「この後飲み行くやつ集合〜!」
5限の必修授業が終わってすぐ。同学年の中でも一際明るい男子学生が声を上げればそこかしこから「行く!」「私も」と聞こえ、数人の男女が彼の周りに集まった。参加者はあっという間に10人を超え、こういうのってなんか大学生らしいなと少し離れたところからその様子を眺めていた芹澤は思う。
「芹澤ー、宗像ー、お前らはどうする?」
「あー、俺は」
芹澤は行ってもよかった。今日はバイトもないから夜は暇だ。
しかし、隣で何を考えているか分からないほどの真顔で学生の群れを見つめている恋人兼親友はどうか。
恐らく行かないだろうな。草太はこういった集まりには参加しない。家業があるから帰らないといけないといつもスっと席を立って、授業が終われば教室を出て行ってしまう。
本当に家業が忙しいのかもしれないし、もしかしたらそういう賑やかな場が苦手なのかもしれない。それか、その両方か。
芹澤は草太と親しい間柄であるから、草太の気持ちを汲んで無理に参加を促したりはしない。
周囲も入学以来、リモート授業で会わない時期があったとはいえ、草太がどういった人間なのかはもうとっくに理解している。全く誘わないというのも同学部、同学年のよしみとして悪いと思い、断られる前提で一応形式的に毎回声をかけているにすぎなかった。
草太は行かないだろうし、なら俺も行かなくていいや。そんで、2人で飯でも行ってどっちかの家でいちゃいちゃしよ。この前初めてやった騎乗位、興奮したし、草太も気持ちいいって言ってたからまたしてくれねぇかな。
頭の中で今夜の計画を練りながら、芹澤が形だけの「草太はどうする?」を投げ掛けると、草太は一瞬だけ長いまつ毛を伏せて、その後芹澤にだけ聞こえる声で言った。
「行く」
「はいはい、草太は…えっ!行く?」
思わず芹澤が眼鏡の奥の目を見開いたら、草太は不思議そうに首を傾げた。
「俺が行くと何か不味いのか?」
「いや、そういうわけじゃねぇけど…草太が行くなら俺も行くわ。俺と草太、参加で!」
芹澤が手を挙げて返答すれば、向こうの集団が一瞬ザワついた。
あの宗像が、という空気がありありと伝わってくる。しかしあまり驚くのも草太に失礼だろうと、戸惑いと愛想笑いの中間のような笑顔で皆は二人を迎え入れてくれた。
参加者が決まればすぐにデキる学生が店に電話をかけ、場所を押さえた。
グループ総勢15人で大学の最寄り駅にある居酒屋へ行く。学生街にある店のため慣れているのか、飛び入りで行ったのに店は大人数にもすぐに対応してくれた。その結果、2階の宴会場を半分貸し切っての大々的な飲み会が開催されることとなった。
長机が3列に並んだ座敷に、到着した順から思い思いに腰を下ろしていく。
席順は簡単なようで意外と頭を使う。各テーブルにおける男女比や、普段からの距離感、そして何より大事なのは酒を飲めるやつか、飲みすぎるやつか。
それらを踏まえた上で狙ってる異性がいるというならそいつが意中の子と必然的に近い席になるよう仕組むし、乾杯の音頭を取るやつは前方で、幹事役は何かと細々動きやすい入口近くの通路側、と暗黙の了解のようなものがあった。
芹澤はすぐにここだなという場所を見つけたが、対して草太はいつまでも座ることなく座敷の端に所在なく突っ立ったままだった。
ご自由にどうぞ、が普段飲み会に参加しない草太には一番難しい。
芹澤の隣に座ればいいと思っていたのに、もたもたしているうちに芹澤の隣には別の学生が座ってしまった。
どこに座ろうかとオロオロしていると見かねた芹澤が声をかける。
「草太、そこ」
芹澤が座る席の、隣の隣。テーブルの一番端の座布団が空いていた。
「あぁ」
草太は内心助かったと安堵しながら、その座布団の上にサッと腰を下ろす。
席に着いたところで飲み会はまだまだ始まったばかりだ。
大学生の飲み会なんて秩序があってないようなもの。あるのは昨今の風潮から一気飲みとコールの禁止くらいで、いざ始まってしまえばいくら飲もうが飲み放題で金の心配はない。各自の判断任せの自己責任を前提に飲んで騒いだもん勝ちだ。
「俺ビール」
「ハイボール」
「ここカシオレ2つでー」
とりあえず生、なんて文化はもう古い。各々好きな飲み物を注文していく。
芹澤がラミネート加工されたベタつくメニュー表を見ながらレモンサワーかなと注文しようとしたところで、クイッと柄シャツの裾を引っ張られた。
なんだとそちらを向けば、一席分腕を伸ばして草太が芹澤のシャツを摘んでいた。
「なんだよ」
「レモンサワー」
「は?」
「レモンサワー」
一瞬なんのことか分からなかったが、すぐに持ち前の察しの良さを発揮してこれは俺に注文してほしいのかと理解する。
「あぁ…じゃあ俺と同じな。まとめて言っとく」
「よろしく頼む」
草太は満足したように芹澤の服から手を離し、テーブルの上のおしぼりをいじり出した。
騒がしい場ではオーダーをするにも声を張る必要がある。
草太の声は澄んでいて広い講義室でもよく通るし、授業中指名されれば聞き取りやすい声でハキハキと答えているけれど、こういった場で声を出すのは恥ずかしいのかもしれない。
やれやれと思いながら、芹澤はオーダーを取りに来た店員に「レモンサワー2つ」と伝えた。
テーブルに女の子がいればそれとなくチャンスを伺い、いなければ単位をくれない堅物教授の愚痴か最近抜いたエロコンテンツの話が定番のネタだ。
教師を目指す教育学部生だって学生は学生。まだまだ遊びたい歳頃だし、年相応に羽目を外している。
おっぱいや性器の隠語が飛び交い下世話な話に花が咲いて、次々とジョッキが空になった。
草太に話が振られそうになると「草太はそういうの興味ねぇから」と自然な形で遠ざけつつ、芹澤は3杯目に注文したハイボールを片手に友人が最近抜いたというグラビアアイドルの写真をネットで検索していたのだが。
クイッ、クイクイッ
「芹澤、あっちにある唐揚げ取ってくれ」
クイクイッ、クイクイッ
「芹澤、レモンサワーもう1杯飲みたい」
話が盛り上がってきたところで草太が何かと用事を頼んでくる。
傍から見れば子どもじゃないんだからそれぐらい自分で言えよと言いたくなる内容だが、芹澤ははいはいと嫌がりもせず草太の皿に料理を取り分け、酒を注文してやった。
「ってかお前あの子とどーなったんだよ。ほらあの、経済学部のさ、かわいい子」
「芹澤、芹澤」
「はいはい、次はビールな。すいませーん、生2つで。マジで?別れたの?お前らいいかんじだったじゃん」
草太の注文をこなしつつ友人の色恋に茶々を入れている芹澤はかなり器用だが、芹澤と草太に挟まれた男子学生は当然のように居心地が悪く、いよいよ芹澤と席を代わった。
草太は芹澤が隣に来ると表情を和らげて、芹澤にだけ聞こえる声で話しかける。
「この梅水晶ってなんだ?」
草太がメニュー表を指さした。
「何だっけ…確かサメの軟骨を梅で和えたやつ」
「食べたことあるか?」
「前に1回だけあったような…」
ガヤガヤした宴会場の一角で、草太と芹澤、2人だけの世界が生まれる。
「食う?」
「美味いなら」
「なぁ、草太梅水晶食ったことないらしいからさ、食わせてみようぜ!」
「マジで?宗像そういう渋いもの好きそうなのに」
そのひっそりと小さな世界を、外へと繋げてくれるのが芹澤だ。芹澤の一声で周囲の視線が一気にこちらに集まり、草太の頬は紅潮した。
「サメなんだよな?ほんとに美味いのか?」
「いいから、食ってみろって」
出された小鉢に恐る恐る箸をつける。それをニヤニヤと見つめる好奇心に駆られた目たち。
その目には暗に容姿端麗な宗像草太が初体験に顔を歪める、そんな様が見たいと期待が込められていたけれど、その期待は大ハズレ。草太が初めて食べるサメ軟骨のコリコリとした食感と梅の甘酸っぱさに目を輝かせたその周りで、数人の男子学生はなんだよと大笑いした。
大して面白くもないはずのことでも、酒が入れば途端に面白可笑しく感じられる。どこか場に馴染めていなかった草太も、いつの間にか酒を片手に芹澤以外の学生とも談笑していた。
もう注文で芹澤を頼ることもなかった。
縁もたけなわ、ラストオーダーでここぞとばかりに酒を追加注文しそろそろ3時間制の飲み会も終り。幹事に3000円を渡して、各々赤らんだ顔で店を出る。二次会行こうぜと誰からともなく発せられれば、近くのカラオケか安い居酒屋がお決まりのコース。
「草太は二次会どうする?」
「もう飲めないし、俺は遠慮するよ」
「あっそ。じゃあ俺もいいわ。俺と草太ここで抜けるな」
「オッケ、じゃあなー!」
いくらか人数の減った集団に背を向けて歩き出す。
チラリと隣を歩く恋人を眺めれば、白い肌がアルコールで薄らと朱に染まり、色っぽいなと芹澤は思った。
「もう帰る?」
「芹澤は?」
「んー、草太ん家行きたい」
ここからなら、芹澤の家より草太の家の方が近い。草太もそうなる予感がしていたから、家に行きたいと言われても別に驚きはしなかった。
酔ってふわふわした頭でするセックスが気持ちいいことを知ってしまってから、学生たちが二次会でカラオケに行くように、飲んだ後はどちらかの家に行くのが2人のお決まりだった。
少しでも交通費を浮かせるために、1駅分徒歩で移動する。歩けない距離じゃない。夏の夜の、15分間の散歩だ。
昼間は灼熱のように暑いが、夜は気温が下がり、頬に当たる風が涼しく感じる。
この後勃たなかったらマズイし、と芹澤は少しだけ酒を抜いておこうと自販機でミネラルウォーターを買って呑みながら歩いた。
「なぁ、草太」
「なんだ?」
「お前さ、今日楽しかった?」
芹澤の質問の意図が分からず、草太は首を傾げる。
「みんなでワイワイしてんのにさ、途中まで俺にばっか話しかけてたじゃん」
「あぁ…」
「今日参加するって言ったのも、正直驚いた。飲み会のノリ、嫌いなんだと思ってたからさ」
草太は長いまつ毛で目元に影を落としてから「分からないんだ」と言った。
「大学に入るまで、というか芹澤と出会うまで、俺は1人でいることが多くて大勢で集まるような場に参加したことがなかったから…だから、どう振舞ったらいいかとか、その、ノリというやつがイマイチ分からなくて。つい芹澤にばかり話しかけてしまっていた。迷惑だったか…?」
「え、あ、いや迷惑じゃねぇよ。俺も草太と話せる方がいいし。でも、そっか…だよな、草太ってクラスでバカ騒ぎするような奴らとはつるまない優等生タイプだもんな」
芹澤は昔から場の中心となるような賑やかなグループに所属してきた。
高校までは田舎に住んでいたから賑やかといってもそこまで派手なグループではなかったけれど、自ら進んでというよりは流れに身を任せていたらいつの間にか自然とそそういうところにだいたい収まっている。それは大学に入ってからも同じで、対面授業が始まればすぐに草太以外にも友人ができ、良くも悪くも可愛がってくれる先輩もできた。
芹澤の周りには、常に誰か人がいた。いてほしかった、という方が正しいかもしれない。
元々コミュニケーション能力に長けていた芹澤は、上京して身につけた処世術も相まって相手の懐に上手く入り込んで生きてきた。全ては孤独から逃げるために。
そんな芹澤にとって、草太の口から出た言葉は自分とは正反対のものだった。
「友達と呼べるような奴は数人いたけど、ただ、家業があるからあまり親しくはできなかったんだ。断ることが続けば、誘われなくなるのも仕方ない」
「それ、寂しかったんじゃねぇの?」
「寂しくないよ。家業のためだ、割り切れたさ」
草太が生きてきた環境。それはきっと孤独だったのだろう。自分が何よりも恐れている孤独。俺には草太のような生き方はできない。
孤独の中で己に課された役割のために淡々と生きてきた草太を、芹澤は大した奴だとは思えなかった。寧ろ草太のこういうところが、芹澤は嫌いだった。それこそ“雑”だと思った。
同時に草太の“家業”というやつにも腹が立った。 そんな、自分の自由や友人関係の一切を犠牲にしてまでやらなければならないことなんてあるのだろうかとすら思う。それは、部外者だから言えることなのだろうけれど。
「だから、楽しかったよ。俺のことを誘ってくれる人がいて、酒を飲みながら他人の愚痴や恋愛話を聞くのも新鮮だった。飲み会というものに不慣れなせいで緊張していたから、芹澤に頼りっぱなしになってしまったけれど…」
「え、お前緊張してたの!?」
戸惑っているとは思っていたけれど、まさか緊張していたなんて。
じゃあ、あのめっちゃ小さい声は緊張してたから?
芹澤が驚けば草太はバツが悪そうにコクリと頷いた。
「仕方ないだろ、経験値が足りないんだ。今日だって、参加するって言うの、かなり勇気がいったんだからな」
「なんだよそれ」
緊張して注文すらままならないから俺に頼んでたんだ。
芹澤は思わず吹き出した。自分より背丈も肩幅もある恋人が、まるで幼子のように“守ってやらなければならない存在”に見えてくる。かわいくて仕方がない。
「あと」
「ん?」
「俺は下ネタ嫌いじゃないよ」
その言葉に芹澤は今日一で盛大に吹き出した。草太の綺麗な顔から、薄くて形のいい唇から「下ネタ」と紡がれたことに笑いが込み上げてくる。
「おま、マジかよ!」
「俺も男だから、そういう話も好きだよ。今度は混ざりたい」
「あははっ、草太ってほんと、見かけによらねぇよな!女子が知ったら泣くぞ」
「女性の前では言わないに決まってるだろ。ちゃんと弁えてるよ」
「そういうことじゃねぇんだけどなぁ…まぁ、草太らしいわ」
そっと指を絡めたら、やんわりと手を握り返された。
「また飲み会あるといいな。多分、あのメンツならまたやるけど」
そしたら一緒に行こ。
「あぁ、そうだな」
芹澤は、俺の知らないことを教えてくれる。芹澤と出会わなかったら梅水晶の味だって知らないままだったかもしれない。
芹澤といると、狭かった俺の世界が広がるんだ。
「俺はつくづく、お前に出会えてよかったと思ってる」
「それはどうも」
俺も、草太といると寂しくない。
今夜を1人で過ごさなくて済むのだから。
街灯の下。触れるだけのキスは、アルコールで少しだけ大人の味がした。