キャンバスあの日夢見た未来とは違うけれど、それでも受け止めて生きていくと決めた。
『ごめん今日行けない』
メッセージアプリで届いた言葉を見て、深津はため息をついた。またか。もう何度目だ。
『なんで』
それだけ送るとすぐに既読がつく。
『尊敬する先輩の飲み会に呼ばれた』
なんだ尊敬する先輩って、お前にとってのそのポジションは俺じゃなかったのか。
そんな言葉が頭を駆け巡ったけれど、深津の指がそれを文字にすることはなかった。胸の辺りにどろりとした感触がする。グッと吐き気を堪えてスマホを伏せた。
深津は一度消したテレビをつけた。夕方のニュースが再び流れる。家を出る必要がなくなったから、羽織ったばかりの上着も脱ぐ。ソファに置いていたバッグを床に乱雑に放り投げて息をつく。メッセージアプリで『分かった』とだけ送り、そのままソファで横になった。
メッセージの送り主は沢北栄治だ。この後21時に会う約束をしていた。現在時刻は20時。そろそろ出ないと待ち合わせに間に合わないから、急いで身支度を整えていたのに、ちょうど良いタイミングでドタキャンだ。今日のために髪を切ったのが馬鹿らしい。靴も新調して、昨夜、疲れ切った体に鞭うって車の中の掃除もしたのに。
やっぱりダメだったか、と乾いた笑いが出る。
ここ最近の沢北はいつもこうだった。付き合いはじめて5年。3年目の倦怠期は乗り越えたというのに、また同じ波が来ている気がする。
一言でいえば、沢北に大事にされていない。
デートの約束も日々のメッセージのやり取りからも、沢北からの愛情を感じられない。最近の彼は、面倒くさそうな返事や呆れた顔や、話を逸らそうとするつまらない言葉ばかりで、深津はその度に傷付いている。
そういうのはやめて欲しい、と言えたらどんなにいいか。付き合って3年目の頃は、お互いに忙しかったのもあって態度の悪さにお互いがイラつき、まっすぐ言葉にして、しっかり喧嘩していた。その方がよっぽどマシだったと今なら思う。
もう今の深津は、沢北に「大事にして欲しい」と言えない。無駄なプライドと意地が先行して、3年前の大修羅場のように喧嘩する気さえ起きない。
別れるのだろうか。
そんな予感がここ最近はずっとしている。
深津から沢北への気持ちは変わらないのに、沢北からの気持ちが変わってしまったような素振りをされるたびに、深津は傷つき泣き出してしまいそうになっている。時々、優しい言葉や昔のように大事にしてくれる瞬間があって、それのために取り繕って沢北に気に入られようとしている自分が嫌になって、沢北の前でうまく自分になりきれない。こんなの良くないと思うのに、深津は浅ましくも、まだ付き合っているから大丈夫だと言い聞かせているのだ。
それももう無理かもしれない。
深津は片腕を頭の上に乗せて、ぼんやりと天井を見上げた。
もう長い付き合いなのだから、自分を優先してくれない恋人に対してとやかく言うべきではないのは分かっている。相手は国内でも名の知れたバスケ選手、自分はしがない会社員。沢北にも付き合いというものがある。自分にあるように。でも、それでも、1ヶ月も前からしていた約束を反故にして、急に入ったその先輩とやらの方に行くのか。自分を置き去りにして。
もういい、と目を閉じた。今日のために着たお気に入りのシャツがシワになるのも構わない。現実から逃れるように、うっすらとした睡魔に身を任せる。深津はひどく疲れていた。
ブブ、とバイブレーションが鳴る音に意識が浮上した。電気をつけっぱなしでうたた寝していた深津は体を起こして、ローテーブルに伏せたままだったスマホを手に取った。
『終わった、今から行けるよ。どうする?』
スマホの右上に表示されている時間を見て、呆れた。
もう23時なのに、何を言っているのか。
『無理しなくていい』
なるべく柔らかい言葉になるようにしたのに、それに対して返ってきたメッセージは辛辣だった。
『無理って何。俺に会いたくないの?』
会いたいに決まってる。そのために髪も切って靴もおろしたのだ。でも沢北の言葉が、まるで“深津が会いたいから会ってやってる”ような意味に捉えられて、深津は気分が悪くなった。
『明日早いからいい、やめとく』
明日早いなんて嘘だ。いつも通りの時間に出社するだけ。自分でもなんでそんな嘘をついたのか分からない。それでも会いたいと言って欲しいのか、嘘だと見抜いてほしいのか。
『じゃあいいよ』
また突き放された、と直感した。嘘をついて、拒否したのはこちらなのに、なんで縋ってくれないんだと瞬間的に思って、そんな自分にすらうんざりする
『おやすみ』
それだけ打ったら、既読はついたけど返事はなかった。2人で眠る時、かならず耳おやすみと言ってくれたのに。また幸せだった時の記憶を掘り起こして、そして現実の恋人との差に勝手に傷付いている。これはもう自傷行為だと分かっているのに、深津はやめられない。