俺様上司に今日も泣かされています!「はぁ……」
大きな溜息と共に壁に掛かった時計を見た。
終電はとっくに出てしまっている。来月の講演会の原稿を作り直していると結局、この時間になってしまった。
そう、講演会は来月なのだ。それなのに、どうして残業しているのだろうか。
『こんなくだらない話を私に壇上で話せと? そんなに私に恥を搔かせたいのか?』
仕上げた原稿を皆の前で投げて返された。
ぎっちりと印字された紙がスローモーションで舞い落ちる。
床に散らばったA4のコピー用紙を容赦なく踏みながら、踵の音をヒステリックに響かせながら彼は部屋を出て行った。
皆の視線が痛い。同情、哀憐、嘲弄……ネガティブな感情が原稿を拾う自分の背中に集まってくる。
だが、誰も声をかけてはくれない。
庇うことで、新たに彼の標的になりたくないのだろう。まるでいじめられっ子と傍観者ではないか。原稿を拾い終わって顔を上げると、皆一斉に自分の机に視線を戻すのだ。
弁解も言い訳も許されなかった自分に、へらへらと笑いながら第一秘書が声をかけてくる。
「継国君、災難だったね」
「いえ……」
己の力不足だと反省しながら、自分の机へと戻った。
入職してすぐ、雇用主である「鬼舞辻無惨」からの執拗な嫌がらせは始まった。
「気難しい人だから、気にしなくて良いですよ」
と第一秘書から言われていたが、皆の前で罵倒されるなど日常茶飯事。わざと失敗するような仕事を押し付けては、ミスを詰られることばかりで心が折られることばかりだった。
今日もそうだ。
第一秘書が取ってきた仕事は、政策と全く関係のない講演会での発表だった。
「なんだ、この議題は」
「さぁ……」
頼りない返事をする第一秘書を睨み付け、資料を自分に渡してきた。
「継国、今日中に原稿を仕上げろ」
「今日中……ですか?」
「そうだ」
講演会は来月なのだ。別に今日、仕上げる必要はないのだが、彼がそう言えば従うのが、この事務所のルールである。
「畏まりました」
視界の端に安心した表情の第一秘書の姿が映るが、何も言わず、すぐに資料に目を通し、追加でネット検索し、更には駅前の書店に走って他の登壇者の代表著書を買ってきた。
様々な資料を読みながら、読み間違いや誤用を避ける為に専門用語は極力使わず、講演会のテーマを踏まえつつ、鬼舞辻議員の政策を取り入れた原稿を作り上げたが、完成したのは終業時間間際だった。
「いかがでしょうか」
恐る恐る原稿を提出すると、パラパラと目を通した後、自分に向けて原稿は叩きつけられ、床に原稿が散らばった。
「こんなくだらない話を私に壇上で話せと? そんなに私に恥を搔かせたいのか?」
「いえ、そんなつもりは……」
「お前もこの程度の男だったか」
皆の前で詰られたことより、最後に彼が自分に向けた失望した表情がつらかった。
自分しかいない事務所で大きく伸びをしていると、玄関の鍵が開く音がした。
こんな真夜中に誰が、しかもセキュリティシステムも解除されているので警報音が鳴っていない。身構えていると入ってきたのは鬼舞辻議員だった。
「先生、こんな時間にどうされたのですか?」
急いで姿勢を正すと、逆に彼は自分の姿を見て驚いていた。
「赤坂で懇親会があって、その帰りなのだが……お前、こんな時間まで何をしていた」
「申し訳ありません、原稿を……」
「原稿……あぁ……」
思い出すのに数秒かかるほど、彼にとって、どうでも良いことなのだろう。自分は今日一日そのことばかりに悩まされ、食事すら満足に出来なかったくらいなのに。
鞄をソファに投げ、カツカツと軽快な踵の音を響かせながら室内を歩く。
「私があの原稿を拒否した理由が解るか?」
「私の文章が拙いからです」
「違う」
懐から煙草を取り出し、火をつけてから机に腰掛けた。
「あんな稚拙な言葉ばかり並べなくても、これくらいの題材、お前の原稿なしでも専門家と遜色ないレベルで発表出来るわ」
「でしたら何故私に原稿を?」
「お前の能力を見たいからだ」
ということは、自分は不合格かと思っていると、彼は勝手にショートカットキーで印刷し、プリントアウトされた原稿を読み始めた。
「資料に目を通した後、追加で資料を探し、かつ登壇者の本も読み、こちらの読み間違いを防ぐ為に言い慣れない言葉を避けた。まぁ、良く出来た原稿だと思うぞ」
初めて褒められた。その非現実的な出来事に頭がついていかず、何も言えず呆然としていた。
そんなこちらの様子に気付いた彼は小さく咳払いした。
「……良く出来ているが、まだまだ合格とは言えない。私が壇上で読めるレベルの原稿を用意するまで、他の仕事はしなくて良い」
「はい……!」
今度は手渡しで返された原稿を両手で受け取り、深々と頭を下げる。本当は顔を上げて、彼がどんな表情をしているのか見たい気持ちがあったが、泣き顔を見られたくなかったので、彼が呆れて立ち去るまで顔を上げなかった。
「よく、あんだけボロクソに言われて、辞めずに働けるね」
第一秘書が親切ごかしで嘲笑うように尋ねてくる時がある。お前が無能だから、俺の仕事が増えるんだ、と文句のひとつも言ってやりたいが、こいつに何を言っても無駄だということは、鬼舞辻議員の態度からも理解出来ていた。
とある有力議員の息子らしく、邪険に出来ない為、第一秘書として置いているが、メールの返信ひとつ、まともに出来ないボンクラなので、本当にお飾りの第一秘書であった。
「先生は意外に優しいところがあるんですよ」
「へぇ……」
その返事を聞いた者は「継国は変わっている」と思うだろう。多分、立場が逆なら自分も思ったと思う。
お前らと違って、俺は靴音で先生の機嫌が解るくらい、よく観察してるんだ。
厳しい中、一瞬見せる優しさと、その直後に見せる僅かに照れた表情を知っているのは、きっと自分だけなのだろう。その優越感がちょっと嬉しいと感じていた。