さすがに何かの聞き間違いではないか。そう思って、もう一度言ってくれるよう視線と首の角度で促した。
「────お暇をいただきたいのです。暫くの間」
目の前の男はほんの少し口の中で言葉を転がしてから、それでもやはり先刻と寸分違わぬ口上を吐き出し、再び深々と頭を下げた。
「……湯治にでも行くのか? 先日の、」
「いえ、傷はもう塞がりました。技を磨きに参りたいのです」
伏せたままの赤毛が、書状を読み上げるような声を出す。まさか言わんとすることを全て書き出し練習してから来たとでもいうのだろうか。彼なら或いは、やりかねないとも思う。そうだとしたら、この男がそこまでするほどの意思を固めているのだとしたら、──止めるのは骨が折れるかもしれない。
「君の技に不足があるとは思えないが」
「っ、……勿体ないお言葉です」
やはりそうだ。何を言われても揺らぐまいと腹を決めているらしい。頭を下げ平伏したままでいるのも、こちらの目を見ないようにという作戦なのかもしれない。この義弟は瑞山の目の色から何でも読み取り、その意を我が意とばかり従うことが常だった。目が合えば負けてしまうと考えているのだとしたら、何とも小賢しく、けなげな策略ではないか。
「…………技を磨くことで、……心を、鍛えられたらと」
沈黙に耐えかねた様子で、低く絞り出される声。これは事前練習に無かった言葉だろう。心について問題を感じているのだとすれば、おそらくは、先日の件か────。
仕事が済めば、その足で報告に来てくれるのが常だった。一度だけ翌朝に回ったことがあったけれど、それは盟主の睡眠時間に配慮しての行動だったようで、布団も敷かず待っていたと知るや、以降は丑三時であろうと片付き次第来てくれるようになっていた。
それがあの日は待てど暮らせど現れず、ついには一番鶏が先に鳴いたもので、何かあったのだろうと居宅へ足を運んだ。戸がやたらと重いと思ったら、土間に投げ出された義弟の足が戸板を内から踏み付けにしていた。前夜からの雨に流されたのだろう、表は綺麗なものだったが、戸板には巨大な赤黒い足跡が残ることになった。
息がしっかりしているのと出血の収まっているらしいのを確認し、近隣に住まう以蔵を叩き起こした。彼の首尾が分からんので急ぎ邸を見に行って、完了していれば報告、存命であればそこからはお前の仕事だと引き継いだ。それから懇意の医者を引っ張ってきて診せ、体を拭き、布団を敷いて寝かせた。意識のない彼の身体は見た目以上に重さがあり、動かすのには難儀した。
医者を帰して少しすると、怪我人は何やらひどく魘されだした。お赦しを、お慈悲を、としきりに呻き、瞑ったままの赤い瞼から涙を流してさえいた。夢の中で童に返ってでもいたのだろうか。今現在の彼をこれほどまでに追い込んで赦しを乞わせるなど、鬼にも仏にも難しいだろう。また、ほとんど自身や郷里について語らない彼だったが、苛酷な幼少期を過ごしてきたらしい様子はふとした言葉の端から度々察せられており、そのことも頭の隅に浮かんでいた。
寝かせてやるのが一番の薬だと言われていたもので少し迷ったが、最後には揺り起こした。いい歳をした男が夢見が悪くて泣くなど、見られて嬉しいはずもなかろうとその場は見ぬふりで通したが──己にも他人にも人一倍厳しい義弟の性格上、夢の内容によっては、それを一時の恥と看過できないことも十分有り得るように思えた。
「心を、か……」
「……今の私では、先生の、……先生の刀になりきれんのです」
声に震えが混ざり始めた。力強く跳ねた髷の先が揺れる。床板に張り付いた杉の根のような手指、力を籠められた爪先が白く変色した。
嘘を言っていないのは分かる。心の底から、今の自分には修練が必要だと、それを終え戻ってのち再び勤王のために身を捧げたいと思っているのだろう。その志は疑うべくもない。
しかし──今ここで行かせてしまえば、彼は二度と戻らないだろうという確信が瑞山にはあった。一度修行に出てしまえば、真に心が強くなったと納得いくまで帰ろうとはすまい。彼自身の厳しすぎる基準に適うほどの精神が育つのはいつになる。十年後か、二十年後か。遅すぎる。田中新兵衛が必要なのはまさに今なのだ。半年でも、否、ひと月でも彼を失うのは辛い。手元から離すことは考えたくない。
畢竟、慰留の方法として瑞山が辿り着いた答えは一つだった。実のところそれは前々から、それこそ義兄弟の盃を交わすよりも以前──薩摩者の彼を欲しいと思った時点から、自分への忠誠を強固にするための手段のひとつとして想定していたものではあった。蓋を開けてみればその手間をかけるまでもなく大変よく懐いてくれたため、実行に至っていなかったというだけだ。
「────傷は、本当に良いのか」
関係強化のために男色を使うことにはそれなりに慣れている。既に瑞山には身ひとつで──時には意味ありげな目配せひとつで──他人の持つ権力、経済力、政治力の一端を融通させた経験が幾度もあった。自身の思想や人格とは別に、容れ物の価値を客観的に把握し、無駄なく運用しているという自認があった。
「はい。人より少々、治りが早いようで」
彼は拒まないだろう。
契ってさえしまえば、離れることなど考えなくなるだろう。
問題ない。全て望むままになるだろう。
「見せてはもらえないかな」
義弟は顔を上げない。床についたままのがっしりとした手へ指先が掠めるように計りながら、すぐそばに掌を置いた。
「…………御目に入れるような、ものではないです」
造りに似合わず鋭敏な手がじわりと後退する。返答に要した間から困惑と葛藤が滲み出ていた。それでも物分かりの良い彼なら既に、選択肢のないことは理解しているだろう。
「見たいな」
重ねて言い含める。小山のように伏せていた巨躯がのっそりと身を起こす。視線だけは床へ落としたまま、膝立ちになって袴の紐を解き──久留米絣の前を広げて腹部を露わにした。
臍の下、褌の少し上から右の脇腹にかけてそれは走っていた。ところどころまだ傷跡と呼ぶには生々しい葡萄がかった部分もあるものの、紅梅色に肉の盛り上がった様子は随分と時の経った傷のようにも見える。治りが早いというのは本当のようだった。
「痛みはないのか」
「ありません」
「強いな」
ひたりと手のひらを沿わす。触れてもあの日のように肘まで血みどろになるようなことはなく、ただ安定した呼吸と、温度と湿度から強い生命力を感じる。綴じ合わされた傷口の隆起した肉をゆっくりとなぞる。靭やかな皮膚の下、厚い筋肉が緊張しているのがわかる。
「田中君」
じんわりと汗ばんだ背中に手を回し、引き寄せる。迷い子のような目つきと朱の差した頬。しっかりと意図の伝わっていることを確信しつつ、耳許に囁く。
「今夜また話そう」
歯を食い縛った様子が、引き結ばれた厚い唇越しにも見て取れた。喉仏はごくりと上下し、頬の朱は見る間に濃さを増した。
はい、と答えた義弟の声は、これまで聞いた中で一等小さく掠れていた。