テーブルの上に伏せておいた端末が一度震え、メッセージを受信した事を告げる。手に取り送り主と要件を確認した後、ため息を付きながら端末をソファへと放り投げていた。
『悪い!今日も帰り遅くなりそう!』
メッセージの後にチワワがごめんねを抱えてるスタンプが続く。一人きりの室内で溢れた「またかよ…」が虚しく響いた。
最近、拓也がとても多忙である。私と比べて社交的な奴の事だから、やれ飲み会だやれ遊びだと、お誘いが引っ切り無しだ。その度に少しばかり申し訳なそうに「行ってきてもいい?」と伺いを立てられては頷かざるを得ないだろう。束縛する気なんかさらさら無いし、浮気するような男じゃないことは重々承知だしな。
そんな多忙な奴が最近熱を上げていることがある。スポーツ観戦だ。自分もサッカー経験者ということもあり、プロ・アマ問わずサッカーの試合を見に行っているらしい。お供は大概輝一で、お揃いのユニフォームを着た上機嫌な二人が私達の部屋に帰ってきた事もある。最近は野球観戦に夢中らしい。おそらく今日も、スポーツバーにでも寄っているんだろうな。
正直私自身あまり興味はそそられない。楽しそうにする話を聞いて満足なんだ。だってそうだろう。毎回劇的な試合があるわけでもないのに、数時間もコートかテレビに齧りつくことは出来そうにない。
だから今日も、もう一度だけため息をついてから端末を手にとって『楽しんでこいよ』と送るんだ。
「うわぁ〜…今日の試合結果、すげぇことになってんぞ…」
天気の良い休日。日用品と食材の買い出しへと共に町に繰り出して、夕方前に帰宅。軽食を取ったからか空腹は感じない。けど拓也は空いたようで、だったら早めに夕食の支度を…と提案したら、目をきらめかせて「今日のデイゲームの配信みながらちょっと食うから輝二は後にしろよ!」ときた。
さすがに…私の事を放置しすぎなんじゃないのか…?
PCの前に腰を落ち着かせ、時折歓声や落胆の声を出しながら画面へと食らいつく。片手に持ったどんぶりへはいつ箸をつけるんだろうか。
そんな拓也を横目に、私は部屋を後にした。
***
物音ひとつしないことに気が付いた。振り返ってみれば輝二の姿はない。おそらく風呂にでも行ってるんだろう。チェストの上の時計へと目線を向ける。20時少し前。気が付けば、帰宅してから大分時間がたっていた。ぱく、ぱくと食べていた米がかぴかぴだ。一気にかきこんで、また画面へと顔を戻す。今日の試合はなかなか面白い。上がったテンションのまま、横に避けていたスマホを手にとり輝一へとメッセージを送る。すぐさま既読が付き『だよな』とだけ返って来た。深夜までは程遠い時間帯、明日の予定は特になし…。
「……飲みに行こうかなぁ…」
「なんだ、出かけるのか?」
「うああッ!」
「そんな驚くことないだろ」
呟きに返答があった事にもだけど、それ以上に聞かれてしまったことに驚いた。またか、と呆れられたらどうしよう。もしくは、怒られたりしたら…。
自覚はあるんだよ、趣味に割く時間の多さには。口出してこない事を良いことに好き勝手楽しませてもらっている。だって仕方ないじゃん、好きなんだし楽しいんだから止められない。そこまで興味がない事をわかっているから、付き合ってもらうのも忍びないし、自然とこの趣味に輝二を誘うのを避けるようになった。輝二のことは好きだし、一緒に居続けたい。しれーっといつの間にか籍ぐらい入れてそう。
でも、これに関しては話が違う。
難色示されたらどうしようという葛藤と、興奮冷めやらぬまま輝一を誘って夜の街に繰り出したい欲がせめぎ合う。若干後者の引きが強い。
「…こう、」
「だから、聞いてるだろうが。今から飲みに出かけるつもりなのかって」
「……で、出かけたい、なぁ…って、思ってます…。ほっほら!明日も俺休みだし!輝一も大丈夫だと思うしさっ」
「…はぁ…別にそんな言い訳がましく言わなくても、行きたいなら行けばいいじゃないか」
「…行ってもいいの?」
パジャマ替わりにされた俺のTシャツをワンピースの様に着こなした輝二が、その細い腰に手を置いて、案の定目一杯の呆れ顔でため息を吐き出した。びくりと肩を揺らした俺は、罪悪感を感じながらもちゃんとお許しをもらおうと、椅子に腰かけたまま傍らに仁王立ちしている風呂上がりの輝二へ顔を向けた。
「…今日の試合、めちゃくちゃ面白くてさ…輝一とさ、飲みながら話してきたいなぁって思って…その…」
「…ふっ…ダメとは言ってないだろう?別にやましいことがあるわけでもないのに、らしくない態度をとるな」
「ほっホントに行ってもいいのかっ?!」
「いいも悪いも、お前が決めることだろ?私は構わないさ」
どうやら俺の思い過ごしだったようだ。柔らかく笑顔を見せてくれた輝二に謝罪と感謝を抱きながら、輝一に電話をかけるべく端末を手に取った。
数回のコール音の後、輝二の次に耳に馴染んだ声が電波に乗ってくる。単刀直入に、今から出てこれるかと問えば『俺も誘おうと思ってたとこだ』と弾んだ返事が返ってきた。
「やったっ!いやぁ〜、まじであそこでヒット打つとは思わなかったぜ」
『だな。あと、なんといっても三回裏』
「二軍から上がってきた選手だよな?すげぇファインプレーっ!」
我慢できず喋りだした俺に、輝一もまた話に乗ってくる。端末を肩と頭で固定して会話を続けながら身支度をし始めた。やっぱり、趣味が同じ奴との会話は楽しい。輝二には悪いけど当分熱は冷めそうにない。
「でさぁ…ふはっ、そうそう!あん時の外野がっ、おあッ」
緩いシルエットのものに履き替えようと、日中出かけた時のジーパンを脱ぎにかかったとこ、背中に何かがぶつかった。痛みはなく、振り返り足元へと目線を下げればさっき見た俺のTシャツが床に転がっていた。
輝二が今しがた着ていたTシャツが。
「たーくや」
名前を呼ばれ目線を床からゆっくりと上げていく。そして、輝二の姿が視界に入った途端腰を抜かして盛大に尻もちをついた。
「はッ、えっ…ええッ?!」
何も身に纏ってない輝二が、少しつまらなそうな顔つきで立っていたからだ。床に付いた手に握った端末から輝一の声が聞こえてくる。手に力を込め、緊張からくる乾きを紛らわそうと唾液を飲み込んだ。無造作に降ろしたドライヤーしたての塗れ羽色の髪が、首を傾げる動きに合わせて肩から流れ落ちる。
「な、に…してんの…?」
「別に、何でもない」
「だったらなんでっ…そ、その…はだ、か……」
情けなくも震えた声でした問いかけに、くすくすと彼女お得意の柔らかく意地の悪い笑いが返ってきた。何か言わなくちゃ…。わななく唇を湿らせて、絞り出すように声を発する。
「こ、うじ…」
「”行きたいなら、行けばいいじゃないか”
…どうした、行かないのか?」
「……こんにゃろォ…」
くすくす、くすくすと笑いながら、無駄のない綺麗な脚が俺の方へ一歩一歩近づいてくる。ひくりと喉を鳴らし、弧を描いたそこを隠すように口元を手のひらで覆う。二人きりの時にしかしない笑みを浮かべてしまったことに気が付いた輝二が、通話がつながったままの端末を奪い取った。
「もしもし輝一?悪いが、今夜拓也は私がもらいうけるな」
『…はぁ…なに、輝二お前、俺に嫉妬してたのか?』
「まさか!そんなわけないだろ~?…まあ、面白くはなかったのは事実だな」
大げさに肩をすくめて見せた後、いまだに座り込んだままの俺の膝を跨ぎそのまま首元へ腕を回してきた。通話しながらおちゃらけて見せる姿と、俺の心を掴んで離さない魅力たっぷりの仕草に頭が混乱してきそう。
『はいはい。…あんまり、拓也で遊ぶなよ』
「わかったよ兄さん。じゃあ、拓也に代わるな」
「えっ?!」
突き返された端末を取りこぼしそうになりながらなんとか握りしめ、普段の雰囲気を取り繕いながら慌てて口を開いた。
「…ってことで…誘っといて本当にもーしわけないんだけど…」
『ふふっ…拓也も輝二には甘いんだから…』
「…うるせーやい」
『あははっ』
ぶすくれてしまった声音を軽やかに笑われて正直少しほっとしている。こっちから声をかけたのにその約束を反故にして、しかも妹君としけこもうとする…これこそ罪悪感ってもんだろ。
苦虫を噛み潰したような表情を、大きな瞳がじっくりと見つめてきた。ぷるんと潤った愛おしい唇の前で「たくや」と呟やかれ、そのまま端末を寄せてる耳とは逆の方へ顔が近づいて来る。
「……なぁ…まだ…?」
「ッぅあ…!」
すり寄られた首筋に薄い唇が添えられ、そのままぢゅうっ…と吸い上げられた。同時に、着替えの途中で中途半端に緩ませたままだったベルトの隙間からフロント部分を撫でられる。電波に乗ってしまった声を冷やかすような口笛が聞こえてきた。
「たくやぁ……ほら…早く、ベッド…」
「ちょッ、待てまて…!ごめん輝一っまた今度なッ!」
わたわたしながら通話を切ろうとしたとこに、胸元でしなやかに伸びる輝二が「おやすみ、輝一」と声にして、その唇が俺のそれと重なった。タイミングが良いのか悪いのか、リップ音が鳴った後にスピーカーからツーツーと機械音が流れてきた。
「こっこっこっ…!」
「くくっ…なんだ、ニワトリの物まねか?」
「ッ、輝二てっめェ…!」
「うわっ!…ふふっ、最初から素直にこうしておけばいい物の…」
風呂の温もりを蓄えたままの身体を姫抱きにして、その場で勢いよく立ち上がった。悲鳴を上げた輝二が、首に腕をまき直し距離を詰めてくる。
「お前のかわいー声、輝一に聞かれてしまったな」
「ああもう…ホントさぁ…!」
「なんだよ、私が悪いのか?」
「……悪かねーよ…」
「そうだろそうだろ」
さも当たり前かの様に得意げな顔を向けられて、こいつには勝てそうにないなと苦笑いを浮かべる。挑発的とも取れる笑みに白旗を振りながら、今度は俺から唇を重ねた。"「行きたいなら行けばいい」"…だってさ。その気を削ぐのが上手いんだらホント敵わねぇよ…。
俺の興味も関心も一番に離さないこの存在を悦ばそうと、誘われるまま寝室へと足を向けた。