ミスルチまとめもくじ
1.『運転席と視線』
改題しました Twitterのヘッダーにしていたもの
2. 『透明の朝』
現パロっぽい同棲ミスルチの朝
3.『朝なんか好きじゃなかった』
魔法舎ミスルチの朝
4.ワンドロ「切り傷」
とても短い
5.『後悔とその指』
ミスルチパーティー4にてペーパーラリーとして書いたものです。夜行バスに乗るフォ学ミスルチ。
6.『これ以上「E」を与えないで』
ミスルチパーティー4にて展示していたものです。恋を知るミスラ。魔法舎。
7.ワンドロ「ベール」
『The face』
ハッピーではあんまりない、既婚者ルチルが昔好きだったミスラと再会する話。
8.『「私」を指すもの』
夏インテ 賢マナの無配で、頒布した『不正解』のこぼれ話的なものです。『不正解』を読んでいなくても読めるとは思います。モデルミスラ×教師ルチル。
9.ワードパレットより ミッドナイトララバイ
「子守歌」「おやすみ」「キッチン」
10.ワードパレットより フラメント
「小指」「贈り物」「止まる」
11.『移ろって、冬』
クリスマスマーケットに行く話です
🪄︎︎いつ出られるかわかりませんが、次のイベントで短文集を出そうと考えています。来年もがんばります!
『運転席と視線』
私は、彼が車を運転しているときの横顔が好きだった。運転するときは前を向いているという当たり前のことが、私にはどこか美しい瞬間のように感じられた。彼はただ前を見ているだけなのに、果てしない道の先に、想いを馳せているように、私の目には映った。ただ彼が美しいから、そう感じるだけかもしれない。写真に収めたくなるけれど、シャッター音でこちらに意識を向けられるのも嫌だった。彼は音楽をかけようとはしないけれど、私がかけたいと言えば、いつも自由にさせてくれた。
「今日はいいんですか。音楽」
「今日はいいんです」
「そうですか」
今日はじっと、運転している彼を見ていたいような、そういう気分だった。私は彼が時折見せる、困り顔が好きだった。いつでも飄々と、自分の世界のなかだけで生きる彼が、誰かに少しでも心を乱されたのだと思うと、なぜだか彼をより愛おしく思った。
「ミスラさんには、いつか行ってみたい場所って、ありますか?」
「はぁ? どういうことですか」
「いまみたいに、スーパーとかじゃなくて。旅行とか」
「はあ。別にないですね」
「そういうと思いました。私はたくさんあるんです、たとえば……」
私が話しているあいだも、彼は前を向いていた。こっちを向いて話を聞いてほしいような気もしたし、そのまま前を見つめていてほしい気もした。彼にもし、手を伸ばしても届かないような、焦がれるものがあるなら、届いたそのときの、彼の、潤む瞳を私は絶対に見たかった。そうして、彼が、私のことを忘れたまま、その対象を見つめ続けているのを、胸が締めつけられるような切なさをもって、隣にいて、見ていたいと思った。
「ちょっと。急に黙らないでください。洞窟とあとなんですか」
彼は前を向いたままだったけれど、少し意識が私のほうに傾いたのを感じた。私はいまきっと、前を見据えていた彼と、同じ瞳をしている。
『透明の朝』
空気が冷たくて、心地良いな、と思ったら目が覚めた。ベッドの脇に置かれた時計は午前五時二十四分を指していて、五時半のアラームを鳴らして恋人を起こさずに済んだことに安堵する。このまま起こさないように、静かにベッドから出た。身じろぎの音が聞こえて、気配を殺して振り返ったけれど、まだ夢のなかにいるようだ。
起きた瞬間から、いつもより遥かに精神というか、心が凪いでいるように思った。普段は少し慌ただしく朝食を食べて着替えているけど、今日は慌てる気が一切起きない。のろのろとラスクにミルクジャムを塗って食べた。冷たさが心地良いから、昨日の残りのコーンスープをあたためたくはなかった。できればこのまま、ミスラさんが起きてくるまで、読みかけの小説を読んで過ごしたかったけれど、生憎今日は土曜なのに出勤だ。なんというか、本を読むのにあまりに適しているような、そんな空間と精神状態だった。
そんな感じで、洗面も着替えも歯みがきもぜんぶがいつもよりスローペースだったから、準備が整ったころには家を発つ予定時刻の三分前だった。歯みがき粉のミントがいつもより強く突き刺さって嫌だった。かといって、洗面のぬるま湯も少し嫌だった。ミスラさんを起こさないように、静かに部屋を去ろうとして、前に「仕事に行くなら行くと言ってくださいよ」と言われたことを思い出した。ちょうど同じような土曜に、夕飯を囲みながら。私はそのとき確か、「だって起こしたくないんですもん」だのなんだのと言って、その話はすぐに別の話題に流されていった。だってミスラさんは厄災の傷が薄らいでもなお不眠ぎみで、眠りも私より随分浅いのだ。寝室まで戻って、彼の寝顔を見る。普段は私が近づいただけで目を覚ましてしまったりするのに、珍しくよく眠れているようだった。尚更起こしたくなくて、逡巡しているうち、残り時間はあと一分になった。ああもうどうしよう、と少し慌てつつ、彼の少し幼くてかわいらしい寝顔に縫いとめられていたら、ゆっくりと彼の目蓋がひらいた。
「……ん、?」
ああ、結局起こしてしまった。
「……ルチル? ああ、もう行くんですか」
寝起きの掠れた、滑舌もあまり回っていない様子がかわいかった。
「はい、行ってきますよ。起こしてしまいましたか?」
「いいえ。……いいえ? わからないな、起きたらあなたがいました」
なんとなく、今朝のミスラさんも冷たい心地良さを纏っているように見えて、彼の頬に手を伸ばしてしまう。朝の空気に冷えていて気持ちよかった。
「いってきます、ミスラさん。昨日のコーンスープ、まだ残っていますから」
「……はい。いってらっしゃい」
ミスラさんは、頬に触れる私の手のひらをじっと見ていた。
ドアを閉めたとき、時計は出発時刻を二分過ぎていた。
『朝なんか好きじゃなかった』
首筋にじとっとした汗がまとわりついていて、その不快さのせいかはわからないけれど、いつもよりはやい時間に目が覚めた。少し身を動かすと、肌着が汗で冷たく湿っているのがわかる。昨晩はシャイロックのバーでカインたちと飲んでいて、たのしくてつい眠るのがかなり遅くなった。睡眠時間を削ったとき特有の身体の重さに気が滅入りそうになりながら、もう少し寝ようかと寝返りを打って、ハッとした。ここは自分の部屋ではない。
「ああ、起きました? おはようございます」
「え……えっ? ミ、ミスラさん、え……。あ」
「はあ。覚えてないんですか?」
「……いや。いま思い出しました。ほんっっとうにごめんなさい!」
最悪だ。酔って上機嫌になって、どうせ起きているであろうミスラの部屋へ適当にノックして入って、一方的に喋り倒してゲラゲラ笑って、挙句ベッドに侵入して寝たのだ。急に蘇った記憶のなかの自分の行動が信じられない。最悪だ。
「朝からうるさいな。昨日の晩もうるさかったですけど」
「そうですよね……はあ、もうほんっと……すいません……。今度なにかお詫びしますね」
「はあ。別にいいですけど……」
ミスラの指の長い、黒い爪の手が伸びてきて、ルチルはなんだろう、と思いながら眺めていると、首筋に手を這わされて、声が出た。
「わっ!? や、やめてくださいミスラさん、私なぜだか汗をかいていて」
「はい、そんなふうに見えたので」
すると今度は、ミスラはルチルの服のなかに手を滑らせはじめたので、いよいよ慌てふためいてしまった。
「あ、あの! 何してるんですか!?」
肌着が汗で湿っているのだってバレてしまう。ルチルは羞恥にじっとしていられなくなって身をよじった。
「……なんでしょうね」
ルチルの首筋のじとりとした汗がついているであろう手に、彼はあろうことか舌を這わせた。
「!?!」
「どうしてこんな汗をかいているんです? 暑いですか、この部屋」
「え、いや……どうしてでしょう、お酒を飲んだからですかね……? 普段はそんなにかかないんですけど」
行動の理由は全くわからないが、元々ミスラは常人には理解できない行動を取るようなところがあるし、不思議ではないのかもしれない、とルチルは納得を試みた。
「ふーん……嫌な夢でも見ましたか」
一瞬、それがミスラから発せられた言葉だと認識できなくて固まった。もしかして今が夢なんじゃないかと思ったけど、緊張した自分の心臓が、これは現実だと騒ぎ立てた。
「いっ、いえ! あの、ミスラさんも嫌な夢をみて……汗をかいていたりしたんですか? 眠れていた頃は」
「いいえ」
「ですよね……」
心配してくれたのだろうか。それなら眠気も怠さもすべて吹き飛ぶくらいうれしくなれるのにな、と思う。
「心配してくれたんですか?」
ルチルははぁ? みたいな答えが返ってくるだろうな、と思いつつ、僅かな期待を込めて聞いてみる。
「はあ。わかりません」
なんじゃそりゃ、と思いつつ、全否定ではないことに少し救われる。昨日遅くまで、酔うまで飲んでいたのだって、元はと言えばミスラのせいだ。片想いは片想いで楽しんでいるつもりだけれど、さすがに息の詰まる夜だってある。
「とにかくすみませんでした、着替えてきます。またお詫びになにか持っていきますから!」
ルチルは一切振り返らないで逃げるようにしてミスラの部屋を出た。普段ならなんとも思わないミスラの尖った視線を、いまは受けていたくなかった。
❃
春嵐みたいに過ぎ去っていったルチルがいなくなった部屋は、なんだか収まりが悪いような気がした。ルチルがしおらしく謝罪を繰り返すのをあまり見ていたくなかったから、詫びに来るのはやめてほしいなと思っていたら、窓から朝焼けが見えて、春嵐をもう一度呼んだら、着替え途中の薄着のルチルが部屋に現れて、何するんですか、と怒られた。なんだか妙に安心して、気づいたら笑っていた。
ワンドロ 『切り傷』
まかせてください! だのなんだのぬかして彼が料理をするときは決まって指に切り傷を作って不愉快だった。弟が、賢者様が、俺が、怪我をしたらぎゃあぎゃあ騒いで治癒魔法をかけるくせに、ルチルは自分の怪我に気づきすらしないときがあって、それが、理由は知らないけど本当に嫌だから、すこし離れたところから治癒魔法をかけた。「ミスラさんは優しいですね」と言われて、今のはなんか、そうじゃないだろ、みたいな気になる。
「……気づいてほしいだけです」
弱いくせに生意気なのが気に食わないから殺してしまいたいのを誤魔化したくて、二股ニンジンを齧ったら殴られた。これで正解だっていう気がすることに腹が立つので、頬をつねったら潰れた声がした。
『後悔とその指』
旅行の計画を立てるときに彼が譲らなかったのは、「絶対夜行バスで行くこと」だった。金に困っているわけでもないのにどうしてわざわざ眠りづらい行き方にしたがるのか理解できなくて反対したけど、「新幹線で行ったら私、ずっと恨み言言い続けちゃいますよ。もっと大人になっても、あのときの旅行、夜行バスにしたいって言ったのにって、ず〜〜っと根に持って言い続けます」とか脅されて、もう面倒になって「わかりました」と返事してしまった。飽き性ルチルのことだから、別に新幹線で行こうがしばらくしたら文句を言わなくなるんだろうと思ったけど、説得してまでどうしても新幹線に乗りたいわけでは無いし、もうなんでもよくなった。
「ミスラさんこんばんは! え。荷物、少なくないですか……?」
待ち合わせは夜の九時だった。ルチルはキャリーケースをごろごろ言わせているけれど、俺は普段よりは大きめの斜めがけのバッグひとつだった。
「足りないものがあったら向こうで買えばいいでしょ。あなたが多いんじゃないですか?」
「なんというか、ミスラさん……さすがですね」
「? そうでしょう」
バス停へ向かいながら、ルチルは上機嫌だった。春だったから、気温も過ごしやすいし、花も咲いていたし、なんというか、上機嫌なルチルによく似合う季節だった。
バスに乗車してからというもの、夜通し話し続ける気満々だったらしいルチルは、萎んでいるように見える。こそこそと囁いている。
「あ、喋っちゃだめなんですね……そっか、みなさん寝ますもんね。当たり前か。大人しく寝ましょうか……」
「別に喋ればいいんじゃないですか」
「ミスラさん、声が大きいです……! ほら、寝ましょうね」
まだ夜九時過ぎなのに眠れるはずないだろう、と思いつつ黙ってしばらく経ったころ、ルチルの静かな寝息が聞こえてきて、嘘だろ、と思った。夜行バスが喋り放題の常識なんて存在しない世界だったとしても、どうせこの人はすぐ寝ていたのだ。眠気なんて一切訪れないしカーテンは閉まっていて暇だった。ルチルの鞄を勝手に漁って本を取りだして、ぱらぱら捲った。道で倒れていた男と声をかけた女が恋をしてどうこうみたいな恋愛小説で、することもないので読んでいたら、ちょうど日付が変わったくらいの時間になっていて、バスはパーキングエリアに止まった。
「ルチル、ルチル。起きてください」
「んん……? ああ、ぱーきんぐ、はい」
寝起きの声と顔をしたルチルはシートベルトを外して、ふらふらと立ち上がった。ルチルのその動作を見て自分がシートベルトをしていなかったことに気づいたが、まあ別にいいだろう。
外の空気は冷えていて、怠けたような、重い体に冷気が刺さった。
「寝たくないとかほざいたくせに、即寝でしたね」
「ふふ、本当ですよね。でも案外よく眠れた気がします」
彼は言いながら、明日の朝ごはんにしましょう、とパンをいくつか抱えていた。会計を済ませたルチルが戻ってきて、しばらく夜風を浴びてから戻りましょうというので、とぼとぼと歩いた。真夜中なのに、車もトラックもバスもそこそこ止まっている。
「わ、見てくださいミスラさん! 桜咲いてますよ。きれい」
「はあ」
ルチルは桜の木のもとにかけていった。
「夜桜がこんなところで見られるなんて、私たちラッキーですね。人も少ないし!」
「はあ……空が暗くなっただけだと思いますけど」
「またそんなこと言って。昼に見る桜より、幻想的な感じがするでしょう?」
なんとなく、彼に付き合って見上げていたら、桜の枝のあいだから、やたら明るい月が覗いていた。まんまるい月だった。
「今夜ってもしかして、満月なんでしょうか」
ルチルは呟いて、スマートフォンを取りだした。調べるつもりなのだろう。
「知りませんけど、俺は嫌いですよ。鬱陶しい」
「まーたそうやって。あ、ミスラさん、やっぱり満月ですって!」
バスに乗り込む時間が近づいてきた。俺はまた、長い時間を覚悟する。
「眠れないんですよ。月が明るい夜は」
『これ以上「E」を与えないで』
「馬鹿」というものを、好きだという人はいるんだろうか。いるかもしれないけど、そんなのいないでしょ、とミスラは思う。そしてここ最近のミスラは、自分が馬鹿みたいなんじゃないかって気がしていて、不快でしょうがなかった。南の兄弟のことで腹の底がむかむかしたらオーエンを殺しに行ったりオズに挑んでみたり北の大地に魔法を打ちまくったりした。忌々しいようなあの人の笑顔を見た日は、街に出て雑貨を物色してみたりしたし、目についた魔法使いをお茶に誘ったりした。朝、目が覚めたその瞬間になにを考えるのが普通かなんてもう忘れてしまったから、賢者様の部屋で目が覚めて柔らかな金色の髪を探すことに、違和感なんて覚えない。
「……おはようございます、ミスラ」
「はい。おはようございます」
さっと魔法で身支度を整えて、朝食を取りに食堂まで向かっていたら、フィガロを見かけて、ルチルを見ましたか、と言いかけたけれど、やめた。
「おはよう賢者様、ミスラも。てことは、今日は眠れたわけだ」
「はい、まあ。眠いですけど」
何が面白いのか、ニヤついているフィガロをもう無視して、足早に食堂へ向かった。探している、金色の髪の男はいなかった。
ネロがいそいそと作っているスクランブルエッグとベーコンを受け取って、適当な席についてケチャップをかけて口に放り込んだ。いまが何時かなんか知らないが、ミスラより、賢者より遅く起き出してくるのはたぶん珍しいことだ。こういうとき、無性に腹が立った。ルチル、ルチルとかいう弱い弱い魔法使いのことを、なぜ自分が気にかけているのか、約束があるからである、任務のないときの、平和な魔法舎の日々を送るあの男を気にかける理由もどうせ約束のせいのはずだ。そしてミスラは、覚えたことのないこの感情の名前を知っているような気がした。したけれど、見なかったことにした。面倒なことは嫌いだから。
✤
「おはようございます〜」と気の抜けた挨拶が聞こえてきたとき、身体のなかで何か忌々しいような腹立たしいようなものが蠢いた。
「今日は珍しく遅めだな」
ネロとルチルがにこやかに談笑しているのを見ていたら、小さめのパンが3つほど入ったカゴを持って、ルチルが近づいてきた。
「おはようございますミスラさん。聞きましたよ、今日は眠れたんでしょう? 賢者様に感謝しなくちゃいけませんね」
にこにこ微笑みをたたえて当たり前のように向かいに座るルチルを見据えた。なにか言いたいことがあったような感じがするのに、言いたいことは思いつかなかった。
「おはようございます。遅いですね」
「あはは、また言われちゃったな。ここ最近予定が立て込んでたし、今日は特に何もないから自分にご褒美です。ていっても、二時間だけですよ? 遅くしたの」
ルチルは、ふかふかしたパンをちぎってマーガリンを塗っている。
「でも、うれしいな。たった二時間遅く起きただけで、私がいない間に私のことを思い浮かべてくれる人が何人もいるんだってわかっちゃった! ミスラさんにも言われるなんて思わなかったなあ」
「俺が毎日なんの問題もなく眠れていたら、気づかなかったでしょうけどね」
「まあ、ひどい。せっかくよろこんでたのに」
そう言いながらも、特に気にした様子のないルチルがぱくぱくとパンを口に運ぶのを見ていた。だんだんパンがあまりに美味そうに見えてきたので、カゴにまだ残っていたパンを奪った。
「……っふふ」
パンを咀嚼していたら、ルチルは堪えきれないというふうに笑った。
「はあ? 何が面白いんです」
「あはは! すみません。私ミスラさんのほうに向かってるときから絶対パン取られちゃうだろうなって思ってたんです、でもあまりに予想通りだったから」
「……じゃあなぜこっちに来たんです? いらないんですか、それ。全部もらいますけど」
ミスラはやっぱりなんとも言えない気持ちになった。この人と話していると、はっきり言葉にできない感情を抱くことがあまりに多いような気がする。
「それは私がミスラさんとお話したいからですよ。あと、あげません」
ミスラがあっという間に飲み込んだパンを、ルチルはまだ頬張っていた。噛むために動く顎とか飲み込むために動く喉とかが扇情的に映ってしまって、喉仏のあたりを掴んだ。
「んぐ、ぅ?! びっくりした……! どうしたんですかミスラさん」
「さあ。したくなったので」
傍から見たら危害を加えているようにしか見えない絵面であろうけれど、ミスラの力加減は「痛い」の一歩手間くらいだった。
「もー、パンを詰めるところだったじゃないですか!」
ルチルは怒りながらも、水を飲んだらまたパンを食べるのを再開した。ミスラは喉を掴むと叱られることがわかったいまこの瞬間も、もう一度喉仏の感触を味わいたい気がして、自分のに触れてみたけれど、特に感情は動かなかった。
「そういうのってミスラさん的には、じゃれてるみたいな感覚なんですか?」
「さあ。じゃれたことがないのでわかりませんね」
「じゃれるっていうのはこう……かまってほしくてキャーってしたくなるような感覚ですかね?」
「はあ? 意味がわかりません」
「うふふ。私も言っててわかんなかったです」
パンを食べ終えると、ルチルが立ち上がって、今日は読みたい本があるので、と言い残して部屋に戻っていった。本当に、好きなように過ごす休日を送ろうとしているのだろう。「それじゃあまた〜!」と言われたし、暇になったからと言ってルチルの部屋を訪れて茶を入れろだのと言う気にもならなかった。
そしてミスラの問題は、別に暇なこととかじゃなかった。ここ最近ずっと抱えているようななにかがいよいよ肥大化して、吐き出したくてしょうがないのだ。ルチルは面倒な男なのに、いざ自分から離れようとされると感情が激しく揺れ動く。ひとりでいるほうが気楽なのに、ルチルといるときの感覚は嫌いじゃない。ミスラはおしゃべり相手を探すべく、魔法舎を歩いた。
「はあ? なんの用なの。僕は忙しいの」
「は? 殺されたいんですか?」
五階までおしゃべりしに来たことなんかすっかり忘れて、オーエンをいま殺っちゃえば、渦巻くなにかもすっ飛ぶんじゃなかろうか、という気になってきた。魔道具を手のひらに呼び出す。
「めんどくさ。いま僕、死ぬような気分じゃないんだけど」
「じゃあ尚更いいです。殺します」
そうして結局、魔法舎にも傷やら凹みやらを作りまくって、同じ階の双子に小言を言われたし、キッチンで腹ごしらえをしたあとに修理にはげむレノックスに遭遇したので、魔法で直してやった。
けれどオーエンを殺しても、晴れた気分は長くは続かなかった。殺した直後は気分も高揚していてすっかり面倒なことは忘れていたのに、中庭で本を読むミチルとリケが目に入った途端に、そういえばルチルはまだ本を読んでいるのだろうか、と考えてしまって、もうそこからは元通りだった。また苛々してきて、もう一度キッチンへ向かってよくわからない調味料を口に入れて、飲んだ。調理されていない濃すぎる味がちょうどよかったので飲み干した。
❃
それから数日後、ミスラは北の国へ任務に出た。面倒ではあったけれど、ずっととにかく暴れたくて仕方がない感じが消えないから好都合だった。
「めずらしいのう、ミスラちゃんがごねずについてくるなんて」
「そうじゃのう。めずらしいこともあるもんじゃ」
魔法で空間を繋げて、吹雪く銀世界へ出た。絶滅したはずの獰猛な野生動物が暴れだした、みたいなよくある任務だった。その野生動物の気配を探りながら五人揃って足を進める。
「ああ、そうだ。あなた、目玉奪ったとき、どういう感情だったんですか?」
ミスラは、オーエンに聞きたかったことを思い出した。先日はうっかり殺してしまって聞きそびれたのだ。
「……はあ? もしかして前、それが聞きたくて部屋まで来たの?」
「はい、そうですけど」
「どうして気になるの」
オーエンはあまり答えたくないのかなんなのか、はっきりした答えを言わない。
「いいから教えてくださいよ。こっちはずっと苛々してるんです」
「賢者ちゃんも言っておったが、最近のミスラちゃんは確かにちょっと変じゃのう。何がと言われると難しいが」
先を歩いていたホワイトがこころなしか楽しそうに振り返った。スノウも、うんうんと頷いている。
「目玉かなんか知らねえが、奪いてえやつがいるのか? お前が躊躇うなんてらしくねえじゃねえか、北のミスラ」
ブラッドリーもまた会話に乗った。あまりミスラを苛立たせて興奮させては任務どころではなくなってしまうので、好戦的にならないように注意した。
「奪いたい? あぁ。そうなのかもしれないです」
ミスラが言った瞬間、北の魔法使いたちはどう出ようかと必死に頭を回した。確実に面倒なのだ。何を奪いたいんだと聞くか、その相手に目星をつけるか、聞かなかったことにして違う話をするか。全員が迷っているあいだ、そんなことは露知らずミスラは喋り出した。
「でも別に、あなたみたいに交換みたいなことはしたくないですね。あの人があの人じゃなくなるのは嫌だな」
「……僕がやばいやつみたいに言うのやめてほしいんだけど」
「十分やべえだろ」
ブラッドリーは、「あの人って南の兄ちゃんか?」と問うてしまおうか悩んだ。いま喧嘩に発展するのは面倒だが、口を噤めばミスラのご機嫌取りをしているようで気に食わない。
「ていうか、何? けだものの北のミスラのくせにルチルみたいな弱いのに苦戦してるの? おもしろいなぁ、今度悪戯しちゃおうかなぁ、ふふ」
心配は儚く、オーエンの挑発によって打ち砕かれた。
「……誰がルチルって言いましたか」
「あはは。面白い。おまえだよ、おまえ」
「これ! 気が散って魔物の気配が感じられんじゃろう。静かにしておれ」
スノウの仲裁によってなんとか殺し合いに発展せずに済んだが、魔物の気配がしたその瞬間に、ミスラは自身の眼前に呼んで、一瞬で始末した。ブラッドリーは五人で来る必要なんかなかったじゃねえか、と悪態をつきたくなったけれど、暴れ足りなそうなミスラを見て、さっさと魔法舎に戻ることにした。
❃
気の向くままに、特に何も考えずに、ミスラは任務を終えたあと、ルチルの部屋へ向かっていた。扉をノックしようとしたそのときに、後ろから声がした。
「あ、ミスラ。帰っていたんですね。おかえりなさい」
「賢者様。どうも」
適当に挨拶を返してもう一度ノックしようとすると、また声がした。
「ミスラ、ルチルに用ですか? ルチルなら今日から任務に出てますよ。もしかすると二日くらい帰らないかもって」
「はあ? そんなこと……ああ」
そういえば言っていた。そのあいだ俺は何をしていたんだ、と思い出そうとして、やめた。ルチルが話をしてるあいだずっと、食欲のような何かに襲われていたような気がしたからだ。
「お守りちゃんと持ってかないと! って言ってましたし、きっと大丈夫ですよ」
別に生死が不安で部屋に訪れたわけではないのに、と思った途端、ああまただ、と思う。奪いたいのに奪いたくない、こっちを見て俺を見て、この時折襲い来る感情を与えないで、離れないでいて、その視線をずっと向けていて、これ以上変えないで、みたいな矛盾たちが洗濯機かっていうくらい高速回転して苦しくなる。ルチルがいる限りずっとこんなのに悩まされ続けるのだろうか。嫌になって、殺してしまいたいのにそうできない。そうしたくもないことに余計腹が立つ。
「ほんっと……面倒だな……」
ミスラは小さく零して、賢者に向き直った。
「あなた、ハーブティーって淹れられます?」
❃
ルチルのいない魔法舎で、ミスラは一度も眠ることができなかった。賢者の力を借りてもだめで、一瞬微睡むことができた程度に終わった。ここ最近の眠れない夜は、拍車をかけて鬱陶しいものだった。馬鹿みたいに同じことしか考えられないのだ。ルチル、という名前を綺麗だと思うから、声に出したくなって、皆の寝静まった音のしない部屋に、音を零してみたりしたし、ねぇって甘えるような声を出したいような気がして三日月を引き寄せた。はあ、とついたためいきが、部屋に浮かんだままうるさく主張していた。
眠らないまま朝を迎えて、気配に目を開けた。もう帰っているはずのルチルを訪ねようとして、扉をノックしようと手をあげた瞬間、身体いっぱいにルチルの気配が襲いかかって、動けなくなった。はやく会って、声が聞きたくて、微笑むときの目を細めた顔を見たくて、抱きしめて、そのままキスをしたいと思ってしまって、ノックしかけた手を降ろした。思い出してしまったのだ。この現象につけられた名前をはじめて聞いたのは、いつのことだっただろうか。
込み上げるものがあまりに多くて、ミスラはどうするのがいいのかわからなくなって、二秒か五分かわからないが、そのまま立ちつくしていた。呼吸を整えてからもう一度、扉をノックしようと手を上げる。今度はうまくいった。
「はーい」
ドアを勢いよく開けたら、ルチルの微笑みが目に入った。焦がれていたものよりずっと、目が細まっていて、瞳が見えないほどだった。
「ミスラさん、おはようございます! ちょっとお久しぶりですね。ちょうど食堂に行こうと思ってたんです。一緒に行きましょう!」
そのまま歩き出そうとするルチルを、通さないように扉の前に立つ。
「ん? どうしたんですか? あ、私に何か用でしたか」
不思議そうにこちらを見ているルチルの顔を見て、ああどうしてこうなってしまったんだろうと思う。ため息をついたのと同時に、自分の顔が動き出して、唇がルチルのそれと重なった。というか、重ねた。
「!?」
離したら、ルチルは固まっていた。固まっているのはわかっているけど、考えるより先に身体が動くんだから仕様がない。そのまま、倒れ込むみたいにして、ぎゅ、と抱きしめた。
「ミ……ミスラさん、あの……? 私はルチルなんですけど、わかっていらっしゃいます? その、寝ぼけてたりとか……」
「は? 馬鹿にしてるんですか。そんなわけないでしょう。ルチル、知ってますよ」
しっかりと、一音一音痕跡を残すように名前を呼んだら、腕のなかでルチルは小さく震えた。
「……どうして?」
ルチルは拘束を解いて、まっすぐミスラを見据えた。浮かぶ表情から感情が読み取れなくて焦るようなはやるような気持ちになって、手を伸ばしたくなった。
「はい?」
「どうして私にキスをしたんですか?」
「嫌でしたか?」
「……質問に質問で返さないでください」
「どうして?」
「……私の質問がまだ解決していないからです」
「はあ。したくなったからです」
「どうして?」
「次は俺の番でしょ。嫌でしたか」
ルチルは黙った。視線を彷徨わせてから呟くように言った。
「それは、私の質問に対する、ミスラさんの答えによります」
「はあ? 面倒な人だな。俺はいま、嫌だったか良かったかを聞いているんですよ」
「わかりました、考える時間を差し上げます。とりあえず今は食堂へ行きましょう。ミチルが心配してしまいますから」
扉を開けたあの瞬間以来一度もルチルは笑っていなかった。どうしてこんなことになっているんだろう。笑ってほしくて仕方がない、ような気がしてくる。食堂へ向かう最中、ミチルを見つけたルチルはやっと笑った、花が綻ぶように。
❃
ミスラは、朝食のトーストとコーンスープを噛みながら考えた、柄にもなく。自分がいま、ルチルに抱いている感情を知ってもなお、それから先どうすればいいのかはわからなかった。こんなふうになっているのはいま自分だけで、ルチルはミスラをただのおじさんだと思っているならそれは何だか悔しいことのような気がするし、ルチルがミスラを好きだろうが、それが千年二千年続く保証なんてどこにもないのだ。こんなの、あまりに面倒なのではないか。どうにかしようにも殺す以外に選択肢が思いつかない。当然そんなことはできないし、力の差を見せつけて従わせようとすれば、あの人は舌を噛むとか言うだろう。チレッタもこんな面倒な感情を抱えたのだろうか。ぐるぐる考えていたら唸り声みたいなのをあげていたらしく、ブラッドリーには訝しげな視線を向けられ、離れたところにいるルチルは下を向いていて、顔は見えなかった。
市場を徘徊して見つけた春色のネイルカラーをいくつか買って持って、ルチルの部屋を訪ねた。夕飯前の時間になっていたから、ちょうどルチル先生の授業も終わった頃だろう。
「はーい」
ルチルが言い終えるまえに扉を開けた。
「こんにちはミスラさん、今日はよく来てくださいますね」
一見いつも通りで安堵しかけたけれど、どこか違和感があるような気もした。なにかを取り繕おうとしているような、していないような、そんな感じだ。
「話をしに来ました。あと、手を出してください」
「……話ってやっぱり、今朝のことでしょうか」
不安そうな顔をしたルチルは、そうっと両手を出した。手のひらを見せるような形だったので、反対だと伝える。呪文を唱えて、魔法でネイルカラーをルチルの手に塗っていく。自分の爪を黒く染めるときより、ずっと遅い速度にしている理由にも、名前がついているのだろうか。
「はい。俺がどうしてあなたにキスをしたくなったか、言わなくちゃいけないんでしょう?」
「……」
「あなた、恋って、したことあります?」
「え、」
ルチルが少し肩を跳ねさせたので、ネイルが少しズレた。魔法で元に戻して、塗るのを再開させる。ルチルの右手の親指から順に、一本一本、春の淡い花の色がついていく。
「あるんですか、ないんですか」
「……まあ、昔お付き合いしていたことはありますけど……そう長くは続かなかったですし……」
「……そうですか」
この人は存外飽き性なのだ。それを思い出して、急に嫌になった。
「俺はたぶん、ないんですよ。ああ、セックスとかじゃないですよ。というか、恋ってそういう、肉欲と変わらないんだろうと思ってたんですけど」
ルチルは緊張した面持ちで、爪先を見つめていた。
「まあそれで、俺は、あなたに恋をしてるんだと思います」
ルチルは弾かれたように顔をあげた。じわじわと顔が赤く染っていく。
「……え? ミスラさん、いま、なんて」
「は? 二回も言いませんよ」
「恋? ミスラさんが私に恋してるって、そう言いましたか? ぇ……」
ルチルはじっとしていられないのか、顔をいろんな方向にむけ、きょろきょろと意味もなく部屋を見渡している。塗られている爪だけは、ズレないように固定しているのが面白かった。
「それで、聞かせてくれるんでしょう。俺のキスが嫌だったか、そうじゃないか」
「……ずるい人なんですね。ミスラさんって」
ルチルは顔をあげた。笑っているから、安心した。
「私もあなたのことが好きです。ミスラさん」
❃
賢者を部屋に呼び込んで、ああ今日は気持ちよく眠られそうだ、と布団に入り、三日月に頬をあずける。そのとき、ふと、キスが嫌だったかどうかの答えは聞いていないことを思い出した。
「ミスラ?」
賢者が、手は繋がないのか、と視線で尋ねてくるので、手を差し出す。春の、淡いピンクや緑に染った爪を見て笑ったルチルの顔を思い出したら、身体の底から何かがせり上がるような感覚になる。苦しみに近いような気がするけれど、これをもう少し味わっていたいような気もして、今日のことを思い出そうとする。キスの感触、頬に触れたルチルの髪の先の感触、けれど、訪れる眠気に思考は遮られていく。顔を見たいと思って、目を閉じたけれど、別に夢でも会えなかった。
❃
「ルチル」
ルチルが横にいようと、心臓を取り出して引っ掻きたいような、ルチルの身体のどこかを握っていないと落ち着かないような、名前を呼び続けたいような、呼んでほしいような、そういう感じは消えなかった。
「はーい」
ルチルは紅茶をティーカップに注ぎながら、目線を動かさずに返事をした。
「……ミスラさん?」
ひとつめのティーカップに紅茶を注ぎ終えると、ルチルは顔をあげた。目が合ってからも、何かが足りなかった。立ち上がって、ルチルを腕のなかに包み込むようにした。
「おおお。どうしたんですか〜。紅茶が冷めちゃいますよ」
背中をぽんぽんと叩かれて、子ども扱いされたようで嫌だったけど、さっきよりは、何かがマシになった気がした。腕を緩めてルチルを離すと、ルチルはもうひとつのティーカップにまた紅茶を注ぐ。もう一度椅子に掛け直して、紅茶を飲んだ。まだ熱い紅茶は自分の味方のような気がする。ルチルが紅茶を注ぎ終えて向かいに座った。向かいあわせで座るこの距離さえ、自分には不正解のような気がする。
「ルチル。こっちに来てください」
ベッドへ腰掛けてから、ルチルを呼び寄せる。たぶんルチルはまだ紅茶をひとくちほどしか飲んでいないけど、そんなことはどうでもよかった。ルチルの、想像よりは固い肩に頬を預ける。
「ミスラさん、どうしたんですか? ふふ。かわいい」
ルチルに、恋をしていると伝えてからまだ数日しか経っていないけれど、だからといって、何かが変わったりすることはなかった。というか、変な時間に賢者を捕まえて眠ったりしたせいで、ふたりで何かをするような時間を取っていなかった。なにも変わらずにいるルチルに、視界が狭まったような感覚がする。焦点を、彼の唇に合わせてキスした。自分の内部で暴れ続けているような何かを、相手に移そうとするように、与えるように、何度も角度を変えた。
「ああ、ほんっと、あなたって俺の腹を立たせる才能がありますよね」
「……っ、はー。こんなキスをして、最初に言うことがそれですか?」
ルチルは息を整えながらも笑っていた。
「ごめんなさい、どうしたんですか? はひどかったですね。ミスラさんが気持ちを伝えてくれてから、はじめてちゃんとふたりでいるのに」
ぜんぶお見通しですみたいな顔をしているルチルが嫌で、頬をつねった。
「最近ずっと、変なんですよ。してほしいことと、しないでほしいことがずっと消えなくて、苦しいような甘いような、変な感じがして。しかもぜんぶそれが、あなたなんです」
「その、してほしいことと、しないでほしいことは、例えばどんなことですか?」
諭すように話すルチルの髪を引っ張って、恐れるような目をしてほしい衝動に駆られた。それでも、恐れないでほしいとも思った。
「……はあ、知りません。もう、とにかく、これ以上俺を乱さないでほしいくらいです」
「ええ? ずっと消えないって言ったのに……」
言葉にする方法がまるでわからなかったのだ、文句を言われたって、知らないものは知らない。
「じゃあミスラさん、私にそばにいてほしいですか? ずっと」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「そんなこと言われてないけどなあ……。でもミスラさん。恋って苦しいものなんですよ」
腹が立った。腹が立ってばっかりだ。そんなことは知っている。それを、こんなに切迫した苦しみを抱えているのに、もう要らないくらい知ったのに、さも当然のように穏やかな表情をしたルチルに、恋とかいうやつに、なんだか負けているような気がしてくる。声を荒らげて叫んでしまいたい。穏やかな声で、朝が来るまで寄り添っていたい。どうしたら勝てる?
「……私も、無性に寂しくなってしまうときがあるんです。きっとミスラさん、あなたに会いたいんだなって思うんですけど、私、今も寂しいんです。恋ってはしゃいで、ミスラさんがもう応えてくれなかったらってちょっと怖かったり、どこまでが私のしたいことで、してあげたいことで、されたいことか、わからなくなったりして、もう訳わかんなくなっちゃったりするんですよ」
指先、つま先、身体の真ん中に、何かが押し寄せた。覚えのある感覚だ。勝つときの興奮によく似ている。
「ああ、たぶん、そういうの。きっとそういうのがほしいんです、俺は」
「そういうのって?」
ルチルは、神経を張り巡らせるように、姿勢を前傾させた。
「……あなたの内側にある全てが俺のものって、もっと教えてください」
ルチルは、静かに息を呑んだ。ミスラはなぜだか勝ったと思った。思っていた。
「ああ、あ! いま俺、負けましたか、もしかして」
「んん……? ええっと、誰にですか………?」
ミスラは、心底嫌そうな顔をした。ルチルはここまで不快そうな顔をしているミスラをはじめて見たかもしれないと思ったほどだった。
「あなたの心が俺のものなら別に、あなたが勝者の側にいたって別にいいかって、俺が負けでもいいかなって、いま一瞬思ってしまったので」
ルチルはぽかんとした顔を緩めて、頬にキスをしてきた。くすぐったい感覚に身体がほどかれる。
「……あなたに負けるわけないし、まあいいか」
そう言ったら、もー! と肩を軽くはたかれて、たぶんいま切なさが生まれたのに、それを手放したくないから、変だった。
ワンドロ「ベール」『The face』
「いたずら」という言葉にはどこか、かわいらしさが潜んでいると思っていた。小さな子ども、無邪気な猫と相性がいいからだろうか。
「……!」
同窓会に来たことが間違いだったのか、聞こえなかった振りをできなかったことが間違いだったのか、私にはわからない。赤い髪の、長身の男の後ろ姿を見つけて、私はとっさに踵を返したはずなのだ。
「ルチル」
どうか名前を呼ばれませんように、呼んでくれたらいいのに、このまま顔を合わせずに済みますように、いろんな願いが木霊したのに、彼の気怠そうな声は、私を振り向かせてしまう。抗うことができないなんて、最初からわかっている。
「……わあ、お久しぶりですね! ミスラさん!」
精一杯自然を装って、笑顔を作って振り返った。私は彼の顔を見ることができずに、すぐに目を逸らしてしまった。けれど、少し覗いた彼の表情は、予想と違った気がした。
「ルチル」
「すみません私、もう行かないと。またお会いできたらいいですね」
随分自分勝手なことをしている自覚は十分にある。十分じゃないから、私はこうして、逃げようとしているのかもしれない。せめて、最後に彼の顔だけははっきり見ておきたい、みたいな衝動がせり上がってきて、顔を上げた。私は彼の表情を見たその瞬間に、私の罪は思っていたほど重くないんじゃないかと思った。そして、逃げないといけない、という警鐘も聞いた。私は本当に、運命が大好きらしい「いたずら」を、憎まずにはいられなかった。
✣
逃げようと思ったところで、同じ会場内にいるのだから、会わないのは難しい。私はなんどもトイレへ行って隠れたり、なるべく人と行動を共にするようにした。私は生徒会長だったわけで、加えて芸能人だったのだ(彼もそうだったが)。いまはメディア露出を控えて漫画一本に絞っているけれど、特に苦労しなくても周りに人が集まってくる。旧友と話しながらも、私は視界の端で、見間違うはずのない赤い髪がどこにいるのか、把握して動いていた。このまま彼と話をせずに同窓会を終えられそうで、私は安心するのと同時に、少しの悲痛を覚えていた。
「先輩。ルチル先輩!」
「アーサーくん? わあ、久しぶりだね!」
満面の笑みで声をかけてくれたのは、進学校で生徒会長を務めていたアーサーくんだ。生徒会で集まって会議をして、意見がぶつかりあったり、世間話に逸れていったりしたのも、いい思い出だ。
「会えてうれしいです! ミスラ先輩とは一緒ではないのですか? てっきりふたりそろって来ているものだと……」
私は顔が強ばっていないか心配だった。
「ぁ、ミスラさんとは、しばらく連絡を取っていなくて……。ふふ。懐かしいなあ、生徒会」
生徒会の思い出に浸ってしまいたくなったけれど、私は極力、彼の話題を出したくなかった。話題を変えようと、口を開きかけたところだった。
「そんなに前のことでもないと思いますけどね」
私は彼の、低く、若干鼻にかけたような、湿ったような声が好きだった。身体が麻痺したようになって動けない。いつの間に来たのかなんて疑問を抱くことも許されないような麻痺だ。
「……ミスラ先輩! お久しぶりです、アーサーです!」
アーサーくんは瞳を輝かせたけど、彼はちらりと一瞥しただけだった。
「はあ、どうも。あなた、こんなに小さかったですか?」
「特に身長は変わっていないが……」
「はあ、そうですか」
彼の視線は、私を捉えていた。左手で前髪を整えた。私が結婚していることを彼は既に知っているはずだけれど、もういちど思い出してほしかった。
「ルチル。こっちへ来てください」
断ろうかと思ったけれど、ここで断るのはあまりに不自然だろうし、ふたりきりにならなければいいだろう。そう考えながら、私は、私が彼と話をしたくて、言い訳を探しているだけなんじゃないか、とも思った。
「……はい。どうしましたか?」
あの頃の振る舞いを必死に思い出そうとしながら彼のほうへ近づくなり、ぐっと腕を引かれた。
「……え? ミスラさん、ちょっと、」
彼はおかまいなしに、人目のつかないような角のほうへずんずんと歩いていく。
「あ、アーサーくん! またあとでね!」
振り返ったときのアーサーくんの笑顔は、私の気分を少し軽くしてくれるものでもあったし、見透かされているようで怖いものでもあった。
✣
ここまで来て、もう逃げようとは思わなかった。私が彼に好きだと伝えたときのことを思い出すような感じだった。遠くにざわめきがあって、ふたりだけ空間から切り取られたような、そんな感覚だ。
「ミスラさん。お話ってなんでしょうか」
私が一方的に好きになって、想いを伝えて、よくわからないですみたいなことを言われて、卒業して、他の人と付き合う機会を何度か経て、結婚した。私が決めたことだ。今更初恋の熱に火をくべるわけにはいかないなんてわかっている。
「別に、話があったんじゃないですけど……そうだな」
今日、最初に彼を見たときもそうだった。拠り所のなさそうな、自分でも何を言いたいのかわかっていないような、そういう顔をしている。
「……あなたに会えると思って、今日ここに来たんだと思います。俺は」
心臓が大きく音を立てた。どうして今、そんなことを言うんだろう。甘い言葉に似合わず、少し不愉快そうな顔で彼は言った。
「それでまあ……あなたはそうでもなさそうだったんで。腹が立つなと思って」
私は幸せだったのだ。結婚生活も、仕事も。順調だった。このぶっきらぼうな男と再会しただけで揺らぐ幸せだったなんて、どうしても信じたくなかった。
「……ミスラさん。私は、」
ミスラ、その男の顔貌が眼前にある。嫌なら逃げろ、と選択肢と時間を与えられていることがつらかった。
私は、彼が想い人にキスをするときの顔を、目に焼き付けた。その顔を知っていたって、ベール越しに彼の顔を見ることは、もう一生叶わないけれど。
『「私」を指すもの』
(賢マナで頒布した『不正解』と同じく、モデルミスラと教師ルチルの世界線ですが、『不正解』を読んでいなくても読めると思います)
私にはミスラという名前の恋人がいて、彼の好きなところは、もちろんたくさんあるのだけれど、特筆するならば、彼の使う「人称」を挙げるかもしれない。私は、ミスラさんが私の話を他人にするとき、「あの人」と言うのか、「彼」と言うのか、はたまた「ルチル」と私の名前を声にするのか、考えることがある。
彼が仕事の話をするときに聞く、「彼」や「あの双子」や「彼女」という人称たちに、私はいつも、言葉の意味以上のものを見る。人称の指す人が誰かを知っている私には、誰の話なのかわかるけれど、もしここに全く無関係な第三者がいて、話を聞いていたら、誰のことだかわからないだろう。せいぜい、この人の職場に双子の社員がいるんだな、とか、その程度のことだ。その、若干の秘密めいた感じが好きだ。彼のなかに、私に対して「この人はわかっているから、三人称を使える」という前提があることにうれしくなる、当然のことと言えばそうだけれど。
彼が面倒そうに零す「あの人」に、私がなれたことがうれしい。
彼の「あの人」は、私だけではない。「あの人」である、母様の話をするときのミスラさんから零れる、感傷の気配が私は好きだし、好きだけれど、嫌でもあった。好ましく思うことも不快に思うことも、両立しうるんだと知った。それでも、不快に思う自分は器が小さいみたいで嫌だった。
「ちょっと」
頬を軽くつねられて我に返った。母様の話をするミスラさんのことは好きだ。好きだけれど、時折、いまは聞きたくないなという日がある。今日はそういう日で、知らないあいだに黙りこくってしまっていたらしい。
「あ……ごめんなさい。少し眠くって」
彼が、私と母様を重ねているのではないかという不安は時々顔を覗かせた。それに、母様の残してくれた縁で繋がった私たちなのに、母様に嫉妬するなんて随分おかしな話だ。
「……そうですか」
彼の指先は、私の頬を伝って、顎を人差し指と親指で掴んで、少し上を向かされた。ちゅ、とわざとリップ音が残るようにキスをされた。顔をあげて視界に映った彼の若干潤んだ瞳は、ただ、私に愛か、執着のようなものを伝えていた。
「ミスラさん。好きって言ってくれますか? できれば、名前を呼んで」
「……好きじゃない人にこんなキスしないでしょ」
「もう。いいから」
彼は嫌そうにしていたけれど、やがて口をひらいた。
「心配しなくても、あなたを愛してるから、いちいち不安にならないでください」
彼は、「あなた」にアクセントを置いて言った。
「ルチル。俺があなたを愛していることを疑わないでください。いいですか、もう当たり前のことなんですよ。あなたが俺を愛していることもね」
私はなぜだか一気に恥ずかしくなった。母様の笑い声を聞いた気がする。彼の表情に、甘える顔は一切なく、恋人を見る目をしていた。自分で言わせておいて、後悔したくなるほど、当然の前提だったのだ。彼が私を愛していることは。
私も愛している、と言おうとして、やめた。さっき彼が私にしたのと同じように、キスした。
ワードパレット ミッドナイトララバイ
「子守歌ってあるじゃないですか。あれ歌えます? 賢者様に歌ってもらったとき、いい感じに眠くなったんですよね」
「ああ、子守歌! 懐かしいな。ミチルにむかしよく歌っていました」
私は、その日々を思い出した。何があっても大丈夫だ、と信じるのが難しい日は、いつもこの人を想っていた。私は寂しくなかった、夜を除いて。朝や真昼はミチルがいたし、周囲の大人も優しかった。夕刻に近づくと、私は大人に教えてもらったように料理をして、小さいミチルにごはんを食べさせて、自分も食べた。大人がいるときのキッチンは狭いのに、ひとりになると広すぎる。自分の料理の味をあまり覚えていないのはどうしてだろうかと時々思う。やることがなくなっても、ミチルと話をしていれば寂しくはなかった。
「おやすみ、ミチル」
彼に子守歌をうたい、やがて彼の寝息が聞こえてきてもすぐに寝付けない日に、私はこの人のことを、よく思い出していた。
「歌ってくれません? せめて眠っている気になりたいので」
私は少し不思議な感覚に陥った。
「もちろん、いいですよ。ミスラさんが知っているものとは違うかもしれませんけど」
南の国で子守歌として有名なものを歌った。知らないですね、と彼は小さな声で零してから、目を閉じてアイマスクをつけた。私は歌いながら、考えた。子守歌をうたうときはいつも、何かを祈っているような気持ちになる。よく眠れますように、良い夢が見られますように、そういう類の。
私がしばらく歌っていると、ミスラさんはいきなり上体を起こして、アイマスクも下ろした。
「わ、ミスラさん。もう大丈夫なんですか?」
「なんか……眠くはならなかったです」
「あら? 声大きかったですかね。私が歌いながら眠くなっちゃったくらいなのに」
そう言うと、ミスラさんはベッドから降りた。
「どうぞ」
「……はい?」
「眠いんでしょ? いいですよ、寝て」
「え、ええ……そこまでじゃないですよ、大丈夫です」
ミスラさんは、はあ、とため息をついた。
「眠いからって不注意になって怪我でもされたら困るんですよ。いいから。貸してあげます、これも」
アイマスクと三日月の抱き枕を押し付けられて、私は渋々横たわった。
結論から言って私はすぐに眠った。アイマスクと抱き枕から漂うのハーブの香りは私の身体を脱力させるのに十分だった。けれど、何より驚いたことは、目を覚ましたときに、彼の声がしたことだ。歌詞は覚えていないのだろう、私が先に歌っていた子守歌を、鼻歌のように口ずさんでいる。目を覚ましたのに、まだ聴いていたくて、少し黙っていた。
「……起きたでしょ」
「あ。バレた」
私は、アイマスクを下ろした。あのとき、ミチルに子守歌をうたっていたときに覚えた祈りに近い感情を、叶えてもらえたような気がして、また、不思議な感じがした。
「ミスラさん、私のために歌ってくださっていたんですか?」
「そういうわけじゃないですけど。なんとなくです」
「でも、うれしいです。ありがとうございます」
ミスラさんは少し、視線を泳がせて落ち着かないというように座る位置を若干変えた。
「小さい私も、だれかに歌ってもらいたかったのかも、祈ってもらいたかったのかも。良い夢をって。ふふ、気づかせてくださって、ありがとうございます」
彼がなにもわからなくても、感謝を伝えたかった。この人は、いつも私を守ってくれる、ヒーローだった。何を持ってしても、感謝を伝えきれない気がして、不安になるほど。
「……どういたしまして」
部屋の電気を消したあとみたいに、彼は言った。
ワードパレット フラメント
「賢者様の世界では、約束をするときに、小指を立てて、絡めて、指切りげんまん、って歌をうたうんですって。知ってました?」
「怖いな。まさかあなたやりたいなとか思ってないでしょうね。絶対やめてくださいよ」
眠そうにしていたミスラが、慌てたように目を開いて言った。
「大丈夫ですよ、賢者様の世界に魔法使いはいませんから、約束したって平気なんです」
ルチルは、クロエから土産でもらった西の国のバタークッキーの箱を開けながら言った。
「でも、いいですよね。魔法使いじゃなかったら、明日の朝、いっしょにお菓子食べようね、約束、なんてことができちゃうんですね」
「人間は弱いから、そんなことでいちいち約束しなきゃいけないんでしょ」
不満気にしているミスラを見て、ルチルは、この人は私とミチルを守ると約束している、ということを素直にかっこいいなと思った。一瞬でもこの人は、心を動かして、決断したのだ。
「んーまあ、そうかもしれませんけど……その約束があれば、明日を楽しみに眠れるじゃないですか、あ、夜を越せる、というか」
また喧嘩売ってるんですか? と言われる、とルチルは慌てた。
「……じゃあ、明日、俺とお茶しましょう。約束はしません」
「え! いいんですか? ふふ、ミスラさんありがとうございます。私を喜ばせようとしてくれて」
「あなたが約束っていいななんて思わないようにしたいだけです。いらないんですよ、約束なんか」
ミスラは、小指を伸ばして、ルチルの親指の付け根あたりに触れて、そのまま小指まで滑らせて、絡めた。バタークッキーのせいで、少しぬるっとしていた。少しの間、なにも言わないで、絡めた小指を動かしたり、より強く絡めたり、弱めたりした。皮膚のあたたかさとバターと、ミスラの指輪の冷たさが混ざる。官能に近い熱が部屋を満たす前に、ふたりの小指への意識と動きは止まった。
「あ、ありがとうございます。おかけで明日が楽しみです。ミスラさんって、贈り物がお好きですよね」
静けさと冷めていく熱の部屋を、常温に戻すようにルチルは言った。
「はい?」
「私が怒ってしまっても、いつも私を喜ばせようとしてくれるから。ミスラさんのその想いだけで、じゅうぶん、私には最上の贈り物です」
ミスラは、何も言わなかった。ルチルが部屋を出ていったあと、時折小指を唇へ当てて、時が経つのを、窓から眺めていた。
『移ろって、冬』
クリスマスマーケットに行きたいと伝えたとき、彼は、どうせ言うだろうなと思ってた、みたいな顔をした。勇気出して言って損した、という気持ちと、クリスマスの煌めく街を見て、私が行きたがるだろうな、と思ってくれたことをうれしく思う気持ちが溶け合った。うれしさの成分が濃いめで。
彼にとって、都会のクリスマスは少し騒がしいかもしれない、と思っていた。私もささやかなクリスマスマーケットしか知らなかったので、最初は驚いたけれど、すぐに魅了されてしまった。甘い菓子を頬張る子どもの傍ら、談笑しながらホットワインを飲む夫婦や、並んだキャンドルをひとつひとつ吟味している人、きらきらのドレスアップを施された街、全てが私の胸を揺さぶった。クリスマスのロマンティックは少し寂しさを孕んでいて、それもまた、大好きだった。
人が多いのは嫌だったから、十二月のはじめに出かけた。彼の知っている冬は雪の降るしんと静かな平野だった。彼がその静けさを愛していることを、私はなぜだか知っていた、聞いた覚えはないのに。
私たちはホットワインを飲んで、クリスマスソングの生演奏に耳を傾けた。楽しみながら、私は感傷的な気分にもなっていた。冬とはそういう季節かもしれない。無性に彼の手に触れたくなったし、愛している、と言われてみたいと思った。
「ミスラさんは、気に入りましたか? クリスマスマーケット」
「どうでしょう。酒はいいんじゃないですか、肉も食えますし。少し騒がしいですけど」
「よかった。じゃあ、来年もいっしょに来られますね」
「もう来年の話ですか。別にまた来ればいいでしょ。まだ十二月ははじまったばっかですし」
「あら。また来てくださるんですか? うれしい」
「このワインがなかなか美味いので」
私はうれしかった。さっき見た家族のように、いつまで経っても、毎年クリスマスマーケットに来るのは欠かさないでいるような、そういう恋人同士でいる私たちを想像した。
「でも私、クリスマスマーケットだけじゃないんですよ、ミスラさんと行きたいところ、したいこと」
そう言って見つめると、彼は困ったような顔をした。
「……ほどほどにしてください」
彼が私の我儘に付き合うことを嫌っていないのを、私は知っていた。知っていて、お願いするような顔をした。
きらきらの、少し忙しない、あっという間に過ぎるであろう十二月を、私は抱きしめていたくなった。同時に、私たちの部屋で、暖炉の木が爆ぜる音を聞きながら、ふたりぼんやりする静かな一月を焦がれた。