贖罪の海に没れてしまえㅤ正に青天の霹靂のようなお願いだった。
ㅤオフが重なる日に2人だけで出掛けたい。そう言ってきた時の彼─────HiMERUはまるで果たし状でも突きつけるかのような顔をしていたけれど、巽以外には見せないその表情に何故だか毎回惹き付けられてしまう。
ㅤ巽がいくら誘っても決して首を縦には振らなかったのに、その心境の変化は何があったのだろうか。
もしや本当に何かしらの勝負でも挑まれるのではとも思ったが、それはそれでHiMERUとならば楽しそうだと思ったし、何より巽は『再会してからの彼』と一緒にいるのが好きだった。
ㅤ昔のように純粋な金糸雀色も美しかったけれど、今のように巽を映さない双眸は凛としていて、とても綺麗だと思う。
それに、巽と共にある事で彼が害されてしまったあの日を思えば、きっとこちらが正解なのだ。
ただの友人になれるのならそれでいい。今は互いに、手を繋ぐ相手は別に居て、HiMERUに巽は必要ない。
それはきっと喜ばしい事なのだろう。けれど彼を助けようと伸ばした手が届かなかったあの日を境に変わってしまった関係に、巽はチクリと傷んだ胸を誤魔化すように微笑んだ。
「勿論、俺で良ければ構いませんよ」
「……いっそ断って欲しかったのですが」
「HiMERUさん?」
「なんでもありません」
ㅤ二つ返事で了承したのに、HiMERUは心底嫌そうな顔をしてくる。
昔の彼ならば、満面の笑みと、何処か安心したような表情で嬉しそうにしてくれたのに。それを口にしてしまえば折角の約束を反故にされてしまう気がして、巽は口を噤んだままニコリと笑みを深めた。
ㅤ当のHiMERUは、そんな巽を見て死んだ魚のように目を据わらせてしまったけれど。
「巽、次のオフは何時なのです?」
「俺のですか?」
「誰かさんは事務所のお気に入りのようで大変お忙しいでしょうから、HiMERUが合わせてあげます」
「ありがとうございます」
「……嫌味ですか?」
ㅤ礼を言っただけだったのだが猫の威嚇みたいにギロリと睨まれて、巽はHiMERUの言葉を否定するよう眉尻を下げる。
ㅤ大抵の人は笑顔には笑顔を返してくれるというのに再会後の彼からはビジネススマイル意外貰えた試しがない。
ㅤ本当に面白い子だと思う。他の誰とも違う反応は、出会った頃から巽の興味を引いて、彼から目が離せなかった。
楽しみにしていますね、と巽が応えればギュッと自身を抱きしめて1歩下がってしまったHiMERUは、けれどどうしたって出会った頃の彼とは随分変わってしまっていた。
ㅤㅤㅤ□□□
ㅤ約束の日。
ㅤ待ち合わせ場所にと指定された公園はそれほど人通りもなく、随分と静かだった。
ㅤ晴れた空と風に揺られる葉の音、草木の爽やかな匂い。都会のただ中にしては自然に囲まれており景色も悪くないのだが、正面で青空を遮るように聳える病院だけが無機質な違和感を放っている。
ㅤそれは他に背の高い建物がないからかもしれないし、数ヶ月前まで自身が入院していた場所だから感じる畏怖の念みたいなものかもしれないが、どちらにしろ巽にとってあの病院があまり気持ちの良い場所でないのに変わりはなかった。
ㅤ思うように動かない足、白く統一された病室。
見舞客は一様に革命に失敗した巽を讃えると同時に隣に立とうとしてくれた彼を非難して、『トップソロアイドル風早巽』という偶像しか見えていない『信者』ばかり。
そもそも事件自体が揉み消された結果、巽の入院についてだって正しい情報などは厳しく統制されてしまっていたから、どこからか話を聞きつけて病院までやって来た『信者』たちが、あの日の真実を何処まで理解し、どのように受け取っていたのかなど分かりようもないのだけれど。
ㅤ怪我人を罵り罵倒する人間が来なかっただけマシだったのだと思う。けれどあの頃の巽はあんな事がなくたって入退院を繰り返していたくらいには心身共に限界だったのだ。
自身を救おうとしてくれた光を否定する言葉に引き摺られ、暗闇に沈むようにぬかるんだ思考で彼らを諭す事すら出来ない程、巽は弱りきっていた。
窓から見える景色の移り変わりに置いていかれたような心細さを感じても、唯一寄り掛かってもいいのだと思えた細い肩は隣には居てくれない。
同じく入院していた事は知っていたのに、聞かされ続けた彼を否定する言葉に汚れた身では、会いに行ったところで苦しめてしまう気がして、足が動かないからと怪我を言い訳にしてしまった。
これは神に与えられた試練だ、と。そう言い聞かせ、怪我だけが原因ではない痛みに耐える日々。
ㅤ誰かの悩みや過ち、時には孤独について聴き諭すばかりだったから、あの頃の巽には不安の吐き出し方も人への甘え方もよく分からなかった、ともいうけれど。
(──HiMERUさんは、何ともないのでしょうか)
ㅤあの日、待ち合わせは事務所の近くで良いのでは、と言った巽に「人の目が多いから嫌だ」と返したのは彼の方だった。
ㅤHiMERUもまた巽と同じ病院に入院していたのだから、巽なんかより余程繊細そうな彼だってあの場所に思うところがあるだろうに。
ㅤなんて考えているうちに待ち合わせ場所に着いていたらしい。ベンチに座るHiMERUを見つけて、巽は彼に駆け寄った。
「お待たせしてしまってすみません」
「……っ!」
「HiMERUさん?」
「あっ、いえ、ぼく……ぁ、えぇとHiMERUも今来たばかりなのです!」
ㅤ驚いたように巽を見たHiMERUは、名前を呼べば驚いたように肩を跳ねさせる。
何故か自身の名前を言い直した声はいつもよりも幼い響きを持って、まるであの頃の彼のようだった。
それに対して感じた郷愁と、少しの喪失感。
一体何処から湧いてきたかも分からない感情に何故と思うより前に、HiMERUがよろりと立ち上がる。
それから、何か言いたげな表情で巽を見たかと思えば、ぎゅっと眉根を寄せてしまった。
「君はあんまり変わってませんね」
「……ぇ」
「少し、安心しました」
言われた言葉にポカン、とすれば返された、何処か寂しそうな表情。
最近ではめっきり彼の口からは聞かなくなった『君』という三人称に些細な違和感を感じて、巽はHiMERUを見た。
視線が合わない。それは彼がこちらを見ていないから、ではなく、物理的な高さの違いによるもので、巽は余計に分からなくなる。
出会った頃は確かに巽より小さかったHiMERUは、現在の公式プロフィール上では巽より1センチ高い事になっている筈。
その証拠に、復帰してからの仕事で彼と目線が合わない事などなかった。まさか、身長を誤魔化す理由もないだろう。
釈然としない出来事に一歩だけ近付けば、澄んだ金糸雀色が今日に限ってとろりと色を濃くして巽を見上げてきた。
「近くにケーキ屋さんがあるでしょう、そこに行きたいのです」
「えぇと……」
「なんですか」
「思ったより近場だな、と思いまして。なんなら車も出せますし、君が行きた」
「遠くには行かない約束ですからね」
そう言って困ったように笑ったHiMERUの言葉に、巽はパチパチと瞬いた。
約束、とは誰との約束なのだろう。当たり前だが巽は彼とそんな約束をした記憶はないし、事務所だってそこまでの無理難題を押し付ける事はないはずである。
まぁ、時にはあまりに理不尽で人を人と思わぬような仕事や契約もあるのが、この世界ではあるけれど。
しかしそれも上を一新した彼らの事務所ならば今更そのような体制を許しはしないはずだが、巽を誘ってきた時の態度といい、何かあるのだろうか。
「遠く、とは何処までなら良いのでしょうか」
「あの病院が見える範囲……だったような?」
「病院……ですか」
「でも、ケーキ屋さんはいいよと言われているのです」
そう言ってHiMERUは嬉しそうに笑ったが、それではまるであの場所に未だ縛り付けられているようだ、と。
まさかそんな事を言えるはずもなく押し黙った巽に不思議そうな顔をしたHiMERUは、何処か幼い仕草で首を傾げている。
しかし、それもつかの間。すぐにくるりと踵を返すと、早く行きましょうと歩き出してしまったのだが、ある事に気付いて巽は彼を引き止めた。
「HiMERUさん」
「なんですか、早く」
「ケーキ屋さんは反対ですよ」
「……わ、分かっているのです!」
むぎゅ、と拗ねた顔をしたHiMERUは、やはりあの頃みたいに懐かしい表情をしていた。
□□□
休日でもなければおやつ時でもない店内は、案外閑散としている。
1年程前に出来たばかりのこの店は、ケーキ店の隣にカフェスペースが併設されているため、店内はあまり広くはない。
アイドルのプロデュースによりリニューアルした店が人気を博してしまったせいもあってか、以前見かけた時よりも客の入は疎らだった。
正に、あちらを立てればこちらが立たず。
誰かの幸せは、誰かの涙で出来ているという世界の縮図を見せられているようで、少々胸が痛い。
平等という言葉の難しさは身をもって理解しているけれど、店を選ぶという日常的な取捨選択すら巡り巡って誰かの不幸に繋がっているのかと思うと不思議な気分だ。
可愛らしい色合いの店内に会話を邪魔しない程度の音量で流れている洋楽は、元恋人に対して地獄に落ちろとポップに歌い上げて、けれど歌詞の内容が分からなければ店の雰囲気とマッチしている。
目の前で新作だというパフェを頬張るHiMERUを見れば、巽の視線に気が付いたのだろう。
ㅤきょとん、とした顔でこちらを見たあとハッとしたように口元をナプキンで拭いだす。
ㅤその仕草に感じる愛らしさと、色濃くなっていく違和感。恥ずかしそうに伏せられた睫毛が、叱られている子供みたいだ。
「慌てずとも、何も付いていませんよ」
「そんなにジッと見られたら勘違いするでしょう」
「俺はただ、HiMERUさんは今日も綺麗なお顔をしているな、と思いまして」
「……っ」
「HiMERUさん?」
ㅤいつものようなやり取りのつもりだったのだが、そう思ったのは巽だけだったらしい。
ㅤ黙り込んでしまったHiMERUの表情は見えない。けれど鈍感だと笑われてしまう巽でも、それが楽しいだとか嬉しいのように好意的な感情ではないだろう事くらい予想がつく。
ㅤ何が不味かったのかは分からない。分からないが、気分を害してしまったのなら謝らなければ。
ㅤ巽はHiMERUに向かって手を伸ばした。けれど、肩に触れるか触れないかというところで、HiMERUが逃げるように顔を上げ、ジトリと巽を見る。
「前はそんな事、言いませんでしたよね」
「すみません、最近のHiMERUさんを見るとどうしても綺麗なお顔が目に入ってしまって」
「……昔のぼ、HiMERUだって顔だけは綺麗、とよく言われてましたが?」
「華やかさが増した……と言いますか、今の君は歌もダンスも俺なんかより凄いですしね」
「そう、ですか」
「以前の君も輝いていましたが、今は本当に生き生きとパフォーマンスされていて、別々のユニットにはなってしまいましたが、俺はCrazy:Bとして歌っている君が好きですよ」
「……っ、ありがとう、ござい…ます」
ㅤそれは確かに感謝の言葉であったのに、巽に向けられる彼からの言葉にしてはどこか他人行儀だった。
ㅤまるで他人事のように色がない。いつもは滲んでいる感情の質が違う、と言えば良いのだろうか。
ㅤまた、違和感が強くなる。
ㅤ先日の彼と、今目の前にいる人物が上手く重ならない。中身が入れ替わってしまったみたいに、彼の声で発せられる言葉は巽の愛した色をしていなかった。
ㅤそしてそんな巽の感情は、繊細な彼に正しく伝わってしまっていたのだろう。
ㅤ今度はやけに寂しそうな声が目の前にいる人物の口からこぼれ落ちる。
「今日はありがとうございました、楽しかったのです」
「え、あの……」
「まぁ、嘘ですけど」
「すみません、えぇと」
「君は『今のHiMERU』が好きという事は分かりましたし、君の事恨んだりはしませんから、安心していいですよ」
「それはどういう、」
ㅤパフェは半分以上残っている。
なのにぎこちなく立ち上がってしまった彼を止める言葉が出てこない。
ㅤ現状を作ったのは間違いなく巽だろう。
確証はないし何か言葉にしたわけではない。しかし言葉にはしなくても感じた違和感に、『いつもの彼』を求めてしまったのは確かだった。
「HiMERUさん、とお呼びして良いのでしょうか」
告げた瞬間、動きを止めてしまった彼の空気が変わる。
それと同時に選択の誤りに気付いたところで、巽が音にしてしまった言葉は彼に正しく届いてしまった。
ㅤあぁ、最悪だ。何故こんな事を言ってしまったのかは自分ですら分からないが、これはさすがに無意識とはいえ無神経にも程がある。
ㅤ目の前にいるのはHiMERUで間違いない、ただ巽が望んだHiMERUではなかっただけなのに、まるで彼を否定するようなその言葉。
ㅤ弁明も許されない静寂に、彼は何かを吹っ切ってしまったかのように柔く、しかし寂しそうに微笑んだ。
「君ですらHiMERUだと思わないのなら……ぼくはもう、HiMERUではないのでしょうね」
「ぇ……」
「明日からはまた、君が好きだと言ったHiMERUをお返しするのです」
だから安心して下さい、と。
ㅤそう言っていたずらっぽく細められた金糸雀色はあまりに美しい。
それがあの地獄の中で巽を救ってくれた光と同じ色をしていたから、巽は結局踵を返した彼を呼び止める事が出来なかった。
ㅤ彼がHiMERUであるならば、巽にそんな顔を向けてくれることは無いという傲慢。
再会の喜びと同時に享受した貼り付けられた笑顔と、苛立ちを隠さない視線。他人行儀な物言いの中に滲んだ、確かな侮蔑と悔悟の情。
まるで別人だと思ったのは、新しい仲間たちとステージに立つ彼を見た時も同じだったのに、どうして思い出の中にある光に似た彼をHiMERUではないと否定してしまったのか。
あの日みたいに救いそこねて落ちていく何かは、まるで再現でもするかのように巽の手をすり抜けて行った。