ひとりでも、 これは、夢だ。途中でわかっていたのに、それでも止められなくて、顔がぐしゃぐしゃに歪むのがわかって、息が苦しくなって、ひたすらに何かをまくしたてて、目の前の兄の顔がよく見えなくて。
突然意識が覚醒する。
「勇作さん?」
兄の顔。現実の。真っ黒な瞳孔を微かに縮めて、こちらを伺っている。自分を、見てくれている。
息を吐いた。知らぬうちに、息を詰めていたらしい。一呼吸おいて、感覚が覚醒する。背中が汗でぬれて気持ちが悪い。口の中は粘ついているくせに、喉はひどく渇いている。
「……俺は、何かを、言っていましたか」
おそるおそる問う。兄の表情からして、口に出してはいないはずだったが、それでも聞きたくて。
「……意味のあることばは、なにも。うなされていたのは、わかりましたが」
目をのぞき込む。おそらくそこに嘘はない。控えめに差し出された指先が、額に張り付いた髪の毛を払ってくれる。身じろぎをすると、枕から兄の香りがほのかにたちのぼる。
職場から新幹線に乗り込み、同じく帰りの遅かった兄と交代でシャワーだけ浴びて、疲れた身体でベッドに倒れ込んだことを思い出す。ここは離れて暮らす兄の家だ。前に来たときよりも、枕が大きくなっている。歯ブラシも、バスタオルも、寝間着も、自分のものが用意されている。ふたりで暮らした家が、無性に恋しくなることがあっても、この家も、間違いなく自分と兄の家だ。得がたいことだ。幸せなことだ。ここに、今こうして、ふたりで身を寄せ合って。毎週、会えるわけではない。だから、少しでも、一秒でも長く、ふたりでいたい。ふたりで暮らしていたころの食器、同じ銘柄のボディーソープ、朝ごはんを億劫がる兄のために、買い置きしていたヨーグルトが今でも補充されている冷蔵庫。すべてが愛おしいのに。
なのにどうして、あんな夢を見るのだろう。まぶたがじわりと熱くなる。兄の指先が離れていく。離したくなくて、追いかける。身体を抱きこむ。耳がふれあう。兄が細く息を吐くのが聞こえた。腕の力を強める。抱きしめているというより、しがみついているようだ。兄の手が、背中に回る。ゆるやかに、さするように滑っていく。不器用な手つきがしみいるよう。
「……寂しいです、あにさま」
こぼれた弱音が、兄の肩口に吸い込まれる。
「勇作」
低い声に名前を呼ばれて、背筋が甘やかにふるえる。勇作さん、勇作、ふたつの呼び名を、近頃の兄は使い分けることを覚えた。
「……抱いてくれ」
言葉にうながされるままに、兄の唇に噛みつく。背中をおされるままに食らいつきながら、ずるい、ずるい、と頭のかたすみで駄々をこねる。そんなことを言われたら、自分はあらがえない。肉体のあたたかみに、縋らずにはいられない。
本当は、たまらなく悲しくなるときがある。かつて、自分の命は、兄に願われなかったということを思い出して。過去は過去だ。ただふたりに残っているのは、記憶だけ。突然よみがえったそれは、ある日突然消えてしまうかもしれないのだ。とらわれてはいけない。いまを、ふたりは生きているのだから。これは、明治の世の勇作が思っていることですらない。明治の世の記憶を、いまこの時を生きている勇作が受けついで、思っているだけ。誰にも引き受けられない、兄にもぶつけることのできない思いが、たしかにそこにある。
それをわかっていて、兄は。何も考えられないように、せめて肉体のぬくみだけを、交わらせてくれる。それは、確かに優しさの姿をしていたし、愛のかたちでもあった。だから、受け取らないわけにはいかないのだ。
突風のように激しく交わったあと、目を閉じた自分のまぶたに、兄は指先を滑らせる。
「……大丈夫ですよ、勇作さん。俺は、あなたなしでも生きていける、だから」
あなたがいなくても、俺の中にはいつも、『勇作』がいる。そう言って静かに微笑む兄は、自分ひとりでなんでもやってのけようとする。それが、兄の矜持だから。
「嫌です、兄様。だって、あなたの中の私は……いえ、それは私ではない、『あなたの中の勇作』は、あなたを」
言いかけた言葉を寸前で飲み込む。兄の目が、それ以上語ることを許さない。
前も、そうだったのでしょう。あなたは、あなた自身の心がつくりだしたものですら、凶器に変えてしまう。きっと、兄のなかの勇作は、完璧な偶像だっただろう。兄の欲しいことばをくれ、望むままに振る舞い、いつまでも兄のなかで美しく在る。最期の瞬間すら寄り添って。ああ、兄様。どうか目の前の勇作を見てください。兄の矜持を、よすがを、奪ってしまいたい。ひとりでも大丈夫だと笑って欲しくない。心にうずまく言葉を飲み込んで、兄の身体を強く強く抱いた。