無題轟音が、遠くで聞こえる。
一体、何だ。
ああ、それは、…水か?
そうか、水が叩き付けられる激しい音がするのだ。
―覚醒。
桐生が目を開くと、視線の先に大きな滝があった。
苔生した堅牢な岩。流れる水は飛沫を上げて流れていく。どこから来て、どこへ行くのか。滝の向こうも、流れ落ちた川の先も、霧に巻かれているかのように白んで見えない。何とも不思議なものだ。桐生は横たわる身体を起こす。柔い草の感触。背の低いその碧達に混ざって、すうっと一本、伸びている緑。座り込んで視線だけ先を追うと、そのてっぺんに太陽のような大輪の花を一つ、戴いているのが見えた。花は桐生に背を向けて、つまりは滝の方を向いて咲いている。よく見知った向日葵は、この空間に異質だった。風も無いのにたなびく草の合間から、小さな花が咲いているのも見える。同じ花だ。淡い黄色や、水色のそれだって可憐で美しい。それなのにどうしても、その絢爛な橙に惹きつけられる。うねる草原に、何にもなびくことなく、一人そびえ立つその花に。
この空間の居心地は悪くない。
しかしながら気味が悪い。
このうねりの水源が分からないのと同じように、桐生もまたなぜここに自分が居るのかがさっぱり分からなかった。
「どういう事だ、…?」
立ち上がり、滝に向かって数歩歩き出す。思ったより、距離があるようだ。進む。後ろを振り返る。もう、自分が何処にいたのか分からなくなった。他の全てはモヤに溶けて、あの向日葵だけが辛うじて霞んでいる。花が自分を見ているのか、自分が花を見ているのか、分からなくなる不思議な感覚に襲われた。更に進む。振り返る。…もう全てが、白に霞んで消えた。
「滝…だな…」
暫く歩くと、滝壺のほとりに行き着く。荘厳な滝は、しかしそれ以上でもそれ以下でも無かった。轟々と音を立てて流れる水は、不可解な事にこれだけ近付いても、来る先も、行く先もぼやけて見えないのだった。
適当な岩に腰掛けて、滝の流れる様をぼんやりと見つめる。
水の音だけが響いている。
居心地は悪くない。
だが、気味が悪い。
その時、飛沫をあげて透ける白の中に、何が揺らめいた。
煌めく、赤と白のコントラスト。
あれはそう、あの背中に登り踊っていた、かつての鮮烈。
「錦…、」
ぽつりと呟いたその言葉に桐生は何も期待していなかった。ただ自分の思考の発露、それだけでしかなかった。
だから、心底驚いたのだ。
滝の流れ落ちる麓、そのうねりが一層大きくなり、ざばりと何かが顔を出す。
濡れた髪は後ろに撫で付けられているのではなく顔に貼り付いて、信じられないとでも言った目で、桐生を見て。
「桐生…、?」
「錦ッ」
「来るなッ」
立ち上がり、桐生は錦を引き上げようとまさに水の中に足を踏み入れようとしていた。だが予想もしない兄弟の言葉に竦んで止まる。
「錦、何で、」
「あー、…クソッ。それは俺の台詞だ。桐生、そのまま居ろよ、俺が行く、」
懐かしい声に、桐生は何とも言えない気持ちになる。だが、対峙する男は何とも複雑な顔をしていた。ざばり、ざばり。白いスーツは水を吸って重そうだ。そのまま陸に上がろうとして、足を取られたのかぐらりと男は傾いた。だから、咄嗟に動いてしまったのだ。
宙に放られた手を掴むと、そこには確かに実体があるように感じられた。…ヒヤリとした、血の通わない冷たさも。そしてそのままぐいと腕を引くと、不可思議なことに失われたはずの兄弟の身体が確かにその手の中にあった。
「馬鹿ッ、俺が行くって言ったろ!何で大人しく待ってらんねえ。お前まで落ちたらどうすんだ!」
「…。」
「おい、桐生!聞いてんのか!」
「…本当に錦なのか」
問い掛けに、男は罰が悪そうに桐生を見た。
「俺は、俺のはず、だ」
「…もう二度と会えないもんだと」
「…俺だって、もうお前に会うつもりは無かったよ」
離せよ、そう言って錦山は桐生から身を離す。不思議なことに桐生のスーツは全く濡れていなかった。そして、錦山もまた、同様だった。彼はさらりとした前髪を掻き上げようとして、そして手を止める。
「まあ、お前の前だからいいや、このままで」
歳を取ってなお、桐生にとってはその髪型こそが、錦山らしかった。
「…ここは、何なんだ」
「さあ。何なんだろうな。でも少なくともお前が来ちゃいけない所だろ」
俺がいる以上はな。
錦山は真剣な顔をしてそう言った。
「お前さ、何かあったのか?」
「…何か、あったのかな、…」
「お前なあ。どうせまた変なことに巻き込まれてんじゃねえのか?人の世話焼くのもいいけどよ、ちったあ自分の事大事にした方がいいぜ。…ああ、俺が言えた義理じゃ、ねえけどよ…」
「…」
夢なのか。何なのか。もう一度、話せたら。ずっとそう思っていた。それなのに、いざ会うと、大した言葉が出てこなかった。だが、今の錦山は最期のあの顔をしていた。錦山組組長のあの冷徹な面差しではなく、兄弟としてのあの柔らかい表情を。
「錦、」
「帰れよ、桐生。お前はここにいちゃいけねえ。まだ来るには早すぎる」
「…帰りたくねえ、」
「お前を待ってる奴がいるだろ、たくさん」
「どうやって来たのか覚えてもねえのに、帰り方なんか分かんねえ」
「そんなの気合で何とかしろよ、いつもみてえに」
「…、一緒に来て、くれないのか」
桐生の言葉に錦山は俯く。
「…行けるわけねえだろ、」
「でも、」
「俺は、死んでる」
錦山がそう言った瞬間に、世界の色が反転する心地がした。
「嫌だ。連れて行く」
「バーカ、大人しく着いてく気も、更々ねえよ」
そうだ、久し振りに喧嘩でもするか?と錦山は腕まくりをして、笑った。
「何でだ、」
桐生はぽつんとそう言った。
「やっと会えたってのに、」
「…本当はもう、会えねえ方が良かったのさ」
「何でそんな事言うんだ」
「引き摺るだろ、オメーは。だからな、これっきりだよ、これっきり。相変わらず、世話が焼ける…、」
「嫌だ、」
「…悪かったよ、一生付き纏ってやるなんて言ってさ」
「…俺は謝って欲しい訳じゃねえ」
「おーおー、拗ねちゃって。機嫌直せよ」
錦山は笑う。そして胸のポケットを弄り、煙草はそういや無いんだったと、また笑う。少しだけ深く拠る、口元の皺。見知った顔から、10年分歳を重ねて、だがそこで止まっているのだと、桐生は一人思う。その感傷が顔に出ていたのか、錦山は居心地が悪そうに唇を尖らせた。
「…大体よぉ、お前がいけねえんだぜ。ちょっと起きるまでの間、見守ってやるだけのつもりだったのに。俺の名前なんか呼んじまうから、」
「俺が悪いってのかよ、」
「はは、だからそう怒るなって。悪かったよ、お合子ってところさ…、お前が呼んで、それでうっかり俺は応えちまって。だからここにいる」
「じゃあ何でったってこんなに遅ぇ。…ずっと、話したかった、」
「俺だってそうだけどよ、今更どのツラ下げてオメーに会えるんだって話だろ…」
消え入るような錦山の言葉に、気にするな、と桐生は言えなかった。その言葉を掛けてやりたい気持ちは山々だったが、しかし錦山が奪っていったものは沢山あった。あまりにそれは大きすぎて、もう桐生一人が許す許さないの話では無くなっているのだ。
「…ここは何処なんだ」
仕方がなく、話を反らす。先程とぼけていた錦山はふうっと息をついた。
「…そりゃあ三途の川ってえ所じゃねえの?お誂え向きの水場だしな。まさか川そのものじゃなくて水面が境界線になってるとは思わなかったけどよ。案外そういうもんなのかね?」
「じゃあこのままお前と帰れば、」
「だからそれは出来ねえって言ったろ」
そんな事がしたくてわざわざ来た訳でもねえ、と錦山は言った。
「桐生、オメーに言いたいことがあってさ、」
風もないのに、長髪が揺れる。