ふーふーちゃんには月に一度、
どこかへ出掛ける『特別な夜』がある。
定期的に訪れるその夜は彼曰く、義肢のメンテナンスを依頼しているらしい。欠かさずに行くドッゴの夜の散歩を俺に任せて、いつも日が昇る頃にようやく帰ってくる。家の周りはあまり人の気配も多くない穏やかで治安の良い地域なのに、彼は絶対に俺が夜に独りで出歩くことは許してくれない。だから散歩を頼まれる『特別な夜』は、俺とドッゴの束の間のデートとして楽しんでいる。
彼が帰ってくるのは夜更かし癖のある俺がまだ作業をしてる時間帯だから、シャワーを浴びた彼を捕まえて世話を焼くのが常だった。自身の世話を億劫がる彼にドライヤーかボディクリームのどちらを自分でやるかを選ばせるのは楽しみのひとつだった。俺に触れる許可を与える意味を正しく理解している彼とのちょっとした遊びでもある。
そうして過ごす俺たちの『特別な夜』は、日常に彩りを添えるイベントみたいになりつつあった。
「今夜、ドッゴの散歩を頼めるか?」
彼がリードを片手に訊いてきたのは、俺がようやくベッドを出た昼過ぎだった。
「ん...もうそんな時期?」
「あぁ、いつも悪いな」
「大丈夫、デート楽しんでくるね」
冗談を言いながらリードを受け取った俺の言葉に、彼は小さく眉を寄せる。構ってくれると勘違いして近寄ってきたドッゴの前へしゃがみこんで「いいか、ドッゴ。うききは俺のだからな?いくらお前でもやらないぞ」って真面目な顔で言うから、思わず吹き出してしまった。
そうしてやってきた一ヶ月ぶりの『特別な夜』。ディナーにしては早くブランチにしては遅い食事を一緒に取って、やたら不安そうな顔をする彼を陽が傾きかける時間に見送った。
自分の立てる生活音以外がしない家はなんだか静か過ぎて落ち着かない。きっと別れ際に離れ難そうな顔をされたことも影響してる。もうこのイベントにもお互い慣れているというのに、今日の彼は何が引っ掛かるのかやたら不安そうだった。気を抜けば寂しさに引き摺られそうで、没頭できそうな作業をいくつか見繕って取り掛かる。
「んーっ、」
目の渇きを感じて画面から視線を外した。時計を確認すれば作業を始めてから随分と経っていて、ドッゴの散歩にはうってつけの時間だった。部屋着から着替えて必要なものを手早く集める。
「お散歩に行くよー!」
声を掛けながらリードとバッグを準備していれば、お利口なその子はすぐにやってきた。
「一ヶ月ぶりのデートだね。今日はふーふーちゃんじゃないから、走ったり草むらに入るのはダメだよ」
わふ、と返事をしたドッゴの頭を撫でて遠くからこちらを気にする愛猫に手を振って家を出る。
「道は君に任せるから、案内よろしくね?」
最初はリードすら上手く付けられなかった俺が散歩について行く度に、ふーふーちゃんは丁寧に教えてくれた。リードの付け方、歩き方、おやつをあげるタイミング...俺が覚えるよりも早くお利口なドッゴは俺のやり方に合わせるようになって彼がびっくりしてたっけ。まだやんちゃだった子供の頃から知ってる彼にとっては、新鮮な光景だったのかもしれない。
散歩のルートはいくつかあるらしく、一緒について行った時は彼が決めていた。ランダムに選ぶそれを俺が覚えるのは大変だからと、彼は『特別な夜』にだけドッゴの自由に歩いて良いルールを設けた。練習と称して彼に見送られて初めてドッゴと二人きりで歩いた散歩は、終始緊張していたのが伝わってしまったのか比較的人通りの多い道をゆっくりと歩いてくれたドッゴに泣きそうになった。飼い主に似るとは聞くが、ドッゴは本当に心優しい子だ。
「今日は一段と静かだね」
いつもより静まりかえった道をドッゴと二人で歩く。夜も深い時間であることもあって人が話す声も聞こえず、ここにいるのは俺とドッゴと俺たちを照らす満月の月明かりだけだった。家からそう離れてはいないはずなのに、昼間とは違う顔に少しだけ不安になってリードを握り直す。
と、遠くから足音が聞こえる。ぺたぺたと鳴るそれは犬の足音に近い。散歩中のご近所さんかと目を凝らせば、二つの光と視線が交わった気がした。
「待って...」
嫌な予感が背筋を走る。思わずギュッとリードを引けば、ドッゴは寄り添うように身を寄せてくれた。そのドッゴも警戒心を剥き出しにしながら前方を見つめている。
俺の勘は、残念ながらよく当たる。二つだと思っていた光が四つ、六つと増えて、近づく距離にようやくシルエットを捉える。姿は犬に近いが、大きな体躯に低く唸る声。
──狼だ。
頭で理解した瞬間、俺は悲鳴も出せずにリードを引いて逆方向に走り出していた。お利口さんのドッゴは何も言わずとも察したらしく、俺が転ばないようにしながら隣を走る。
「嘘でしょ、狼が出るとか聞いてない!信じられないんだけど!」
頭の中はパニックで、とにかくそんな情報をよこさなかった彼への悪態でいっぱいだった。後ろを見る余裕なんかなくて、だけど明らかに複数の足音が追いかけてきている。二足歩行の人間がどれだけ全力で走っても、四足歩行を相手に勝てるはずもない。まさか、また走って逃げる日がこようとは。俺は息を切らしながら覚悟を決めかけた。あの時は星の力が俺を助けてくれたけど、今度こそだめかもしれない。
大人になってから出したこともないスピードで全力疾走しながらも体力の限界を悟った瞬間、後ろから遠吠えが聞こえた。同時にぴたりと狼の足音も止まる。
「ドッゴ、ちょっと待って」
状況を把握したくて小声でドッゴへ声を掛けて立ち止まる。弾んだ息のままで恐る恐る後ろを振り返れば、俺たちを追いかけていた狼は自分達の後方に立つ一匹を見つめていた。
その視線の先にいたのは、銀色の綺麗な大きい狼だった。
もう一度遠吠えをした狼は、強い光を放つ瞳を狼の群れへと向ける。銀色の狼へと威嚇するように低く唸り声をあげながらも尻尾を巻いた群れはあっけなく去っていった。
「もしかして助けてくれたの?」
銀色の狼は動かず、じっとこちらを見つめている。と、ドッゴが俺の横をすり抜けて狼の方へと走っていった。
「ちょっと!?」
あまりの恐怖でいつの間にかリードを手放していたらしいことにようやく気付いて、俺は慌てて声を上げる。先ほどの群れの狼よりひと回りは大きい姿に近づくことも出来ず右往左往していると、ドッゴが慣れた人に出す声が聞こえてきた。
「...え?」
視線を向けると、銀色の狼とドッゴが鼻先をくっつけている。じゃれあうように手を掛けるドッゴと身を躱す狼。目の前の光景に理解が追いつかずに呆然と立ち尽くす俺に、銀色の狼が視線を向けてきた。思わず肩を跳ねさせればこちらへ戻ってきたドッゴが俺の足をぐいぐいと押す。
「待って、行けって言ってる?嘘でしょ!?」
首を振りながら足を突っ張って抵抗したが大型犬の力には勝てず、仕方なく少しずつ狼の方へと近寄った。群れを追い返してくれたとはいえ、相手は野生の狼だ。距離を空けて立ち止まった俺は、それ以上の接近を意地でも拒否した。
改めて近づいて見た狼は、やっぱり綺麗だった。ドッゴよりも二回りは大きいしなやかな体躯。艶やかな銀色の毛並み。
月明かりに照らされた瞳には赤い──
「ふーふーちゃん?」
するりと自分の口から出た名前に、俺自身がびっくりしていた。銀色の狼の目元には、彼とよく似た形の赤い傷があった。偶然にしてはあまりにも出来すぎているほど酷似している。
「本当にふーふーちゃんなの?」
わふ、と足元でドッゴが声を出す。すっかり打ち解けたらしいドッゴの声に促され、銀色の狼がそっとこちらへと距離を詰めてきた。近づいてくるその生き物はまさしく狼で、目元以外に判断する術もない。
触れられる距離まで近づいてきた銀色の狼の顔を、俺は両手を伸ばして包んだ。言葉も尽くすけれど言葉にならない愛もたくさん注いでくれる彼なのであれば、見間違えるはずがない。もう何万回と自分の瞳に映してきたグレーの瞳を覗き込んで、その奥へ秘められた彼の心を捕まえた。
「君なんだね」
彼だと分かった瞬間に全身から力が抜けて、俺は地面に膝をついた。心配そうに声を上げるドッゴが体を擦り付けて寄り添ってくれる。極度の緊張感に晒されていた身体は言うことを聞かず、すぐには立ち上がれそうもない。不意に彼のザラザラした舌が俺の頬を舐めて、ようやく涙を流していることに気付いた。
「大丈夫だよ、ふーふーちゃんだって分かって安心しただけ」
自分が思っていたよりも恐怖を感じていたようで、次々と流れる涙は止まることを知らずに拭っても拭っても頬を濡らしていく。俺の胸元へ頭を擦り付けてくる彼を抱き締めて、柔らかく指通りの良い毛並みを撫でる。
「ふーふーちゃん、一緒に帰ろう」
俺の涙が落ち着いて立ち上がれるようになった頃には、ドッゴは彼が狼になっていることを何となく理解していたようだった。はしゃいで飛び回りそうになるドッゴを俺が落ち着かせられないことを彼も分かっていて、ドッゴのリードは彼の口元に咥えられている。狼が犬の散歩をするという奇妙な光景に思わず笑いが込み上げてきて、くすくす声を溢す俺をやっぱり彼は優しい瞳で見つめてくれた。
「ただいま」
玄関を開けて二匹が家の中に入った後に、当然ながら愛猫がパニックになって走り回ってまたひと悶着あったおかげで、リビングはごちゃごちゃだった。想像もしなかった出来事に疲れきっていた俺は片付けは明日やることにして、まだ人間の姿には戻れないらしい彼がベッドの下で寝ようとするのを布団に引き摺り込んだ。狼と添い寝する日が来るとは思わなかったけれど、暖かくてふわふわした毛並みに眠気を誘われてすぐに眠りに落ちていった。
「浮奇、おはよう」
硬い指先が頬をくすぐる感覚に目を開ける。部屋に入る日差しがまだ遠くて、いつも俺が起きるよりも早い時間だと分かる。ぼんやりと映し出された視界がようやく焦点を結べば、目の前にいつもの彼がいた。
「ふーふーちゃんだぁ」
「あぁ、ただいま」
手を伸ばして彼の目元をなぞる。俺を映した瞳には優しさと愛がいっぱいに詰まっている。昨日、俺を心配してくれた銀色の狼と同じ瞳だ。
「ねぇ、ふーふーちゃん」
「うん?」
「どんな姿でも、君は君だよ」
俺の言葉に彼が小さく息を呑む音がして、それから体を引き寄せられて少し痛いくらいに抱き締められる。
「守ってくれてありがとう。君が何者だろうと、君が何だろうと、俺の愛は変わらないよ」
──ねぇ、ふーふーちゃん。少し怖がりで臆病な君が俺に見せてくれたことが、何よりも嬉しいんだよ。
彼の背中へと腕を回す。小さく震える肩と少し濡れた頬には気付かないふりをして、もっと愛が伝わるようにぎゅっと抱きしめ返した。