まだ名付けない「アーシェングロット先輩!」
考えごとをしていた上に、およそ自分に向けられたものとは思えない溌剌とした呼びかけに、少々反応が鈍った。アズールが二拍ほど遅れて顔を上げると、食堂のごったがえした人混みをすり抜け、デュース・スペードが駆け寄ってくるところだった。あたりにはバターの香りが漂っている。
「……もしや、あなたも」
「はい! 月に一度の麓のベーカリーの出張営業、今日の目玉商品はクロワッサンなんですって。この香りをかいだら花の街でのこと思い出して、食べたくてたまらなくなって。アーシェングロット先輩もそうですよね」
人懐っこい笑顔で言うデュースは、微塵もアズールが否定する可能性を考えていないようだった。虚勢を張っても仕方ないので、アズールは認めることにした。
「君に行動の理由を当てられるのは癪ですが、その通りです。夕食でカロリー調整をするつもりですけれど」
言い訳がましく付け足してしまった文言をデュースは特に気にすることなく、伸びている列を一瞥してうわあ、と口を開ける。
「けっこう並んでるんですね。うーん、順番が来たときにまだ残ってるかな……とりあえず僕、最後尾に行きますね!」
「ちょっと待ちなさい」
踵を返そうとする後輩を呼び止める。彼はきょとんとした顔でアズールを見つめ返した。
「僕があなたの分も買いましょう。プレーンなものでいいですか。それともチョコレートクロワッサンにしますか」
「えっ!」
デュースが驚いた顔で声を上げる。アズールの前後に並んでいる者たちもぎょっとしていた。「あの」アズール・アーシェングロットが、お使いを買って出てくれるなんて、といったところだろう。デュースは「た、対価……は……」などと呟いている。
アズールはため息をついた。
「これくらいのことでなんですか。もちろんクロワッサンのお代はあとでいただきますよ。ひとつ注文するのも、ふたつ注文するのも同じでしょう」
「そ、それはそうですけど……じゃあ、いいですか?チョコレートクロワッサンと、卵サンドと牛乳を」
デュースは恐る恐る、アズールへと確認をとる。
やがて順番が回ってきてパンとドリンクの入った袋を受け取ると、アズールは突っ立っているデュースのもとへと歩いていった。そして、その横をすっとすり抜けて中庭に向かう。デュースは困惑してアズールの後ろをおろおろとついてきた。
「あ、アーシェングロット先輩?」
「ついでと言ってはなんですが、あなたにお話があります。一緒に昼食を取りながら聞いてもらえますか」
「あ、やっぱり何かあるんですね」
ほっとしたようにデュースが言う。アズールが親切をする裏には「何か」があった方が納得できるらしい。思えば、花の街で鉛筆を渡したときもえらく動揺していた。ずいぶん失礼な話ではある。アズールは憮然と言った。
「別に、これくらいのことはお話がなくてもしますよ。誰にでも、というわけではないですが」
「あはは……僕、ミドルスクールのときにまともに学校に行ってなかったので、なんというか……今みたいな損や得のないやりとりって、何が正解かよくわからないんです」
デュースが困ったように言う。
「最近、エースや監督生たちといるようになって同年代同士の気兼ねないやりとりは慣れましたし、カシラの言うことは絶対なので寮の当番や部活の役割とかはわかりやすいんですが。アーシェングロット先輩は、学年も寮も部活も違いますし」
「……なるほど、ね」
アズールは返事を返しながら中庭のベンチを指差した。人陰もまばらで、木陰になっていてちょうどよいと考えたのだ。デュースは頷き、ふたりして腰掛けた。金銭のやりとりをした後、ふたりでクロワッサンを咀嚼する。
「……うーん。やっぱり、花の街のものよりは」
「ええ。十分おいしいのですが、あれを知ってしまうとなかなかイメージを消せないですね。せめて温め直せれば違うのでしょうが」
「魔法でできますかね?」
「できなくはないでしょうが、あなたのコントロールではやめておいたほうがいいでしょう。僕も、午後の授業に魔力を残しておきたいのでやらないでおきます」
「うっ……否定できない……」
他愛のない話をしながら食べ続け、アズールはホットコーヒー、デュースは牛乳を飲む。やがてアズールは頃合いだろうと話を切り出した。
「実は……あなたのユニーク魔法をもう一度、僕に貸していただけないか、とお願いしたいんです」
「え?」
デュースは目を瞬かせた。
花の街での事件で、デュースは自身の魔法「しっぺ返し」をアズールに貸し出した。足を捻り先に進めなくなった自身の代わりに、事件の首謀者であるロロ・フランムをぶっ飛ばす、ということを対価として。
対価は履行され、ロロ・フランムは成敗された。デュースはその場にいられなかったが、魔法だけは現場に行き、その拳はアズールによってロロに一発入れる結果となった。そうして魔法はデュースの手元に無事戻ってきたのだ。
アズールは淡々と経緯を話し出した。
モストロ・ラウンジにここ数日、頻繁にクレームをよこす客がひとりいる。リーチ兄弟は数日留守にしていて、それもあり増長してひどい騒ぎを起こしているのだ。
「どうも、ユニーク魔法の類を使って、うちの店員が何かの失敗をするようにし向けているようなんです。注文した皿を落とした、目の前で転んでテーブルを揺らした、飲み物をグラスからこぼして服が汚れた、など……ラギーさんの魔法に似てはいるようですが、証拠を掴めません」
「はあ……それと、僕の魔法とどういう関係が?」
「先方は、店員にはもう懲り懲りだ、次に来店した際には店長自らサービスしろ、と言うんです。そうしなければこれまであったことを学園長に直談判してラウンジの営業を休止してもらうよう交渉すると……」
「えっ、でも、なんというかそれって」
「はい。罠ですね。本命の計画は僕に給仕をさせて、同じように魔法をかけ、失敗させて恥をかかせることなんでしょう。今回のお客様はあの対策ノートのときにイソギンチャクにした方でもあり、まだまだ恨まれていたようです。あちらとしてはモストロ・ラウンジが営業停止になろうと、僕が恥をかこうと、僕が不利益を被る結果になればそれでいい、といったところでしょう」
デュースは思わず自分の頭頂部を撫でていた。イソギンチャクがまだそこにいるような気がしてしまったのだ。つるりとした自分の頭部の感触を手袋ごしに感じてほっと息を吐く。
「あなたのユニーク魔法を用いれば、相手にかけられた魔力を溜めて、それを返すことができます。逆に言えば、相手が何も仕掛けてこなければ発動しない。発動したことこそが相手が魔法を使った証拠で、正当防衛を証明できるんです。かつ、物理的な復讐もできますしね。こんなにお誂え向きなのは、あなたの魔法しかないんです」
「ええと、でも、ある程度のダメージを負わないといけないので、そういう、いたずら程度の魔法の威力で大丈夫かどうか……」
「もちろん、そのことは考慮の上です。僕は一度、あなたの魔法を使っているんですよ。言っては悪いが、あなたにできなくとも、僕にはそのくらいの微調整、可能です」
デュースはええ、と口を開けて呆けている。自分の魔法の使い勝手をわかっていなかったらしい。
ただし、とアズールは付け足し、指を二本立ててデュースの眼前へと示した。
「この依頼にはふたつ、問題点があります。ひとつは、僕が学園長にユニーク魔法の使用を禁止されていること。ふたつ目は、それを含めるとデュースさん、あなたにメリットがない、ということです」
「メリット、ない……ですか? アーシェングロット先輩のことだから、きちんと何かしらの対価はもらえるんですよね?」
「もちろんです。ただ、僕の魔法の使用がバレた場合、あなたもお咎めを受けるかもしれません。花の街でのことも遡って、ですよ。そのリスクを引き受けてもらうほどのメリットが、あなたにあるのか、というと疑問です」
まだあまりピンと来ていないのかぽかんとしているデュースに、アズールはさらに言い募る。
「あなたが先ほど言った通り、僕たちは同級生でも、友人でもない。部活も違う、寮も違う、先輩と後輩としての接点も薄い。花の街のときと違って、利害関係も一致してはいない。あなたと僕の関係性は、こんな依頼を引き受けてもらうほどではないでしょう。よってあなたにメリットはない。そう、僕は思いますよ」
はあはあ、なるほど……とデュースは顎に指をやり頷く。アズールは言いたいことを言い切ったため、あとは待つだけだ。
断られたときの代替案もないわけではない。なんとか来店の約束を引き延ばし、ウツボたちの帰還を待てばーー特に、ジェイドのユニーク魔法あたりが有効だろうーーという考えはある。しかし、あの客だってそんなことはわかっているはずで、引き延ばしが効くかはわからなかった。だいたい、ジェイドに借りを作るようでぞっとしないのも確かだった。
そんなに間を置かず、デュースはあっさりと頷いた。
「わかりました。いいですよ」
アズールは半ば、この答えを予想していた自分に気づく。頭を抑えると、懇々と説教するような口調でさらに言った。
「あのですね、デュースさん。花の街でも言いましたが、あなたは少々、簡単に人を信用し過ぎる。もう少しよく考えて」
「考えましたよ。対価は、その、ダメージが少なくてもユニーク魔法を発動できる微調整、っていうのを教えてほしいです」
「いや、だからですね」
「それに、アーシェングロット先輩、引き受けるほどの関係性じゃないって言いましたけど、そんなことないですよ。僕は先輩のこと、同志だと思っているので」
「ど、同志?」
言われたことのない関係性の言葉に、アズールは面食らって繰り返した。デュースは力強く頷く。
「ええ。消したい過去を持っていても、なりたい自分であるために努力する、同志です」
忘れてやれ、という声が蘇る。
あの自らがオーバーブロットした事件の終わり。妙にスッキリした気分でいたのは確かだ。
だが、皆がそんなに気にすることではないと笑うときに、それでも、と思った。
見られたくない。知られたくないのだ。他人にはたいしたことがなくても、どうしても嫌なのだ。
自分がやったこと、周囲に迷惑をかけたことを全て棚上げにして一旦忘れて、どうしてわかってくれないんだ、と泣き喚きたい気持ちに、少しだけなった。たいしたことない、誰も気にしない、と言われてそういうものかと少し救われた気持ちになったのだって嘘ではない癖に、駄々を捏ね、外聞を気にせず暴れたい気持ちになった。もちろん、顔にも態度にも出しはしない。そっと沈黙しただけだ。
そのとき、僕にはわかる、と言ったのがデュースだった。
ああそうか、僕は、とアズールは思う。
あのとき、忘れてやれ、と言ったデュースに確かに救われていたのだ。
だから今回の依頼も、騙すようで忍びなく、デメリットを素直に語ってしまったのだ。
「それに僕、先輩を尊敬していますから」
「そ、尊敬?」
およそ生涯で向けられたことのない混じり気のない賞賛の言葉に、アズールは再び面食らった。デュースは実に素直にきらきらとした瞳を向けてくる。
「ユニーク魔法は個性によるって言うでしょう。僕、先輩のユニーク魔法、すげえなって思ってて」
「『黄金の契約書』がですか?」
このユニーク魔法を、アズールは確かに誇りに思っている。だが、デュースのように交渉ごとに向かない人間に憧れられる要素はないと思っていた。
はい、とデュースがはきはきと答える。
「だって先輩のユニーク魔法、他人がいなくちゃ成立しないでしょう?」
アズールの手から、がさりと音を立ててクロワッサンの入っていた袋が落ちた。滑らかな動作でそれを拾うと「……どういうことです?」と尋ねた。
デュースは立ち上がると、ぐっと伸びをした。そして、中庭から遠くにある、外廊下を横切っていく生徒たちに目を向けた。
「……もしかしたらお察しかもしれませんが、僕にも忘れたい過去があります。とにかく他人を拒絶して、周囲に壁を作っていました。だから、他人と関わることが前提の魔法が、ユニーク魔法であるっていうことが、すごいなと思うんです」
だからいいですよ、アーシェングロット先輩なら。
デュースが振り向いてきっぱりと言った。碧色の財宝のような瞳がこちらを見つめている。アズールは夢を見るように呟いていた。
「しかし……もうひとつの問題点の方が」
「先輩、花の街ではどうして僕と契約してくれたんですか?」
「それは、ええ、学園の外だからまあいいか、と」
「先輩」
言葉の半ばでデュースがアズールを呼んだ。そしてにっと笑うと、とんとんとローファーで地面を叩く。
「ここ、学園の『外』ですよ」
木々が騒めき、晴天がふたりの上に広がっている。
アズールは間を置いて破顔すると、デュースそっくりの表情になり言った。
「まったく。たいした優等生ですね」
翌日の昼休み、デュースはアズールに呼び出された。
デュースは「もういいんですか?」と言い、アズールは「ええ」と静かに頷いた。
「首尾はどうでした?」
「ばっちりです」
「今日、移動教室でリーチ先輩が廊下を歩いてるのを見ましたよ」
「ええ、今朝帰ってきまして。自分たちがいないと横柄な客の対処もひとりでできないのか、と揶揄われるのを防ぐことができました。ありがとうございます」
アズールは徐に契約書を出した。魔法が返却されるのだろう、となんとなく直立不動になってぴんと立つデュースを見て、アズールが微笑む。
「デュースさん」
「はい」
「あなたのユニーク魔法は本当に素晴らしいです」
「は、はい……?」
もしかして返してくれないのだろうか、とデュースが恐る恐るアズールの顔を覗き込むようにすると、そこには慈愛に満ちたアズールの目があった。明るい空色の瞳が彼を見つめる。
デュースはどきりとした。そんな風にアズールに見つめられるのは初めてだったからだ。
「だって、あなたの魔法だって他人が必要じゃないですか」
「え」
「誰かに魔法をかけられなければ発動しないんですから、他人がいないと成立しないでしょう。どうにもそれが戦闘に特化しているのが、実にあなたらしいとも言えますが……」
デュースは目を丸くして、アズールの言葉を咀嚼している。
「昨日、僕があなたの魔法を使って『お話し合い』をしたお客様は、どうやらイソギンチャク事件のときから全く懲りず、継続して勉強に関する困りごとを抱えていて、僕に八つ当たりをしたかったらしいです。これからは真っ当にポイントカードを貯めていただくよう、強く言いました。まあ、大事な顧客でもありますので、少々サービスして勉強を見てあげましたがね。こうして、行き違いはありましたが顧客をひとり、失わずに済む結果になった。それは他人を拒絶していたあなたが、他人とぶつかる魔法を編み出した、そのおかげです」
アズールが契約書を破棄すると、光が輝いてデュースの身体へと収束していく。
柄にもなく熱弁をして少々赤みを帯びたアズールの頬は、光が収まる頃には元に戻っていた。
対価は後日まとめたものをお渡しします、それでは、と踵を返そうとするアズールに、デュースは「あの」と声をかけた。
「今度、麓の町のベーカリーに行きませんか。時間を狙って行けば、クロワッサンを焼き立てで食べられるらしいんです。そこで、対価についても教えてください。僕たちは他人で、一緒に麓の町へ行くまでの関係性ではないかもしれないけど……」
お互い、他人と関わるのは、好きでしょう?
デュースが笑いかけると、アズールは仕方がなさそうに苦笑した。
「一応、僕は相手を選んでいるつもりなんですけどね」
「え?」
「なんでもありませんよ。ええ、いつにします?」
ふたりは手帳を開き、日程の相談を始めた。