生存if錦(病み)が桐(健康)を殺そうとして出来ない地獄みたいな話①(仮題)こんこんと眠り続ける眼の前の男を、錦山は黙って見ていた。余り飲まないように気を付けていたはずだったが、半身に色濃く残った火傷の痕が摂取したアルコールに酷く熱を持つ。コップを手に取ろうとして、右手に力が入らず錦山は舌打ちをした。
「ザマァねえな」
思わず漏らした言葉は、男に言ったのか、自分自身に言ったのか、錦山自身にもよくわからなかった。眠りこけた男の顔はもちろん精悍な、髭も生えた成人男性だ、―そして若干年嵩でもある―、が、存外錦山にはあどけなく映った。最も男と錦山の年齢は変わらないのだから、その印象は些か錦山自身にとっても不思議に思えた。男は眉を顰めている事が多くこの弛緩した表情を起床時に見ることがあまり無いからなのか、それともこの男と幼少期から長く過ごしていたせいでそう感じるのか?少しの思考が巡る。しかし、まあ、どちらにしてもくだらない考えだと錦山は断じた。
机の上に乗っている空き缶は、そう多くはない。錦山はそもそも最早満足な身体ではなく、結局一缶飲むのがやっとだった。だから眼の前の空き缶の殆どは、眠り続ける男が飲んだものだ。らしくはなかった。男は酒に強く、缶物のビールや酎ハイ、しかもたかがこの本数で酔い潰れるのは珍しかった。あり得ない、と言っても良かった。
勿論それが、ただの酒であればの話だが。
錦山はおもむろに融通の利かない片腕で男の顔に触れてみる。熱を持った火傷の痕に、男の体温が重なりヒリつきに顔をしかめた。接触に一瞬ぴくりと男は震えたが、目を覚ましもしない。呑気なもんだと思い、そうしてそれもそうかと錦山は一人で笑う。
狭い台所のゴミ箱に、薬剤のシートが捨てられている。あの爆発事故の生還から、錦山は自身がまた、少し壊れたように感じている。爆発に巻き込まれた身体は勿論だが、眠れない。自分が失ったもの、また奪ってきたもの。かつての裏稼業では目を背けて走ってきた。だがその全てから距離を置き平穏となった今になって、まるで淀んだ沼から上がるあぶくの様に後悔が心を苛む。夜は特にそれが顕著で、不気味に頭が冴えて眠りにつくことが出来なかった。リハビリや療法だけでどうにかなるものでもなく、結局錦山の身体と精神は薬の服用を必要とした。従って彼の手元には常にそれらがある。ただ今夜の分は既に使ってしまった。自身にではない。目の前の男に、である。
「お前って本当に、どうしようもねえよな」
錦山は一人呟く。計画の遂行が、あまりに容易く呆気なかったからだ。
最初に数缶を飲ませて、その後冷えた新しいものを持ってきてやるよと言えば、最初は身体の動きが未だままならない錦山に遠慮をしたものの、結局それに甘えてきた。台所に行き、冷えた缶を取り出し無事な片腕でプルトップを引くと小気味の良い破裂音がする。一口拝借し、そして予め砕いておいた薬をさらさらと中に流し込んだ。そして片手で缶を振り、中身を少し混ぜる。ちゃぷちゃぷと音がする。缶なので中身は見えないが舌触りで勘付かれると面倒だ。きちんと溶けると良いが。最も既に若干は男も酔っているだろうから、多少の事では気付きはしないかもしれないと錦山は一人思う。
「悪い、ちょっと手間取った」
「こっちこそ悪いな、…ん?開けてくれたのか」
「それ美味そうだったから、俺も一口貰った」
実際には缶を開けてから手渡しする意味付けと、薬を混ぜる時に溢さないためであったが。俺は前みたいにはガバガバ飲めねえからさ、と錦山が続けると、そうか、と男は言って何の疑いもなく缶を受け取った。そして少しそれを煽り、確かに旨い、と短く続けた。
晩酌が続く。自身で服薬するのとは違いなぜかなかなかに効くのが遅く、じれったい。元々、久しぶりに酒が飲みたいと声を掛けたのは錦山の方だった。身体は大丈夫なのかと面食らったように男は言ったが、最近は体の調子もいいし、主治医から許可も出たからと押し切ったのだ。だが万一のことがあったら、という事で住むアパートの一室で飲むこととした。当然、そこまで織り込み済みである。だがそうした経緯である以上、自身も飲まない訳にはいかない。久々のアルコールに傷が疼き、一方頭はぼうっとしてきていた。もちろん病院から飲酒許可など一切降りていない。これは想定外だったなと思う。何なら少し眠くなってきていた。薬も飲まずにこんな事は珍しい。酒のせいか。いや何なら喋り疲れたのかもと思い、そして頭を振る。違う。そんな事あるはずがない。基本的に錦山は男と距離を置き、敢えて必要以上の会話はしないようにしていた。何ならなるべく避けていた。気を許したこともないはずだった。そう努めていた、はずなのだ。
「久々に腹割って話した気がするな」
そう考えていた所、まるでそれを肯定するかのように男は少し笑って言った。錦山の心境などお構いなしだ。思わず錦山が男を睨みつけた瞬間に、ガクンと男の首が項垂れる。
やっとか、と錦山は思った。
寝息がすうすうと聞こえて、静寂を実感する。最初点けていたテレビは、いつの間にか消されていたようだ。
「もう10年前の俺はどこにもいねえんだよ」
ずっと吐き出したかった言葉はしんとした部屋で嫌に響いた。眠る男に投げつけたそれに、当然返事はない。返事が無いことが錦山を安心させた。意識のあるうちに言えば、男が何を言うかなど手にとるように分かっていた。
『錦は、錦だろ』
少し困ったような顔をして、そうのたまうであろう事が余りに容易く分かるから、そしてそれが堪らなく不快だから、こんな時でもならないと言えないのだ。
男の兄弟分としての錦山彰はとっくに死んだ、と、誰でもなく錦山自身が思っている。
だが眼前の男はそうは思わないらしかった。病院に迎えに来た男を見て、やはり改めて錦山は愕然とした。自分はこんなにも変わらざるを得なかったのに、男は何も変わっていない事が憎らしかった。まだ身体も動かないだろうと男は錦山を自らの家に連れ、そこから奇妙な同居生活が始まる。退院直後は勿論、今以上に身体は動かなかった。世話になっている身ながら、酷く冷たく接してやった事もある。敢えて昔と違う行動を取った事も。いっそ追い出してでもくれればいいとやけになる錦山に男は何も言わなかった。静かにただ受け入れようとしていた。その態度がまた、錦山の劣等感を煽ることなど知りもせずに。
今の錦山にはこの生活の何もかもが、歪に煩わしく感じられた。組の人間では最早無く、兄弟という肩書には何の意味も無い。一度錦山自身の手でかなぐり捨てた縁でもある。男が何をしたいのか、錦山にはよく分からなかった。分かりたくなかったと言ったほうがいいのかもしれなかった。友人と呼称するには余りに拗れすぎていて、だが恐らく真に男が求めているのはそれなんだろうと錦山は思う。自身の理解者で、良き兄弟で、友人だった、かつての錦山彰を。だが、それはすでに過去なのだ。優子は還らず、そして澤村由美も風間新太郎も、もういない。
それでも世界は何の変哲もなく回っていくのだから、その墓標の群れに錦山彰という名前も加えてくれないかと錦山は思っている。男がいくら期待をしていても、ソレは既に死んだのだ。そして死に続けながら藻掻いた10年、それで得たものすら奪われて自分には何も無かった。錦山は男の人生から10年を奪い、そして10年後に男は錦山から何もかもを奪っていった。だからおあいこだ、等とは今の錦山には思えず、だから男の態度はなおも酷く不遜で、我儘で、欲が深く、己を苦しめる物としか映らなかった。そして一方、男といる事に慣れてしまいそうなのも怖かった。男の隣に立ち続けることはとても苦しかった。もうあんな頃に戻りたくはないのに、男はそれを望み、そしてあろうことか応えようとする自分がいることに、最近気が付いてしまったのだ。
そして結論頭がおかしくなりそうになり、…薬の数を増やした。
男がいる限り、男の中で10年前の錦が生き続けている限り、この地獄は続くのだと錦山は最近考えている。つけたケジメに、エピローグがあるなんておかしな話じゃないか。
「いい加減終わりにしようぜ、桐生」
一人呟く錦山の手には、ロープが握られていた。