ムーサ、あるいは裸のマハ。副題:神の不在と実在について。ムーサ:音楽、韻律の女神。ブルーノート東京にて。
いつだったかの夏。
学校から帰ってくるなり来週の診察は譲介、お前も付いて来い、と言われた。家を出るのは夕方からだと聞かされてちょっと安心したものの熱帯夜の続く8月の上旬のこと、内心うんざりしたが拒否権は無かった。この間の期末テストで学年1位だったご褒美だ、と言われたからだ。
成績トップのご褒美が患者の診察についていく権利って何だよ、と思いはしたがこのドクターTETSUという様々な武勇伝を引っ提げた色々とんでもない身元引受人が医学を教えるという約束を反故にしないでいてくれたのが嬉しかったのもある。
当日の夕方の移動中ドクターTETSUは僕に患者の状態などを説明してくれたが、内心落ち着かず、どこに連れていかれるのか気になって話はあまり聞けていなかった。これを着ていけ、と上から下まで真新しい服一式を渡されたからだ。サックスブルーと白のボーダーシャツにネイビーの麻のサマージャケットをメインに、靴は通学に使うのとは違うウィングチップの革靴まで差し出されたのだ。普段は政界・財界に影響力を持つ患者の対応をいつもの制服で対応させるこの人がこんな服を持ってくるなんてよっぽどの患者なのか、と身構えてしまった。多分それは横にいる大人にはバレていたのだけれど、彼は指摘して叱るようなことはしなかった。
いざたどり着いたのは、南青山の一角だった。ブルーノート東京、と掲げられた看板の下に飾られた「世界に名だたるジャズ歌手」のポスターを見て僕が目を白黒させれば、いつも通りの格好の闇医者は堂々としてろ、と呆れたように笑う。ムッとしたのが正直に顔に出ていたのだろう、顔を上げた僕の顔を見ると大人はいっそ愉快そうに笑った。
表に出てきた人々に案内されて向かったのは楽屋だった。扉が開いて顔をのぞかせた濃紺のドレスに身を包んだ患者の第一声が「どなた?」でも「こんばんは」でも「ごきげんよう」でもなくて「Hi」だったことに面食らったが、答えて医者も英語で喋り始めたのにはもっと面食らった。そのうえ、それがあの「世界に名だたるジャズ歌手」なのだから驚きはさらに加速する。
年のころは50代か。良く通る声と快活な表情のドレス姿の患者はこちらを見ると、あ、と声を上げて日本語で「ごめんなさいね」とはにかんだ。
「半日前まで向こうにいたから言葉が戻ってこなかったわ」
「そう、ですか……」
返事はいかにも気が利かなくて、なんだか恥ずかしかった。
「ドクター、弟子を取ったの?」
「まあそんなところだ。それで、あれからどんな具合だ? 問題はなかったはずだが」
「それよりもね、今度うちの子がカタルーニャに留学することになったのよ。一時期はピアノとか言ってたけど結局チェンバロが一番良いんですって。……でも全部ドクターのおかげね」
「せがれの話は分かったから、今はアンタの方だ」
はぁい、と子供のように笑う患者と医者を見て、しみじみ遠い世界の話だと思った。身体はすぐ近くにあってその腕を掴めるのに、海外留学だとか音楽だとか、あまりに僕には縁遠い話だった。譲介、と名を呼ばれて何かを差し出すときは始終口をつぐんでいた。
控室を出る際に患者にヒラヒラと手を振って「楽しんでいってね」と言われた時には、顔を伏せるように黙って頭を下げた。
そのままドクターTETSUに連れられメインフロアに足を踏み入れて、そこでようやく今日の格好の意味を本当の意味で理解することになった。前方にステージを備えたソファ席には着飾った大人たちが座っていて、食欲を刺激する香りが漂ったかと思えば、目にも鮮やかな料理が彼らの前に運ばれていく。
スタッフに先導され少し端の方にあるソファ席に着くとすかさずドリンクメニュー表が差し出され、唖然とするしかなかった。
「あの」
「食事はコースで頼んであるが、好きな飲み物を頼め。酒意外な」
メニュー表にはカテゴリ分けされて見たことのない飲み物が並んでいた。ドリンク名の下に小さく添えられた説明を頼りになんとか注文をしたものの、しかしいざ運ばれてきた料理を前に手が止まってしまった。
「……あの、良いんですか、こんな」
はっきり言って、今日の僕の態度は最悪だった。さすがにそれくらいの自覚はある。けれど隣に座った身元引受人はため息をつく。
「良いからこうしてンだよ。冷める前に食べろ」
その顔をまじまじと見て結局おとなしく頷いてフォークを手に取ると、それまで口数の少なかった大人は「食べながらで良いから聞け」と言う。
「店によってはカトラリー類がまとめて並んでる場合がある。その時は基本的に外側から使う。持ち方は……良し、あんまり緊張すンな」
「はい。……あの、美味しいです。すごく」
妙に小さくなってしまった声でそう言うと、隣に座った保護者はノンアルコールの入ったグラスを傾けて小さく笑った。その顔が思いのほか優しくて一瞬見惚れるも、場内から拍手が沸き上がって意識は舞台上に移った。ドラムやサックス、ピアノなどを背に舞台にはあの患者が立っていた。
「だいぶ前、あの女の子供を取り上げたことがある。色々あってオペと帝王切開を同時にやったんだが」
拍手の中で、ドクターTETSUは低く小さな声が語りだす。その子供が例のチェンバロ留学のせがれだろう。
「それ以来、俺を主治医扱いしやがる。……ったく、今回も立ってるのがしんどいなんて言ってたくせにショービズの場から退くつもりはねぇなんて海外を飛び回りやがって」
そう言うわりに主治医は妙に穏やかな顔をしていて、そんな病状で医者を続けているあんたも大概だと言いたくなったが口を閉ざした。
舞台に椅子を置いて歌姫が歌いだす。
「……ジャズって、初めて聞きました」
ようやく言えたのはそれくらいだった。今までほとんど真面目に聞いたことのないジャンルだったから詳しいことは何もわからなかった。
最初は座っていた歌姫も、結局3曲目になるころには我慢が効かないとばかりに立ち上がり、腕を広げ、楽しくて仕方ないという顔で歌いだす。あれだけドクターが「座ってろ」と言っていたのにも関わらず。
「ただ……なんか、凄い、です」
言いつけを守らない患者にも、拙い感想しか言えない弟子にもドクターはうるさいことは言わず、ただ静かに、そして僅かに目を細めて「そうか」とだけ答えた。舞台の上では「あなたが帰ってきてくれるのならそれだけで楽園だ」と歌姫が瞳を潤ませていた。
ムーサ:舞踏の神。自宅にて。
露骨に不機嫌な顔をしていたのだろう。今日は一日家にいたらしい保護者は「どうした」と本心から聞いてきた。何ともない、と言おうとしたがこの大人を前にごまかせるはずもないのは分かっていて、鞄を下ろしながら言った。
「今日体育の授業はダンスだったんですけど」
「今はそういうのもやンのか」
「10月の体育祭でフォークを踊りますからその一環です。で、ワルツを踊ることになってたんですけど、ペア決めで揉めに揉めて……」
察してくれ、の意を込めて黙ると、妙な沈黙があった。31歳年上の大人は首をひねってからようやく理解したとばかりにのんびりした声で言う。
「思春期だもんなァ」
患者を前にしているときはともかく、この闇医者がそれ以外のこういうプライベートな場面では妙に抜けたようなところがあるのに気づいたのはつい最近だ。あるいは、とうの昔に大人になってしまって、子供のころの気持ちなど忘れてしまっただけかもしれないが。
「誰が和久井と踊るのか、断るのか、身長が同じだと最後のテストで踊るときに綺麗に見えて有利だなんだと大騒ぎで」
と、いうことをグチろうものなら学年一の美少女にペアになってほしいと言われて断るのか、とクラスの男子一同から非難されるのが目に見えている。女子にグチれば間違いなくそれはそれで面倒なことになる。結局どこにも吐き出せないまま家に持って帰り、こともあろうにこの闇医者相手に語ることになろうとは。
「そもそも誰だっていいのに、たかがダンスの相手なんて」
吐き捨てるように僕が言うと、そうでもねぇよ、と相変わらずゆったりした声が言った。この人までそんなことを言うのか、と目の前の大人を見て愕然とし、見損なったぞ、と内心で付け加える。
「実際に踊ってみたか?」
問われて首を横に振った。45分の授業ではそれぞれ自分の動きを確認して終わりだった。ペアを組んで踊るのは来週だ。
「やりゃあ分かる。あれは身体がくっつけばくっつくほど踊りやすくなる、嫌いな相手と組みゃやりづらくて仕方ねぇぞ」
クク、と笑う人を見て、この人はいったい何を知ってるんだと内心で呆れてしまった。でも多分、この人はそういうことも綺麗にこなしたんだろうな、と分かってしまう。いや、実際にダンスパーティーなんてものが現在開催されてるのか知らないし、この人が実際にそういうことをやったのかは知らないけれど。かつてのKと麻薬組織をつぶしたなんて話を聞いていたら、どこかの国のお姫様に気に入られて一曲踊ったなんてエピソードがあったとしたら受け入れる自信がある。
「ワルツステップの基本的な動きは腰を中心にして身体を上下させることにある。普段はあんまり意識しねぇが、運動面における人間の体の中心は腰だ。体重の移動はそのまま身体をひねる動きで、それはそのまま殴る動きや蹴る動きにも通じる」
バカにできねぇぞ、と言ったその顔を見て、たまにリビングで柔軟をしている闇医者の姿を思い出す。テコンドーの腕前が相当、かなりなのはK一族との話で察せられるし、病身の今も人並み以上に体が動くのはその恵まれた体躯から容易に想像できる。
「ん、そうだな、いざって時の護身用に格闘術の一つの覚えてた方が良いかもしれねぇな」
「はあ、まあそれは教えてもらえるのなら嬉しいですけど」
とはいえ、この人の負担になるなら別に教わらなくてもいい。けれどそれを自分が言うのはおかしな具合で黙り込んで顔を伏せてしまう。代わりに話を戻した。
「そんなに近づきたいもんですかね、誰かと。……触ったり、とか」
まずい、と思って顔を上げると、相変わらずソファに座って論文のコピーを読んでいる人は平坦な、あるいはいっそ穏やかな目でこちらを見て問う。
「触られンのは苦手か?」
声も表情もからかいの色が無いを分かって、首を縦に振った。この保護者は、今まで出会ったどの施設の大人より、どの学校の教師より、どの通りすがりの大人より、こういうことに対して公平で真剣で冷静だった。
「……そうか。まあ色々あるが、もっとよく知りたいと思ったり、親しみを抱いた相手には肩を組んだりもたれかかったりしたいと思うこともある。恋愛感情が無くてもな」
「はあ」
「悪いもんじゃねぇよ、相手を知ろうと思って自分のことを分からせようとして誰かを揺さぶって触れようとする衝動は」
あまりに当然のようにいうものだから、この人もそういう衝動があったのだろうかと考える。例えば、『彼のK』に対して。そう思うと自分の胸のあたりでくすぶるような熱が生まれる。
「でも別に、そういう衝動がないのがおかしいって話でもねぇ。もっと言うならそれを自覚してないパターンもある。若いうちは特にな」
身体と心が一致せずどちらかが先行することがあるもんだ、と大人は言った。この人は、どちらもぴたりと寄り添い合って、自分の目指すべきところに向かっているらしかった。
彼が夜毎語る思い出話の中で、あるいは今もなお、己の向かうべき場所を目指して躍動する姿を思い、ひどく眩しいと思った。
ムーサ:彫刻・絵画の神。似鳥美術館にて。
その次に大々的に出かけるぞ、と言われたのは春休みの頃だった。どこに行くのかと問えば小樽だと言われ、通学路の旅行代理店店頭ラックに突っ込まれている「札幌・小樽」の旅行パンフレットを思い出してこのシーズンに北海道か、とやっぱり一瞬げんなりしたが、雪は溶けているから雪道用の靴は必要ないか、と言われてまあそれならと納得した。雪初心者にいきなり冬の北海道はハードルが高い。
初めての北の大地は本州に比べて冷えていた。ちゃんとマフラーを巻け、と言った当の本人はいつもよりやや厚手のロングコートに黒い皮手袋を付けたくらいの無防備な格好だった。見てるこっちが寒いんですよ貸しますから、と僕はダウンジャケットの下に巻いていたマフラーを差し出したが当然受け取り拒否された。
小樽駅を降りて海に向かう坂道を下って向かったのは大きな洋風の建物だった。玄関上部の似鳥美術館の文字に「ニトリ、家具……」と呟くと「そのニトリだよ」とすかさず横にいた闇医者は言う。
中に入ると奥から出てきたスーツ姿の男が「頭取がお待ちです」と言って入館料も払わず中に入ることになった。
元は明治時代の銀行だったという建物はガランとしていて、奥に進むとスーツ姿の小柄な老人がイスに座って絵を見ていた。
カツン、と杖の音も高らかに闇医者が歩み寄るや否や老人は笑みを浮かべて立ち上がる。
「お、おお、ドクターTETSU! 来てくれたか」
「金さえ払うなら俺はどんな客でも相手にする」
「うむ、うむ、そうだったな。……おや、そっちの子は……息子ではあるまい」
老人に小さな目を向けられて僕が頭を下げると、彼は笑みを深めて言った。
「では噂は本当だったか」
「噂ァ?」
「ドクターがお稚児さんを抱えてるってねぇ」
こちらが顔をしかめるよりも前にドクター自身が盛大に舌打ちした。確かによく考えたら一番不名誉をこうむっているのは彼だ。
「ンな下らねぇ噂を回したのはどこのどいつだ」
唸るような低い声はそこら辺の人間だったら涙目になって震えあがるような迫力があったが、老人は目を丸くしながらもニコニコして「ただのうわさだよ」と言って答えをごまかした。
「そもそもあんな生意気なの、稚児なんかにしちゃ持て余す」
そう言って鼻で笑う。褒められたのか貶されたのか分からず僕が口をつぐむと、老人は「そうかね」とひどく愉快そうな声で言った。
そのままドクターが別室で診察をする間、好きに見ていろと言われて美術館内を見て回った。1階から順路に従って見て回ると時代ごとの芸術の変遷をたどることができる構成で、必死に脳内の本棚を漁る。あの夏の頃から、好きに読めと言われたドクターの本棚の中身を読み漁っていた。妙にいろいろなことを知っている闇医者の本棚の中身は医学以外の内容も充実していてジャンルも年代もばらばらだった。
それにしても今回は診察の現場には僕を立ち会わせてくれないのか、と思いながらも館内を巡り、あの時頭取と呼ばれた老人が見ていた絵が裸婦画だったことにハァなるほど、と妙に納得した。なるほどそれならあの不躾な言葉が出るはずだ、と思いつつ首をひねる。裸体を風にさらして草野に身を横たえる女神たちがそこまで魅力的なのか、良くわからなかった。
もちろん、自分自身が性に対して潔癖な節があるのは自覚している。今まで付き合った女の子たちとは、できてもせいぜいキスくらいなものだった。それも、キスをしてぬめつくような舌が触れると嫌になる。まだ中学生だったころ、一度だけその先まで及ぼうとしたことがある。まあ箔を付けてもいいか、などと適当な気持ちで同級生の女子の家でことに及ぼうとしたが駄目だった。カーテン越しの西日が差し込んだベビーピンクのベッドシーツの感触も、首筋に添えられる手の温みも、腿までずれたレースの下着も、脚の合間に生える恥毛の黒さも、その下でわずかに濡れている割れ目も、ただ吐き気に近い嫌悪感をもたらすだけだった。その気がなくなった、とことさら冷たく言い放ち彼女の家を出た。
(いっそ絵だから良いのかもしれないけど)
そんなことを思いながら別館に移動する。古い倉庫を活用した施設にはステンドグラスが所狭しとはめ込まれていた。天使や神の栄光を伝える絵物語の端にはいつでも首を垂れて祈る人々がいる。通りすがり、外国人観光客が見世物になった神を前にして十字を切るのを横目で見て、自分自身の胸元に視線を落とす。祈る相手は別段いないな、という安堵とわずかな寂しさがある。
(別に、祈っても救われなかったし……)
あさひ学園に来るよりも前、もっと幼かったころ、時折何もかもどうしようもなくて姿かたちのない神に祈ったことがある。何ならサンタクロースに「お父さんとお母さんに会いたい」なんて手紙を書いたことがある。結局、出すべき場所が分からない手紙はゴミ箱に投げることになったけれど。
ただ今、自分の隣で何か目の色を変えて十字を切る人を見て、問わずにはいられない。
(……本気で祈れば本気で救われるのか。それでどうしようもない苦しみがぬぐわれるのか?)
答えの代わりに聞き慣れた杖の音がしてそちらに足早に歩み寄る。強面の保護者はどうだったか、とか気に入ったものはあったか、とかは聞かず、ただ一つ。
「暇しなかったか」
と尋ねた。実際暇はしなかったので「はい」と答えると、彼は僅かに目を細めた。
「……そうか。じゃ、寿司でも食べて帰るか」
帰りの飛行機の中、上昇する轟音の中で譲介はふと隣に座る保護者に尋ねた。
「裸婦画ってそんなにそそられますかね?」
あの老人とさしてたがわぬ不躾な問いを彼は咎めず、生真面目な顔で答えた。
「女の裸なんて気楽に見れる時代じゃなかったからな。アフロディーテだと言っておけば社会規範をすり抜ける」
ただふぅん、とそっけなく返事をする。僕が本当に聞きたいことはそれじゃなかった。ただ、あんな聖人と天使を見てやるせなさをを慰められるかと、それが聞きたかった。けれどもう後は口を閉ざして窓の外の夕闇を眺めていた。
ムーサ:筆記と悲劇と喜劇、物語の女神。
あるいは:神はいない。
北海道行きから3か月ほど経ってすっかり夏っぽくなったある日、ドクターTETSUの本棚にあった一冊の文庫本を引き抜いた。薄いそれが目に留まったのは、夏休みを目前に配られたどこぞの出版社のおすすめ文庫本100選のパンフレットのせいだろう。リビングの机に置いていたそれをパラパラとめくったドクターは新潮も角川も昔っから代わり映えしねぇなぁ、なんて呆れたように言っていたけれどつい数年前ならこんなもの校内のごみ箱にさっさと捨てていた身からすれば新鮮だった。その文庫本サイズのパンフレットの中で紹介されていたのがこの本だった。
概要を読んだ時、浅はかにも「なるほどドクターの本棚に入っているわけだ」と思ってしまった。第二次世界大戦中の生体解剖の功罪を巡る物語は、冗談みたいな話だがかつてコールドトミー実験の無痛の兵士生産なんかをやっていたらしいあの人に似合いな気がしたのだ。けれど最後のページまで読み終えて、疑問が浮かぶ。
(神無きこの世で、神を持たない人が「悪行」に手を貸したこの物語を読んで、あの人はどう思ったんだ?)
誰もが罪を犯し、誰かを傷つけ、神を失ったこの世界で、あの人は自身の導として自らを律する神がいないことを嘆いただろうか。それともそんなものは幻影だと嗤ったのだろうか。
そもそも、ただ理想を亡くし世の流れに流されたこの物語の主人公と、なにか理想を抱いて許されざることをしたあの人を並べるのはおかしいだろうか。
(わからない、けれど、自らを律し。自らを正しく導くものを神だというのなら、僕の神は、神は……)
***
あれから時がたち、浪人が決まった春、当代Kに問われて僕がまっすぐに向かって行ったのは27階のあの部屋だった。がらんどうの部屋に小さくまとめられた自分の荷物を漁ると、新潮の薄っぺらい文庫本もあれから何度か着た麻のジャケットも入っていなくて、それでこらえていた涙があふれ出た。K先生が迎えに来てT村に向かう間、ドクターTETSUの手紙を抱え、冬は雪が積もる場所だから、という話をどこか遠くに聞きながら、あの時雪道用の靴を買ってもらっていればそれは捨てられなかっただろうか、と土台無理な話を考えた。
まっすぐ27階に向かっていた僕の身体に、捨てられて悲しい僕の気持ちが合わさって、自分がずっと一緒にいたかったのはあの人だったことを思い知る。
(多分、僕の楽園はあそこにあった……)
神が:いたとして。
知識と芸術的霊感を授ける女神:ムーサ。
あるいは:裸のマハ。
「この子を抱いてあげて、ドクター。……私の天使、かわい子ちゃん、ねえ分かる? これが救いの御手よ」
クエイドの前のコーヒーショップで出くわした幼子を連れた若い女性がドクターTETSUの腕に赤子を抱かせた。財団内でも評判の小児科医がまだ首も据わらないような子をうまく抱く隣で、母親は静かな声で語りかける。
身体と心が一つになったとき、人は歩むべき方向と進みたい方向を知り、そこに向かってただ真っすぐに進み始める。その果てに僕が(だいぶ遠回りをして)たどり着いたのはロサンゼルスのクエイド財団だった。心と一つになった身体で、本当にたまたま偶然クエイドに顔を出したドクターTETSUの腕を引き、言った。
「一緒に暮らして下さい」
けれど30代半ばの身体は自分が思っていた以上に凄まじく正直で、そう言ったとたん真昼のクエイドのエントランスで子供のように泣き出してしまった。
「おねがいですから」
そう言って縋り付けば、どんな権力者にも媚びない人がため息交じりに「仕方ねぇ」と存外あっさり承諾した。元より優秀な医者を逃す手はないと、そのままドクターTETSUにはクエイドの椅子が用意された。詳細は不明だが朝倉会長の意向もあったらしい。
初夏の駐車場の木陰、難産だった子供を無事取り上げた腕と、それに抱かれる嬰児に触れて母親はぽろぽろと涙を流す。その横顔は、天使や聖人の前でかしずく人の顔をしている。
(何か凄まじく偉大なものに祈る気持ちが、今はわかる)
結局、僕のしるべはこの人だった。悩んだ時、自分の正しさを疑ったとき、いつもこの人を思い出した。散々悪ぶって、その実いつだって人間の可能性を諦めなかったこの人だったらこういう時にどうするだろうか、と。
いや、実際にそれが参考になったことはほとんどない。ただそうすると何となく方向性が見えてきて、それは本当に僕が進みたい、あるいは進むべき方向だったりした。その意味で、ドクターTETSUはいつまでも、あの頃から今も、そして多分これから先も僕の目指す場所を示してくれる。
「いや、示した覚えはねぇぞ」
当の本人はそう言ってベッドに横たえた裸体をけだるそうに動かした。あまりに湿っぽい形而上の話はピロートーク向けではなかったが、最終的に泣き落としで性的なふれあいまで許してくれるようになった人は別段それを咎めなかった。多分、この人は子供が泣くのに弱い。まあ僕はもう30も半ばを越した良い年の大人だけど、この人の中ではまだ子供なのかもしれない。
「そりゃそうです。あなたは結局何も言わなかった」
サイドテーブルに置いていたペットボトルの水を差し出しながら僕が言う。
この人は自分が差し出したものに対して僕からの感想を求めなかった。歌の感想も、料理の感想も、絵の感想も、本の感想も求めなかったし、それを元手に学習しろとも言わなかった。
「ただ僕があなたを見つめて、それを通して僕自身を見つめて、僕のすべきことを、進むべき道を見つけたって話です。結局神様ってそういうものでしょう」
そう言うと、目の前の元保護者はちらりと視線を動かして肩をすくめ、皮肉っぽく笑う。
「信者に聞かれたら殺されそうだな?」
「神を恋人にして生きてられた人間の方が少ないでしょう」
「多神教の話にすり替えるんじゃねぇよ」
瞼を伏せてク、と喉を鳴らして笑っている。本気で愉快だと感じた時にする笑い方だった。
彼の肌に触れて、腰のあたりを撫でる。まだ身体から性感が抜けきっていないのか、些細な動きで彼は身を震わせる。
「どっちでも構いませんよ。あなたがいるところならどこでも楽園だから」
言ってやって、鼻歌であの熱帯夜のジャズのスタンダードナンバーのワンフレーズをなぞって彼の手をとって左手の薬指に口づける。歳を経てどんな国にいても誰を前にしても、変わらず気高いあなたの傍に帰れたら、きっとどんな寒い冬でも熱帯夜でも、そこは楽園であるはずだ。
「どこで覚えた、そんな口説き文句」
「全部あんたに教わったんですよ、音楽も、絵画も、ダンスも、武術も文学も……あんたの口説き方も」
10代のころにこのとんでもない身元引受人と過ごす中で、この人は僕に様々なことを授けた。今ならブルーノートNYに行ったって気後れせずに楽しめるし、ロスの現代美術館に行ったって分からないなりに楽しめる。
そうかよ、という穏やかな返事は深々とした響きで、一緒に目が細められて、ああ、あの時彼は彼なりの顔で微笑んでいたのかと思い知る。ベッドに横たわったままの年かさの恋人の体に触れて撫でれば僅かに性感の滲んだ声を上げて息を詰めるのが楽器のようだ。けれどそれだけでなく時折くすぐったそうな吐息交じりの笑みがひらめき、わずかに開いたくちびるの合間から歯がのぞく。腹腔ポートの跡地を撫でながらその顔を見下ろし、しみじみと言う。
「……あなたは眠れるヴィーナスかとおもったけど、どっちかというとムーサだし、もっと言うならマハの方が近いですね」
還暦の大男を捕まえて女神も小粋なマドリード娘もないが、僕にとってはそれで間違いない。この手の歯の浮くようなセリフも聞きなれたらしいパートナー氏は呆れたように笑って言う。
「裸のマハはねぇだろ」
だって、今なら分かる。できるなら今ゴヤをここに呼び出してこの人の今のこの瞬間を描き残してもらいたい。(そしたらその時僕はどれだけの借金を負わないといけないだろう)僕に愛された証を刻みつけて寝台に寝そべって、どちらのものかも分からない精で恥毛をまだらに汚したのを隠しもしないその姿を。
クク、と意地の悪い笑みを添えてマハが言う。
「100年監禁しとくって?」
「プラドの地下を借りるわけにはいきませんし、あなたの腕を振るわせずに腐らせるわけにもいきませんから……もうちょっとだけ僕の腕に」
覆いかぶさっても抵抗はなかった。
「というか、アスクレピオスじゃねぇのか」
「それは大前提です」
ついでにもうひとつ分かる。結局僕はあのころ、相手を揺さぶってどうにかしたくなるほど誰かを好きにはならなかったというだけのこと。
もうめちゃくちゃだな、と腕の中で彼が目を伏せて笑った。