12/25『……もしもし』
きっちり三コール目で繋がった相手に、ソファの背凭れに身体を預けたセトは、上機嫌に話しかける。
「おう、可愛い甥っ子。ちゃんと飯は喰ったか?」
『はい。ご機嫌ですね、叔父様』
「あぁ、最高の時間を過ごせたからな」
『それは良かった』
壁にかけられた時計が示す時刻は、12月25日の21時。クリスマスの夜だ。
かつてエジプトで悪神と畏怖されたセトや天空神と仰がれたホルス達が人間に王権を移譲し、人間達に紛れて暮らすようになって長い時が過ぎた。
贖罪の旅路を経た後にセトはホルスの求愛を受け入れたが、それでもネフティスとアヌビスを、愛する家族との絆を捨てることはできない。家族を優先する自分を赦してくれるかと俯くセトの手を取り、その指先に口付けて、そんな叔父様を愛していますと、ホルスは永久の愛を誓ってくれたのだ。
「それでホルス。明日の予定なんだが」
『はい』
多神教で異国の神々に対する許容が広い日本に移り住んでから数十年。セトは毎年、イブの24日からクリスマス当日の25日までを家族と共に過ごしている。そして翌日の26日になってから、伴侶であるホルスと一日遅れのクリスマスを楽しむのが恒例となっていた。
窓の外はお誂え向きに雪模様で、いつもはそろそろ、ホルスと共に暮らすマンションに帰ろうかと重い腰を上げる頃合いだ。しかし今宵ばかりは、セトは帰宅の予定を変えるつもりでいる。
「新しいショッピングモールに、ネフティスが好きなブランドのテナントが入ったんだ。今時アナログなことに、正月の福袋が、事前に整理券を受け取ってからの規制購入らしくてな。その整理券の配布日が、明日なんだ」
『そうなんですか』
「残念ながら、アヌビスは仕事がある。だから、俺がネフティスについていってやりたい。早めに家を出る予定なんで、今日もこのままこちらに泊まろうと思う」
26日は、今年もホルスと外出の約束をしていた日だ。一方的な約束の反故にも拘らず、ホルスは電話口の向こう側で『分かりました』と物分かりの良い承諾を返した。それだけでなく、『寒くないように、気をつけて行って来てください』とセトを気遣う言葉をかけることも忘れない。
「あぁ、大丈夫だ。夜には帰れると思うから……」
『はい。帰宅の少し前に連絡をいただければ嬉しいです。風呂の準備をしておきますから』
「ん、ありがとな。おやすみ、ホルス」
『おやすみなさい、叔父様』
ホルスとの通話を終えたセトが再びソファの上で寛いでいると、入浴を終えてリビングに戻ってきたアヌビスが彼を見つけ、僅かに驚きの表情を浮かべた。その視線は父と壁にかけられた時計との間を何度か往復した上で、物言いたげな気配を漂わせる。
「……どうした? アヌビス」
元々言葉が少ないてらいのあるアヌビスだが、父親であるセトには、その沈黙がいつもと違う種類であるとわかる。セトに問いかけられたアヌビスは彼の隣に腰掛け、首を傾げて疑問を口にした。
「お父様。今日はまだ、自宅に戻られないのですか?」
「おいおい、悲しいことを言ってくれるなよアヌビス。そんなに早く、お父様を追い返したいのか?」
「まさか。いっそのこと、あの鳥の元になど帰らず、ずっとここに居てくださった方が良いと思っていますが」
それでも、と。アヌビスは確かめるように、父の顔を覗き込む。
「いつも、26日はホルスと外出していると言っていましたよね。今年は、その予定ではなかったのですか?」
「いや、今年もそうだったんだけど。明日、ネフティスがショッピングモールに行きたいと言っていただろう? それについて行ってやりたいから、今夜もこっちに泊まるって、さっきホルスに連絡したんだ」
「え?」
今度ははっきりと驚愕の感情を露わにしたアヌビスは、目を丸くしている。そんな息子の様子に、今度はセトの方が首を傾げてしまう。
「……何か俺は、おかしなことを言ったか?」
「はぁ……」
アヌビスは眉間に皺を寄せて溜息をつき、一応確認ですがと前置きをした上で、セトと視線を合わせる。
「明日はお母様と出かけることになったと、ホルスに連絡をしたのですね?」
「あぁ、そうだ」
「ホルスは、渋ったりしなかったのですか。まかりなりにもアレは、お父様の伴侶でしょう。一緒に出かけることを、楽しみにしていたはずだ」
「いや、別に拗ねた様子はなかったぞ」
「本当に?」
「逆に、『気をつけて行ってきてください』と気遣ってくれたぐらいだ」
「……献身もここまでくると、いっそ哀れですね」
苦虫を噛み潰したような顔になったアヌビスは、不思議そうに自分を見つめ続けるセトの隣で、長い脚を組み直す。
「最初に言っておきますが、僕はいまだに、あの鳥のことを好きにはなれません」
セトに課された、過酷な贖罪の旅。それをホルスが支えてくれたことは知っている。記憶を失いオシリスに支配されたアヌビスを、救いだす手伝いをしてくれたことも。彼がいなければセトは贖罪を果たせずに消滅していたか、オシリスの手に落ちてドゥアトに囚われていた可能性が高い。アヌビスもネフティスも、自由の身になることはできなかっただろう。
しかしその恩義を加味したとしても、自分達の元から心まで丸ごとセトを奪っていったホルスのことは、数千年の時を経ても認めることができない。
「……それでも。ホルスがお父様を何よりも大事にしていることぐらいは、それなりに理解しているつもりです」
「お、おう」
ホルスとの関係をはっきりと言葉にされたら、さすがのセトも、多少は照れるというもの。セトは頬を薄い朱に染め、ホルスに請われて伸ばすようになった赤髪を、整えた指先で弄る。
「一言もお父様を責めなかったホルスに免じて、お伝えしておきます。お父様……今日は何の日か、ご存じで?」
「……クリスマスだろう?」
エジプトの神々よりずっと後に人の中に生まれた、異国の神の子。その降誕に纏わる祝祭を古い神々である自分達が楽しむと言うのもおかしな話ではあるが、人間達に紛れて暮らし続ければ、そんな習慣にも慣れ親しんでくる。
「そうですね。だけど今日は……12月25日は、ホルスの生誕日でもあるのですよ」
「……はあ⁉︎」
素っ頓狂な声を上げるセトに、アヌビスは少し呆れ顔だ。
「やっぱり、ご存じではなかったのですか」
「いやだって……あいつの誕生日なんて、はっきりとは……」
イシスがホルスを産んだのは、かつて心を狂わされたセトが殺戮を繰り返していた時期のことだ。セトの目を避けるために、地の底とも称されるほど穢れた場所での出産を余儀なくされたイシスには、その日付を確かめる余裕などありはしなかっただろう。
「確かに、今日が彼の誕生日であるという確証はありません。でもお父様も知っての通り、ホルスはエジプトの最高神にまで上り詰めました。天空神を慕う人間達は、彼を特別に寿ぐ日を求めるようになり……やがて、今日を彼の生誕日と定めたのだそうです」
「っ……」
神々は、人間の信仰からも力を得る。多くの人間達から12月25日がホルスの生誕日なのだと認識され続ければ、自然とホルス自身も、今日が自らの誕生日なのだと見做すようになる。かつては三百六十日だった暦に継ぎ足された五日間の間に、祖父の目を盗んでヌトから生まれたセト達も、生誕日に対する解釈は同じようなものだ。
「あの野郎。なんで、俺に教えなかったんだ」
青褪めた表情で唇を噛むセトの手を握り、アヌビスは静かに、首を横に振る。
「あえて、伝えなかったのでしょう。お父様にとって、クリスマスはずっと、家族と共に過ごすものでした。でもそこにホルスの生誕日が重なっていると知ってしまえば、お父様は、家族と過ごす時間を削らなければならない。いくらなんでも、伴侶の生誕日を祝福しないわけには、行きませんから」
「……そんな」
「だからホルスにとっては、お父様と……愛する人と過ごす一日遅れのクリスマスこそが、何よりの祝福だったのではないですか。何処かに出かける予定も、あったのでしょう?」
ホルスは毎年のように、26日の外出では、セトが興味を持って楽しめる場所を事前にリサーチしてくれていた。きっと今年も、何かしらの計画を立てていた筈だ。
「……お父様には悪いですが。僕はちゃんとホルスに、バースデーカードを贈っていますからね」
「えっ⁉︎」
それは家族の特権とは言え、自分の生誕日にセトを拘束されても一度も文句を口にしたことがないホルスに対する、アヌビスからの最低限の礼儀だ。
「ごめんなさい、セト……実は私も、毎年バースデーカードは贈っているわ」
「ネフティスまで⁉︎」
まさかの二人からの告白に、セトは驚愕を禁じえない。しかしそれと同時に、心臓を僅かに締め付けてくる醜い感情は、一方的な嫉妬心だ。ホルスは、間違いなく自分のものなのに。彼の家族でもない二人の方が、彼のことを理解している。
「お父様。今から帰れば、『今日』には間に合うのではないですか」
「っ!」
アヌビスの言葉に、セトは弾かれるように顔を上げる。
壁の時計が示す時刻は、21時30分。ネフティスとアヌビスが暮らす家からセトとホルスが住むマンションへの移動にかかる時間は、通常ならば、公共交通機関を使って一時間と少し。雪でダイヤが乱れていることを考慮に入れたとしても、日付が変わる前に帰宅が可能な時間だ。
すぐにソファから立ち上がったセトに、ネフティスが、クロークから取ってきたコートを着せ掛けてくれた。元々鞄などの荷物は無く、コートのポケットにマネークリップ型の財布とパスケース、それにスマホを突っ込んできただけの身軽な姿だ。革靴を履くセトを、アヌビスとネフティスが玄関先まで見送ってくれる。
「すみません。アルコールを飲んでいなければ、僕が車でお送りできたんですが……」
「大丈夫だ。俺の方こそ、慌ただしくして、ごめんな」
「気をつけて帰ってね、セト」
「ありがとう、ネフティス、アヌビス。また、連絡する」
雪が積もり始めた夜の街に飛び出したセトは、最寄り駅までの道を急ぎ足で歩く。
そこまでは順調だったのだが、駅に着いたセトを待っていたのは、積雪による折り返し運転を知らせる張り紙だ。セトが足を運んだ駅の周辺にはまだそれほど雪が積もっていないのだが、別の地域では既に積雪が観測されているらしい。
「こんな時に限って……!」
ロータリーにあるタクシー乗り場には既に長蛇の列ができているから、すぐにタクシーを捕まえることもできない。自宅のあるマンションに最も近づける場所まで電車で行ったとしても、そこから徒歩となると、二時間近くかかる計算になる。
それでも、このまま黙って立ち尽くして時間の経過に焦るよりも、可能な限り行動したほうが良い。駅に入ったセトはホームに滑り込んできた電車に乗り込み、スマホのトークアプリを立ち上げて、電車が動き始める前に短いメッセージをホルスに送る。
[寝ないで待っていろ]
自分の操る物と違うためか、動く乗り物の中で文字を追うと、セトは乗り物酔いになりやすい。スマホを再びコートのポケットに突っ込み、窓の外を流れる景色に視線を移せば、夜の街並みは次第に白銀に覆われていく。先ほどまでは風情があると感じていた冬の光景も、時間に追われる今となっては逆に恨めしい。
電車が折り返す駅に到着し、案内のアナウンスを背中に改札を抜けたセトは、マンションに向かう道を小走りに駆け始める。これが砂漠であったなら、この程度の距離など関係なく駆け抜けられるものを。雪の積もった歩道と足元の革靴が、急ぐセトの足取りを鈍くする。
「……ギリギリ間に合う、か……? っ!」
大通りを渡ろうと横断歩道に入ったセト目に入ったのは、杖をついた老婆が、雪に足を取られそうになりながらよろよろと歩く姿だ。歩行者用の信号はまだ青だが、老婆の歩くペースでは確実に、道路の真ん中あたりで信号が変わってしまうだろう。他の歩行者達も老婆の存在に気づいてはいるようだが、雪のせいもあってか、誰も助けの手を差し伸べようとはしない。
「……チッ!」
セトは老婆に駆け寄り、声をかけてから背中を向け、素早く彼女を背負う。そのまま道路の反対側に渡り切ると、幸い、彼女の住むマンションは横断歩道からそれほど遠くない場所にあるとのことだ。さすがに老婆を背負った状態で、走ることはできない。ゆっくりと足元を確かめながら歩みを進め、マンションのエントランスまで彼女を送り届けたセトは、お礼をと引き留める言葉を固辞して、再び夜の街を走り始める。
「っはぁ……はぁ……!」
途中何度かタクシーを見かけはしたが、雪も影響しているのだろう、どれも客を乗せていて拾うことができない。結局、駅からの帰路を全て自分の足で踏破する羽目になってしまった結果、ようやくセトが自宅のマンションに辿り着いた時には、時計の針は0時を30分近く過ぎてしまっていた。
「……クソッ」
カードキーでエントランスのロックを解除し、エレベーターに乗り込んで自宅に辿り着くと、ドアの開く音に気付いたホルスが急いで玄関に出てくる。
「叔父様?」
鼻の頭を赤くして、頭の上にもコートの肩にも白い雪を乗せたセトの姿に、ホルスは慌てた表情になった。
「どうされたんですか。叔父様から起きているようにとのメッセージは受け取りましたけど、その後、俺が折り返したメッセージに既読がつかなかったので、心配していました」
「……ホルス」
「もしかして、何か忘れ物でも? ご連絡くださったら、俺が何とかして持って行きましたのに」
「……ホルス」
「叔父様……?」
靴を脱ぐこともせず、ただ名前を呼んで見上げてくるセトの身体を、ホルスは引き寄せ、腕の中に抱きしめる。厚い胸に顔を埋めたセトは、大きな掌に背中を撫でられて、何だか泣きたい心地になった。
ホルスの気持ちを疑ったことなんて、一度もない。彼の想いはいつも真摯で、まっすぐに注がれるものだから。我儘に振り回されることすら喜びなのだと嘯く青年の鼻先を抓みあげ、お前は趣味が悪過ぎると口では悪態を吐いても、セトはいつも、その言葉に安寧を覚えていた。彼の愛情に、胡座をかいてしまっていた。
「……なぁ、ホルス。25日は……お前の、誕生日だったんだろう?」
セトの問いかけにホルスは一瞬身体を強張らせた後で、温厚な彼にしては珍しく、忌々しげに舌打ちをする。
「アヌビスですね……? 余計なことを」
「なんで余計なんだよ。俺に誕生日を知られるのが、嫌だったのか?」
「……違います」
ホルスの掌が、セトの頬を優しく包み込む。
「あなたにそんな顔を、させたくなかっただけです」
後悔に苛まれた、セトの表情。本当は人一倍優しい彼がホルスの誕生日を知れば、自分を責めて苦しむのは分かっていた。
だから、知られたくなかった。最愛の人から祝福がもらえないことぐらい、どうってことはない。そんな些細な問題より、セトが傷つかないことの方が、もっと大切に決まっている。
お預けになったデートだって、同じだ。苦労して手に入れた歌劇のチケットも、半年待ちで予約を入れていた有名レストランのディナーも、関係ない。セトが家族との時間を優先させたいと望むならば、ホルスは黙って身を引く。
これまでも、きっと、これからも。
「……お前は、本当にバカだ」
美しい柘榴色の瞳が、薄い水の膜に滲む。背伸びをして強請った口づけはすぐに与えられて、ホルスの腕の中で、セトはほぅと息を吐く。摺り寄せあう額も、眦を拭ってくれる指先も、何もかもがセトを慈しむ愛情に満ちている。互いの咥内を味わいつくし、そのまま自分を抱き上げようとするホルスの腕に、セトが身を任せようとしたところで――。
「くしゅん!」
場を読めないくしゃみが、喉から飛び出してしまった。
虚を突かれたホルスは蒼穹の瞳をきょとりと瞬かせ、セトの方は先ほどとは違う理由で、頬を赤く染める。甘ったるい雰囲気が、みごとに霧散してしまった。
「フフッ、身体が冷えたんでしょうね。すぐに、風呂の準備をしてきます。叔父様は、リビングで待っていてください。暖房が効いていますから」
「……おぅ」
最後にもう一度軽くキスを交わしてから浴室に向かうホルスを見送り、セトはリビングに続く扉を開く。冷えた身体に、温かい室内の空気がよく染みる。雪に濡れたコートを脱ぎ、とりあえず椅子の背にひっかけようとしたところで、テーブルの上で開いたままにされているノートパソコンに気づく。
いくらセトでも、ホルスが友人達と交わすプライベートなやり取りまで確認したりはしない。それでもふと視線を流した際に見えた綴りが「Happy Birthday」だったものから、つい、画面を見てしまう。
画面に広げられていたのはホルスの誕生日を祝うメッセージの数々で、律儀な彼は、それにひとつひとつ、感謝の言葉を返している途中だったようだ。一番最新で届いたものにいたってはほんの30分ほど前、日付が変わる直前に送られてきたらしく、送り主はハトホルだ。
[お誕生日おめでとうございます、ホルス様。今日という日の最後に、ホルス様の生誕を祝福する誉れを、愛の女神が頂戴いたします。あなたを慕う、ハトホルより]
好意を隠そうともしない言葉の羅列に、理不尽であると分かりつつも、セトは気に食わない。セトが告げられなかった言祝ぎの言葉を、彼等は何年も前から、ホルスに与えてきた。伴侶である自分が与え損ねた祝福を、他の誰かに奪われていたなんて。
「……叔父様?」
テーブルの前で固まってしまっていたセトに、風呂の支度を終えたホルスが声をかけた。セトが何を見ていたかに気づき、手を伸ばして、パソコンの画面を静かに閉じる。ホルスが悪い訳ではないのだが、求愛のメッセージを伴侶に見られるのは、やはり気まずい。
「叔父様……その」
「……来年」
「え?」
「来年からは絶対に俺が……一日の最初と最後の祝福を、するからな」
赤く掠れた眦のまま睨めつけられたホルスは、不器用ながらも独占欲を示してくれたセトの言葉に、嬉しくなってしまう。
「はい。楽しみにしています」
「……ん」
またもや少しいちゃついてから今度こそ風呂に押し込まれたセトは、ゆっくりと身体を温めるついでに、抱かれる準備を自分なりに整える。いつもはホルスが施してくれることが多いが、今日ぐらいは、自分の『抱かれたい』という意思を彼に伝えたい。
しかしそんなセトの意気込みを他所に、入浴を終えたセトを鏡の前に座らせたホルスは、ドライヤーを片手に彼の長い髪を丁寧に乾かしたかと思うと、パジャマを着せてそのままベッドの中に押し込んでしまった。
「おい、ホルス……」
「しー……叔父様、今日は休んで。長く歩いて、疲れたでしょう?」
子供に対するみたいに、前髪の生え際から頭の丸みに沿って、指で髪を梳かれる。暖かい掌から伝わる温もりと穏やかなリズムは、セトの意識を簡単に、心地よい眠りに誘っていく。
「……でも」
「大丈夫。俺は、傍にいます」
「ホルス……」
「愛しています。叔父様」
瞼の上に軽く口づけられる感触を最後に。
セトの意識は、穏やかな闇に融けた。
「叔父様……叔父様、すみません。起きて下さい」
「ん……」
12月26日の朝。
ベッドの上でぬくぬくと睡眠を貪っていたセトは、誰かに肩を揺り動かされ、緩やかに覚醒を促された。
「……ほる、す?」
「起きられましたか、叔父様。おはようございます」
ベッドに腰かけてセトを揺り起こしたホルスは、大きな身体を屈め、セトの頬に軽く口づける。
「ん、んぅ……もう、朝……か?」
「はい。まだ、7時前ですが。良くお休みのところを、起こしてしまって申し訳ありません……でも電車に乗って移動するならば、そろそろ準備をされた方が良いと思って」
「……準備?」
ホルスの言葉を反芻して、セトは少しずつはっきりとしてきた思考を巡らせる。それでもまだ、ホルスの言葉が持つ意味を、正しく理解できない。
「今日は、ネフティス様とショッピングモールに行かれるんですよね?」
「っ!」
「一度あちらの家にネフティス様をお迎えに上がるならば、8時前には家を出た方が良いと思ったので……幸い雪は夜の内に止んだみたいで、心配したほど積もっていません。電車も動いていますよ」
すぐに朝食の準備をします、と微笑んで立ち上がろうとしたホルスの胸倉を、セトの手が掴みあげた。
「叔父様!?」
砂漠ではなくとも、戦の神としての力は顕在なのだ。驚きに体制を崩したホルスの身体は、体格差などものともせず、あっという間にベッドの上に転がされてしまう。何事かと声を上げる前に、セトはホルスの胴体を跨いで腹の上に腰かけ、強く脈打つ心臓の上に、ひたりと掌を這わせた。
「……ホルス。いい加減に、しろよ」
「叔父様……?」
「お前との約束の方が、先だったじゃないか。俺がネフティスと出かけると言った時に、反論したら、いいじゃないか……!」
「叔父様、それは……」
「なんでもっと、主張しないんだ。なんでもっと……!」
あの頃みたいに、俺を、欲しがらねぇんだよ。
消え入りそうに吐き出された、セトの言葉。
ホルスは息を飲んで身体を起こし、腹の上で俯く愛しい人を、力の限りに抱きしめる。
「叔父様……セト……!」
長い時を共に過ごしていたのに、どうして、忘れてしまっていたのだろう。
ホルスが愛する叔父は、意地っ張りで、乱暴者で、でも誰よりも……愛に一途な人だ。その愛が欲しくて、エネアドの裁判が終わった後、イシスを裏切ることになっても、ホルスはセトから離れなかった。
愛に応えてもらったからと、安心していた。手にしたものを愛でるだけでは、一度は何もかもを失ったこの人が、不安になっても仕方が無いというのに。異国で人間に紛れて暮らすうちに、こんなに大事なことを忘れてしまうなんて。
いっそ、ラーの庇護が現在も色濃いエジプトにでも赴いて、あの頃みたいに、砂漠を二人で巡ってみようか。
「……エジプト」
そこまで思いついたところで、ホルスの脳裏に、ある考えが浮かぶ。
「そうだ……エジプトなら!」
急いで手首に巻いた時計を確かめれば、針が指し示す時刻は、6時50分。
「まだ間に合う!」
「へっ……?」
ホルスの腕の中で洟を啜っていたセトは、急に叫び出した甥っ子に驚き、その顔をまじまじと見上げる。
「叔父様。俺に、しっかり掴まっていてください」
「ホルス、何を……!」
ばさりと、ホルスの背中から、大きな翼が生えた。天空神ホルスの象徴たる、雄々しい隼の翼だ。翼の先端にまで力が行き渡るように広げられた羽根が、ふわりと丸く閉じられたかと思うと、繭のようにセトの身体を包み込む。耳の傍を通り過ぎる強い風に思わずぎゅっと目を閉じた次の瞬間には、セトの足の裏は、ひやりと冷たい砂を踏みしめていた。
「なっ……」
見上げた先に瞬く、満天の星空。そして足元に広がるのは、セトの化身でもある、美しい夜の砂漠。
「ここは……」
「エジプトです。少し、荒業を使ってみました」
ホルスは、今でもエジプトの最高神だ。紀元前より続く天空神信仰は途絶えたことがなく、ラーに匹敵する力を持つ神でもある。彼が本気になれば、自分の支配下にあるエジプトには、世界中の何処からでも飛んでいくことができるのだ。
「あぁ……空気が美味い。最近、エジプトに帰ってなかったからな……」
深呼吸をするセトも、どことなく嬉しそうだ。セトに喜んでもらえたことは嬉しいが、ホルスがわざわざエジプトまで飛んできた目的は、また別にある。
「叔父様。これをみてください」
到着早々に何やら腕時計を操作していたホルスが、足先で砂を弄んでいたセトの前に、時計の盤面をかざして見せた。世界中の何処に行っても、GPSの位置情報から現地の時刻に自動で合わせてくれる便利な衛星腕時計は、二人が飛んだエジプトの時刻に切り替わり、現在時刻を教えてくれる。
12月25日・23時55分。
「っ!」
セトは言葉を失い、呆然として、ホルスの顔を見上げた。
日本とエジプの時差は、7時間。日本でセトが間に合わなかった祝祭の日も、ホルスが生を受けたこの国ならば、まだ、時間が残されている。
「ホルス!」
「はい、叔父様」
手を伸ばし、ホルスの首に腕を回して、セトは想いの丈を込めた口づけを彼に贈る。
「誕生日、おめでとう。生まれて来てくれて……ありがとう」
「……ありがとうございます。叔父様。俺はあなたに会うために、生まれてきました」
「ばぁか」
セトとホルスは鼻の先を擦り合わせ、繋いだ手の指を絡め、感情の溢れるままに唇を重ねた。
「んっ……ホルス」
「叔父様……」
「あ、ふ……ん、ダメだ……まだ、離れるな」
「はい……セト」
ようやく二人が名残惜し気にしつつも唇を離した時には、時刻は既に0時を越えてしまっていて、時計を確かめた二人は顔を見合わせ、また一頻り笑いあう。
砂漠で夜を明かしても良かったのだが、いくらホルスの翼があるから寒くないとは言っても、二人とも寝間着姿のままだ。このまま朝を迎えたら、太陽の船に乗って来たラーに発見されて、笑い転げられるのは目に見えている。
「また今度、エジプトに帰ろう。ラーやマアト達にも、土産を持ってこないとな」
「そうですね。ナイル川を守り続けてくれているクヌムにも、久しぶりに会いたいです」
ホルスの翼に包まれて再び自宅のマンションに戻ったセトは、朝食を取りながらもう一度ホルスと話し合った。ホルスがチケットを準備してくれていた歌劇は夕方からで、予約を入れているディナーはその後だ。朝からネフティスと一緒にテナントの整理券を取りにいってからでも、まだまだ間に合う。
「昼過ぎには戻って来るから……待っていてくれるか?」
「えぇ、もちろんです。でも無理に急がないでくださいね。俺は待てますので」
「そんなこと言うなよ……その、俺も……俺も、お前とのデート、楽しみ、だから」
「っ、叔父様……」
朝の爽やかな空気の中だというのに、熱烈な告白を交わした後のためか、ピロートークのような雰囲気がどうにも拭えない。
それでもなんとか余韻を振り切って身支度を整えたセトは、駅まで送ると言ってくれたホルスと一緒にマンションを出て、最寄りの駅まで並んで歩く。
駅についたところで、改札を抜ける前に、セトはホルスの手を軽く握る。
「その、ホルス」
「はい」
「正月は……また、アヌビス達と過ごす約束を、しているんだ」
「えぇ、分かってますよ」
セトの大事な、家族と過ごす憩いの時間。
ホルスは当然ながら、それを邪魔するつもりはない。
「でも、すぐ連休があるだろう?」
「あぁ……成人の日の振替えですね?」
日付を思い浮かべるホルスに、セトも頷き返す。
「その前の土曜から、三日間……身体を空けといてくれ。お前と……旅行に行く、予定だから」
「本当ですか!」
「……ん」
短いセトの返事に、ホルスは満面の笑みを浮かべてみせた。
「とても嬉しいです。叔父様は、何処に行きたいですか? 目的地を教えていただければ、お帰りを待っている間に、宿と交通手段を確保しておきますが」
「いや……お前は何もしなくて良い」
「え?」
「今回は、俺が準備したいんだ。目的地も、秘密。お前は旅行の準備だけしてくれたらいい」
「……フフッ、そうなんですね。何処だろうな……すごく、楽しみです」
「期待してろよ、お坊ちゃん。じゃあ、また後でな」
「はい! 行ってらっしゃいませ、叔父様」
セトはホルスと繋いだ手をするりとほどき、改札を抜けてから一度振り返り、見送ってくれているホルスに軽く手を振る。
ホームについたセトが見上げれば、冬の空は昨日の雪が嘘のような、淡い御空色だ。
セトはコートのポケットからスマホを取り出すと、旅行代理店のページを開いて目的地を打ち込み、旅程の候補を絞り込んでいく。
「出雲大社の縁結びとやらも悪くないけど……アイツ的には、こっちの方がいいだろ」
今は人の姿を借りているとは言え、自分もホルスもエジプトの神だ。神社に赴けばそこに奉られている神が必ず姿を見せるので、毎度の挨拶は欠かせない。
「……配偶神だって紹介したら、喜ぶかな」
きっと驚くけれど、それでもすぐに頷いて……セトを抱きしめ、幸せそうに、笑ってくれる。
「……どうせなら。日本を代表する神に、宣誓してやろうじゃねえの」
予定通りの時刻に、電車がホームに滑り込んできた。
アナウンスを耳にしたセトは『伊勢神宮』で旅程を検索中のスマホを一旦閉じると、足取りも軽く、電車に乗り込むのだった。