未完　クーラーの効いた部屋で向かい合う。教科書を積み上げていく俺を、無一郎さんが眺めている。
「貴方自分の宿題は？」
「終わってるよ」
　夏休みが始まって一週間も経っていないのに。高校生の課題は中学生の宿題よりも量も多くて難しいだろうと思っていたけれど、そうでもないのだろうか。
「あんなの一日あれば終わるでしょ」
　無一郎さんが例外だっただけらしい。興味なさげに指さされた先、部屋の隅に放られたワークの山は到底一日で終わる量じゃない。
「うわっ、出たよ天才」
「なんか褒められた感じしないな」
「褒めてますよもちろん。さすが天才棋士さまですねぇ」
　適当にあしらいながらページをめくる。ぞんざいな扱いでも、無一郎さんが機嫌を損ねた様子はなかった。
「早く終わらせてね」
　それどころか、なんとなく嬉しそうな無一郎さんに、こちらはいつも居心地が悪くなる。自分のことながら可愛げのない子供を相手に、楽しくもないだろうに。
「……生憎天才じゃないので。一日二日じゃ無理ですよ」
　捻くれた言葉を返してもまた嬉しそうに笑う。その理由を考えようとして、やめた。

　二人きりの部屋。外の厳しい暑さから切り離された空間で、蝉の声も窓越しに小さく聞こえるだけだった。室内には暇を持て余した無一郎さんが適当に雑誌を捲る音と、俺が鉛筆を走らせる音だけが落ちている。
　夏は嫌いなのだといつだか言っていた。涼しげなこめかみに汗が流れる。夏の日の記憶。言っていたのは、どっちだっけ。
　真っ黒な隊服が気になって「暑くないんですか」と聞いた覚えがある。それなら昔の記憶か。「暑いに決まってるでしょ」なんて呆れて笑ったその人の首筋にまた汗が流れて、ぼんやり見とれてしまったのだった。
「夏、好きですか？」
　暇そうにしていた無一郎さんに問いかける。パッと顔をあげた無一郎さんはやっぱり嬉しそうだった。長い髪がさらりと揺れる。覗いた白い首筋は空気に冷やされて、汗一つかいていない。
「好きでも嫌いでもないけど……」
　急な質問に少し面くらいながらも答えてくれる。その手が引き寄せた麦茶からカランと氷の音がして、より一層室内の静寂さが際立ったような気がした。
「冬の方が苦手かな。寒いから。……うーん、じゃあ夏は好きなのかも」

　夏は嫌いなのだと言っていた。
　理由を聞くと、困った顔で頭を撫でられた。世間話の延長線。たいして大事な話をしていたわけじゃない。
　撫でられたのに驚いて咄嗟に振り払ってしまったけれど、少しさまよった手はもう一度伸びてきて俺の頭に収まった。五月蠅い蝉の声が、その人に触れられるだけでずっと遠くなる。馬鹿みたいに緊張して、俺の神経全部がその人に集中していたから。
　どきどきする心臓を押し込めて何とか顔を上げた先、彼は何度か口を開こうとして、結局何も言わなかった。ただ黙って俺を撫でるその人を見て、悲しいことを聞いてしまったのだと思った。

「そうですか」
　嫌いなのだと言っていた。理由は終ぞ、聞かせてもらえなかったけれど。大体予想はついたから俺も無理には聞かなかった。
　微笑んだつもりだけど、うまく笑えている気がしない。無一郎さんは特に気にした様子もないからきっと表情は変わりないのだろう。
　嬉しいと思う。「冬が苦手だから夏の方が好き」なんて無邪気な理由で笑ってくれることに安心した。夏を丸ごと嫌いになってしまうような、そんな孤独と痛みが無一郎さんの中には無いことの何よりの証明だった。
「小鉄くんは？」
「好きですよ、夏。休み長いし」
　確かに、と笑う顔が記憶の中の笑顔と全く同じで息が詰まる。
　そうだった。むかしから、意外とよく笑う人だった。