月が昇り始めた夜半、蓮花塢の厨に男ふたりが忙しなく動いている。正確には一人が動き回り、もう一人がその男について回っているだけではあるが。
「魔法のようだ」
ついて回っている方の男がぽつりと呟く。藍曦臣は、意気揚々と料理の手伝いを申し出て、つい先ほど蓮花塢の主人にあなたは手を出すな!と免職を申しつけられたばかりだった。まな板の上で大ぶりの鯇魚(タンユイ)の頭を落としながら、江澄が片眉を上げてにやりと笑った。魚の下処理を終えてさっと油にくぐらせると、何やらみじん切りにした野菜と水に溶いた片栗粉を追加して、小鍋の蓋を閉じる。同時並行で細長い麺を茹でながら、今度は水にさらした蓮根を取り出し、目にも止まらぬ速さで薄切りにしていく。厨でひときわ存在感を放つ大鍋に油をうすく引き、葱、生姜、辣椒、そのほか藍曦臣の知らぬ色とりどりの薬味が放り込まれると、ジュワッという音を立てて水蒸気がもくもくと上がった。江澄の体格のわりに細い首筋から、汗の粒が流れ落ちていく。なんとなく、目を離せなかった。江澄が思い出したように呟いて、我に返る。
「いつだったか、阿凌の世話をしに金鱗台に行ったとき、金光瑶からあなたの話を聞いたことがある」
「どんな話かな」
「射日の折の話だ」
なんの話だったか当ててみてくれ、と江澄が笑う。かつて、金光瑶から苛烈な江宗主の意外な一面について何度か聞いたことはあったが、まさか自分のことも相手に伝わっていたとは。当時は意識もしていなかったが、好いた相手に自分の情けない姿が伝わっていたのかもしれないと思うと、急に気恥ずかしくなる。魚を焼くときにわたをとり忘れていたことだろうか、それとも野営中に火を起こそうとして火事になりかけたことだろうか…などとつらつら考えていると、いつの間にか江澄に覗き込まれていた。
「そんなに考え込んで、俺に聞かれたくない話がそんなに多いのか?」
「そういうわけではなくて…!」
「わかってる、俺が聞いたのはあなたが洗濯しようとして衣を破いた話だ」
「お恥ずかしい限りだよ…」
「なんでも完璧にこなす沢蕪君の意外な弱点を知れて当時は結構嬉しかったぞ?」
全く余計な話をしてくれたものだ。ゆったりとした袖をまとめ上げていた白い襷をほどきながら、料理もできたし室で食べよう、と江澄が歩き出す。その後を追いながら、射日の折に何くれとなく世話を焼いていてくれた義弟の姿を思い起こす。彼を脳裏に思い浮かべても前ほど心が押しつぶされないのは、間違いなく先を歩く紫衣の男のおかげだった。春の金鱗台で再開してから早四月あまり、互いに執務や夜狩に忙殺され、できることといえば文のやりとりばかり。今夜の藍曦臣は雲夢の近くで藍氏の夜狩を終えた後いてもたってもいられず、藍思追に門弟たちを預けて先触れもなく蓮花塢に降り立ったのだった。こうして久方ぶりに会えた実物の江澄を前にして、鼓動がうるさく高鳴っている。
春が過ぎ、夏も盛りの蓮花塢で、紫白の衣が夜風に舞った。