口紅 あぁ、まただ。
彼がプライベートで車を使用すると、必ずシートの下から口紅が出てくるのだ。
毎度毎度、黒いケースにココマークが入った口紅だ。ただ、今回は白いケースで金色のココマークが入っている。
このブランドを使うような女性とばかり付き合っているのか、それとも、ずっと同じ人と交際が続いているのか。
小さな口紅が己の存在を主張するかのようで不愉快なので、見つけた時は問い詰めもせず速やかに捨てていた。
しかし、こうして度々出てくると気が滅入る。それに一本五千円もすると知り、捨てるのがちょっと勿体無いな……と思っていた。
ネットで調べた時、値段にも驚いたが、その深い赤の妖艶さに胸が痛んだ。
女はたかが口紅一本に五千円も払う。彼に美しいと言われたいがためだけに。そして、その赤い唇で彼に愛の言葉を囁くのだ。
彼がその赤い唇といとおしそうに見つめ、くちづけ、その女を抱くのだろう。
その光景を思い浮かべると、嫉妬を通り越し、軽く絶望した。
元より彼は同性愛者ではなく、何故か自分にだけ異様に執着し、こうして恋仲になったが、何度も浮気されているし、もっと言えば自分も浮気相手のひとり。そう、彼は既婚者である。
一度も奥様と別れて欲しいなどと言ったことはない。そこまで身の程知らずではないが、浮気だけは許せず、される度に彼を責めた。
「別に本気で付き合っているわけではない」
「女性と浮気される私の悔しさが解りませんか? 万が一、子供でも出来たらどうされるのですか? 私を捨てますか? 奥様と別れるのですか?」
「いちいち煩い! 愛しているのはお前だけだと言っているだろうが!」
自分も浮気相手なのに、何を思い上がっているのだろうか。滑稽だと思いながらも、醜い感情を全身で彼にぶつけてしまう。
いつも戒めているつもりだったが、ベッドでの甘い囁きにいつも夢を見てしまう。
彼が愛しているのは自分だけだ、と。
ベッドを軋ませ、シーツを握りしめながら彼を受け入れ、孕むことの出来ない腹で彼の熱を飲み込む。
戸籍で結ばれることも、二人で子を作ることもできない。こんな小さな口紅一本で脆くも崩れるかもしれない関係なのだと、見つける度に胸が痛んだ。
「おい、何をしている」
背後から声がして、急いで車の外に出た。
「掃除を……」
そう返事した時に、彼は右手の口紅に気付いた。
「どこにあった?」
「シートの下に……」
彼は口紅を取り上げ、キャップを開けると、白い口紅が出てくる。
「白い……?」
「あぁ、リップクリームだ。これが一番好きなのだが、最近白いケースに変わってな……って、お前!」
体から力が抜け、その場に座り込んだ。まさかの真実に拍子抜けして、体に力が入らない。
「口紅かと思って……」
「浮気したのかと思ったのか?」
頷くと彼は頭を優しく撫でてくる。
「車で落とした筈なのに一度も出てこなかったのは、お前が浮気を疑って捨てていたのか」
「はい……」
「中の色は見なかったのか?」
「……てっきり口紅だと思って……」
まさか、こんなリップクリームを使っているとは思わなかった。そういえば、いつも艶々で綺麗な唇だと思っていたが、相変わらず金遣いが荒いし、美意識が高すぎる。
いっぱい言いたいことはあるが、言葉が出てこない。呆然としていると、ぎゅっと抱き締められ、背中を撫でられた。
「愛しているのはお前だけだと、いつも言っているだろう?」
「だったら……こちらが不安になるようなことは……しないで下さい」
「それは言ってくれるな」
納得いかないが、浮気性だと承知の上で付き合ったのだ。それに遊び慣れた粋な雰囲気も好きだった。悔しいが、惚れた弱みだと諦めていた。はずだったが、本心を言えば、彼には自分だけを見ていて欲しいと思ってしまう。
複雑な表情をしていたのか苦笑いし、こちらの胸ポケットにリップクリームを入れた。
「私が持っていると失くすから、お前が持っていてくれ」
「不便ではありませんか?」
「使う時は言うし、お前が使ってもいいぞ。キスをすればこちらにも移るだろう」
しっとりと柔らかい唇が自分の唇に触れる。
「こんな風に」
上目遣いで妖しく微笑まれ、角度を変えて何度もくちづけながら、車の後部座席に押し込まれた。