御教材 ある日、主が欲しいものがある、と言ったのは、かなり珍しい事だ。
「活版印刷機が欲しいんだけど」
そう告げられたナックは、少しの間、思考が停止した。
「えっと…な、なるほど、印刷機ですか。何にお使いになるのでしょうか?」
「良かった、この世界はやっぱり活版印刷なんだね」
「そうですね、私たちが住む中央の大地を中心に、印刷技術は活版印刷が主となっております」
「でもまぁ、印刷機なんて産業用だよねぇ」
「そうですね…個人的に御使用になる事は不可能ではございませんが…主様は印刷機を何にお使いになるのですか?」
「そうだよね、高いよねぇ。そんな予算無いよなぁ」
「いいえ、このナック、主様の御所望とあれば、何でも手に入れましょう!」
「いいの、要らない。言ってみただけ。この世界の印刷技術が知りたかったの」
「そうなのですか…?」
「うん、そうそう。だから、気にしないで。」
それから主は、自室に篭もる時間が多くなった。何かを作っているらしい。時折、バスティンから木片や彫刻刀を借りているらしかった。元々、主は手先が器用だ。何かと自分で作ってしまう所がある。裁縫を除いて。
そして、しばらくして、海綿を探している、という話だった。ロノからストックを貰うと、今度はインク、だそうだ。何を作っているのかはよくわからないが、それはきっと、素敵なものなのだろう、と、執事たちは黙って見守っていた。
ある日、主はミヤジを部屋に呼んだ。きっと、ついに完成したんだ、そんな期待が執事たちの中をかけ巡る。なかなかの時間を費やして主が作っていたのは、印章のような物だった。
「これね、私の世界ではスタンプっていうの。これを、こう…文字列を並べて、インクを染み込ませた海綿に押し付けて、紙にペタッてすれば…ほら、できた」
「これは…主様はやはり凄いね、こんな物を作ってしまうなんて」
「不格好だけどね。これで、自由に教材を作れるし、量産できて配布できる。書籍が買えない子にも、ミヤジが不在の時だって、勉強をさせてあげられるでしょ。」
既に仕上がっている増刷されたプリントを見て、ミヤジは言葉に詰まった。自分の事は怠惰なのに、他人に対しては身を削る事も惜しまないのだ。
「プリンター無くて手書きとか、辛過ぎるんだもん。作っちゃえば早いし」
丁寧に挿し絵まで入っており、それも手彫りだった。自ずから描いた絵を版画にしたのだろう。
「主様は…本当に…」
主の顔を見ると、隈が浮かび上がっていた。思わずミヤジは主を抱き締める。自分より何倍も小さい身体、それは時に考えもつかない事を生み出す。子供が嫌いだ、と言いながら、こんな事をするのだ。
「主様は優しいね…優し過ぎるよ…私は主様が心配だ、私にとって主様は大切なんだ…失いたくない」
大袈裟だな、と主は豪快に笑う。
「下準備はその後を楽にするための必須アイテムだよ。これからの未来を担う子どもたちにはちゃんと、思考力を身に着けて欲しいからね。思考力は教養があってこそだし、教養は教育が基盤だ。」
主は少し真面目な顔をする。
「世界が賢くならなくちゃ。愚行で、私の可愛い可愛い大切な執事たちが蝕まれるなんて御免だからね。」
なんて人なのだろう、とミヤジは思う。これも全て私利私欲だと言い張る主に、どんな言葉を返すべきか、彼は手札を何も持っていなかった。
END 2023.10.15
改定 2023.11.04