氷蝕の檻 第二話 取り留めのない談笑が、部屋の空気を明るくする。
家族の話が主だった。話題が途切れることは無く、蛍がふと疑問に思ったことを訊いても、タルタリヤは丁寧にそれに答えてくれる。
加えて、彼は頭の回転がよく、打てば響く、といった会話ができる男だった。内緒話をするように声を潜めたかと思えば、台詞がかった俳優のような語り口調で場を和ませる。そういえばこの男は役者業もやっていたな、なんて思い出しつつ、ころころと変わる表情と巧みな話術に引き込まれ、自ずと蛍の口も軽くなる。
「――それから、相棒はどうしたんだい?」
「パイモンが叫び出したものだから、結局戦う羽目になった」
「あっははは! おチビちゃんには難しかったようだね。ほら、やっぱり最初から叩いておいた方が良かったろう」
「そんな耐え症の無いことはしない」
「タルタリヤじゃあるまいし」揶揄するような眼差しで口角を上げてやると、青年は「言うねぇ」と軽く肩を竦めからりと笑った。
目の前のティーカップに唇をつける。琥珀色がゆるゆると揺れ、やわらかい湯気が眉を隠すようにのぼっていく。鼻に抜ける爽やかな香りと温かさに思わず、ほう、と息を吐くと、その様子をじっと眺めていたタルタリヤが緩やかに目を細めた。
「美味しい?」
「うん。何の香りだろう、良い匂い」
「ベルガモット……、オレンジに似た果物だよ。それとシトラス、あとは少しだけ蜂蜜を入れてある」
「だからほんのり甘いんだね」
「ふふ、合うだろう。お袋のお気に入りなんだ。明日は、俺のとっておきを用意してあげよう。期待してくれていいよ」
「明日も来るの?」
「そのつもりだけど。駄目かい?」
「駄目、ではないけど」
この男は仮にも組織の責任者だった筈だ。あの日から毎日飽きもせず、やれ人気の菓子が手に入っただのやれ地元の名物だのと、様々な物を持ち寄っては蛍の元へと入り浸っている。
ファデュイの執行官とは存外暇なのだろうか。ふと、過去に男が自分は他国の任へ飛ばされる事が多いんだ、などととぼやいていた記憶が蘇る。……ひょっとして、干されているのでは。トラブルメーカーもとい歩く災厄のようなこの男なら正直有り得る。なんだか少しだけ憐れな気持ちが湧き起こり、自然と眉が寄った。
「……相棒、今すごく失礼なことを考えてるだろ。心配されなくても、サボってなんかいないしこう見えて仕事の効率は良い方なんだ。伊達に執行官はやっていないよ」
「そう。うん。でも、無理して来なくて良いから」
「あのさぁ……」
困ったような参ったような顔で頭を搔くタルタリヤに耐え切れず吹き出すと、「こら」と長い指が伸びてきて、蛍の額を軽く弾いた。
「いたっ」
「お兄ちゃんを弄んだ罰だ」
「弄んで無いしタルタリヤはお兄ちゃんじゃない」
「あははははっ」
額を抑えじとりと睨めつける少女に、青年は愉快そうに肩を揺らす。結局また彼のペースだ。かつて共に旅をした時もそうだった。タルタリヤは、「お兄ちゃん」がとても上手い。
「まあ、実際相棒といると楽しいからね」
青年はそう言ってにっこり笑うと、話題を一区切りして首を横に向け窓の外の風景を眺めた。
「君とこんな時間を過ごすのも久しぶりだ」
「とんだ皮肉だね」
「全くだ」
少しだけ冷めてしまった紅茶を一口すする。液面に浮かぶ自分の顔がどうしようもなく情け無く思えて、直ぐにカップを置いた。気が付けば、青年がまた此方を見詰めている。
「タルタリヤは、旅に同行して楽しかった?」
「もちろん。あんなに新鮮で心躍った日々は初めてだったよ」
「そっか」
「そうさ」
「……アヤックスの冒険、みたいに?」
「ふっは! そうだね。読んでくれたんだ」
「うん。とても面白かった」
「だろう?」
破顔し喜色に顔を綻ばせるタルタリヤを横目に立ち上がった蛍は、ベッドのサイドチェストから一冊の本を取り出す。経年劣化でぼろぼろになった装丁にはずいぶんと読み込んだ跡が残り、かつて少年だった彼が、どれ程長くこの本と共にあったかを察することが出来た。
「貸してくれてありがとう」
「これは、君が預かっていてくれないか」
「えっ、でも……どうして?」
「なにが?」
「大切な物なんでしょ」
手渡そうとした本をそっと手で制したタルタリヤは、蛍の言葉に僅かに目を見張ると「そうだね」、と息を吐く。
「だからこそ、相棒に持っていて欲しいんだ」
青年は少女の手の中にある古い表紙をゆっくりとなぞる。伏せられた睫毛の隙間から覗く海に揺らめくのは、遠く過ぎ去った雪原への郷愁か。はたまた何か別の感情なのか。蛍にはわからなかったが、彼の心の一片を受け渡されたような気がして、きゅっと唇を引き結んだ。
「……預かるだけだよ」
「そうしてくれると嬉しいな」
その笑顔があまりにも少年じみていて。
蛍は唾を飲み込み、喉から小さく空気を押し出して、声を出す。
「――ねえ、あなたに」
ふいに、硬い音が響く。
「すまない、ちょっと待っていてくれるかい」
「……うん」
規則正しく2回鳴るノック音に、青年はふと目線を上げると蛍にひとこと言い残しドアの外へと出て行った。そして暫しの間、扉の向こうからくぐもった声がしたかと思えば直ぐに戻ってくる。
「待たせたね」
「いいよ、仕事なんでしょ。また悪いことをしに行くの?」
「ははッ! 今回はもっと悪い人を懲らしめに行くんだよ。これでも一応、国の為に働いているからね」
「干されて無くて何より」
「……君ほんと俺のこと何だと思ってるの?」
「鼻摘まみ者のファデュイ執行官第十一位公子様」
「流石は相棒、よくわかってるじゃあないか」
「いひゃいってば!」
ぐいぐいと指先で頬を摘まれ、痛みから声を上げる蛍をタルタリヤはけらけらと笑う。離されてからもじんじんと熱を持つ頬肉を擦っていると、大きな掌が頭の上に置かれゆっくりと撫でられた。
「明日はかなり遅くなるだろうから、来られそうも無い」
ごめん、と眉を下げる青年を見上げ、ぱちぱちと瞬きをした蛍は小さく笑い掛ける。
「そんなこと気にしないでいいのに」
「寂しくないかい?」
「タルタリヤこそ、わたしのこと何だと思ってるの」
「俺はお兄ちゃんだからね」
「だからあなたはわたしのお兄ちゃんじゃないって……はあ」
首を傾げながら此方を見る生微温い視線に耐え切れず、つい目を逸らす。再会してからやけに距離が近くスキンシップが多い青年に、蛍は正直戸惑っていた。
けれども、そのじんわりと擽ったいようなそれがまた、張り詰め続けた心の支えにもなっているのも事実で。
「ありがとう、タルタリヤ」
小さく礼を言うと、タルタリヤはなぜか苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……やっぱり、遅い時間になっても立ち寄ろうかな」
「寝てるから駄目」
「試験薬だなんて、そんなもの飲む必要無いだろ」
「拒否権は無いよ」
「アイツが戻り次第、直ぐに話をつける。だからもう少しの間だけ、辛抱していてくれ」
「わたしは大丈夫。それよりも、明日は仕事があるんでしょ?」
窓外の日はすでに傾き、空の淡い青が、より深みのある青へとゆるやかに推移していた。どこか名残り惜しそうに席を立つ青年から目を伏せ、羽織っている薄い水色をしたカーディガンの合わせ目を握り込む。滑るような肌心地で、驚くほど柔らかく暖かい。再会した翌日に贈られたものだった。
本、茶葉、食器、オルゴール。殺風景だった部屋に少しずつ増えていくそれらに、少女は。
「じゃあ、また来るよ。相棒」
「またね、タルタリヤ」
青年の背を見送り閉じた扉の内側で、手に持ったままの本をそっと撫でる。今更、何を聞こうとしたのか。
「……答えなんて、分かりきっているのに」
◆
「公子様。先程はお取り込み中のところ申し訳ございませんでした」
「いい。――首尾は上々のようだ。計画通り、明晩は俺が出る」
「……恐れながら、公子様が直々に出られなくとも、我々だけで実行可能かと」
「君達に任せるより、俺が処理した方が確実で早い。違うかい? 少しは自分達の至らなさを恥だと思え」
「はッ、失礼致しました」
「失敗は許されない、手筈を誤るなよ」
傅く部下を横目に歩く男に先のような笑みは無い。
そこに居るは、極寒もかくや凛烈たる空気を纏った冷徹な執行官。氷の女皇の美しき刃、非情なる先鋒。
「早急に片を付ける」
白と金が、心の片隅で儚げにひらめいた。