猫の日ダン、ダン、と体育館を跳ねるボールの音、床と擦れてキュっと鳴るシューズ。
歓声、パスを呼ぶ声。ゲームに集中している生徒たちの心地よい緊張感。
今ボールを持っている男の子は、猫のようにすばしこい動きで相手を翻弄している。
自分よりも大きな体から繰り出される妨害を振り切って――シュート!
試合を見守る女の子たちからも黄色い歓声があがった。
今日も楽しそうにプレイする子供たちを見守りながら、時計を見てホイッスルを鳴らす。
「はーい終了ー! 今日はここまで!」
「えーまだやりたーい」
ぶうぶうと文句を垂らす子供たちに苦笑いしながら「もう下校時間だから、また今度な」と伝える。
今年のクラブ活動はバスケ経験者や地域のバスケチームに所属している子が多く、ゲームもわりと本格的な試合になる。
みんなどんどん上達していって、キラキラした笑顔を見せてくれるのが嬉しい。
「じゃあ、お片付けだ! 誰が一番早くお片付けできるかな~?」
「カラ松せんせー、私たち赤ちゃんじゃないよ!」
笑いながらボールを集める女の子たちに頭を掻く。どうにも、保育士をしている弟の影響が抜けない。
生徒たちと一緒にモップ掛けをしたり、点数ボードを片付けたりして、今日の活動は終わりだ。
「せんせーさようなら!」
「みんな、気を付けて帰れよ。寄り道はしちゃダメだぞ」
体育館を友達同士固まりを作りながら出ていくのを見送って、体育館の窓の鍵が開いていないかひとつひとつ再度確認していく。
倉庫を覗き、誰もいないことを確認して施錠した。
電気を消して体育館出入口の鍵も閉める。
立春は過ぎたが、二月も下旬になると、十七時過ぎはもう薄暗い。
明るくなってくるのはまだ先だな、と思いながら校舎へ向かうと、かすかに猫の鳴き声が聞こえてきた。
それに答えるような子供の声も。
(……まだ誰か残っているのか?)
不思議に思いながら向かっていけば、体育館裏手にある庭の近くに、小さな背中を見つけた。
なぁん、にゃおんと鳴く猫が三……いや、四匹。
すりすりとまとわりつく猫たちの背中を撫でながら、返事をするようにニャァと答えている。
「……一松?」
声をかければ、びくっと肩を揺らしこちらを振り返った。
驚かせたからか、知らない人が近づいたからか、猫たちは散り散りに逃げて行ってしまう。
「猫と遊んでたのか?」
怒っているわけじゃないとわかるように、なるべく柔らかい声で伝える。
「……遊んでたわけじゃない。会議中だった」
「それは、大事なところを邪魔して悪かったな」
「本当だよ」
ふい、と猫が散っていった先に目を向けている。
拗ねてしまった横顔に、目線を合わせる為にしゃがんで手を合わせた。
「ごめんな。でも今日はもう遅いから、また今度にしてくれ」
「……夜目がきくから、平気」
「うーん、そうかもしれないが、できればもっと明るい時間にしてくれないか?」
「先生が怒られるから?」
小ばかにしたような皮肉気な笑みは、小学生がするにはやけに大人びていた。
「お前が心配だからだ」
本当に思っていることだと伝わるように、じっと目を見つめる。
先に目をそらしたのは、一松のほうだった。
「……だるい。送ってよ、せんせ」
「分かった。じゃあ、荷物取ってくるから一緒に帰ろう」
こくりと頷く背中に手を添えて、職員室へと向かう。
まだ仕事は残っているが、幸い自宅に持ち帰れる作業なので、なんとかなりそうだ。
特定の生徒をひいきするのはよくないんだろうが、一松の家は学区の端で、歩いて帰り着くころには真っ暗だろう。
両親が帰ってくるのは夜遅く、治安もあまり良くない地域なので、ほかの教員や教頭も目をつぶってくれる。
急いで荷物をまとめ、駐車場へ向かった。
「待たせたな。じゃあ、帰ろうか」
車のドアを開けると、何度か乗っていて勝手知ったる助手席に乗り込んだ。
かちゃんとシートベルトを締めたのを確認して、いつもよりゆっくりを心掛けながら車を出した。
「今日一番点とってたの、一松だったな」
ぼんやりと車の外を眺める一松に声をかける。
よく地域のバスケチームに入らないかと誘われているくらい上手いが、クラブ活動だけでいいと断っているらしい。
「……別に、今日はそうしたかっただけ」
「この間はパス回しに徹してたもんな」
一松は猫のように気まぐれに見えるが、その実組むメンバーの調子に合わせて的確に動いている。
自分の仕事を見極め徹する、職人みたいなところがあると感じる。
自分が一松と同じくらいの年の頃なんて、せいぜいあいつには負けたくないとか、かっこよく目立ちたいとか、そいうことばかり考えていたような気がするが。
「一松は、仕事人みたいでかっこいいな」
「は?」
「冷静に状況みて的確に動けるなんて、その年でなかなかできることじゃないと思うぞ。まるで、人生何度か繰り返しているみたいだな!」
そう言った瞬間、シフトレバーを握る手が一回り小さい手にぎゅっと強く握られた。
「いちま」
「――信号、変わるよ」
するっと離れた掌に気を取られていると、クラクションを鳴らされ慌ててアクセルを踏む。
触れた熱に、以前にも――何度かあったような、妙な懐かしさを感じた。
こういうのを、デジャヴュって言うんだったか。
一松の家には間もなく着いた。ハザードランプをつけ、玄関脇に停車させる。
「じゃあ、また明日な」
「うん」
無気力そうな表情でシートベルトをゆるめた一松は、ふいに運転席に乗り出してきた。
顔が近づくのを、固まったまま見つめる。
「い、一松くん? どうしたんだ」
「黙って」
じっと見つめてくる目の虹彩が、一瞬猫のように細まったように見えたが、すぐに小さい掌が目瞼を覆ってしまい見えなくなった。
「いちま」
「――忘れたままでいいよ」
「え、っと、何を?」
「……何でもない」
ふっと掌を外され、車内ライトの光に目を眇める。
一松は元通りの無感情な顔で、何事もなかったようにドアを開け出ていった。
バイバイと手を軽く振られる。彼は律儀で、車が見えなくなるまで見送ろうとする。
危ないから先に家に入るよう何度言ってもやめないので、今は諦めて発車した。
――そういえば何だったんだろう、さっきのは。
ふとルームミラーに視線をやれば、家に入る間際の小さい影から、ゆらりと猫のしっぽが揺れたように見えた。