氷蝕の檻 第一話 暗幕に冴える銀月が白白と廊下を照らしている。
冬の宵のしんしんとした凍てた空洞のような静寂を、軍靴の硬い音が裂くようにして響く。白く浮かび上がり天井高く並び立つ石柱が、足早な速度に合わせ斑な影をつくり、ひらめいた外套から微かな錆臭が鼻を突いた。
凛々たる空気が運ぶそれを意に介すこと無く、青年は黙したまま歩を進める。
「ここを通してくれるかい」
「公子様……?! もっ、申し訳ありませんが、部屋には誰も入れるなとの命を」
「君に指図を受ける謂れは無いよ、いいから引いてくれ」
「で、ですが……っ」
「何度も言わせるな。下がれ」
斬り捨てるような語勢だった。
抑えていた苛立ちの堰が切れ、不愉快で堪らないといった絶対零度の眼差しが、立ちはだかった男を貫く。臆してがたがたと震える身体を後ろへ引いた兵士の前を、青年は大股で過ぎる。間際、薄い唇に氷のような微笑がひかれた。
「分かれば良い。次からは間違えるなよ」
厳しい鉄の彫刻を施した観音扉を、低く太い音を立てながら開け放つ。蝋燭の火で薄ぼんやりとした内廊下からは濃密な元素の反応が漂い、思わず口端を歪める。全く厳重なことだ。
急き立てられるようにして進んだ先。木目の際立つ重厚なドアを音もなく開け、細い隙間からするりと室内に入り込み視線を上げる。
白百合の如き少女が、霜夜の月明かりにぼうと青白く浮かんでいた。
「やあ、旅人」
息災かい?
返事は無い。少女は外を眺めたまま微動だにしない。
後ろ手でドアを閉めると、青年は気にすること無く鷹揚とした足取りでカーペットを踏み歩く。
天蓋のついた寝台と小さな椅子とテーブル、小造な本棚。窓からさしこんでくる月の光は様々な事物の影を長くのばし、まるで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと淡く壁を染め、殺風景な部屋の寒々しさが際立つ。
「寒いだろう」
三歩半、少女との距離を開けたところで青年は再び声を掛ける。少女は薄着であった。常時の戦装束では無く、恐らく用意されたものであろう大きく襟ぐりの空いた膝丈の白いワンピース。剥き出しになった華奢な二の腕と細い素足が見慣れぬせいか、彼女をより小さく、儚く見せる。
青年は自らのコートを脱ぎ少女の肩へかけてやろうとして、やめた。代わりに、すっかりと灰が積もった暖炉に薪を焚べて火をつけ、椅子に掛けられたブランケットでそっと背を包みこんでやる。
少女はまだ振り向かない。
「スネージナヤの冬を舐めてはいけないと言っただろう? これでは風邪を引いてしまう。君は、こんなところで死んでしまっては駄目だ」
「……あなたと戦うために?」
小さな唇から漏れる声は透き通るようだった。
ようやっと、自分に向けられたそれに青年は頬を緩めると、演技がかった大げさな身振りと声色で、少女の背に語りかける。
「そうだとも! 君は唯一無二の、俺の相棒だ。ここで躓かれてしまっては困る」
「世界征服も、見届けなきゃいけないんだっけ」
「当然。忘れたとは言わせないよ、約束は絶対だ」
「ふ、ふふ……っ。相変わらず自分勝手」
ゆっくりと振り向いた少女の金糸が仄かに煌いた。蜜を煮詰めたような瞳は、柔らかな暖炉の火を吸い込み黄昏色に染まる。直に部屋も暖まるだろう。
「思ったよりも元気そうで安心したよ」
「うん。……公子、どこか怪我してる?」
「ああ、いや。これは俺のじゃあないんだ。だから無傷だよ」
「そう」
「もしかして心配してくれた? 相棒は優しいなあ」
「してない」
煩わしそうに柳眉を顰める蛍に微笑みかけつつ、タルタリヤは少女の身体をさっと横目で見遣る。細い手足に所々巻かれた包帯。打撲痕や傷跡は見当たらないが、白い鎖骨の中心部にはファデュイの紋章を意図した印が刻まれている。元素を封じ込めるためのものだろう。まっさらな雪原を汚すようなそれに、青年の心がさざなみ立つ。
「……どうしたの?」
「ん。これが、少し気になってね」
「痛みは無いかい?」
手首の痛々しげな包帯にそろりと指を這わせる。蛍はくるりと目を丸くしてから、ふっと口元を綻ばせた。
「痛くないよ」
「本当に? なにされたの?」
「本当。ちょっと血を採られたり……、あと、少しだけ皮膚を切られただけ。簡単な実験だって」
「チッ……あの変態め」
天神像の加護が届かないこの地では、負った傷が中々治らないのだろう。
歪んだ笑みを仮面から覗かせた執行官が脳裏に浮かぶ。
自身の実験の為ならば吐き気を催すような手段も犠牲をも厭わない、武人とは掛け離れたあの男とタルタリヤは、とことん相性が悪かった。毒物のように最も耐え難い種類の険悪が湧き上がる。よりにもよって、蛍が捕まった相手がこいつだとは。想定していた中でも最悪だ。
「ふふふっ」
小さく鈴が転がる。
「……何を笑ってるんだい」
「わたしよりも、あなたの方が参った顔をしてるから」
なんだか可笑しくて、と、くふくふと笑う少女に、一気に毒気が抜かれた。報を受けてから直ぐ様駆けつけたというのにと言うべきか、少女の無事に安堵したことを伝えるべきか。
言葉に詰まり眉根を寄せる青年の目下で、ゆるりと星が瞬く瞳が持ち上がった。そこには諦めの色も、絶望も見られない。ただひたすらに真っ直ぐで純粋な輝き。
それでこそ俺の相棒だ。
「ふっ、は、あっはははは! 全く以てその通り。俺は君が君であることを、すっかり忘れてしまっていたようだ」
「なにそれ」
「君はそのままでいてくれれば良いってことだよ」
「よくわからないんだけど」
訝しげな顔をする少女がより幼く見えて。つい、妹にするように手を伸ばし、くしゃりと頭を撫でる。なぜだかされるがままの、さらさらとした金糸を指で遊ばせながら、タルタリヤは安心させるような笑みをつくった。
「とにかく、俺が戻ってきたからには悪いようにはさせないよ」
「どうにかできるの?」
「少しだけ時間が欲しい。だけど、約束する」
「待っていてくれるかい」
タルタリヤの言葉に、蛍は儚げに微笑むと小さく頷く。なんとなく気が落ち着かない。誤魔化すようにしてわしゃわしゃと柔毛を撫でくり回すと、少女から非難の声が上がり、青年はまた声を上げて笑った。
「そろそろ戻らないと。もう遅いから、相棒も眠ると良い」
「結局、タルタリヤは何の用でここに来たの?」
「んー……生存確認?」
「ぷっ、ふふ、ふっ…、そう。ふふっ」
「笑うことないだろ。まあ、安心した」
止まらぬ笑みが溢れる頬をぎゅっと摘んでやる。「いひゃい」と返ってきて、それにすっかりと青年の溜飲が下がった。
「それじゃあまた明日も来るよ。おやすみ」
「……うん。おやすみ」
最後にまた蛍の頭をひと撫でし、タルタリヤはこれからどうしたものかとの算段を立てつつ背を向けてドアノブに手を掛ける。その為、重厚な扉が閉じる寸前。少女の瞳に浮かんだ色に、青年が気付くことは無かった。
◆
誰もいなくなった部屋で、パチパチと薪の爆ぜる音だけが響く。蛍は肩に掛けられたブランケットを羽織直し、窓際へと向かう。
白鉱石を四角に組んだ窓は雪のある庭に面していた。ガラスに結晶する氷紋がチラチラと舞う純白を反射して美しい。
「また、明日」
先程青年から掛けられた言葉を、小さく、宝物のように復唱する。凍りつかせた心がほんの少しだけ溶けだすように感じた。
大丈夫。わたしは、大丈夫。
胸の前で組んだ指先をぎゅっと握り締める。
捕えられてから幾度日が昇り落ちていったのか。とうに数えることを止めてしまったが、少女は諦めるつもりなど無かった。例え、元素を封じられようとも。人としての尊厳を奪われようとも。
外廊下の扉が開く気配がして、蛍は俯向かせていた顔を上げる。彼がまた戻ってきたのだろうかと胸が弾む。
だが、その僅かな期待は直ぐに裏切られた。ゆっくりと近付く、泥泥とした欲の気配を隠すこと無く纏ったそれに、喉元から渦巻いた吐き気が込み上げる。
大丈夫。わたしは、大丈夫。
月の光が雲に隠れ影をつくる。
少女の表情は、もう見えない。