アネモネ 3 ラビット・ラン・レースは今年も大盛況のまま終わり、その流れで興奮を抱えたまま多くの町民や観光客が演奏会場にやってきた。テントの出入り口をくぐり、親子連れ、若い恋人、年配の夫婦、学生たちの集団などが入り乱れて席についていく。テントの中は心地よいざわめきと期待の渦に包まれている。
デュースは出入り口で人々が次々に入っていくところを見つめ、何か不信な行動をしている者がないかチェックしていた。
しっかり周囲を警戒しながらも、頭の片隅では考えを巡らせていた。思考の内容は先ほどのジャックとの会話の続きだ。
何と言えば相手も、自分たちをも納得させられただろう。
マブ、相棒……その言葉は監督生とグリム、そしてエースにあてはまるものだと思っている。
ライバル。これが一番近い気がする。だが、確かに競い合ってきたものの、同じ部活仲間という肩書きがなくなった今となっては説明された方も三角関係でももつれさせているのかと考えて困るだろう。
恋人、パートナー、家族。もう、そのあたりの言葉しか残っていない。あてはまらなくはないが、やはり決定的な取りこぼしがある気がしていた。
言葉が欲しい。ジャックにそう言われて、有耶無耶にしてしまったことを思い出す。
関係性をぴったり表す言葉があったらいいのだろうか。そうしたら、ジャックは彼らしく誰の前でも胸を張ってくれるだろうか。そして自分は満足するのだろうか。
つらつらと考えているうちに観客の入場は完了した。時間になり、司会者がアナウンスをする声が聞こえてくる。
「今日の演奏は地元のラジオ局で生配信されています。現地に来られない皆さんもぜひラジオでお楽しみください! ーーそれでは、いよいよ輝石の国警察音楽隊の皆さん、入場です!」
外に待機していた音楽隊が、拍手に迎えられてテントの中に入っていく。ちら、とジャックと目が合いデュースは頷いた。外に異常がないかぐるりと見て回っていると、テント内では時計の街の町長の話が始まったようだった。デュースもテントの中に入ろうとした、そのときだった。
ドン、という鈍い音がした。はっと周囲を警戒する。警備の警察官たちが俄かに慌て出す。
「スペード執行官!」
先ほどはアニキと呼んできた元不良の警察官は、しっかりとプライベートと仕事を分けて声をかけてきた。そのことをくすぐったく思ったが、突っ込む余裕もない。
「今のなんだ?」
「迷路で煙が上がってます。でも、ラビット・ラン・レースの罠の残りかもしれないっていう話もあって今確認しているところです。現場、見に行きますか?」
もしも罠が残っていただけならたいしたものではないだろう。だが、何か狙いがあって魔法を使った仕掛けがされていた場合、魔法が使えない者が調べると危険である。魔法執行官の自分が行って調べるのが一番早い。しかし、人が集まっているテントの会場を離れるのもどうかと迷いが生じた。
魔法の解析ができる警察官がいたら見に行ってもらおうかと指示を出そうとしたとき、今度は近くからパン、と何かが破裂するような音がした。
「銃声!?」
警察官たちが騒つく。はっとテントを振り返る。
そのとき、テントが上から下へと薄らと光り輝いていった。それはまさしく魔力の流れだった。すぐに出入り口へと走ったがぴっちりと閉じられてしまっていて、どう触ってみてもまるで動かない。誰かが魔法を使って、テント内部を外界から切り離してしまったのだ。少し聞こえた悲鳴も不自然に途切れて聞こえなくなった。
「やられた!」
デュースは思わず叫んでいた。
ジャックの耳がぴくりと反応した。
何か、軽い爆発のような音がしたのだ。
猫の獣人のトランペット奏者と目が合う。音楽隊の中にいる、他の数人の獣人たちもそわそわとしているので気のせいではないだろう。人間の隊員たちは様子に変わりがないので、そんなに近くではない。
時計の街の町長はまだ話し続けている。デュースに確認を取った方がいいだろうかと考えていると、視界の隅で客席からすくっと立ち上がった男がいるのが見えた。次の瞬間、頭上で軽い破裂音がする。銃声、と思ったときには悲鳴が上がった。
男が上に真っ直ぐに伸ばした腕の先、その手の中に黒い筒のようなものが見える。気づくと、ところどころに客席から立ち上がっている者がいて、同じものを手にしている。四人、と認識して誰を制圧するべきか考えた。
今なら動ける。だけど、抑えられるとしてもひとり。
最初に銃声を響かせた者か、それとも別の者が本命か。しかも、座っている観客たちの中にも仲間がいるかもしれなかった。その逡巡の間に呪文が響いた。
四人の中、唯一の女性が手をかざして魔法を放っていた。耳慣れぬ呪文はおそらくユニーク魔法だろう。テントが光り輝くのを見て、やられた、と思った。
「全員動くな!」
最初に立ち上がった男が叫んだ。
「このテントの中は我々の支配下にある。今の魔法でテントの出入り口は封鎖した。魔法を解除するまでは誰も出られない。大人しくしていれば危害は加えない、しかし逆らうようなら撃つ!」
ジャックは上げかけていた腰を下ろすしかなかった。
「テントにかけられたのはユニーク魔法ですね。中のものを閉じ込める作用があるらしい。例えば、この魔法を箱にかければ、箱のふたは開けられず絶対に中のものを取り出すことはできない。ただ、箱そのものの性質を変えるものではない。箱を壊して、中身を取り出すことはできます」
デュースはテントを遠く睨みつけながら、魔法解析官の話す言葉を聞いていた。
すぐに犯人たちのリーダー格らしい男から警察署にかかってきた電話によって、警察がテントに近づくことは禁止された。彼らは法外なマドルと逃走車を要求するとさっさと電話は切ってしまいそれ以降音沙汰はない。警察署は大慌てで対策本部を打ち立て、現地に武装した警察官を送ってきて周囲を固めたが、それ以上できることはなく立ち往生している。
電話が来る前にテントにかけられた魔法の解析ができたことだけが僥倖だった。しかし、まさか箱のように壊して中身を取り出すーーというわけにはいかない。テントを吹き飛ばしてしまえば犯人だけでなく中の観客、音楽隊諸共危害を加えることになってしまう。
「窓すらないし、テントで中の様子が何もわからないのがな……狙いをつけることもできないから攻撃できない。犯人たちは観客に紛れていたんだろうし、全部で何人いるかもわからない……」
デュースは歯噛みする。情報が少なすぎる。中の様子が知りたいが、演奏会のため観客はみなスマホの電源を落としていたはずだ。電源をつけようと操作をすれば犯人たちに見咎められてしまうだろうし、もしかしたらスマホはすぐに没収されているかもしれない。
わかっているのは、あの破裂音から考えて犯人たちは銃を所持しているかもしれないということ。そして、ユニーク魔法を使うほどの魔法士がひとりはいることだ。
周りを取り囲む警察官は増えたが、魔法執行官は己ひとりのまま。彼らが要求した金や車を用意するには、あと一時間はかかるという。
他の事件などで駆り出されているのか、魔法執行官の増援は期待できないとも連絡があった。であれば魔法が絡んでいるこの事件、自分が先頭に立って対処するしかない。
そう改めて認識した途端ぞくりと足元から頭上まで寒気が走った。とんでもない数の命が自分にかかっている。
その中に、ジャックもいる。
あの、グリムが暴走した事件で、自分は命を落とす覚悟をしていた。今も危険性の高い仕事をしているので、いなくなるのは自分だと思っていた。
だけど、ジャックだって警察官だ。
そんな当たり前のことに今さら愕然とした。
赤毛の警察官が駆けてくる。デュースは懊悩から我に返ると報告を受けた。情報が自分に集約されるので正直に言うと頭の中はパンクしそうだったが、そんな甘いことは言っていられない。彼は「さっきの爆発なんですが」と話し出す。
「迷路に簡単な爆弾がしかけられていました。日用品を寄せ集めて作られていて、魔法はかかっておらず、たいした威力はありません。怪我人もいませんでした。ただ大きな音がするだけと言っていい代物です。恐らく陽動のために仕掛けられたのかと考えられます」
デュースは頷いた。そして息を大きく吸い、吐き出す。
中にはジャックがいる。だから大丈夫だ、と思おう。僕は僕にできることをする。後から何してんだ、と馬鹿にされるわけにはいかない。そう言い聞かせる。
「今の僕はトランプ兵じゃない。女王だ」
今でも自分の中ではカシラである、彼が翻す赤いマントを記憶の中から再生し、気合いを入れ直す。すうっと息を整えるとデュースは言った。
「ラビット・ラン・レースの公平性のために、レースが始まるまで関係者だけしか生垣の迷路の中には入れなかったはずだ。レースの後……いや、後にしかけてたんじゃあ、とてもコンサートの入場に間に合わない。ほとんど時間はなかったはずだ。ということは、レースの最中にしかけた可能性がある。レースの中継映像を確認して……それから、もう切られてしまったけれどラジオの配信を解析して何かヒントを……」
そのとき、デュースのスマホが鋭く鳴った。マナーモードにしていたはずのプライベートのスマホが鳴っている。
こんなことができるのはこの世でふたりだけだろう。
デュースはにっと唇を吊り上げると、ポケットからスマホを取り出した。さて、兄だろうか、弟だろうか。
ジャックは黒っぽい服装の男の背中を見つめていた。
最初に銃声を鳴らしたこの男がリーダー格のようで、警察に連絡を入れると、その後はステージのど真ん中、警察音楽隊の前を陣取って威圧感を出していた。既に三十分ほど経とうとしているが、他の犯人グループの者たちはうろうろと会場内を歩いたり、気まぐれに怒鳴ったりと落ち着かない。観客たちは不安そうな表情を浮かべ、じりじりと緊迫感を募らせている様子が目に見て取れた。子どもが涙目ながらも必死に声を出すのを堪えていたり、緊張が張り詰めて具合が悪そうな人々も見える。あと何分、何時間このままなのかわからないが、あまり保ちそうにはない。
そう、保たないだろう、とジャックは思う。
四人が銃を持ち動き回って圧力をかけているとはいえ、観客と音楽隊を合わせれば三桁には届く人数がテントの中にはいる。例えば怪我を厭わず全員で襲いかかれば、犯人四人とも制圧できないことはない。そうでなくとも、このまま時間が経過すればパニックに陥って暴れ出す人が少なくない数いるかもしれない。そうなったときに、犯人たちは彼らを抑えられるのだろうか。
おかしい。金と車は要求していたが、本当にそれが目的なのだろうか。立てこもりなんてとても成功率の良い犯罪だとは思えない。しかも、人質が一人か二人ではなく、こんな大人数だなんて。何がしたいのかさっぱりわからない。
ーーまるで、事件を起こすために事件を起こしているようだ。後先など、まるで考えていない。
ジャックはぶるりと身体を震わせた。
リーダー格の男は警察音楽隊にぴったりと張り付いている。恐らく音楽隊とはいえ皆警察の基本訓練は受けているため、より警戒されているのだろう。はっきり言ってジャックが飛びかかればこの男くらい簡単に抑えられる自信はあったが、他のメンバーの出方がわからず、実行に踏み出せずにいた。恐らく、外にいるであろう警察官たちやデュースも、似たような理由で踏み込めずにいるのだろう。
また、猫の獣人のトランペット奏者と目が合う。耳障りな音をジャックの耳が拾う。
なんとか中の様子を外に伝えられないだろうか、とジャックが考え出したそのときだった。
「デュース・スペードさん、久しぶり!」
「オルト……! 元気そうだな」
「うん。どうしても聞いてほしいことがあって、無理矢理スマホを鳴らしちゃった。ごめんなさい」
「いいんだ、何かわかったんだな?」
デュースは確信を持って尋ねた。案の定、オルトから「うん!」と元気よく返事が返ってきた。
「ボクみんなで行ったのが本当に楽しかったから、ホワイトラビット・フェスは毎年チェックしているんだよ。ラビット・ラン・レースは数年前から映像で生配信を行っているからもちろん今年も見ていたし、ジャック・ハウルさんが演奏すると聞いて、ラジオ配信も聞いていた」
デュースは故郷のことなのに生配信など知らなかったため驚いた。またエペルに怒られるな、と思いながらオルトの言葉の続きを待つ。
「ニュース速報を見て、衛星映像を確認、デュース・スペードさんが現地にいるのを見て、急いでレース中の配信映像を解析したんだ。そうしたら、迷路内で何かを埋めている人がいたのを見つけた。そのチームのメンバーたちの映像、歩き方や走り方から、服の中に何か細長いものを隠し持っているのもわかった。彼らはみんな、テント内に入っていくのも確認したよ。解析結果送るね。エントリー内容や映像に映っている姿を精査すれば、犯人たちの正体はすぐわかるはず」
「ありがとうオルト! さすがだな!」
つまり、犯人たちはレース参加の規定人数の四人である可能性が高い。レースに参加していたなら正体はすぐに掴めるはずだ。さっきまでのまるで情報がなかったときとは大違いだ。
オルトはふふ、と得意気に言った。
「まだまだ、こんなものじゃないよ。ラジオ配信も解析して、最初にした破裂音も調べた。あれは銃声じゃない。ただ、魔法でよく似た音を出しただけ。魔力の流れを隠す魔法も同時にかかってみたいだけど、ボクは誤魔化せないよ!」
オルトの言葉を咀嚼し、デュースは喉から絞り出すように言った。
「……ということは、この事件の犯人たちは」
「うん。ただの素人だよ」
「あんた……警察の、事務の人じゃないか?」
ふいに響いた声は、マイクもないのによく通った。
観客席の前方に座っていた老人がリーダー格の男を指差して言っていた。犯人たちは皆マスクをしていたのだが、声や立ち振る舞いを知っていればわかるくらいの、雑な変装だ。
言葉に詰まり動きを止めた犯人の男を前にして、老人は立ち上がる。
「やっぱりそうだ。時計の街の警察署で事務をやってるだろう。わしは、大事な形見の時計をなくしたときに親切に声をかけてもらったからよく覚えているよ。何をしてるんだね」
「うるさい!」
男は銃を老人に向けた。老人は慌てて席に着く。だが、その目は男から逸らされなかった。観客たちが騒めき出す。
「警察の事務……?」
しかし、老人の言葉に一番過敏に反応したのは、観客たちではなく仲間であるはずの犯人グループの他三人だった。
「どういうこと? あんた警察なの?」
「そんなこと一言も言わなかったじゃないか」
「うるさい! いいから黙れ!」
距離は離れているので本気ではないのだろうが、男は仲間たちにも銃を向けた。仲間たちは口をつぐんだが、不信の目を男に向けている。
ふいに、子どもの泣き声が聞こえた。
ずっと張り詰めていたのが、今のやりとりで限界を超えてしまったのだろう。リーダー格の男が舌打ちをする。
「うるさい! 黙れ」
「黙れって言っても無理だろう、この状況で」
ジャックはたまりかねて、ついに立ち上がった。すぐに四方から銃を向けられるが、ちっとも怖くはなかった。手は震えているし、照準はまるで合っていない。今や、まるで素人だと確信できていた。銃だって簡単に四つも入手できるものではない、きっと偽物だろう。四人同時に撃たれたって防ぎきる自信はあったし、怖くはなかった。周囲の警察音楽隊のメンバーもジャックの実力を知っているからか、心配そうな目で見てくる者はいなかった。
「俺は警察音楽隊のジャック・ハウルだ。お前たちの指示に従う気だし、何もしない。ただ、フルートを吹かせてくれないか」
「は、はあ?」
犯人たちが素っ頓狂な声を上げる。観客たちが固唾を呑んで見守っている。そこには何かが起こる緊張感と、しかしこれで事態が動くのではないかという期待感があった。
「あんたたちもここに閉じ込められているせいで観客たちの緊張が限界に来ているのはわかるだろ? ちょっとリラックスしてもらうために、それくらいいいだろうが」
言うが早いが、ジャックはフルートを構えた。
大きな音でメロディが奏でられ始めたが、犯人たちはどこか呆気にとられている。
そのとき、ぱあっと辺りが明るくなった。テントに覆われたはずの会場に、橙色の強い西日が差す。犯人たちは眩しさに目をつむった。
ジャックのすぐ近く、ステージの真ん中で、猫の獣人が立ち上がって魔法を放ったのだ。テントの側面が透明になり、中の様子を鮮明に映し出す。
今だ、デュース!
演奏をやめずに続けるジャックの声が届いたかのように、魔法の光弾が次々と放たれ、犯人たちに着弾していった。
「ああ、緊張した。ハリネズミ語も久しぶり過ぎて合ってるか自信なかったし」
「きちんと伝わりましたよ」
「サバナクローのお前がハリネズミ語ができる方が不思議だけどな」
ジャックは苦笑した。動物言語にいろいろと手を出しておいてよかった、と思う。彼はジャックの肩を叩くと、誘導を手伝ってくる、と駆け出して行った。
ハーツラビュル寮出身だという猫の獣人、トランペット奏者とは、犯人たちの隙を見て密かにハリネズミ語でやりとりをして手順を確認していた。
ジャックがフルートを吹き始めたら、テントの側面にユニーク魔法をかける。中の様子がわかれば、デュースが犯人を討ち取ってくれるはずと確信していた。
唯一の懸念は四人以外の仲間が観客席にいた場合だった。だが、もしもいるならジャックがフルートを持って立ち上がった時点で何かを仕掛けてきてもおかしくはなかった。もしいたとしてもジャックは己で対処する気でいたのだが、結果、いなかったので胸を撫で下ろした。
警官たちが必死で観客たちを宥めて、外に誘導している。外では簡単な警察の医師による診察を受けられること、連絡先を控えさせてほしいというアナウンスがされている。
ジャックはぐるりと視線を送る。
テントの隅で、数人の警察官が捉えた犯人たちを拘束していた。先ほどまともにくらった魔法のダメージもあるのか、ぐったりと項垂れているリーダー格の男の拘束を変わってもらい、耳もとで尋ねる。
「お前もしかして、デュース・スペードが担当した事件の関係者にメッセージを送ったか?」
反応したのはジャックが拘束しているリーダー格の男ではなく、犯人グループの他三人だった。同じく警官たちに拘束されながら、ジャックの方へと視線を向ける。
「アンタ、デュース・スペード知ってんの?」
「どうしてメッセージのこと知ってるんだ?」
「オレたち、そのメッセージで集められたんだ。世界をめちゃくちゃにしようって」
三人共別々の事件でデュースに関わり、逮捕起訴されたという。その後、罪を償ったがなかなか新生活はうまくいかず、世間を憎む気持ちを募らせていたときにそのメッセージが届いたのだ、と三人が口々に言う。
彼らはリーダー格の男を睨んだ。
「こいつは、オレも君たちと同じだから、ツテを辿ってメッセージを送ったって言ってたんだ」
「同じようにデュース・スペードに捕まって、同じように世間を恨んでる。だから仲間だって」
「計画も全部そいつが立てたんだ。なのに、警察だったなんて……アタシたちのこと、騙してバカにしてたの?」
三人とジャック、そして数人の警察官たちの視線を浴びてもただただ男は項垂れている。本当に警察の事務職員なのか、と時計の街の地元警察官に尋ねると頷いた。
「マスクをしていますが、確かにそうです。真面目な職員なのに……」
デュースが関わった事件の関係者の情報や連絡先、刑務所を出てからの様子。それらはきっと、警察の内部にいたからこそ手にできたものだろう。
「お前、なんでそこまでして……デュースに恨みでもあるのか? でも、お前は何か事件を起こして捕まったわけではないんだよな?」
ジャックが尋ねると、男は遂に顔を上げた。拘束された後は比較的おとなしかったし、身体にほとんど力は入っていない。だが見上げるその目だけが妙にぎらついてジャックを捉えた。
「そうだよ。デュース・スペードが一度助けたやつらを利用して、悪いことをしたやつは変わらないんって証明したかったんだ。だって、デュース・スペードだって昔は悪いことをしてただろ!」
男が大声で吠える。そのとき、か細く名前を呼ぶ声がした。ジャックが振り返ると、デュースが立っている。今口にした名は、拘束された男のものらしかった。
「知ってるのか?」
「……ミドルスクールの、同級生だ。確か、僕が一番荒れていたときにクラスメイトだった」
ぽそりとデュースが言う。男はギラついた目を今度はデュースへと向けた。
「ーーよかったな、お前。たまたま馬車が来て」
放たれた言葉に、デュースが凍りつくのがわかった。男は唾を飛ばして喚く。
「どんなに悪いことをしても、ナイトレイブンカレッジに行けて、そこで魔法士になって、遂には魔法執行官サマかよ。世の中不公平だ。オレはずっと真面目に生きてきた。デュース・スペードが悪いことをして噂になってるときも、クソみたいな親の面倒を見て、先生の言うことをよく聞いて、しんどくても学校に行って。オレだってちょっとは魔法を使えたけど、ショボい魔法しか使えないからか、オレのところに馬車は来なかった。だから言われた通り地元で就職して、文句ばっかり言う街の人間の相手して、それでもずっと真面目に生きてきた。なのに、誰も何もしてくれない!」
男はどこにそんな力が残っていたのか、身体をよじって暴れた。ジャックは彼の身体を押さえつけることに夢中で、デュースの様子がよく見えない。
「いつまでたっても、オレがここにいるって気づかれない。悪いことでもしないと、誰もこっちは見ない。でもだったら、真面目に生きてきたオレはなんだったんだよ、おかしいだろ! 悪いことをしたデュース・スペードが有名になって活躍してるのが許せなかった。悪いことをしたらずっと悪いことをし続けるんだって証明しなきゃいけないって思ったんだ!」
男は、はあはあと息を切らす。
固まっているデュースの傍らにいた警察官が、デュースの腕を引いた。あの赤毛の、元不良グループのリーダーだった男だ。
「行きましょ、アニキ」
「……でも」
「デュース。お前がいるとこいつ、興奮しちまう」
ジャックが言うと、デュースは少し迷った後、踵を返した。二人が遠ざかってテントから出ていくのを見届けると、ジャックは息を吐き、男に向かって言った。
「あのな。あいつは、別にナイトレイブンカレッジに入学したから変わったわけじゃない。きっかけがあって、そのときの自分から変わろうとした。だから馬車が来たんだと、俺は思う」
男はジャックの方を見ない。聞いていないのかもしれない。まあいい、と思って続ける。
「確かにあいつは、かつて悪いことをしたのかもしれない。それは擁護しねえよ。けれどデュースは、警察官に、魔法執行官になることを願った。それは、もう二度と間違えない、間違えられないってことなんだ。それが覚悟だ。お前と違いがあるとしたら、その、覚悟の差だろ」
男は下を向いたまま、答えない。他の犯人たちの啜り泣く声がする。今は無理だろうが、ジャックはいつか、自分の言葉が彼らに届くことを願った。
警察の事務職員だろう、と犯人に指摘した老人は、「いい人なんだよ、本当に」と言った。
「いつも丁寧に対応してくれたよ。彼の近所の人が言うにはね、家が大変だけど真面目に一生懸命頑張ってるんだって聞いたよ。詳しくは知らないんだけどねえ」
デュースはそうですか、と答えた。調書には聞いたままに書くことにするが、だからと言って何が変わるわけでもなかった。
デュースは聞き込みした情報を記入した手帳を胸に仕舞う。
観客の退避が完了したテントの方へと視線を向ける。
ショックを受けているかと聞かれれば頷くかもしれない。自分が憎まれていたこと、そして自分が助けたはずの人間がまた犯罪に手を染めたこと。傷つけようとして言われた言葉をまともに正面から浴びたこと。気落ちしているのは確かではあった。
だが、なんとなくあきらめにも似た境地もあった。
言われても仕方ない、とも思うのだ。
テントの中から、ジャックたちが犯人たちを連れて出てきた。犯人たちは警察車両へと引き渡される。車両から出てきた警察官から手招きされた。デュースもこの事件の責任者として署まで同行しなければならない。
歩き出そうとして、引き渡しを終えたジャックがまたテントの方へ駆けていくのが見えた。どうしたんだろう、と考えていると、マイクを持って出てくる。帰ろうとしている観客たちに向かって、大音量で叫ぶ。
「皆さん、ちょっと待ってください!」
観客たちが胡乱げにジャックを見る。皆、疲れ切った顔をしていた。
「事件に巻き込まれて、疲れて早く帰りたいのは重々承知の上です! でも、このまま帰すのは輝石の国警察音楽隊としてあまりにも情けねえ! せめて今日という日の締めくくりに、一曲聴いていってくれねえか!」
ジャックの言葉に、事後処理を手伝っていた警察音楽隊の面々が顔を輝かせて頷き合い、方々から楽器を持って集まってくる。隊長が曲名を宣言し、指揮棒を振るとすぐに演奏が始まった。ジャックの言葉が聞こえておらず、もう家路に着こうとしていた観客たちも聞こえてきた音楽に足を止める。
音楽隊員たちは立ったまま、位置もいつもとバラバラのまま、それでも楽器を奏でている。心が湧き立つような楽しげな音楽だ。満天の星空のもと、ジャックが目を細めながら人々に向かって身体を揺らした。観客たちはやがてひとり、ふたり、と足踏みをしたり、手拍子をしたりし始めた。何やら機材を持った者たちもやってきて、俄かに騒がしくなる。
デュースはひっそりと笑うと、並んだ警察車両のうちの一台に乗り込む。それはリーダー格の男が乗る車両だった。ドアを閉めると音楽が遠のく。出してくれ、と言うと車は署に向かって出発した。
後部座席の男は無言だ。言葉を交わしたくもないだろう。デュースは黙って、ラジオを付けた。
時計の街のラジオ局が、現在のホワイトラビット・フェスの様子を中継していた。先ほど見た機材はこれのためだろう。警察音楽隊の演奏と、人々が合わせて歌う声が聴こえてくる。
「ジャックは、間違えないんだ」
ぼそ、とデュースは言った。返事は期待していなかった。
「あの、フルートを吹いていたあいつだ。ジャックは間違えたことがない。きっと本人は、間違えたこともあるって言うかもしれない。でも、僕から見て、あいつは間違えない。サボらない。ずっと努力し続けてる。それがどんなにしんどいことなのか、きっと僕よりお前の方がわかるんだろう」
ラジオから、先程の事件についての説明と、警察音楽隊の紹介とが流れてくる。
「予定を変更して、ホワイトラビット・フェス特別公演、輝石の国警察音楽隊コンサート、輝石の国から音楽の力を届けます、を現地からお送りしています……」
「音楽の力ってなんだと思う?」
また唐突にデュースは言った。丘を越えていくため、振動が激しい。男は相変わらず反応しなかった。
「今回のコンサートのテーマは『音楽の力』なんだって。あいつ、広報誌に載せるアンケートで、音楽の力とは何かって質問に時間が経つことだって答えてたんだ。どういうことだって聞いてたら、眠れない夜も、最悪な気分のときも音楽を聴いていたら時間が経つだろうって言うんだ。なんだか現実的過ぎるだろう? 歌詞を聴いて共感するとか、明るい曲を聴いて励まされるとかじゃないんだ。たぶんあいつは、時間の経過を待って、誰にも当たらず、自分の中だけで消化して、暗い夜も最悪なときも乗り越えてきたんだと思う」
「だから、オレもそうすべきだったって?」
後ろから唐突に投げつけられた言葉に、デュースの胸がどくん、と鳴った。平静を装い、後ろを振り向かず、数少ない街灯が次々と過ぎていくのを見つめた。男の声がぼそぼそと続く。
「最悪な気分のときは音楽を聴いて我慢して、間違いを犯したくなる気持ちを抑えてずっと閉じこもっていればよかったのか? 周りに迷惑かけんなって、そう言うのか、お前が」
デュースは「そうじゃない」と返した。
「ジャックは、薔薇の王国の人にも警察音楽隊のことをわかってほしいって言っていた。警察音楽隊の音楽を聴いて、警察の存在を近くに感じてくれれば、きっと『助けて』って言いやすくなる。辛い日を、嫌な気分を、乗り越えた先で、助けてって言える……『音楽の力』があるとしたら、そういうことじゃないかって。でも、そんなことは長くて書けないから、簡潔な、でもジャックにとって大事な理由を書いたんじゃないかと僕は思う。……ああ、そうか、お前は」
車は漆黒の闇の中を、車のライトから伸びる光を頼りに疾走していく。
「ずっと『助けて』って言っていたんだな。あの、仲間を集めようとして送った、僕に関わった人たちへのメッセージは本当は僕宛てだったんだな。気づかなくて、すまなかった」
デュースの言葉に、今度こそ後部座席は沈黙した。その無言の沈黙が肯定なのか、的外れなことを言った自分に対する呆れなのかは、デュースには判然とはしなかった。
犯人たちを署に引き渡し、諸々の手続きを終え、あちこちに報告をしている間も、ラジオは急遽行われている野外コンサートを中継し続けた。人々は恐怖から解き放たれてテンションが振り切れてしまったのか、一通りの演奏を終えてもアンコールの要求が続き、空が明るくなってきてもまだ演奏は続いていた。
デュースがもう一度車に戻ってもらい、ラビット国定公園の宣誓台下に到着すると、さすがに人々の姿はまばらになっていた。音楽隊のメンバーは死屍累々の様相を呈して道端に座り込んでいる。
その中でジャックはフルートを掲げ、何やら老人たちのリクエスト曲を吹いていた。
朝日が彼の銀色の髪を鮮やかに照らしている。磨き上げられたフルートが、光を反射してきらきらと輝いていた。
演奏が終わると、ジャックがデュースを目に止めこちらにやってきた。老人たちは名残り惜しそうだったが、仕方なさそうに離れていった。ジャックの目はしょぼしょぼとしていた。
「おお、デュース……」
「ジャックがここまで疲れているのも珍しいな」
「俺は夜型じゃねえんだよ。なんなんだ、この街の人たちは。一晩中演奏させられ続けたぞ。しかも、朝になったら今度は帰った老人たちが起き出してやってくるし」
「時計の街の人たちは真面目で勤勉で計画性があるんだが、昨日は何もかもイレギュラー過ぎたからな。いろいろ吹っ飛んじまったんだろう」
お疲れ様、とデュースが笑いかける。ジャックはその様子をじっと見ると、後頭部をかきながら言った。
「……落ち込んでねえか?」
「どうしてだ?」
デュースは微笑む。ジャックはむ、と唇を上げると言った。
「いや……なんか、俺の方見て、じっとして動かねえからよ」
「ジャックを見てたんだ」
予想外の言葉に、ジャックはぽかんとした。
「お前の演奏が聴こえて、テントが透明になったとき、夕日の光をフルートが反射して、白い隊服がオレンジに照らされてた。それからさっき、星空の下に踊り出していってフルートを吹き始めたときは、お前の耳や尻尾が暗い中でほんのり白く明るく見えたんだ。今は、朝日を反射して銀色に光ってる。綺麗だなって思って」
「……やめろ。恥ずかしいだろうが」
「やめない。全部、好きだなって思った」
ジャックの目が見開かれる。
あのな、ジャック。
デュースが静かに彼の名を呼んだ。
「再会したとき、俺も言葉が欲しいって言ったよな」
「……ああ」
「言葉にすべきことはここに」
胸をとん、とデュースは叩く。
「ここに確かにずっとあった。でも、うまく言葉にならなかった。それに、言葉にしないでおくのがやっぱりいいと思ってたんだな。僕はお前が言葉より様子や動作や仕草や行為、そういうことの方を好んでいることを知っているし、だから、残すならそっちだろうと思っていた。……いなくなるとしたら、僕の方だと思ってたから」
でも、昨日、ジャックの方がいなくなることもあるって思い知った。そう言ったデュースに、ジャックは何も返せなかった。自分たちはふたりとも、危険の中に身を置いている。
「グリムが暴走したとき、何も言わずに立ち去ってお前を傷つけた。僕はそのことを悪かったって後悔してはいたけど、たぶん、同時に同じくらい満足もしてた。お前を傷つけて、僕のことを忘れられなくさせたこと。幼稚で、ガキで、自分本位だったと思う。すまない」
「……そのことは、もう」
「よくないだろう?」
ジャックは少し考えて結局「……そうだな」と言った。
もうずいぶん年月が経ったし、仲は修復したが、あのとき、デュースが何も言わなかったことも、自分が何も言えなかったことも、なかったことにはできそうになかった。
真っ赤に熱した焼きごてを押しつけられたように、短刀を突き立てられ、抉られたように、それはジャックの中に残ってしまっている。
デュースは頷くと、言葉を続けた。
「だから、言っておきたい。今回のことで思い知ったから、お前に言葉を渡そうと思う。でも……言葉ってのは難しい。関係性すらうまく表せないし、助けてって言葉すら、そのまま言えないこともある。だからできるだけ、間違えないようにお前に渡す言葉を探したつもりだ」
「前置きが長えよ」
ジャックは赤く染まった顔で、口を尖らせた。
はは、と笑ってデュースは言った。
「僕は、お前を愛してるよ」
「……」
「友人、同居人、ライバル、恋人。そういう言葉ではやっぱりうまく表せないけど、僕にとって、この世でお前ほど綺麗なやつはいない」
ジャックは息を止め、恐る恐る手を伸ばし、デュースの腕を掴んだ。
「ずっと……」
声が震えた。デュースは透明な翡翠色の瞳に、ジャックを映していた。
「ずっと、何て言えばお前を止められたのか考えてた。行くな、と縋れがよかったのか。絶交だ、と脅せばよかったのか。好きだ、愛してるって言えば何か変わったのかって」
「うん」
デュースがただ頷く。その様子から、何を言ってもこいつはやっぱり行ってしまったんだろうとジャックは確信する。
痛みを感じるであろうほど強く、デュースの腕を握った。
「本当はただ……こうして、手を伸ばせばすぐ届く距離にいたかっただけなんだ」
しゃくりあげそうになり、ジャックがそのまま顔を上げられずにいると、デュースが「ジャック。もしかして照れてるのか?」とにやついた声色で言う。
「うるせえ!」
ジャックは思わず顔を上げて叫ぶ。デュースは声色とは違って、愛おしそうに目を細めてジャックを見ていて、ジャックは思わず真面目な顔になった。
ふたりは顔を見合わせると、歯を見せて笑い合った。