地獄へようこそ世界には二種類の人間がいる。
光の中で輝かしい未来を抱き歩める者。
闇の中で閉ざされた未来を憎み彷徨う者。
半端者などいない。光の導きに恵まれた時点で、闇を覗き込んだ時点で、どちらかに区分されるのだ。
だから両者の人間は互いが互いに染まる事を恐れて接点を持とうとしない。
もし、それが破られた時は。
混沌の禍が数多の命を喰い殺すだろう。
「はぁっ、はぁっ!」
「ルーくん!こっちだ!」
「っうん!」
深夜の住宅街を二人の男が駆け抜けていく。一人は白手袋と緑の服と青いオーバーオール、もう一人は白手袋とワイシャツに緑のネクタイと白衣を身に着けていた。二人は息を切らして疾走しながら、多数の怒声を聞きつけて慌てて廃墟ビルの一部屋へ隠れる。すればそこへを足音を踏み鳴らしながら数人の輩達がやってきた。
【どこいったあいつらぁ!!】
【チッ!逃げ足のはえぇ奴らだぜ!】
【どうしてくれんだ!!お前らのグループがヘマして取り逃すからこんな事になってんだぞ!!】
【元はと言えばてめぇらのグループが調子乗って車を爆破させたのが悪ぃんだろうが!!】
【ぁあ!?もう一度言ってみろヤク中がッ!!】
【カマ野郎がうるせぇんだよッ!!】
罵り合う男達の手には拳銃。今にも取っ組み合いを越えて殺し合いが始まりそうな雰囲気に、やり過ごすしか手がない二人は極限にまで体を縮めて物陰に身を隠している。
そうして恐怖に震えていると、男達は再び下品に足音を鳴らして走り出していく。どうやら責任の押し付け合いに夢中で二人に気付かなかったらしい。辺りが完全に静かになるのを待ってから、二人は窓際から頭を上げて辺りの様子を伺った。
「一先ずは助かった、のかな」
「…………これからどうしよう」
一時的とはいえ危機を免れた事に安堵する白衣の男・ドクタールイージに対し、オーバーオールの男・ルイージは暗い声。
「ドクター、スマホある?僕のは帽子と一緒に車の爆発に巻き込まれちゃってて…………」
「ごめん、ボクのもなんだ」
「そっ、かぁ…………それじゃ兄さんに連絡は出来ないね…………」
情けなく眉を垂らして落ち込むルイージ。そんな彼にドクタールイージは何と声をかけて良いのか迷ってしまう。
「ごめんねルーくん。ボクがしっかりしていれば…………」
「ううん、ドクターのせいじゃないよ。いくらあの『アンダーランド』の隣を通るって言っても、まさか警護車が破壊されるだなんて誰も思わないよ」
「そう、だね…………」
アンダーランドに迷い込んでしまった。口に出した事によりその事実が重く肩にのしかかってきた感覚に、二人の心も同じく重くなる。
「朝になるまでじっとしていた方がいいのかな。それにここは安全?」
「移動するなら暗闇に紛れた方がいいと思うけど、それは相手も同じだし、何よりボクらは丸腰だ」
意見を出し合えば出し合う程に選択肢が増え、方向性を失い、また同じ場所に戻って来る。そんな堂々巡りを繰り返していたせいか、二人は徐々に迫りくる脅威に全く気付けていなかった。
二人が夢中になって議論を重ねているその背後から、一人の男が気配を消して忍び寄ってきている。
硝子や砂利が散乱している床の上を最小限の足音で歩むその男は明らかに只者ではない。『その手の心得』を会得している者相手に、ズブの素人二人が気付ける訳が無い。
影の様に、煙の様に、男は標的に近付いていく。
十二分に距離を詰めた後は、一瞬だった。
まるで獣を思わせる瞬発力で一気に加速し、先ずは右側にいたドクタールイージの首元へ手刀を落とす。すれば彼はびくりと体を跳ねさせた後、声も無く崩れ落ちてしまった。
「っえ!?」
ここでようやく第三者の存在に気付いたルイージだったが、既に遅すぎた。逃げる事も抵抗する事も出来ず、相方と同じく鋭い手刀を首元にまともに食らい、目をぐるりと回して地に伏せてしまった。
見事な暗殺術を使い、二人を沈黙させたその男は成人男性というには幾分と小柄な体格をしていた。反面、筋力には自信があるのか、自分より背の高い成人男性二人をやすやすと両肩に担ぎ上げるとしっかりとした足取りで歩き出していく。
勿論、進む先は暗闇の中だ。
●●●●
…………薄く覚醒している意識が瞼越しに光を捉え、ルイージは導かれるままに目を開けた。
「うっ…………!」
体を起こして首筋に走った痛みに顔を顰めつつ辺りを見回せば、隠れ潜んだ筈の荒れ果てた室内はそれなりに片付けられた小綺麗な部屋へと変貌していた。
頭上でゆらりゆらりと揺れる古びたライト。清潔なシーツが敷かれたパイプベッド。ところどころ中抜けしているブラインドから漏れてくる朝の日差し。
「ここは…………?」
「う、ううん…………っ」
唖然とするルイージに続き、隣で寝ていたドクタールイージも目を覚ましてきた。体を起こし、首の痛みに呻き、部屋の変貌に驚愕し唖然。そっくりそのまま同じ反応を示したドクタールイージとルイージは顔を合わせる。
「連れてこられた…………?」
「一体誰に…………?」
全く状況が読めない二人。そんな時、部屋の扉がノックも無しにいきなり開く。二人の視線は揃って訪問者へと向いて、二人揃って目をひん剥いた。やってきた人物の風貌がとある人と酷似していたからだ。
「ッえ!?」
「ッまさか!?」
ルイージの流線型のヒゲと違う、波打つ形のヒゲ。
ルイージとは違う、小柄でがっしりとした体格。
ルイージと同じ丸い鼻、同じ髪型、同じ目の形。
「兄さん!!!」
ルイージは堪らず叫んだ。心の底から会いたかった人物が目の前に現れればその衝動を抑える事など出来やしない。
彼が本物であれば、慈しみの心を持って弟の名を呼んでいただろう。深い愛情を持って弟をハグする為に両手を広げていただろう。しかしそうはならなかった。彼は本物ではなかったからだ。
「おまえのにいさん、ちがう。ぼく」
返ってきたのは兄と同じ声でありながら絶対零度の言葉と、敵意の視線。
「くつじょく。英雄やろう、いっしょにすんな」
「!!?」
とんでもない言葉にルイージは言葉が詰まる。確かによくよく見れば、顔こそ似ているが、あちらこちらで相違点が見られた。
兄は自分と同じく青いオーバーオールと、自分と色違いの赤い服を愛用している。しかしながら目の前の男は黒いツナギを着用し、黒手袋と黒のミニタリーブーツを身に付けていた。首に巻いているスカーフが赤色の要素ではあったが、そんなものを兄が使用している所をルイージは見たことがない。
何より、決定的に違ったのは目。
兄はルイージと同じく青空色の意志の強い瞳をしていた。
だが目の前の男の瞳の色は紅く、今にも閉じてしまいそうな程に無気力であった。
「シグマ」
「え」
「ぼくシグマ。おぼえて」
「あっと、シグマ、さん」
「白衣、おまえも」
「えっ、あ、はい」
「よし」
間違えられた事が余程気に入らなかったのか、シグマと名乗った男はうんうんと首を縦に振る。
「おきたら、きて」
そう呟いたシグマは二人を手招きすると、そのまま部屋を出ていってしまった。再び顔を合わせるルイージとドクタールイージ。しかし他にやれる事もなく、彼の後をついていく事にした。部屋を出て、短い廊下を歩き、新しい扉を開く。すればそこはリビングだったようで、ソファーにテレビにテーブルと一通りのものが鎮座していた。
そのソファーに座って煙草をふかしながら気怠そうにテレビを観ていた人物に、ルイージとドクタールイージの目玉は引っくり返る。
ローテーブルの上へ堂々と乗せて組んでいる足はシグマと同じく黒のミリタリーブーツ。その横に黒手袋が無造作に放置されている。服装はシグマと同じく黒いツナギであり、上半身を脱いで腰に巻き付けている格好。ノースリーブハイネックの黒インナーは体の線を浮き立たせており、左の二の腕辺りに緑のスカーフを巻き付けていた。
呆然とする二人の視線を感じたのか、男は煙草を指に挟み、口から離し、煙を吐き出す。
「…………人んちで朝までぐーすか眠りこけた後は、家主のツラを見て絶句かよ。『スカイランド』の民度も落ちたもんだな」
吸い殻で溢れる灰皿に新たな肥やしを蓄えて、男はのっそりと立ち上がる。その背丈も、声も、髪型も、目と鼻とヒゲの形も、二人と瓜二つだった。
「先に言っとくが、俺の名前はエルってんだ。間違ってもおめーら共通のヘナチョコな名前で呼ぶんじゃねぇぞ」
しかしやはり瞳の色だけは二人と違い、シグマと同じく紅い色をしていた。
「地獄へようこそお二人さん。歓迎するぜ」
犬歯を剥き出して嗤うその顔はルイージが絶対にする事のない、悪党のそれだった。