がないから身体を動かし足りなくてな! 何か良い運動はないかと言ったら、嘴平少年がこんどの体育祭でクラス発表するソーラン節の練習はどうかと誘ってくれたんだ!」
    「そーゆーこった! そーらん、そーらん、はいはいっ!」
     網を引き揚げる仕草で、伊之助がそれに同意する。
     理解を超える事態に頭が軋み、民尾は呆れ顔で眉間を押さえた。それでも、この二人の声が馬鹿でかかったおかげで助かったのだから、あまり正面だって文句も言えない。
     頭痛の気配が本格的に迫ってきた頃、切迫した声が民尾に向けられた。
    「民尾さん!」
     川下から近づく気配に顔を向ければ、炭治郎が土手道を走ってくるのが見えた。切らせた息と切迫した表情が、一歩毎に朝の光のなか克明に浮かび上がって。
     民尾の元まで辿り着くと、炭治郎は加速した勢いのままに地面を軽く蹴った。飛び込むように民尾の肩を掴んで、気遣わしげにその顔を見上げる。
    「心配したんですよ! 何処に行ったのかって!」
    「炭治郎……」
    「うむ、竈門少年は君の姿が見えないと探しに行っていたんだ。礼を言うと良い」
     いつの間にか煉獄が動きを止め、後ろに立っていた。
     民尾はそれに隠す素振りもなく舌打ちし、かぶりを振る。首の動きに合わせて、大ぶりなカメラが微かに揺れた。
     肩に食い込む指が痛い。こちらを慮っているようで、ただ自分の不安を埋めたいだけの、子供の手つき。そう、民尾には感じられて。
    「……散歩だよ、ただの。それに探してなんて、別に頼んでないのに」
     その言葉に、民尾の肩を捕まえたまま呼吸を整えていた炭治郎が、顔を上げる。
    「俺が探したいから、です。昨日言ったじゃないですか」
     掠れた声は、それでも確かな意志を持って民尾へと向けられる。
     傍若無人で、理屈にもなっていなくて、けれど何故かあたたかい。
     そんな、響きを持って。
    「見つけられなくて、ごめんなさい」
     民尾の目をひたと捉える、潤んだ赤い瞳。
     それを、民尾は努めて無視した。
     視線は一種の暴力だ。そこに映し出したものを取り込み、本人のほかには手の届かない脳髄の中に、その瞬間を切り取っては連れ去ってしまう。だから、誰もが無意識に見られるばかりの存在になることを避け、すべてを見つめようと躍起になる。ただ奪われる側に回ることも、取り込まれた己が曲解されていくことも、耐え難いことだから。
     そうなる前に、相手を見据えて、こちらから勝手にレッテルを貼るために、ひとは誰かを見る。傷つく前に、傷つけてしまおうと。
     けれど、この瞳は何かが違う。
     この少年に見つめられれば、誰もが『見られること』を許してしまう。彼ならば、ひとかけたりとも歪曲することなく、自分を受け入れてくれるのではないか。そんな荒唐無稽な希望を、信じてしまえる色が、其処にはある。ひどく慈愛に満ちて、暖かな色が。
     そうして、誰もが解きほぐされていく。
     彼の持つ視線の魔力を、民尾はひどく恐れていた。自分が抱いていたすべてを、否定されるのではないか、と。それも、包み込む日射しのように優しく、残酷なやり方で。
     全てを暴かれたさきにあるものがどんなに醜く汚い我欲の産物であろうとも、彼はきっと許して、無に帰してしまう。ねじくれた己には、思いもかけぬ方法で。
     けれど、炭治郎本人に面と向かってそれを告げる程、民尾だって間抜けではない。あの廃駅で見せてしまった不覚を、もう二度とはとってなるものか。いや。そもそも、どうしてこんなにこいつは自分に執着するのだろう。毎朝の電車の中でも、そうして今も。
     それがどうにも、歯痒くて仕方がない。
     だから民尾は、視線を遠ざけるように炭治郎の手を振り払い、あからさまに舌打ちをするばかりだった。
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