愛の王国 龍宮寺堅は、自分の人生をそれなりに順風満帆だと自負していた。
中学時代はそこそこ悪いこともしていたが、卒業後はやりたかったバイク屋を開くため真面目に働き、今では小さいながらも店を営んでいる。友人にも恵まれ、仕事終わりや休日には酒を飲み交わして近況を語り合う。
ただずっと、ある時を境に龍宮寺の人生は『それなり』なものでしかなくなった。心のどこかに穴が空いたような、いつもどこか『足りない』という感覚。
原因はわかっている。それがどうにもならないことも。だからこそ龍宮寺は、じっと笑って忘れる努力をして生きてきた。
十年以上も前の記憶が、今も尚龍宮寺の日常を蝕んでいるのかといえばそんなことはない。好きなバイクに触れる時、客の嬉しそうな顔を見た時、気心の知れた友人と会う時。それなりの幸せを感じる瞬間は多い。
しかし時折ふと、思い出したかのように理由のない孤独感で体が竦んでしまうだけだ。悪い夢を見た気がして飛び起きた時、決まって思い出すのは自分に決別する時の男の顔だ。龍宮寺の人生において、龍宮寺の唯一だった男。そのたった一人を、捨てられた今も忘れられずに生きている。出会った時から、圧倒的な存在感で龍宮寺の心を掌握した男。龍宮寺の人生は、間違いなくあの男のものだった。あの男がいない世界では、それなりにしか生きられない。今もまだ。
そんな龍宮寺を、好きだと言ってくれる女もいた。好きになってもらえるように頑張るから側にいたいと言った健気な女は、最後は『自分を見てもらえないのは寂しい』と言って龍宮寺のもとを去っていった。それを悲しいことだと思わない龍宮寺は、自分がどこか欠陥品のような気さえしていた。
たった一人の男に、笑って生きて欲しいと思っていたはずだった。たとえ自分がその幸せを形作る要因でなかったとしても、それでいいと思っていたはずだった。
だけど結局は、自分がこの手でなんとかしてやりたかった。そんな傲慢で自分勝手な自分のちっぽけさの方が、よっぽど龍宮寺にとっては悲しいことだった。自分がこんなだから、あの男は捨てて行ったのかもしれない。
あの男の隣で見ていたキラキラと輝く世界はもうなくて、今はただ、世界の片隅で寿命を淡々と消費しているだけだった。
死ぬまでそうやって、それなりの人生を生きていくんだろうと思っていた。ある時までは。
その日はある夏の、雲一つない晴天の日だった。仕事の取引先に顔を出した帰り、まだ時間が早いからと龍宮寺はなんとはなしに普段通らない細い路地へと入り込んだ。
「こんな道あったのか」
バイクでは到底入れない細い小道を進むと、古めかしいアパートが並ぶ住宅地に繋がった。蝉の鳴き声が響くそこには人の姿は見えず、時折野良猫が龍宮寺の前を横切っていく。
「今度千冬に教えてやるか」
まるで秘密基地でも見つけたかのような高揚感に、龍宮寺は軽い足取りで歩を進めた。十分程歩き額にうっすらと汗をかき始めた頃、初めて人の姿を視界に捕らえる。
シャッターの閉まっている店は酒屋なのか、横に設置された酒の自販機でビールを買う男がいた。そのまま通り過ぎようとした時、龍宮寺の気配に気付いた男が振り向いた。
「……っ」
息を飲んだのは、同時だった。男の顔を見た瞬間、あんなに煩かった蝉の鳴き声が止んだ気がした。何も聞こえず、周りの風景さえ目に入らない。
五感の全てが目の前の男に向けられている。年月を重ねるごとにぼんやりとしていたはずの記憶が、脳に鮮明に蘇った。
「奇遇だな」
「……あぁ」
呆然としたまま、大声を出すことも取り乱すことも出来ず、龍宮寺は緊張で乾いた喉からなんとか掠れた声を出した。
額から顎に伝った汗が、ぽたりと地面に落ち染みを作る。
飄々としている男は龍宮寺の記憶よりもやつれて目にも隈を作っているが、声は変わらずあの男のものだった。
間違いなくあの男が、ここにいるのだ。
「飲む?」
「え……」
じっと動かない龍宮寺が、自販機を見つめていると思ったらしい。男に話し掛けられ、龍宮寺は流れる汗を慌てて手の甲で拭った。
「……どうも」
動揺していることを悟られてはいけない、弱みを見せてはいけない。ともすれば何をされるか分からない。
離別した時の経験からか咄嗟にそんな思考が過ぎった龍宮寺は、平静を装い差し出された缶を受け取った。
「ケンチンも、酒飲むようになったんだなぁ」
「……っ」
取り繕うような表面的な笑み、感情の読めない平坦な声。全て忘れることなどないと思っていた。
しかし感慨深いとでも言うようにどこか慈愛を感じるその表情は、龍宮寺が初めて見るものだった。
この男は、こんな風に笑う人間だったか?目の前に立つ人間は、本当にあの男なのか?もしかしたら自分が、過去に囚われ思い違いをしているのか?
「じゃあな」
猜疑心に立ち竦む龍宮寺に缶ビールを握らせると、男はそのまま龍宮寺に背を向けた。振り返ることもない背中が遠のいて、遂には角を曲がって見えなくなる。
呼び止めることも出来ないまま、龍宮寺の手に汗をかいた缶ビールだけが残った。
〜中略〜
しかしそれから時折、佐野はふらりと龍宮寺の部屋を訪れるようになった。
決まって人気のない夜中に、こんこんと小さくドアを叩かれる。もしかしたら龍宮寺が寝ていて気付けていない日もあるんじゃないかと思う程小さな合図。扉を開けると、緊張した様子の佐野が安心したように小さく息を吐き出す。そうすると龍宮寺に追い返すなんて選択肢はなく、部屋の中に招き入れてやる。
眠る龍宮寺をしばし眺めて帰る日もあれば、龍宮寺が買い置きをするようになったどら焼きを食べる日もある。
佐野は昔のように、笑わなくなった。しかし時折嬉しそうに綻ぶ目元や、怯えたように揺れる瞳。もう佐野は何も龍宮寺に求めてはいないんだろうと思いながら、なんとかしてやりたいと思わせるような中毒性。
龍宮寺は自分を捨てた佐野を忘れる努力をしていた。しかし一度会ってしまっては、途端に心が佐野を求め出した。足りなかった、龍宮寺の人生の核。
〜中略〜
龍宮寺の部屋を訪れるようになってしばらく、佐野が小さく笑うようになった。龍宮寺の手料理を、なんの躊躇もなく口にするようになった。警戒を解かれているのか、昔を懐かしんでいるのか。そんな佐野の変化を見逃さないよう、龍宮寺はいつも佐野の変化の乏しい表情を眺めて過ごしていた。
「ケンチンち何にもねぇよな。ゲーム機でも買わねぇ?」
「買ってやってもいいけど、次来たら抱くぞ」
妙な沈黙に佐野が茶化すように話し出すと、龍宮寺はなんの脈絡もなくそう宣った。
「は?」
「オレたちもう、ダチなんかじゃねぇだろ」
「……っ」
何度会ったとしても、龍宮寺から居場所を知らない佐野を訪ねることはできない。佐野が訪ねてきても、龍宮寺がその体に触れることはできない。
「オレ、オマエに会ってる時。いっつも触りたいとか思ってんの。変だろ」
龍宮寺は同性にこんな欲を抱く自分が、ついには狂ったのかと思った。昔の自分は、もっと純粋に佐野を想っていたはずだった。それが、逃げないように組み敷きたいなんて欲に駆られるのだ。これが歳を取るということならば、残酷だなと思う。キラキラとした綺麗な思い出に縋ることさえ、これで出来なくなってしまった。
「次来るなら、手出すから。それでもいいならゲームでもなんでも買ってやるよ」
ずっと、憎みきれず焦がれていた佐野が、手の届く距離にいる。焦ったくて恋しくて、見えない壁など、取っ払ってしまいたかった。しかしそれと同時に、こう言えば二度と会いには来ないかもしれないなとも思っていた。
佐野は表情を変えないまま黙り込んだかと思うと、その日はそのまま夕飯を食べて帰って行った。
〜中略〜
すっかり空気が寒くなったある日、龍宮寺の携帯に覚えのない番号から電話があった。
「もしもし」
『突然のお電話すみません。佐野万作さんの入所されていた施設の職員なのですが、ご家族の連絡先が分からず。以前面会に来てくださった際に、龍宮寺さんが面会簿に連絡先を書いてくださってたので』
佐野の祖父のところに、龍宮寺は何度か面会に行ったことがある。自分だけが誰にも言わず佐野に会ってることへの、罪滅ぼしだったのかもしれない。時に佐野の昔の話に花を咲かせながら、佐野の祖父は今頃どうしてるのだろうとは口にしなかった。詮索しないことが、黙って姿を消した佐野への愛だったのかもしれない。
『昨夜、亡くなられたんです。誤嚥性肺炎で治療中だったんですが、急変時は心肺蘇生は行わないというご本人の意向からそのまま……』
「……そうですか」
誰に見送られることもなく、それを望むこともなく、一人きりで逝ってしまった。人の人生はままならないと分かってはいても、やはりやるせない。
『ご本人からお孫さんがいるとは聞いていたんですが、入所される時には写真も連絡先も何も持たずにこられたんです。毎月ご寄付いただいていた方もどなたか分かりませんし……ご遺体の引き取りをして下さる方をご存知ないでしょうか?』
「それって、オレでもいいですか」
龍宮寺は店を乾に任せ、佐野の祖父が肺炎治療で入院していたという病院へと向かう。病院の霊安室で、冷たくなった佐野の祖父と対面した。孫二人は殺され、もう一人の孫は行方不明。そんなこの人に面会に通ったのは、オレ以外にはいなかったらしい。それでも冷たい世間にも、孫を殺した犯人にも、たった一人全てを背負い消えた佐野にも、決して恨み言は口にしなかった。佐野は、恐らく祖父が亡くなったことを把握しているだろう。それでも姿を見せてやれない佐野のことを想い、代わりに冷たく硬直した佐野の祖父の手を握り締めた。佐野の実家で見た時には背筋の伸びた逞しい人だったのに、骨が浮き出る程細くなった手をさする。昔佐野の家で聞こえた笑い声が、ひどく懐かしかった。
病院に葬儀社を教えてもらい、龍宮寺は一人で葬儀を済ませた。きっと佐野の祖父も望んでいないだろうと、誰にも知らせず、仏花も数える程度しかない葬儀社の一室で、ひっそりと出棺を見送った。火葬場で骨上げをする龍宮寺を、火葬場の職員だけが感情の見えない目で見守っていた。
〜中略〜
それからしばらく、佐野は龍宮寺の部屋に寄り付かなかった。龍宮寺がどれだけ心配したとしても、龍宮寺は佐野の電話番号さえ知らない。
平静を装って日々を送っていても、どうしたって佐野のことを考えている。そんな折、仕事を終えた龍宮寺の携帯に非通知で電話があった。
『佐野万次郎に会いたいか?』
「……誰だ?」
どこかで聞いたことのある男の声。しかしそれがどこでだったか思い出せない。男は龍宮寺の問いには答えず、とある病院の名前だけを告げ電話は切れてしまった。