黒死牟が髪をバッサリ切った時の無惨様のリアクション 何か理由があって髪を伸ばしているわけではない。
長い髪って手入れが大変ですよね、と言われるが、実はそうでもない。短い髪の時は月に一度は散髪に行かないといけなかったが、長い髪は自分で毛先を揃えるくらいでも何とでもなる。女性と違って髪が傷むだの、枝毛がどうだのと気にしたことがないので、手入れもせず、濡れた髪を自然乾燥させることにも抵抗がない。それに短い髪と違って、括っておけば邪魔にならないので意外と便利だし、括っている方が夏場は涼しいのだ。
つまり、ずぼらの集大成がこの髪型だった。
特殊部隊に入った時、長髪であることにネチネチと嫌味を言われたこともある。諜報活動をする時に男性のロングヘアは目立ち易く、相手に特徴を覚えられやすいから不向きだと言われ、尤もだなと思ったが、上官の物言いが気に入らなかったので、小規模な隠密班を編成する際の長に選ばれた時、全員、自分と背格好が近く、長髪のメンバーだけで編成し、危なげもなくミッションを成功させたことがある。だが、自分の長髪にそこまでこだわりがあったわけではなく、単なる反発心だけである。
無惨の事務所に秘書として採用された時も、一度も長髪である理由も聞かれなければ、切れと命じられたこともなかった。
そこまで自分に関心がないのだと思っていた。自分は最低でも2週間に一度は美容室に行って襟足を整えるくらい隙の無い美しさを保っているが、日陰で彼を支える秘書にそこまでの美しさなど求めていないのだろう。
たまには気分転換をしてみるか、と偶然床屋の前を通ったので、ふらりと立ち入り、高校生以来、十年以上ぶりに髪を短くすることにした。
翌朝、どのスタッフも自分より遅くやってくる為、朝の用意を全て済ませて席に着くと、次々とスタッフが入ってくる。
「おはようござい……えぇ!?」
想像通りの反応をぶつけられる。それもそうだろう。全体的に短く切り、サイドと襟足は刈り上げた。恐らく一瞬、別人だと勘違いするだろう。
「どうしたんですか!? 黒死牟様!」
「いや、気分転換しようと思い……変か?」
「いえ、よくお似合いです」
割と好印象で、たまにはイメチェンするのも悪くないな、と思っていたら、最後に出勤した無惨が扉を開けるなり固まってしまい、持っていたベルルッティの鞄を落としていた。
「無惨様! おはようございます!」
全員が揃って挨拶するが、ぽかんと口を開けて黒死牟を凝視している。
「おはようございます、無惨様」
黒死牟は何事もなく無惨の鞄を拾い上げ、更に片手に持っていたスタバの紙カップを受け取り、無惨の机に置いて、テキパキと机の上を整えている。
「髪……」
やっと再起動した無惨は一言そう呟く。
「あ、はい、邪魔なので切りました」
「邪魔……?」
自分が髪を切ったくらいで、何を動揺しているのか。黒死牟は首を傾げながらタブレットを開く。
「無惨様、ひと息つかれましたら、会合に出る準備をなさいませんと間に合いませんよ」
淡々と今日の予定を伝えるが、無惨はぼんやりと遠い目をしている。
「無惨様」
「あ、あぁ……」
多分、この場で無惨の真意に気付いていないのは黒死牟ひとりだけである。皆が気まずそうに顔を伏せる中、何も解っていない黒死牟はあれやこれやと捲し立て、無惨を急かしている。
その日一日、無惨はぼーっとしており、勉強会に出ても居眠りしている議員と変わらないくらいぼんやりしていたので、体調が悪いのかな、と少しずつ心配になってきた。
「無惨様、午後の予定はすべてキャンセルいたしましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
あ、しゃべった。黒死牟はそんな風に捉えるくらい鈍感なのだ。
無惨はじっと黒死牟の髪を見て、何か考えている様子だった。
「そんなに似合いませんか?」
「いや……」
おい、そろそろ黙れ、このニブチンが……と周囲の女性陣は黒死牟の口を押さえたくてウズウズしていたが、面白いので、もう少し様子を見守ろうと思っていた。
「失恋でもしたのか?」
「は?」
随分と古臭いことを言うな……と、その場にいた全員が思った。失恋して髪を切る。これだから昭和生まれは……と皆が思っているが、雇用主に配慮し、胸の内に留めている。
「今、フリーなので失恋する以前の問題です」
「え?」
その瞬間、無惨の目がきらりと輝いた。
「無惨様、そろそろ出発のお時間です」
「解った」
無惨はネクタイを整え、輝きを取り戻した状態で事務所を出て行った。
車の後部座席に座った無惨は、スマホに残っている髪が長い時代の黒死牟の写真を見て、小さな溜息を吐いた。
「黒死牟」
「はい」
「私は長い髪の方が好きだ」
「左様で……」
何故そんなことを言うのか意味が解らない。黒死牟はそう思ったが、それから一年は散髪に行くのを我慢し、一年が経過すると、やっと前髪と横の髪はひとつに結べるくらいの長さになった。
ベッドの中で伸びかけの髪を指先で弄びながら無惨は大きな溜息を吐く。
「あそこまで伸ばすのは大変だっただろうに……」
「放っておけば伸びます」
色気のない返事だが、無惨が「長い髪が好き」と言ったので、黒死牟も髪を伸ばす決心がついたのだ。そして、フリーだと解った途端、無惨の熱烈的なアプローチが続き、こうして肌を重ねる間柄になった。
「まぁ、お前が髪を切ってくれたおかげで、付き合っている相手がいるかどうか訊くことが出来たからな。あのままでは私は永遠に片想いのままだったかもしれない」
黒死牟の頬に触れ無惨が笑うと、黒死牟は頬を赤く染め、はにかんだ笑顔を見せる。
「私もずっと無惨様をお慕いしておりましたので、片想いではありませんでしたよ」
「そうか」
ふたりは唇を重ね、再び強く抱き締め合った。