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    剣 隼兎

    @rabbitsord

    第五人格の機械技師トレイシー最愛最推しです。S1よりの古参エンジョイ勢。
    4周年にしてトレイシー受けにもハマる。
    トレイシー受け読み専でしたが、小説も書いていこうと思っています。
    プロフカード
    https://profcard.info/u/ie7bmsWHwThehzEsYEtlheOI3y32
    作品はこことpixivとprivatterに上げていく予定です。

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    剣 隼兎

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    初対面からとにかく積極的なルカと、押され気味だけど絶対に主導権は渡したくないトレイシーの話。
    ルカトレを書く上で囚人のキャラ解釈が最難関だったわけですが、「元々のレベルを上回る従順さと利他性を見せた」という内容から此奴、もしやものすんごい猫被りなのでは??と思い捏造に走りました。趣味全開です。

    #ルカトレ
    rockatre
    #LucaTracy
    #機械技師
    mechanicalEngineer
    #囚人(IdentityV)
    #トレイシー
    tracy.
    #ルカ・バルサー
    lukaBalser.

    犬って被るものだっけ?両手を広げて見せると、相手はビクリと肩を震わせる。
    まだ慣れてくれない、その初々しい反応に笑ってしまう。
    「………………」
    「………………」
    急かすことはしない。
    手を差し出したまま、相手が動くのをじっと待つ。
    悪足掻きのつもりなのか、きょろきょろと辺りを見回す。そして、誰もいない事に観念した彼女はそろそろと歩み寄ってくる。
    ちょん、と広げた手に乗せられた指先。それを握り込んで、強引でない程度の力で腕を引き寄せる。
    よたよたと近寄ってきた体を膝に座らせれば、最後の抵抗とばかりに胸を押される。
    「トレイシー」
    「…………」
    咎める様に名を呼べば、むすりとした顔でそっぽを向く。
    けれど白い頬が薄紅色に染まっている。
    表情は取り繕えても、その色は隠せない。
    胸を押す手を取り上げて、その手のひらにキスを落とす。そうすればトレイシーは慌てて手を引っ込める。
    「っ……」
    「嫌かい?」
    「そうじゃ、ないけど……」
    眉尻を下げて尋ねれば、トレイシーはもごもごと答える。
    ただ恥ずかしかっただけなのは分かっている。
    それでも悲しげな顔をすれば、トレイシーは申し訳なさそうに「ごめん」と呟く。
    「やっぱり、こういうの慣れなくて」
    「気にしないでくれ。慣れるまで付き合うと言ったのは私だ」
    華奢な体を両腕で抱き込んで、ルカはほうと息をつく。
    トレイシーは腕の中でじっとしている。
    慣れないと彼女は言うが、以前は恥ずかしがってすぐに暴れていたから大分進歩したと思う。
     頬を撫で、耳に触れる。首筋に指が触れてもトレイシーはくすぐったそうに目を細めるだけだ。

    ――触れることも許されなかったのが嘘のようだ。

    ルカはくすりと笑うと、金色の髪に顔を埋めた。






    「君が新人さん?」
    「うん、よろしく!」
    マイクが荘園に来た時に、内部を案内をしてくれたのがトレイシーだった。普段はイライや、エマ、ウィリアムなど、コミュニケーション能力が高い面々が担当しているのだけど、この時は都合がつかなかったらしい。
    手が空いていて、初対面の相手でも問題がない人選が彼女だけだったのだと後に本人から聞かされた。「イソップ、ライリーさん、ナワーブ、私の四択でそれ以外の選択肢ある?」と言われ、確かにと苦く笑ったものだ。イソップは未だにまともに会話が出来たことはないし、フレディは芸人を見下げている。ナワーブは悪い奴では無いが、初対面だとただただ無口で無愛想な人間にしか見えない。
    それに外見から言っても背の高さや言動、態度から威圧的に見えるあの三人に比べたら、小柄で朗らかなトレイシーの方が絶対に印象がいい。他のメンバーだったら回れ右して帰りたくなるかもしれない。
    「――で、大浴場もあるけど、部屋にも浴室はあるよ」
    「贅沢だね。そんでひっろい」
    「最初は迷子になる人多いよ。森でも本館でも。このまま2階案内するけど平気?」
    「いいけど、本館って事は他にも建物あるんだ」
    「あるよ。多分私達が知らないとこもまだあるっぽい」
    「うへぇ……」
    マイクが顔を顰めると、トレイシーがふふと笑う。その笑い方に、マイクは何か違和感を感じて首を傾げる。不思議そうな顔で自分を凝視しているマイクに、トレイシーも真似をするように首を傾げた。
    「どうかした?」
    「うん。あのさ。ものっすごい失礼な事聞くかもなんだけど……君って、もしかして、女の子?」
    「うん」
    「おわー……ごめん。男の子だとばかり……」
    マイクが額を抑えて謝る。今の今までトレイシーを少年だと思い込んでた。しかし手に口を当てて笑う姿は少女の仕草だ。道理でなにか違和感があったわけだ。職業柄、顔をメイクで隠す連中に囲まれていたから、人を見抜くことに関しては自信があったのに。 
    しかし申し訳なさそうにしているマイクに、トレイシーはへらっとした顔で首を振る。
    「気にする事ないよ。みんなそうだから。モートンさん」
    「マイクでいーよ。僕もトレイシーって呼んでいい?」
    「いいよー。まあ、とにかくあんまり気にしないで。私もマイク可愛い顔だなーって思ったし」
    「それは事実だから」
    マイクがにやりと笑って堂々と答えると「自信満々でムカつく」とトレイシーに小突かれた。
    「まあまあ。可愛い同士仲良くしようよ」
    「やだやだ、口も上手いよこの人」
    「トレイシーは……サイズ込みだけど」
    「どうせチビだよ!」
    今度は拳を振り上げるトレイシーに、マイクは頭を覆って笑いながら逃げ出す。

    トレイシーも人見知りをするタイプではあったけど、マイク本人がコミュニケーション能力が高かったお陰で、すぐに打ち解けることができた。マイクが見た目よりも若く見えたのも大きかったかもしれない。
    荘園にいる者達はみな何かしらの秘密と目的を抱えていて、癖がある連中ばかりだ。マイクだって抱えているものがある。誰にも言わないけれど。
    数々のゲームに参加して、新しいメンバーが増えて。衝突があり、交流があり、そうしてこの荘園にマイクも馴染んでいく。

    そして、「彼」が荘園にやって来た。
    今回の荘園の案内はマイクの役目だった。すっかり「コミュ力お化け」扱いされているので案内するのは構わないけれど、今回の新人が特殊だったのでマイクはほんの少し緊張していた。
    元死刑囚の発明家の青年。いろいろな職業の人間がここにはいるけれど、それでも中々にインパクトのある肩書きだ。
    まあ色眼鏡で見るのは良くないよな、とマイクは思っていたのに、やってきた新人の姿にあんぐりと口を開けてしまう。
    「やあ、こんにちは。先輩とお呼びするべきかな?私はルカ・バルサーと言う。よろしく」
    「っ、マイク・モートンだよ、よろしく。……なんというか、一応聞くけどそれ君の趣味、じゃないよね」
    マイクは恐る恐る問いかける。やってきたルカという青年は、囚人服で首枷がついたままの状態だった。流石に枷の錠は外れているけれど、それにしてもその格好で来るか?と驚いてしまう。
    けれどマイクの問いに、ルカはあっけらかんとした顔で答える。
    「ああ、直接来たものでそこまで気が回らなかったんだ」
    「…………」
    直接。なるほど。マイクは納得した。どこからとかそういう野暮なことは聞かない。どこに招待状送ってんだよ、とは思ったけれど。
    なんとも言えない顔をしているマイクに、ルカは頬を掻きながらちらと手荷物に目をやる。
    「入獄した時の服はあるのだが、こちらの方が動きやすくて」
    「動きやすさより第一印象とか考えない?その枷とかなんの必要性があるのさ」
    「一応これは接地になるというか……」
    「せっち??」
    「こっちの話だ。まあとにかく便利でつけているんだ」
    首枷が便利って何?この新人よく分からない。自分の手に負えるだろうかとマイクは不安になってきた。案内はいいけど指導係にだけはなりたくない。厄介な匂いがする。
    マイクはこっそりとルカを観察する。言動と格好はともかく、立ち振る舞いに粗野なところは見られない。顔は悪くはない部類なのに、目が片方腫れ上がっているのが勿体無いと思う。会話する際に視線は合うから、こないだ来たアンドルーよりはコミュケーションは取れそうではある。話を聞いてくれるかは分からないけど。
    「……着替えるべきかな?どう思うモートン先輩」
    「先輩呼びしなくていいよ。ここで裸になられるのもちょっと。というかどうせ動きやすいって明日からもその格好する気ならそれでいいよ……」
    「確かにそれもそうだ」
    いや、確かにって本当に囚人服で生活する気か。
    ここで色んな奴を見たし増えたけど、慣れたと思っても変な人間の種類って際限ないんだな、とマイクは感動すら覚えている。
    しかし、案内しながら会話をしてみると、ルカは中々面白い話し相手だった。博識で、何にでも興味を示すのでつい調子に乗って自分の作る爆弾の話までしてしまった。疑問に思ったことは突き詰めたいタイプらしく、そこがマイクとも合ったのかもしれない。
    「流石に危険物の扱いは自室だと禁止されてるから、そういう時は屋外でやるんだけどね。自分の部屋を工房やお店みたいにしてる人もいるんだ」
    「へえ。それは是非見せてもらいたいな」
    「女の人が多いけどね。ま、見たかったら仲良くなればいいだけだよ」
    「簡単に言ってくれるじゃないか」
    ううむ、と困り顔になるルカに、マイクは笑う。そこらへんは彼女達との交流次第だから、当人に頑張ってもらうしかない。
    荘園は広いので、初日に案内するのは本館だけだ。あとはざっくりとだけ紹介して、生活しながらその都度詳細を説明していく。新人は覚えることがとにかく多いのだ。迷子になりやすいことも伝えなくてはならない。
    マイクが二階までの案内を済ませた頃には、窓の外は藍色が陽を追いやり、暗くなりかけている。今日はここまでで、夕食にするのが丁度いいだろうか。それとも切りよく全て本館を案内してしまうか。どちらにするかをルカに提案しようとして、マイクはぴたりと動きを止めた。
    本館の廊下は赤い絨毯が敷かれているのだが、そこに何かを引きずった跡が残っている。そしてそれは開きっぱなしの扉に続いていた。マイクは無意識にその跡を追って、部屋の入り口に足を向けた。途中で「モートン?」と呼ばれた気がしたのだが、振り返る気になれなかった。
    何かを引きずった痕跡はトレイシーの私室に続いていた。開け放たれた扉の中へと。
    トレイシーの部屋は作業場を兼ねている。だから人の出入りが少なくはない。鍵がかかってるのは当人が寝てる時か着替えてる時くらいかもしれない。常に開いている部屋に、不用心だなとはマイクは思っていた。
    そのトレイシーの部屋に何かがいる。本人がやったことなら構わないけれど、少し気になる。気になることは突き止めたいのがマイクの性分だ。
    なにか、異常がないか。それを確認するだけだ。好奇心に負けたわけではない。マイクはそう言い訳をしながら部屋の中を覗き込む。
    ――覗き込んで、後悔した。


    「ひっく……う……」


    機械人形に縋りついて、トレイシーが泣いている。
    いつも彼女が使っている無機質な人形ではない。明らかに「誰か」を模した人形。精巧に作ろう、人に寄せようと造られたそれは、服も髪も揃っているのに歪に機械らしさが際立つ。きらきらと金属の色に輝く、人ではないもの。
    ーーこれは、見てはいけないものだ。触れてはいけない。彼女の「秘密」だ。
    この時ほどマイクは自身の好奇心を呪ったことはなかった。そろそろと後退りしようとして、どんと何かにぶつかる。ルカもマイクの後ろから室内を覗き込んでいたのだ。
    自分が抱いた好奇心は、当然ルカも抱いたはずだ。マイクは舌打ちをしたい気分になる。したらトレイシーに気付かれてしまうのでやらないけれど。
    「な」
    「しっ!」
    ルカを押しやり、文句が出る前に人差し指を口の前に立てる。そうしてトレイシーに気付かれないように、扉を慎重に閉める。ラッチボルトを極小の音で戻し、マイクはほうと息を吐き出す。多分、気付かれてないはず。
    何かを聞きたそうなルカの腕を引き、マイクはトレイシーの部屋から足早に離れる。まずい、非常にまずい。案内役を放り出して好奇心を優先した挙句、新人に見てはならないものを見せてしまった。というか自分も見てしまった。
    ポーカーフェイスは苦手ではないから、トレイシーと面と向かっても知らないふりは出来る。けれど、やはり非常に心苦しいところはある。
    「……もう聞いてもいいだろうか」
    十分にトレイシーの部屋から離れたところで、腕を離されたルカが口を開く。ちゃんと空気を読んで口を噤んでくれていたらしい。
    だが、できたら何も聞かないでいてほしいとマイクは思っている。そんなことできるわけないのは、自分の性分も同じなのでわかっているけど。
    「内容による。なに聞きたい?」
    「あの子は人形使いなのか?部屋に何体か同じようなものが並んでいたが」
    「本人は時計職人って名乗ってるけど、機械系得意だし、その認識で間違いないかな」
    「ではあれは機械仕掛けの人形なのか。興味深いな」
    「…………」
    あれ?気になったのそこ??マイクは何を質問されるかと身構えていたのに、拍子抜けしてしまう。
    そういえばルカは発明家だと聞いている。人間よりもそういうものに興味があるのかもしれない。サーカスの話の他にもいろいろしたけれど、一番声が弾んだのは爆弾の成分の話をしていた時だった気がする。
    それならそれでいい、下手に人の秘密に踏み込みたくはない。マイクはこのまま自分もさっき見たことは忘れようと心に決める。
    ところが。
    「機械の人形で、あの子は『誰』を造りたいのだろう」
    ぽつりとルカがつぶやいた言葉に、マイクは弾かれたように顔を上げる。そしてルカの首枷の鎖を掴み、強い口調で言う。
    「絶対に!絶対にそのことは僕以外の前で言うな!あれを見たこともだ!」
    「!」
    「……見たのは僕のせいであって、ルカは悪くないけど。でも、それだけは触れたらダメだ。……分かるだろ」
    ――この、荘園に呼ばれた人間なら。
    マイクの強い口調と視線に、ルカは気圧されたように頷く。その言葉の意味は、ここにいるなら分からないはずも無い。
    「すまない。不躾だった」
    「僕も巻き込んどいてごめん」
    マイクは勢いで掴んでしまった鎖を離す。こんな荒っぽい手を取るなんて、自分も大分動揺していたらしい。

    ここでは暗黙の了解で、互いに過去の詮索はしない。それでも話をしていれば家族や職場、過去の体験などの話は出てくるものだ。マイクもサーカスでの楽しい思い出や、「家族」の話をすることはある。
    誰もが薄暗いところは伏せ、キラキラと輝く記憶だけを語る。わざわざ隠した傷跡を、晒す必要はないからだ。
    トレイシーは機械や研究の話が好きだが、その合間合間に父親の話が出てくることがあった。
    トレイシーが語る、唯一の家族。
    深い愛情を感じる話にマイクはなんとなく、その人がもういないんだろうなということは感じていた。いたら、トレイシーはきっと「ここ」にはいない。
    親しくしていても、「目的」は語らない者はいる。マイクもトレイシーもそうだ。知られたくはないし、知ろうとは思わない。それでいい。そう思っていた。
    しかし、その答えに来たばかりの新人の一言で気づいてしまった。
    ――「誰」を造りたいのか。
    誰を。
    職人服を着た、金色の人形。
    彼女が語る、唯一の家族。
    唯一の理解者――
    「……」
    マイクはそこまで考えて、ブンブンと首を振る。
    いけないいけない、今触れてはいけないってルカに言ったのに、自分が考えてどうする。むくむくと湧いてくる好奇心を押さえつけ、マイクは一つ咳払いをする。
    「三階の案内がまだ残ってるんだけど、時間が時間だから、どうする?休憩して夕食の時間にするか、明日にするか」
    「モートンが構わないならこのまま案内してもらいたい」
    「うん。いいよー」
    何事もなかったように、マイクは案内を再開する。切り替えの早さもマイクは自分の長所だと思っている。
    マイクの後に続きながら、ルカは一度だけ後ろを振り返った。
    名前も顔も知らない機械人形の技師に、彼が興味を持ったのはこの時だった。




    新しい人間が来れば、多少は興味が湧く。
    この荘園は一度入れば出られない。別に気にはしないけど、やっぱり毎日同じことの繰り返しというのは少し退屈なのだ。だから新しい刺激になりそうなものには期待してしまう。
    来た人物が同性でも異性でも、どんな人かとちょっと楽しみに思ってしまうことは否定しない。
    ――否定しないけど。

    トレイシーは人形の操縦を止めて、仰け反りながら顔を上げた。
    「……えーと、バルサー?」
    「なにかな」
    「私が聞きたいんだけど。なにか、用?」
    動作テスト中の人形の視点で、スタスタと庭を歩いて来ている新人の姿は見えていた。
    初めてトレイシーの機械人形を見る人間は、この人さながらに動く機械に目を丸くする。だから無言で作業を眺められるのも、興味津々に質問されるのにも慣れていた。
    ところがルカは、歩いてきたかと思うと人形そっちのけでトレイシーの正面に回り込み、リモコンを操作する手元を覗き込んでいた。
    人形の視点で作業しているので、直接の邪魔ではない。邪魔ではないが、流石にカメラ越しでも自分の目の前に人間が立っているのは気になる。
    顔を上げれば思っていたよりも至近距離に相手の顔があり、トレイシーはそろりと後退る。そんな彼女に構わず、ルカは顎に手を当ててリモコンを凝視している。
    「君が、あの人形を操作しているんだよな?」
    「そうだけど」
    「ずっと下を見ているから、どうやって視界を確保しているのかと気になってな」
    トレイシーは、人形の操作中は一度たりとも人形に目を向けていない。機器の動作を確認せずに制御することなど不可能だ。だから、何かしらリモコンに細工があるのかとルカは思ったのだ。
    ところがルカが見る限り、リモコンにはメーターと操作レバーとボタンしか無い。ならば、どうやってトレイシーは人形を制御しているのか?
    ルカが不思議そうにしていると、トレイシーはにっと勝気な笑みを浮かべて装着していたゴーグルを外す。そしてそれをルカに差し出した。
    ルカは手渡されたゴーグルとトレイシーを見比べて、それを目に当てた。ガラス越しに見える機械技師が、リモコンを操作する。
    途端、左目の視界が切り替わり、別の風景が映し出される。背中を向けている自分自身だ。咄嗟に振り返れば、銀色の人形の大きな目と右の視線が合う。左の視界はポカンと口を開けている自分がいる。
    ――なんだ、これは⁈
    ゴーグルを外してトレイシーを振り返れば、小柄な技師が得意気な顔をして笑っている。ルカは興奮気味に尋ねる。
    「これも、君が造ったのか」
    「うん。遠隔で操作するなら必要かなって。でも人形の事はよく聞かれたけど、この事に気付いたのは君が初めてだよ」
    「無理もない。あの人形も素晴らしいと思うよ」
    「……ありがと」
    ルカはおや、と思う。トレイシーはゴーグルを褒めた時は嬉しそうだったのに、人形を褒めると一瞬の間があった。嫌がっている、というわけではなさそうだが、少し複雑そうだ。
    「なにか、不満がありそうだ」
    「うーん……動きはね、大分良くなってきたんだ。人に近い動きになってると思う。でもそのせいで、よりエネルギーを食うようになってしまったから、今度は駆動時間が短くなっちゃって。性能を増やすにも動力を増やすにも、これ以上は容積を大きくする必要があるかと思うんだけど、そうするとこのフォルムを保てないから……新しい動力源を作る、いやそれよりやっぱり素材の軽量化を考えたほうがいいのかも」
    ルカに説明していたはずが、途中からトレイシーは自分の考えをぶつぶつと呟き始めている。自分の思考の海にどっぷりと使っているトレイシーから離れて、ルカは機械の人形に近づいてみる。
    あの日ルカとマイクが見た人形とは違い、形は人に似ているものの、服も髪もないので人間と見間違う事はない。カメラを内蔵している黒い目がじっと前方を見つめている。鼻と口、耳もきちんと作られているが実用性はなさそうだ。
    人形の強度が分からないので、ルカは触れないように関節部分に目をやる。よく見る自動人形達と同じように球体の関節を使用しているが、走ったり飛んだりしていたこの人形があれらと同じ仕組みとは思えない。
    分野が違うとはいえ、素晴らしい作品を前にすればむくむくと好奇心が湧いてくる。
    「レズニック!」
    「ん?え、なに?」
    名前を呼ばれたトレイシーが、ようやく思考の海から帰ってくる。顔を上げると、またもや至近距離にルカが立っており、トレイシーは思わず二歩後退る。
    ところが今度はルカも同じ分だけ足を進める。そしてリモコンを持つ手を両手で掴まれてしまえば、それ以上後ろへは下がれない。
    「え、ちょっ、バルサー?なにっ」
    「ルカと呼んでくれ」
    「へ?」
    「君とは気が合いそうだ。是非、友になって欲しい」
    「……ええ⁉︎」
    背の高いルカがぐいぐいと来るので、トレイシーはつい仰け反ってしまう。
    別に嫌というわけではない。自分の造ったものに興味を持ってもらえるのはとても嬉しい。人形のカメラに気付いてくれたのもルカが初めてだ。
    ただ、勢いが、強い。ここまでグイグイ来られるとちょっと怖い。こうやってみると、初対面で遠慮がなかったウィリアムも、最低限の距離感を守ってくれていたということを、トレイシーは今更思い知った。
    思い立ったらすぐ行動、というのは自分もよくやっているけれど、側から見たらこう見えているんだな、反省しよう。トレイシーはしみじみとそう思う。
    「……ダメだろうか?」
    「えっと……」
    どう返事したものかとあうあう喘いでいると、ルカがへにょりと眉根と肩を落とす。そんな急にしゅんと落ち込まれると否とも言いづらい。見えない耳と尻尾も下がっていそうだ。
    「んと、嫌、とかじゃないんだけど、驚いちゃって」
    「いいということか?」
    「あう?」
    「そうかありがとう!」
    ルカの勢いに押されて出た声だったのだが、勝手に返事をしたことにされてしまった。そんな輝いている目で喜ばれては今更「違います」とは言えない。
    トレイシーはからくり人形のように、かくんと頷く。

    頷くしかなかった。





    「いやーナンパされてんのかと思ったよ」
    マイクは階段の手摺りに腰掛けて、そうぼやく。トレイシーは苦笑しながら、床に広げたケースから精密ドライバーを取り上げた。
    確かに声が聞こえていない人間からしたら、ルカとの昼間のやりとりはそう見えたかもしれない。
    「そんなタイプの男なのか?」
    「んー多分違うと思う。そういう軽い感じじゃない」
    パトリシアの怪訝そうな問いに、マイクは首を振る。
    一日荘園の案内をしたが、やっぱり最初の印象通りに育ちの良い、どこか品のいい「お坊ちゃん」な感じがあった。
    マイクは女にだらしない連中なんて散々見てきたけど、そういうのとはルカは全く当てはまらない。むしろ女性経験があるかどうかが怪しいと思う。
    トレイシーは壁に凭れるパトリシアを見上げる。
    「私にそんなことする人いる訳ないじゃん」
    「何故そう言い切れるんだ」
    「いつも通りだよ。また男の子に間違われてるんだと思う」
    「そんなこと」
    「賭けてもいい。こないだ来たアンドルーはまだ私のこと男と思ってるよ。そう思わない?」
    キッパリと言い切るトレイシーに、パトリシアは唸ることしかできない。彼女自身、ここに来た当初はトレイシーを少年と間違えていたからだ。
    パトリシアやマイクが来る前から居た男共は、数名を除きトレイシーを小僧扱いしている。そのせいでトレイシーは「それ」が当然の事だと思っている。
    床に胡座を掻いて、時計のメンテナンスに勤しむトレイシーは少年に見えるかもしれない。だが、見えるだけでトレイシーが女性なことには変わりはない。
    パトリシアが来た頃のトレイシーはまだ肉付きが悪く、シルエットも女性には見えなかった。だが今はすっかりと女性の体つきになったと思う。他の女性陣に影響されてか、表情も仕草も少女らしい華やかさが垣間見える。
    パトリシアはじっとトレイシーを見つめながら、このうら若き技師にその事実をどう伝えたものかと、眉間に皺を寄せる。乙女の恥じらいを説いたところで「まっさかー」とけらけら笑って終わる予感しかしない。
    何かあってからでは遅いのだ。そろそろ自覚をして欲しい。
    眉間の皺をより深くするパトリシアを他所に、マイクは手摺りからトレイシーの脇に飛び降りる。
    「それで、なんて返事したのさ」
    「返事する前に承諾したことになってた。それはいいんだけど、大分圧が強いよ、あの人……」
    「へえ、意外」
    女性と仲良くなることを「難しい」と言っていた男とは思えない。マイクはそう考えて、ルカがトレイシーを同性と勘違いしてる事を思い出す。
    これ、トレイシーが女の子だって気付いたらどういう反応になるんだろう、ちょっと気になる。でもこのまま黙ってるのも面白そうなんだよなあ。
    むくむくと湧きあがる悪戯心を噯にも出さず、マイクは澄ました顔で頭の後ろで腕を組む。
    「なんか、格好といい行動力といい、すんごいマイペースな人が来たもんだね」
    「お前にマイペースと言われるとは……気の毒に」
    普段の自身の行動を棚上げするマイクに、パトリシアは肩を竦めてそう答える。人を自分のペースに巻き込むのは、マイクの得意分野だ。
    ところがパトリシアの指摘にトレイシーが首を振る。
    「マイクの言うとおりなんだよ。なんかルカって独特のテンポというか話し方というか……とにかく、何考えてるのか分からない奴だと思う」
    「そんな男と友達になったのか……」
    「なったというか、なっちゃったの!断れる雰囲気じゃなかったし!……それに嫌ってわけでもなかったし」
    ちょっと照れながらえへへと笑うトレイシーは、満更でもなさそうだ。聞けば相手もトレイシーと似たような分野が得意だという。それは話も合うだろう。
    余計な老婆心を出す必要もなさそうかとパトリシアは判断する。
    「それならいいんだ」
    「ねー、トレイシー。でも向こうは男と思ってるわけじゃん?どうすんの」
    「どうもしない。いつか気付くし、それでいいんじゃない?いっつもそうだし」
    トレイシーはマイクの問いに、興味なさそうな顔でそう答えた。時計から外した歯車を並べながら、ちらとマイクを見上げる。
    「ま、気付いたところで何も変わらないと思うしね」





    ルカはトレイシーにとって、本当に先が読めない男だった。
    あんなに強引に人を友達にしておいて、翌日には真面目腐った顔で「友人同士とはなにをするべきか」と問われ、トレイシーは呆れてしまった。
    「昨日の勢いはなんだったの」
    「すまない、研究にばかり明け暮れていたからな。そういうものには疎いんだ」
    「そんなの、私も同じだよ。私も外で遊ぶより時計弄る方が楽しかったから」
    「そうか……そうすると、どうしよう」
    ううむと唸りながら頭を掻きむしるルカに、トレイシーは作業台から顔を上げて、今一番気になっている事を聞いてみる。
    「ところでルカ、なんで私の部屋知ってるの?」
    ルカとトレイシーは今、トレイシーの部屋の中にいる。
    早朝に訪ねて来られたのは驚いたが、徹夜で作業していたからそれは構わない。それはいいのだが、何故表札も何もないこの部屋数の多い階で、ルカは自分の部屋にやって来れたのだろう。流石に初日に案内すると言っても、各自の部屋までは説明しない筈だ。
    トレイシーの問いに、ルカは一瞬だけしまったと顔を顰めた。しかしすぐに「ああ」と話し出したので、その表情にトレイシーが気付くことはなかった。
    「機械類の故障は、ここに頼めば直るとモートンから教わったんだ。だから君の部屋だろうと思ったわけだ」
    「すっかり便利屋扱いされてるなぁ。いいけどさ」
    くすくすと笑うトレイシーは、文句を言いながらも楽しげだ。ここじゃ顔を見て落胆されることもないし、煩わしい人間が訪ねてくる事もない。それどころか頼りにされる事も多い。それが嬉しい。
    それに、友達になろうなんて言われたのも初めてのことだ。言ってきた相手がちょっと変わってるけど、ここじゃそんな人ばかりだから気にならない。
    トレイシーは昔読んだ本を思い返しながら、「友達」の定義を探してみる。
    「うーん、一緒に冒険したり秘密基地作ったりするとか?」
    「とても夢があるが、少し私達には可愛らしすぎる内容じゃないか?」
    「そもそも冒険する気が起きないよねえ、基地は気になるけど」
    「基地については私も興味はある。しかしそれはまた今度にしよう」
    「ルカはなんかないの」
    「さっきから考えているのだが、いた環境のせいで碌な事が思いつかなくてだな……」
    「言ってみてよ」
    「共に犯罪に手を染めると仲間意識が芽生えるとかなんとか」
    「却下」
    「だろうな」
    「本当に碌でも無かった……他にはないの?」
    「うーん、仕事終わりに共に飲み明かすというのはよく聞くが」
    「ルカ。お酒は?」
    「それなりには。付き合い程度であまり好んではいないな。コーヒーの方が好みだ」
    「私もだよ」
    「ううん、考えさせてほしい。レズニック、そちらはなにかないのか」
    「寝不足で考える事じゃ無いと思うんだけど……まあまず言えるのは、なんで私に名前で呼べって言っといて、ルカはレズニックって呼んでるんだろうとは思ってる」
    「ああ、そうか!忘れてた。名前で呼ぶ許可をくれ」
    「いいけど」
    パッと顔を輝かせる男に、近所に昔いた犬の面影が重なった。あの犬もデカかったなあ……とトレイシーはぼんやり思い出しながらコーヒーを啜る。あの犬も白と黒の模様だったなあ、縞々じゃなかったけど。
    「もしかして、そっちが本題だったの……?」
    「ああ、起きてすぐに思いついたんだが、後回しにしたら忘れてしまいそうな気がして」
    「で、着くまでに忘れたと。厄介な後遺症だね」
    ルカは事故が原因で特殊な能力を得た代わりに、脳に障害を負ったという話は聞いていた。
    メモを取れば良かったんじゃないかとトレイシーは思う。けれどその些細な用事の為だけに、自分に会いに来てくれたという事実は擽ったく感じる。
    「普通はこんな時間に人の部屋を訪ねてこないでしょ。寝ててもおかしくないよ?」
    「うん……そこは考えていなかった」
    「ルカって、変」
    「それはよく言われるな」
    困った顔で頭を掻いているルカを見て、トレイシーはくすくすと笑う。変な人間だけど、面白いとも思う。初めての友達は中々癖がありそうだ。
    ルカが頑張っているんだから、自分からも歩み寄ってみるべきかもしれない。トレイシーはよしと思い、ルカの顔を下から覗き込む。
    「ねえ、ルカの部屋はどこなの?」
    「この上の階だよ。まだ入れ替えがあるかもしれないとかで、仮なんだが……どうして聞くんだ?」
    「決まってるじゃん。今度は私は遊びに行くから」
    「!」
    トレイシーの言葉にルカは目を見開いた。驚いた顔の男に、トレイシーはふふんと得意げな顔で告げる。
    「そもそも、なんでこんな非常識な時間に来た君を部屋に入れてあげたと思ってるのさ。友達だから特別だよ」
    「っ、そ、そうなのか……?」
    「そうだよ。それに、友達ってお互いの家に遊びに行ったりするものなんでしょう。だったら私が行ってもいいはずじゃん」
    「ああ……それはそうだな」
    「ウィリアムも一緒にご飯食べたら仲間だっていっつも言ってるし。無理になにかしなくても、友達なら一緒にいればいいんじゃない?」
    「それは、その通りだな」
    ふむとルカも顎に手を当てて、納得したように頷く。難しく考える必要はないということに、彼も気付いたようだ。
    どうにも互いに友情に不器用なのが揃ってしまったが、それもそれで楽しいのかもしれない。
    トレイシーが部屋の時計を見上げると、時刻は六時を指そうとしている。今から寝るのもなあと思っていると、ルカがゆるくトレイシーの手首を掴んだ。
    「?なに?」
    「少し早いが、一緒に朝食に行かないか?」
    手首を掴むと言っても、本当にすぐに振り解けそうな力だ。じっと伺うような目をしているルカに、トレイシーの顔から笑みが溢れる。
    さっき自分が言ったことを、早速実践しようとしているのか。
    ――これは、断れないよなあ。
    くいとコーヒーを飲み干して、トレイシーは椅子から立ち上がった。





    対面で座っている機械仕掛けの犬に、居心地悪そうに「ううう」と唸るウィック。しかし唸るだけで吠えはしない。
    自分にそっくりの機械犬が、右に首を傾げる。そして「わん」と鳴くのを見て、ウィックはペタリと談話室の絨毯に伏せる。興味がなさそうな顔で寝る体制になっているが、チラチラと機械犬を気にしている。
    そわそわしている相棒を、ビクターはうくくと笑いながら胡座をかいた膝に抱き上げる。そうして安心させるように撫でてやった。
    「大丈夫だよ、ウィック。ビクターの相棒は君だけだから!」
    「くうん?」
    トレイシーがいつもより小さなリモコンで機械仕掛けのウィックを逆立ちさせると、本物のウィックが首を傾げる。その仕草がさっきの機械犬にそっくりで、ビクターはぷふ、と噴き出した。
    『ウィックにそっくりだけど、本物は逆立ちできないな』
    「じゃあ見分けるのも簡単だ」
    ビクターが笑いながら書いたメモに、トレイシーも笑いながら返す。
    自身の研究に行き詰まっていたトレイシーに、新しい提案をしたのはルカだ。人間の動きを模すだけでなく、他の生き物を模してはどうかと言われ、なるほどとトレイシーも思ったのだ。
    気晴らしも兼ねたつもりだったけれど、新しい発見もあったので悪くない結果になった。まだまだ課題は山積みだけど、それでも少し視界が開けたように思う。
    今度はルキノの人形でも作ろうかな。でも本人はともかくみんなが飛来物増やすなって嫌がりそう。
    「モデルありがとうね、ウィック」
    「バウっ」
    トレイシーが背中を撫でると、ウィックが小さく吠えた。それがまるで、何かを訴えるような声音だったのでビクターを見ると、彼はさらさらとペンを走らせる。
    『お礼はソーセージでお願いしたいって言ってる』
    「そうなの?わかったよ、ウィック」
    トレイシーがそう返すと、パタリと子犬の尾が揺れた。
    そのままウィックの散歩に向かうビクターを見送り、片付けを始めたトレイシーにマイクは針仕事の手を止めて話しかける。
    「いやー、すっかり仲良くなったね」
    「ん?ウィックと?」
    『違う、そっち!」
    マイクが針で指したのは、トレイシーの後ろ、片膝を立てて本を読んでいるルカだった。ビクターとトレイシーの会話にも参加せず、ずっと床に座り込んだトレイシーの背もたれを勤めていたのだ。
    かれこれ1時間は経っているが、その体勢のまま全く動かない。本に集中しているのか、マイクの指摘にも無反応だ。
    ずっとここで作業してたマイクは知っているが、最初にトレイシーが機械の犬の調整をしていたのだ。そこにビクターがやってきて、トレイシーと二人できゃっきゃっと犬に夢中になってる間に、ルカが本を抱えてやってきた。そして当然とばかりにトレイシーの後ろに座り込み、本を開いたルカにこちらも当然とばかりにトレイシーが寄りかかった。
    この間、二人は互いの顔は一切見ていないし、会話もなかった。会って数週間しか経ってないのに、連携力が高すぎる。
    「圧が強いとか言ってたのは誰だよ」
    「なんか慣れちゃって。ほっといても気付いたらいるし」
    トレイシーは頬杖をついて、そう零す。彼女の言う通り、ルカはふと気付くとトレイシーの背後にいることが多い。「友達は一緒にいるもの」といわれたことを忠実に守っているらしい。なんとも律儀な男だ。
    縫い針でちくちくと見慣れた布を縫っているマイクに、トレイシーは不可解そうな表情になる。
    「マイクはさっきから何してんの?」
    「朝のゲームで引っ掛けちゃって」
    マイクが手にしているのはアマツバメのマントだ。裾の部分が、裂けてしまっている。それをマイクは地道に修繕しているのだ。
    けれど、荘園の衣服はどんな状態でも翌日には新品同様の姿に戻っている。わざわざ自身で直す必要が無いのは、マイクもよく知っているはず。だからトレイシーも疑問に思っていたのだ。
    「明日まで待てばいいのに」
    「待てないの!夜のゲームに間に合わないじゃん!」
    「……他の着ればいいのに」
    「やだ。今日はこれの気分なの!」
    むすりとした顔でマイクは糸を切る。こういうものは気分も大事だとマイクは思ってる。だからって衣装が破けたままの無様な姿でステージには立てない。
    このくらいの修繕なんて旅芸人の時は当然のようにやっていたから、手慣れている。ちょっと裂け目が大きかったから苦戦したけど、大したことはない。
    マイクが直った羽根型のマントを広げると、トレイシーが歓声を上げる。
    「おおー。すごい!どこが破けてたのか全然分かんない!」
    「ふふーん。器用さならトレイシーにも負けないからね!」
    「私はそういうのは全然ダメだよ」
    「む、不戦勝じゃん」
    「……私は得意だぞ」
    トレイシーがマントの縫い目を確認していると、ルカがぼそりと呟いた。聞いていたのかとトレイシーは驚く。ずっと紙を捲る音がしてたので、すっかり本に集中しているものだとばかり思っていた。
    トレイシーは体を捻ってルカの顔を覗き込んだ。眉間に皺がよっているせいで不機嫌に見える。ただの読書中の癖だと思うのだが。
    「ルカって縫い物すんの?」
    「ああ。刑務作業で鞄やぬいぐるみを作らされたこともある」
    「そんなこともするんだ……」
    「出来たら一生知らずにいたい情報」
    「私も自分が針仕事をすることになるとは思ってなかったよ。君の服に鉤裂きが出来たら私が直そう」
    「いや、その時は素直に着替えるよ、マイクじゃないんだから」
    「それは残念だ」
    ルカは本を閉じると、徐に立ち上がった。少しよろめいたのはずっと同じポーズでいたからだろう。完璧に背もたれに徹してたもんなとマイクは思う。
    突然立ち上がった背もたれに、トレイシーはぱたりと仰向けに倒れ込む。
    「これからゲーム?」
    「ああ」
    「人形見て欲しかったのに……」
    両手で機械犬を抱えて、トレイシーはいじけたように呟く。完成したからわざわざ持ってきたのだ。
    そんな彼女にルカはくくと笑ってみせる。
    「それなら後で君の部屋に行こう。夕食のあとで」
    「……美味しいコーヒー持ってきたら入れてあげる」
    「仰せのままに」
    ひらりと手を振りながら去っていく男の姿に、気障な奴だなとトレイシーは寝返りを打つ。
    マイクはルカが去ったことで緩んだ空気に額の汗をぬぐい、ふうとため息をついた。
    「機嫌が直ったようで何より。夜のゲーム、ルカと一緒だからどうしようかと」
    「?なんかあった?」
    「めっちゃ機嫌悪かったじゃん!こーんなだった!」
    ぐぐと両方の人差し指で眉間に皺を作るマイクに、トレイシーは首を捻る。
    読書中、何かで行き詰まった時、困っている時、ルカが眉間に皺を寄せてるのはよく見る。機嫌が関係あるとは思えない。
    しかしマイクは芝居掛かった仕草で首を振ってみせる。
    「分かってないなぁ……トレイシーのせいなのに」
    「私?」
    「なんでウィックの嫉妬には気付いて友達の嫉妬には疎いんだよ」
    「え?嫉妬?ルカが?どうして?」
    「……本当に気付いてないんだ。そりゃ、大人しく相手してくれるの待ってたのに、ルカそっちのけで僕と話し始めたからに決まってるじゃん」
    「そうなの?」
    トレイシーはきょとんとした顔をしている。全然ピンと来ていないらしい。
    ――友達、初めてだって言ってたもんなぁ。
    酷い奴だなと思いつつ、マイクはどう説明したものかと考えを巡らす。今のままだとルカが気の毒だ。なにかいい例はないかと考えて、リビングにあるピアノのことを思い出した。
    「例えば、トレイシーがルカと話したいと思っててさ。でもその時のルカが楽しそうにピアノ弾いてたとして、トレイシーはそれ邪魔する?」
    「?弾き終わるまで待つ、かな」
    ルカがピアノが好きなのは、見ていれば分かる。記憶がないと言いながら、体に染み込んだものは忘れないらしい。譜面も見ずに曲を演奏している姿を何回か見た事がある。
    マイクが突然なんの話を始めたのか、トレイシーには分からなかった。けれど真剣な顔をしているので、とりあえずそう答えてみる。
    「だよね。でも弾き終わったと思ったら、そこでピアノ聴いてたマリー様とルカが音楽について話し始めちゃうんだ。トレイシーがいるのに。そしたらどう思う?」
    「………………」
    マイクの問いに唇を尖らせて、トレイシーが黙り込む。
    実際はルカがトレイシーを無視するなん考えられないけどとマイクは思う。まあ、あくまで例え話だからそこは許してほしい。
    我ながらわかりやすい説明だったんじゃないかとマイクは得意になる。これならトレイシーも友達の嫉妬心を理解できた筈。
    ところがマイクの予想とは違い、トレイシーはふんわりと笑ってゆらゆらと曲げた足を揺らし始める。
    「それは、可愛いねぇ」
    「…………ん?」
    「ルカ、わんこみたいで可愛いなって」
    「うーん、なんでそうなったのかな?」
    トレイシーの無邪気な反応に、思わずマイクも小さい子供を相手にするような口調になってしまった。あんなヒョロデカい男相手に何故そう思ったのか。犬っぽいかどうかで言えば確かにそうかもしれないけれど。
    マイクは自分以外の男に可愛いと言う形容詞が当てはまることはないと思っている。
    「だって、構って欲しかったからいじけてたんでしょ?昔、近所にいた犬もね、おじさんが私と遊んでくれてる時にくんくん鳴いてたよ。おじさんの服の裾噛んで引っ張ったりしてて、私より大きい犬なのに可愛かったんだ!」
    「おう……」
    マイクはなんとも言えない呻き声を漏らす。同意も否定も出来なかったのでそうするしかなかった。合ってるけど、そうじゃない。
    わんこか、そうか。トレイシーにはそう見えてるのか。だから可愛いのか。全然理解できない。
    「そっかあ。ちゃんと相手してあげないとだめなんだね。分かった!教えてくれてありがとう、マイク!」
    「……わかってくれたんなら良かった」





    マイクの話が終わると、パトリシアは片手で痛む頭を抑えた。
    いい友人関係を築いているのは喜ばしい事だ。だが夜中に男を部屋に招き入れるなと、トレイシーには一度注意する必要がある。
    話題の中心のルカはと言うと、食卓に肘をつき眉間に皺を寄せて唸っている。御誕生日席にいるナワーブはそんな二人とは裏腹に、肩を震わせて笑っている。
    夜のゲームの参加者はこの四人だった。ハンターがまだ決まっていないらしく、待機を命じられ退屈になったマイクが、昼の出来事をルカに話したのだ。
    トレイシーはどうにも人の感情に疎いというか、考えが幼いというか。とにかく説明したところで人の機微を理解できるとは思えなかったので、マイクはルカにそのことを伝えることにしたのだ。
    ナワーブは一頻り笑った後、顔を上げて出てしまった涙を拭いた。
    「わんことは、ひでえなあいつ!」
    「酷いと言いながら楽しそうだな、サベダー」
    「でも実際、あんたの行動完全にそうなんだよな」
    ルカは特大の溜息をついた。ナワーブの言うことを否定出来ないと思ったのかもしれない。
    それか、可愛いと思われるのが複雑なのだろう。男ならあまり抱かれたくない感想だ。
    ナワーブがそう思っていると、ルカはぼそりと呟いた。
    「確かに、いい気分ではないな。トレイシーには悪いことをした」
    「……なんの話だ?」
    何故、ルカがトレイシーに謝っているのだろう。
    ナワーブはマイクに視線を向けてみるが、マイクはぶんぶんと首を横に振る。なんの話かはマイクにもさっぱり分からない。
    今の話にそんな要素があったとも思えない。二人が首を傾げていると、ルカが椅子の背もたれに頭を乗せて、顔を覆う。
    「小さいのが一生懸命動いているのを見ると、つい可愛いなと思ってしまって……何度か口に出してしまったことがあるんだが、その度にトレイシーに怒られていてな……」
    「え、なんで?」
    「友達に可愛いは失礼だ、と。顔を真っ赤にして怒られていたんだが、可愛いと感じたことを叱られるのが私にはよく分からなくて……しかし、確かに嬉しくはないなと」
    「へぇ、そんなもんかなぁ?」
    可愛いも賛辞として受け止められるマイクには、その気持ちはよく分からない。
    それに男のルカはともかく、何故トレイシーまで可愛いと言われるのが嫌なのか。マイクも何回かトレイシーに対して可愛いと言ったことがあるけど、照れることもなく普通にしていたと思う。
    大体女性は可愛いとか綺麗とか言われるのは嬉しいことだと認識していたのに、やっぱりトレイシーは変わっている。
    「…………」
    「…………」
    マイクとルカは気付いていなかったが、ナワーブとパトリシアは黙ったまま視線を合わせる。年長の二人はなんとなく、事態を理解した。
    トレイシーは顔を真っ赤にして怒っていたのではなく、恥ずかしくて真っ赤になってしまったのを、怒って誤魔化したんじゃないか、それ。「友達」かどうかも関係ない話だ。
    マイクですら疑問に思っているのに、ルカは全くおかしいとは思わないらしい。寧ろ今回のことでトレイシーの発言に納得してしまっている。
    ――もしかして、ルカは、まだトレイシーが女性だって気付いてないのか?
    パトリシアとナワーブは、じとりと互いの顔を見て眉をひそめる。
    ――先輩だろ、教えてやれ。
    ――嫌だ、あんたが言え。
    二人は無言で、面倒な役割を押し付け合う。
    パトリシアは放っておいてもあれだけ一緒にいるのだから、流石にルカもそこは分かるだろうと思っていたのだ。それが、まだトレイシーを同性同士と思っているなら、自分が下手なことを伝えて二人をぎくしゃくさせてしまうのは嫌だ。
    しかし、放っておいて何かがあってもなぁとも思う。
    ナワーブは単純に、自身の勘が「関わるな」と言っているので、関わりたくない。勘に頼らずとも既に厄介な気配は感じている。
    あとは、自分も長い間トレイシーの性別に気付かずに過ごしていたので、人に教えてやるのがなんか悔しい。
    「だからぁ、ルカはもっと普段から会話をすべきだと思うんだよ。黙ってても伝わらないって。思ってることは言わないと」
    「言ったら怒られたんだが」
    「トレイシーの嫌な事は分かったじゃん。そう言う事を知るのが人間付き合いには大事なんだ」
    「なるほど……」
    年長組のやり取りにも気付かずに、マイクはルカに真剣に「友達」のアドバイスをしてやる。ルカも前のめりにマイクの話を聞いている。紙があったらメモを取っていたかもしれない。
    「もっと話した方がいいのか」
    「研究のこととか設計図作ってる時とかめちゃくちゃ喋るけど、ルカ、あれは会話じゃないからね。ちゃんと相手とやり取りするのが会話だから」
    「分かった。モートンは流石だな。化け物扱いされるのも当然」
    「誰が化け物だ、お化けだよ!コミュ力お化け!」
    「……違うのか?」
    「全然違う!」
    化け物とお化けでは、言葉の可愛さから違うとマイクは思っている。しかし頭を傾げているルカは何が違うのかさっぱり分からないといった顔だ。
    トレイシーもトレイシーなら、ルカもルカなのかもしれない。なんでこんな常識飛んでるのが友達になるのか……似たもの同士だからか。
    なんとも放って置けない二人だ。友達初心者共は、次から次へと突拍子もない事をしでかすから目が離せない。
    これからも拗れないように、コミュ力お化けと言われる自分が一肌脱いでやろう。マイクがそんな事を考えていると、ルカがくくと笑う。
    「ああ、それにしても安心した。私がおかしいのかとずっと思っていたんだ」
    「なんで?」
    「友達をそんなに可愛いと思うのは変だから、よく考えろと言われたんだが……トレイシーもそう思うなら、問題ないんだな」
    「うん……僕も思った事ないから分かんないけど、おかしくはないんじゃない?」
    自信はないが、にこにこと尋ねてくるルカにマイクは曖昧にそう答える。二人がお互いにそう思ってるならそうなのかもしれない。やっぱり自分にはよく分からないけれど。
    「バルサー、誰に言われたんだ、それ」
    「ええと、ジルマン、だったかな?」
    「……なるほど」
    パトリシアの問いかけに、ルカが顳顬を抑えてそう答える。
    記憶力が良くないルカだが、そんな事を言うのはフィオナ辺りで間違いはない。パトリシアは卓を指先で叩き、ううむと唸る。
    フィオナはどこか掴みどころのない、浮世離れした女性である。が、美容や恋話といった女性らしい事柄には興味を示す。
    そんな彼女が、わざわざ関わりの少ない新人に忠告をしたのだ。きっとにやにやと笑っていたに違いない。その様が目に浮かび、パトリシアは頭を振る。
    フィオナは恐らく、この二人の関係を面白がっているに違いない。ルカもトレイシーも距離感が近すぎるので、彼女が期待するような関係に見えないこともないかもしれない。
    まさかまだルカがトレイシーの性別に気付いてないなんてことは、想像もしていないだろう。
    勘違いしたままのフィオナがトレイシーに余計なことを吹き込む前に、早急に状況を説明する必要がある。
    トレイシーは幼すぎるが、フィオナは逆に成熟し過ぎている。「可愛い」の言葉だけで赤くなってしまう少女に、妙な事を教え込もうとするかもしれない。刺激が強すぎる。放置すればルカとトレイシーの関係が拗れる。
    これからゲームなのに、考えることが多い。パトリシアは痛む額に掌を押し当てた。






    目に入った光景に、アンドルーはまず唖然とした。そして慌てて犯行に及ぼうとしている人物を止めに入った。
    「早まるなレズニック、その状態は無理だ!」
    「んえ?」
    呼び止められたトレイシーは中腰のまま上を見上げる。焦ったアンドルーが階段の手摺りから身を乗り出しているのを見て、顔を輝かせる。
    「あ、アンドルー丁度いいところに」
    「それで落としても事故には見せかけられない」
    「んん?」
    「やるなら窓からにしろ」
    アンドルーの真剣なアドバイスに、トレイシーは抱えていた『荷物』から手を離した。
    「……もしかしてルカにとどめ刺そうとしてる?」
    「まだ生きてるのか?」
    「なんで死んでると思ったのさ」
    トレイシーは階段の途中でアンドルーを睨み上げる。
    仁王立ちをしているトレイシーと、その足元の『荷物』――ぐったりとしているルカ。
    トレイシーは脱力しているルカの両脇に腕を入れて、ずるずると体を引き摺って歩いていたのだ。アンドルーが目撃したのはその体勢のまま、トレイシーが階段を降りようとしているところだった。
    アンドルーの目には、それが階段からルカを突き落とす算段をしているようにしか見えない。
    「事故死に見せかけるなら階段はやめておいた方がいい。殴打した凶器の痕跡は隠せない。高所から落とすか死体自体を隠すか」
    「私の撲殺前提なのはなんでなの」
    勝手に人を犯人に仕立て上げないでほしい。処理の仕方を真面目にアドバイスするのもどうなんだとトレイシーは肩を竦める。
    大体、そうだとしてもこんな堂々と真昼間から殺人の後始末をしたりしないし、証拠なんか残さない。
    しかしアンドルーは当然という顔で小首を傾げる。
    「そいつ、いつかやらかすとは思っていた」
    「何をさ」
    「事故に見せかけなくても、正当防衛なら痴情のもつれでも罪に問われないと思う」
    「違う!違うよ!話してたら頭痛いって倒れたの!」
    トレイシーは首と手を振って否定する。
    表情の乏しいアンドルーが言うと、本当にやばい現場を目撃されたような気分になるのでやめて欲しい。ジョークなら愛想笑いでもするけれど、本気で隠蔽方法を提案してくれそうで困る。
    大体痴情もなにも、友達のルカと自分じゃ起きようがないじゃないかとトレイシーは思う。
    ルカは記憶障害だけでなく、厄介な頭痛持ちでもある。事故の後遺症なので治しようがなく、鎮痛剤もいろいろ試しているが効かなくなってしまってるものが多く、あまり効果がないらしい。
    どんよりとした天気の日は特に症状が酷く、今日のように突然倒れることもある。
    「取り敢えず、医務室まで連れて行こうかと」
    「いや、無理だろ」
    アンドルーは小さい技師の全身を見やり、首を振る。ここまで引きずってきた体力は褒めてやるが、そもそも持ち上げられない時点で絶対階段は越えられない。ここは三階で、医務室は一階なのだ。
    他の人間に協力を仰ぐか、エミリーを呼ぶという手もあっただろうに、何故こんな困難な行動を起こしたのか。
    「引っ叩いてみたのか?」
    「べちべちしたけど起きなかった」
    「べちべち……?」
    アンドルーが首を捻ると、トレイシーが掌で強めにルカの頬を叩く。確かにべちべちという音はしている。実際はかなり痛そうだが。しかしルカは全く反応しない。
    「ね?」
    「あんた結構容赦ない」
    「私だってこんなおっきい奴運びたくないもん」
    「人を呼べばいいだろ……」
    「じゃ、手伝ってよ」
    「はああ……」
    ここで無視をするわけにも行かないので、アンドルーは渋々ルカを運ぶのを手伝ってやることにする。
    と言ってもトレイシーとアンドルーでは身長差がありすぎるので、結局はアンドルー一人でルカを背負うことになる。通りがかってしまったのが運の尽きだなとアンドルーは諦めの境地だ。
    トレイシーは重い荷物から解放されて、うんと伸びをする。
    「あー中腰辛かったから助かった!」
    「どこから引きずってたんだ……こいつの部屋か?」
    「違う、そこの書斎。最近ルカ、部屋に行こうとするとのらりくらり話変えて入れてくれないんだよねぇ。なんか隠したいものでもあるのかな」
    目を細めてルカを睨んでいるトレイシーに、アンドルーは苦い顔をする。
    「詮索はしないんだろ、『ここ』では」
    「わかってるよ、しないよ。でも気になっちゃうのは仕方ないでしょ。『入れたら後悔する』とか言われたらさ」
    「後悔?入ったらではなく?」
    「そう。どう言う意味かって聞こうとしたら、頭押さえて倒れたんだ」
    余程聞かれたくない何かがあったのかもしれない。アンドルーには関係ない上に興味もない事だが。
    まず、自分なら他人を部屋に入れたくない。隠すも何も、自分の領域を赤の他人に侵されるのは我慢がならない。人の部屋を行き来している連中も、誰でも部屋に入れてしまうこの人形使いの事も理解できない。
    況してや異性を自身の領域に入れるなど、男はともかくとして、女性なら怖いと思わないのだろうか。
    アンドルーは脇を歩いているトレイシーを見下ろす。
    「僕からすれば、あんたの方が変だ。よく他人の出入りを気にせずにいられる」
    「元々家がお店だったから、かな?」
    「流石に夜は閉まってるだろ」
    あまりに不用心すぎるので、この子供が実は女性で成人しているという事実を知った時、アンドルーは本当に信じられなかった。化粧っ気もなく髪も短い、機械油の匂いが染み付いた女がいるのかと驚いた。
    それに発明家を名乗る、この如何にも怪しい男と親しくしている神経も分からない。囚人服なのも胡散臭いし、上流階級の生まれなのも気に入らない。金の為でなければアンドルーはこの類の人種とは極力関わりたくないと思っている。
    発明家や博士なんて名乗ってる連中は、頭のネジがぶっ飛んでいる側のやつが多い。
    アンドルーの言葉に、トレイシーは声をあげて笑う。そしてくるくると頭の横で指を回して見せる。
    「それで言うなら、私もネジが飛んでいる側じゃない?」
    「……イカれてるとは思う。けどまたそれとは違う」
    アンドルーの言葉の意味を問う前に、二人は医務室に辿り着いた。
    トレイシーがノックをしてみるも、室内からは返事はなかった。基本的に医務室は出入り自由なので、二人は気にせずに中に入る。誰もいないなら遠慮する必要もないだろう。
    アンドルーは診察台にルカを転がし、ふうと息を吐く。それなりに距離があったので流石に疲れた。細い癖に無駄に上背があるので、ルカは重いのだ。
    数十メートルの短い距離とはいえ、よくトレイシーはこの男を抱えて移動できたものだ。
    アンドルーが肩を回している間に、トレイシーはえっちらおっちらと落ちかけているルカを診察台の真ん中へと移動させている。甲斐甲斐しいことだと思いながら、一応アンドルーは去ることだけは伝える。
    「僕はもう行く」
    「ああ、うん。アンドルーありがとう。助かったよ!」
    天真な眼で礼を言うトレイシーを見つめ、アンドルーは眉を顰めた。
    やっぱり、この人形使いは幼いと思う。恐らく彼女自身が思っているよりもずっと。
    頭のネジがぶっ飛んでる連中は、目的の為なら手段も回り道も犯罪も厭わない。それをアンドルーは見て来たし、関わってしまったこともある。ルカはそいつらと、どこか同じ匂いを感じるのだ。
    「友達」という名目で二人が一緒に行動をし始めて一ヶ月半が過ぎた。荘園内でそれを知らないものはいない。しかしその距離感に疑問を抱いている人間は自分だけではない筈だ。
    余計なことだとは思ったが、アンドルーは忠告の為に口を開いた。
    「あんた、そいつを信じ過ぎない方がいい」
    「え?」
    「頭のネジがぶっ飛んでる奴の行動は分からない」
    「それ、ルカの事言ってるの?」
    「あんたが判断しろ。僕は言ったからな」
    何か言おうとしているトレイシーを無視して、アンドルーは扉を閉じた。僅かな良心からの忠告はしてやった。それ以上親切にしてやる義理はアンドルーにはない。
    去っていく墓守の靴音を聞きながら、トレイシーは頬を掻いた。
    「……と、言われたけども」
    信じるも信じないも、トレイシーにはルカという男の事がさっぱり分からないのだ。
    一月以上一緒にいるので、ルカが何が好きで何が苦手かくらいは分かる。一緒に発明の話や設計図の話をするのも楽しい。ゲームにも一緒に参加したことはある。
    しかし、ルカは記憶が曖昧だと言って自身の話を全くしない。何故刑務所にいたのかなんて、鬼門過ぎてこちらからはとても聞けない。
    育ちがいいのは立ち振る舞いから感じられるのだが、それを指摘されること自体を嫌がっているように思う。
    だからトレイシーには全くルカの事がわからないのだ。
    「はあー……」
    トレイシーは診察台の端に腰掛け、膝を抱き抱える。
    ルカは目覚める気配はないし、エミリーもいつ戻ってくるか分からない。事情を説明するためにもここで待つしかないだろう。
    抱えた膝に左頬を押し付け、トレイシーは目を閉じる。
    ルカは過去を語らないのに、トレイシーの話は聞きたがるのだ。
    別に隠していることではないし、他のみんなにも話していることだ。だけど一方的に過去を知られるのは不公平だと感じずにはいられない。
    本当にルカが全てを忘れているのか、怪しいところはある。アンドルーの言う通りに全部を信じられる程善人には見えない。
    ――それでも、友達だからなあ。
    トレイシーは目を開けて、少し熱くなった頬に手を当てる。
    機械弄りに夢中な自分と、それを好きにさせている父に、子供には友達が必要だという大人はたくさんいた。その時は必要ないと思っていたが、憧れがなかったわけではない。
    まさか、こんなところでそれが叶うとは思っていなかったけれど。
    「!」
    トレイシーは服を引かれる感触に顔を上げた。振り返ると大きな手がベルトを鷲掴んでいる。
    ルカが起きたのかと思ったが、目は閉じられたままで意識が戻ったわけではなかった。寝ぼけて手近な物を掴んだらしい。
    ――そんなことある?子供じゃあるまいし。
    トレイシーは呆れながら、そろそろと診察台から足を下ろす。ベルトを掴む力は緩かったので、診察台から離れればルカの手も外れるだろうと思ったのだ。
    ところが、腰を浮かせた途端にベルトにぐぐと荷重が掛かり、トレイシーは立ち上がれなくなってしまった。
    「もう!なんなの⁉︎」
    中腰で振り返り、トレイシーは苛立たしげにベルトに掛かった手を掴んだ。

    「うぁ……っ!」

    その瞬間、青い閃光が走った。
    両腕に痺れたような衝撃が走り、遅れて痛みが襲う。びくりと体が痙攣したのを感じながら、ぐらりと揺れた視界。その視界には目を見開いたルカの顔があった。
    他人事のように前のめりに傾ぐ体を止められず、何が起きたのかトレイシーには分からなかった。
    「トレイシー!」
    ベルトを掴んでいた手が、倒れかけた体を止める。しかし内臓が圧迫されたことにより、不快さでトレイシーは喘いだ。
    脱力した体を診察台の上に引き戻されるが、回る視界と痛みと気持ち悪さで、トレイシーは目を瞑ることしか出来なかった。
    「んぐっ……ぅ」
    「すまない!すまない!トレイシー」
    ルカの慌てた声に、トレイシーは自分が彼の強電流を浴びせられたことに気付いた。どこかで見たことある光だなあとは思っていた。まさか自分が食らうことになるとは思ってなかったけれど。
    強電流は静電気をものすごく強くしたような感じだ。漏電でピリピリとした感電を体験したことはあるけれど、これはもう二度と喰らいたくない。
    流石にハンターに食らわせているような強さでは無かったので、気絶するほどではないけれど。
    目を開けると顔を真っ青にしたルカが、絶望したような表情でこちらを見下ろしている。そんな悲観的にならなくてもいいのにと、トレイシーは小さく笑う。
    仰向けのまま、まだ起き上がれないけれど、トレイシーはルカの腕を叩いた。
    「な、何すんのさ、痛いじゃん……」
    「違うんだ、君を傷つけるつもりは……!取られてしまうと思って」
    「取られる、って?私のベルト、何と…間違えたの」
    揶揄うようにトレイシーが問えば、ルカはぐっと眉間に皺を寄せて黙り込んだ。これは不機嫌なのではなく、困っている時の顔だ。
    そんな言いたくないようなものなのかとトレイシーが思っていると、ルカはうろうろと視線を泳がせながら、ゆっくりと口を開いた。
    「それは」
    「今の光はなに⁈」
    エミリーがものすごい剣幕で医務室に飛び込んで来た。ルカの強電流は強い音と光を放ったので外にいた彼女もすぐに異変に気付いたのだ。
    エミリーは医務室内を見回し、ルカとトレイシーを見て、すうと眦を吊り上げた。大体の状況は理解できた。
    「バルサーさん、トレイシーを部屋まで運んでくださる?その後お話があります」
    「はい……」





    人間にもカビって生えるんだろうか。
    ずっと天気が悪い日が続いているけれど、それよりもどんよりとしている目の前の男に、マイクはそんなことを考えてしまう。
    ルカが一週間の謹慎を言い渡されて四日が過ぎた。
    強電流を浴びたトレイシーだったが、幸いにも火傷も後遺症も残らなかった。それでも念の為にと数日様子を見ることになった。
    故意ではないとは言え、ゲーム外で人を攻撃したのでルカはエミリーに、それはもうこっぴどくお叱りを受けた。
    そうして自室の謹慎となったのだが、あまりにルカの落ち込み様が酷く、部屋を覗いた面々にメンタルケアをとマイクが放り込まれた次第だ。
    流石にこれは分野が違うとマイクは思ったけれど、二人の友情に関しては面倒を見ると勝手に決めている。トレイシーは気にしていないのに、ルカが離れていく様なことにならないようにしてやらねば。ただのお節介と言われればそれまでだが、どうにも放って置けないのだ。
    自身の胡座に肘をつき、マイクは椅子に座っているルカ見上げる。
    「そんで、何と間違えて電撃しちゃったわけ」
    「……直球だな、モートン」
    「回りくどく聞いても仕方ないじゃん」
    トレイシーからあの日あったことは聞いている。自室に運ばれてる最中に意識が途絶えたのでうろ覚えだけど「違う」「間違えた」とルカが頻りに繰り返していたということも。
    ルカはグシャリと髪を掻きむしりながら、渋面で話し始める。
    「……私の体質は完全に操作できているものではないんだ。感情にも左右される傾向があると、最近気付いた。ゲーム以外は電荷を溜め込まないように意識しているんだが、感情が昂った時、若しくは不満が溜まるとそれに比例してしまうとでも言えばいいか」
    「ルカの機嫌悪い時に空気ピリピリするやつ?そんなら知ってる」
    マイクはつまらなそうに答える。そんなことなら多分、全員が知っている。
    しかしルカは首を振った。
    「違う。それは放電されている状態だから溜め込んではいないよ」
    「そういえば、そうか。溜め込んでたらピリピリしないね。それじゃどう言う時になるわけ?」
    「トレイシーといる時だ」
    「…………なんで?」
    「言っただろ。不満に思うと影響が出ると」
    あまりの言いように、マイクは非難がましい目をルカに向けてしまう。自分から友達になっておいて、不満とはなんだ。
    けれどルカが零した言葉に、それも霧散してしまう。
    「可愛いと言うと、怒られる……可愛いのになんで駄目なんだ」
    「あ、そっち?」
    まだその話続いてたのか。もうあの時に済んだ話だとばかりマイクは思っていた。ルカも納得していたんじゃないのか。
    それを問いただそうかとも思ったが、そうすると話が逸れてしまう。マイクはその話は一旦置いておくことにした。
    「えっと?言いたいことを言えない不満で、勝手に充電されちゃう事があると。でもそんなに影響出るかな、それ」
    「可愛い、撫でたい、触れたい、抱き締めたいと常に思っているからそのせいだと思う。長い時間一緒にいるほど電荷が蓄積する」
    「………………おっけおっけ。一旦置いとこう、うん。それであの時はどのくらい一緒にいたの」
    「二時間、かな」
    「結構な充電がありそう」
    「そうなんだ。少しづつ放電するよう意識すればましなんだが、天候が悪いとそっちも上手くいかなくてな」
    「へえ」
    顔を覆って背持たれに仰反るルカ。トレイシーが原因の不満の充電を、当人に食らわせてしまうとは。なんとも皮肉な話だ。
    マイクは一旦流した話題に戻りたいのをぐっと堪え、額に指を当てる。
    「ゲームじゃないのに電気溜め込んでた理由は分かったけど、なんで電撃したんだよ」
    「…………物凄く言いたいくないんだが、そうもいかないよな」
    「言っとくけど、これ誰かに言われて聞いてる訳じゃないよ。僕が気になってるだけ。だからルカが言うなってんなら、誰にも言わない」
    マイクがそう言うと、ルカは椅子の背持たれから身を起こし、じっとマイクの顔を覗き込む。しばらくそのまま何かを考えていたが、ふっと肩の力を抜き、小さく笑う。
    「君が信頼に値することは、ここに来たときに見せてもらった。どうか笑わないで聞いてほしい」
    「笑わないかどうかは、保証できないかな」
    「正直だな」
    ルカは肩を竦めて、行儀悪く片足を椅子に上げた。そこに顎を乗せて、床に視線を落とす。
    「トレイシーと友になりたいと言い出したのは私だが、最近はそれを反故にしたいと思っているんだ。私はあの子と親しくなりたいわけではないらしい。端的に言えば、欲しいと思っている」
    「んんぅ?」
    マイクは咄嗟に出かけた声を両手で塞ぎ、無理やり飲み込んだ。
    一旦。一旦全部ルカの話を聞こう。こういうのは途中で止めてはいけない。疑問を投げかけるのはその後でいい。
    ルカはマイクの異変には気づかず、床を見つめたまま話を続ける。
    「しかし、あの子にも友に強い憧れがあるのは分かる。あんな輝いた目で見られては、なかったことにしてくれとはとても言い出せない。それに今の関係を手放せるかと言われれば、正直なところ難しい。居心地は恐ろしくいいのだから。我ながら欲張りだとは思うが」
    「………………」
    「関係を壊したくないというのも本音ではある。ただ、この体質がな……なかなか厄介で。二人きりでいるのがそこそこ辛くなってきてるのも現状だ。部屋に入れたらどうなるかわかったものではない」
    「え、ケダモノ」
    「そういう意味じゃない!充電の方でだ。トレイシーはそういう感情に幼いと言ったのは君だろう。流石にそんな無体は働かない」
    「なら、いいんだけど」
    「……あの時は、夢現が曖昧だったんだ。目の前にいるトレイシーを捕まえたのが現実だと思っていなかった。だからその手を剥がされそうになったことに怒りが湧いてしまって、咄嗟にな。奪われると思い込んで思い切り放電してしまったわけだ。そしたら、ああなったわけだ。間抜けなことに」
    「なる、ほど?」
    マイクは腕を組み、右に体と首を傾げる。事のあらましは分かった。けれどここに至るまで、ルカの話にはいくつも気になる点があった。
    右に傾きながら、マイクはその「気になること」を質問してみることにする。
    「ちょっと整理させて欲しいんだけど。まずルカは、トレイシーの事は恋愛として好きって事?」
    「そうなるな」
    「因みに、いつから?」
    「ジルマンによく考えろと言われた辺りだ。友なら可愛いと思うのはおかしくないと君は言ってくれたが、どうにもすっきりしなくてな……」
    「それは僕も適当な事言ったことは謝るけどさ。さっき撫でたいとか抱きしめたいとか言ってたけど」
    「やってないからな。騙し討ちのような真似はできない。私を友として信頼してくれているトレイシーを裏切るようなものだろう」
    「おお……ケダモノって言ったことも謝るね」
    「誤解が解けて何よりだ。大体、下手にトレイシーに触れると怒られてしまうからな。真っ赤になったら離れるよう気をつけている」
    「……へえ」
    マイクは今更ながら、トレイシーが怒りで赤くなっていたわけではないことに気が付いた。あっちもあっちでルカを意識しているのではないだろうか、自覚は無さそうだけど。
    それにしても、自分の勘違いにマイクは恥ずかしくなってくる。僕、ずっと的外れな友達アドバイスしてたってことじゃん。全然気付かなかった。とんだ道化だ。
    ルカは当惑した顔で、顔色をころころ変える曲芸師を見やる。
    「……なんでモートンが赤くなってるんだ」
    「僕も間抜け仲間だったことに気付いたんだよ……こっちのことはいいから!ルカはいつトレイシーが女の子だって気付いたのさ」
    「うん?」
    「あー、だから、いつから可愛いってなったかってこと!」
    「ああ……」
    恥ずかしさを誤魔化すために、マイクがぶっきらぼうに放った問い。それにルカは数秒考えて、答えを出す。
    「泣き声を聞いた時、かな」
    「え?いつ」
    「彼女が金色の人形に縋ってた、あれだ」
    「…………………」
    マイクは直ぐには思い出す事が出来ず、右から左に体を傾げながら記憶を探る。
    ――金色?金色……金色の人形……あ。
    マイクの頭に、エプロンを付けた白髪の人形の姿が浮かぶ。そしてそれに縋って泣く、トレイシーの後ろ姿。
    カッと目を見開いて、マイクは思い切り叫んだ。
    「初日じゃん‼︎‼︎」
    「っ、叫ばないでくれ……」
    「顔見てないじゃん、あの時!」
    「泣き方が可愛かった。声も可愛かったが」
    「そんな事思ってたんだ⁈」
    「顔も仕草も可愛いとは思ってなかった」
    照れたように頬を赤らめているルカに、マイクは開いた口が塞がらない。惚気に突っ込む余裕もない。
    あの時は、トレイシーの秘密に触れてしまった事に気が取られていた。だから全く気付かなかった。
    というか、泣いてる姿が可愛いってなんだ。一目惚れに入るの、これ?ルカの感性が独特過ぎてマイクにはさっぱり理解できない。
    「ん?じゃルカは最初からトレイシーが女の子って分かってたってこと?」
    「分からないことが、あるのか?」
    ルカが心底不思議そうな顔をしているのを見て、愚問だったなとマイクは力なく笑う。
    しかしこれでいよいよ分からないことが増えた。マイクは両手を顳顬に当てて、痛み始めた頭を支える。まだまだ確認しないといけない事がある。
    「一応確認するけど、トレイシーと友達になった事に他意はないんだよね?」
    「……他意がよく分からないが、親しくなりたいと思ったのは事実だよ。彼女の技術は純粋に素晴らしい。話すのも楽しい。独学の知識不足はあっても、学ぶ機会さえあれば才能を伸ばせるはずだ」
    「ああ、良かった……そこも計算だったとか言われたら人間不信になるところだった。すんごい勢いだったから遠目だとナンパにしか見えなかったんだよ……」
    「あれは反省している。怯えさせてしまったなと。まあ、お陰で彼女はあからさまに項垂れて見せれば大方のことは許してくれるという事は分かった」
    「前言撤回、やっぱ悪い男だった……」
    真面目な顔で言ってるけど、なんて奴だとマイクはルカを睨み上げる。それはお人よしのトレイシーでは断れないはずだ。
    ルカは、マイクが思っていたよりも随分と観察眼が鋭い。職業柄と言われればそうかもしれないが、人の感情にも敏感なようだ。ほぼ初対面のトレイシーの変化にも気付いている。
    そこでマイクはふと気付いた。
    「ってことはルカ、わざとトレイシーに『性別気づいてない』振りして接してたってことになる?」
    「ああ……友として接するなら同性の様に過ごした方がいいのかと。それに彼女自身、そうして欲しそうだったからな」
    事もなげにそう答える男に、マイクは顔を近付けて眉を顰める。
    「分かってないようだから言っておくけど、ルカ。トレイシーは本気でルカが自分を同性だと思ってると信じてるよ」
    「……嘘だろう」
    「本当です」
    「振りではなく?」
    「マジで」
    「……嘘だろう?」
    ルカは口元を右手で覆って俯く。今の今まで暗黙の了解でのやりとりだと思っていたのだ、無理もない。
    擦れ違い多過ぎでしょこの二人とマイクは天井を仰ぐ。どこまで行っても平行線な訳だ。
    トレイシーは今までの扱いから、ルカも当然自分を男だと思ってると疑いもしなかった。ルカの直前に来たアンドルーが、トレイシーの事を少年として扱っていたせいだとも思う。
    だからルカに女性に対する言動を取られると揶揄われている、馬鹿にされていると受け取っていたのだ。そして本気でそう思っていたからこそ、ルカ当人を異性として見ないように見ないように努めていたのが傍目にもよくわかる。
    ルカはルカで、トレイシーが友ならば同等に扱って欲しいと願っていると思っていたのだ。だから女性扱いを嫌っているのだと。
    恋情を伝えるなら友を辞めなくてはならない。そう悩んでいたことが、今回の事故に繋がったと言ってもいいのかもしれない。
    ルカが呆然とした顔でどこか空を見ているのを、マイクは気の毒に思う。惚れた相手が悪すぎる。
    「何故彼女はそんな勘違いをしていたんだ?私のせいか?」
    「あー……ちょこっとそうかもしれないけど、違うと思う。トレイシーって髪が短くて作業着で生活してるじゃん?機械油の匂いも染み付いてるから、とても女の子に見えないらしくて、間違えられやすいというか」
    「……何に間違うと?」
    「男の子に見えるって話」
    「目が悪いんじゃないか。間違えるわけないだろう」
    「……ルカ?」
    ぐりんと首を回すルカの目が据わっているのを見て、マイクはずりずりと後退る。
    「や、僕が言ったわけではなくて」
    「あれほど可憐な存在をどうやったら男と間違うと?鈴を転がすようなあの愛らしい声が、少年に出せるとでも?華奢でたおやかで男らしさなど微塵もないだろう」
    「ルカ、ルカ。滔滔と語るのやめて欲しい」
    「……まさか彼女は、私がそんな連中と同じだと思っているということか?」
    「!」
    ゆらりと椅子から腰を浮かせたルカを、マイクは慌て立ち上がり、上から押さえつけた。
    「ストップストップ!」
    「離せ、行かなくては」
    「どこ行く気だよ!」
    「トレイシーのところに決まっている!」
    「駄目だってまずいって!」
    「誤解を解かなくては」
    「駄目だってルカ!」
    「何故止める、モートン」
    「今、君、謹慎中!部屋出たら駄目だろ!」
    「……………………そういえばそうだった」
    大人しく力を抜いた相手に、マイクはほうと息を吐き出す。ルカが夢中になると周りが見えなくなるのは知っていたけれど、危なかった。
    謹慎中のルカを外に出した上にトレイシーのところに行かせたなんて事になれば、ルカどころか自分もお叱りを受けるに決まっている。今回のことに御冠のエミリーとパトリシアは黙っていないだろう。なにせ、トレイシーはまだ様子見でベッドの住人なのだ。
    事故とはいえ、女の子に火傷や後遺症を負わせる危険性のある電撃を放ったのだ。「何かあったら責任を取らせる」「拒否権はないわ」と憤っていた二人を思い出して身を震わせる。
    まずいのは、この話をルカに聞かせると逆に喜んで飛び出していきそうな事だ。そうなるとお叱りを受けるマイクだけが理不尽な目に遭う事になる。それは納得いかない。だから黙っていよう。
    ちらりとルカを見れば、最初のカビが生えそうな状態に戻っている。浮き沈みの激しい奴だなとマイクは頬を掻く。
    そういえばこのカビっぽいのをどうにかしろって放り込まれた事を、すっかりと忘れていた。どうしたものかとマイクは考えて、一つあることを思いついた。
    「あのさ、ルカ。僕思ったんだけど」
    「……なにをだ」
    「トレイシーって友達が初めてって言ったけど、多分恋人とかそういうのも経験がないんじゃないかと思うんだけど、どう?」
    マイクの問いに、ぴくりと俯いたままのルカの肩が揺れた。焦ったい動作で首を持ち上げ、ルカはマイクと目線を合わせた。
    「続けてくれ」
    「社交辞令とか、挨拶での女性への賞賛はトレイシー、嫌がらないんだよ。受け流したり御礼言ったり。でもルカからのは怒るって言ってたじゃん」
    「そうだな。可愛いも愛らしいも失礼だと言われた。撫でると振り払われる」
    「徹底してるね。でもそれ他の人がやってもトレイシー怒らないと思うんだ」
    「……モートンそれは私が嫌われていると言うことか?」
    「違う違う違う。本当にカビ生えそうにならないで、聞いてって。飽くまで僕の推測の域を出ないんだけどさ。それってぶっちゃけルカ、意識されてるんじゃないかなって」
    「……………………うん?」
    「急に耳遠くならないでよ。だから、トレイシーね。ルカの「可愛い」に照れてるんじゃないかって言ってるんだよ。赤くなるんでしょ」
    「怒っているんじゃないのか?」
    「ルカの観察眼、なんで偶にポンコツになるのかな。それはルカしか見てないから分かんないけどさ。話聞く限り、怒るようなことではないと思うんだ」
    マイクの言葉に、ルカはふむと目を閉じる。トレイシーと過ごした時間を振り返り、言われてみればそうかもしれないと思い当たる事に気づく。
    最初に可愛いと言ってしまったのはトレイシーの横顔を見ていた時だったと思う。うっかりぽそりと呟いた途端、顔を真っ赤にして「可愛いは、ダメ!」と怒られたのだ。その様も可愛かったのでどうしようかと思ったわけだが。
    「ルカさーん、惚気るのは僕がいないところでお願いしたいな」
    「すまない、口から出ていた」
    マイクの乾いた声にルカは苦笑で返す。ずっと言えなかった事を吐き出せた反動で、ぽろぽろと本音が口から溢れてしまう。
    マイクは咳払いをすると、気を取り直して先を続ける。
    「トレイシーは、恋愛対象に自分はならないって思ってる節があるんだ。前に僕がルカが君の性別に気付いたらどうするんだって聞いた時に『気付いたところで何も変わらない』って言ってたくらいさ」
    「なんの自信なんだ。危機感がなさすぎる」
    「それはお姉様方も口酸っぱく言ってるんだよ、ルカくん。でも全然本気にしてないんだよ、トレイシーは」
    何度も何度も部屋に鍵をかけろ、なにかあったらどうすると女性陣から注意を受けていたのに、トレイシーはどこ吹く風だった。「そんな物好きいるわけないじゃん」とまで言っていた。
    その「物好き」はマイクの目の前で本気でトレイシーの危機感の無さを心配している。ケダモノじゃなくて良かった良かったとマイクは遠くを見て思う。時限爆弾式だけど。
    「こうなったら私が外から鍵をかけるか……」
    「ちょいちょい、軟禁はお辞めください、謹慎どころじゃなくなるって」
    違う方向で危ないかもしれないとマイクはストップをかける。結構猪突猛進タイプだ、こいつ。
    「彼女の危機感の無さは分かったが、それが私を意識しているという事実とどう繋がるんだ?」
    「うーん、なんていうのかなあ。トレイシーは恋愛対象にされるのが怖いんだと思う。そんで自分が恋をするっていう事も信じたくないんだと思う」
    「………………うん?」
    「思考停止しないでって。つまるところ、ルカがドンピシャで危険要素って事だ。君を男として見ることと、自分が女の子として見られてることを認めたくないってこと」
    マイクは普段の剽軽な態度とは裏腹の、達観した青年の顔でルカに指を突きつける。
    「性別の事は誤解でもなんでもない。トレイシーは目を瞑ってるだけなんだよ。気付きたくないんだ、真実に。これはさ、ルカがどうにかしないとなにも変わらないと思うよ、僕は」
    「君は、人をよく見ているな」
    「……見る目がなさすぎた、過去があるからね」
    ふふと笑う顔が一瞬翳る。明るいこの青年も、ここに招待された人間であることをルカは今更思い出した。
    マイクはすぐにいつもの悪戯っ子のような表情に戻ると、頭の後ろで腕を組む。
    「まー、僕が言えるのはこんなところ。後はルカが考えて」
    「充分だよ。まさか根本からすれ違っていたとは思ってなかった」
    ルカは自身の顔を撫でながら、自嘲の笑みを漏らす。
    マイクに言われた事だが、確かに自分達は会話が圧倒的に足りていなかったらしい。探究者同士、通じるものが合ったのが裏目に出た結果だ。
    マイクは「あ」ともう一つ付け足す。
    「もう一個言うなら、他の人もルカがトレイシー男と思ってると誤解してる」
    「……私はそんなに馬鹿に見えるのか?」
    「距離が近すぎたんだよ、君ら。大方、本で見た友達の関係とかウィリアムとかナワーブの話参考にしたんだろうけど、それ全部同性の場合だから」
    「はあ……」
    トレイシーと親しくなろうと努めた結果が全て、自分の望みと逆の方に作用してる。ルカは両手で顔を覆う。
    これからどう行動すべきなのか、残りの謹慎期間で悩み続けるしかない。今度ばかりは相談する相手は存在しなかった。





    朝のゲームがない日のトレイシーは、夜明けまで起きている事が多い。一度作業を始めてしまうと、切りのいいところまでと思いつつも止められなくなるからだ。寝よう寝ようとは思っているのだが、自分ではどうにもならない。
    そこから寝ると起きるのは昼頃になる。食事もおかしな時間になることが多いので、面倒くさがって抜いてしまうことも多い。
    けれど食事を三回以上抜くとエミリーが怖い顔で部屋までやってくるので、そこだけは守るように気をつけている。
    そんなトレイシーだったが、その日は朝から食堂に朝食を取りに出ていた。ゲームはない日なのだが、きちんと夜に寝たので珍しくこの時間に目が覚めたのだ。
    もさもさとパンを齧りながら、どうしようかなとトレイシーはスープのカップを揺らす。今日はルカの謹慎が終わる日だ。
    部屋まで行くべきだろうか、それとも来るのを待つべきだろうか。それを考えていたら何も手につかなかったのだ。
    聞いた話だとルカは謹慎中、かなり落ち込んでいたらしい。ここは気にしてないよって迎えに行くべきなんだろうか。でも部屋に来て欲しくないっぽかったし、どうしよう?
    答えが出ないままぼーっと空になった皿を見つめていると、ぐいと襟首を掴まれる。
    「んあ⁈」
    「なんで今日に限って起きてるんだ」
    猫の子のように摘まれて、なんだなんだと思っていると苛立った声が降ってくる。上を見上げると目を細めている白皙の美青年が立っていた。機嫌は大分よろしくない。
    「なになに、ジョゼフ」
    「こっちにいたぞ」
    じたばたとしているトレイシーを他所に、ジョゼフが背後に声をかける。掴まれた襟首を引き剥がそうと躍起になっていると、やや遅れて何かを突く音が近付いてくる。
    「まったく、寝てる間にふん縛って連れていこうと思っていたのに……お前さんの勘の良さと来たら」
    「バルク?え、なんなの本当に」
    なんだか穏やかではない内容に、ジョゼフの手から逃げようとトレイシーは踠く。よく分からないけど嫌な予感がする。
    ひたすら無駄な抵抗をしているトレイシーを見下ろして、ハンター二人は顔を見合わせる。
    「……この様子だと、忘れているな」
    「まあそんなこったろうと思った」
    「もう!さっきからなんなの二人とも!」
    心底馬鹿にしたように首を振るジョゼフとバルクに、トレイシーは目を釣り上げて怒鳴る。突然人の食後に現れて、その態度はなんなんだ。
    バルクは哀れなものを見るような目で、トレイシーの頭を突く。
    「あのビリビリ小僧の電撃を喰らったせいで記憶も飛んでるんだろう」
    「そんな厄介な攻撃だったのか、あれは」
    「もー!だから何の話してるのさ!」
    しみじみと人の顔を覗き込んでいるハンター二人に、トレイシーは噛み付く勢いで叫ぶ。
    と、そんな三人の横から呆れた声が響いた。ジョゼフとバルクと一緒にトレイシーを探していたイライだった。
    「主役が見つかったんなら早く連れてきてください」
    「イライ?なにその色の服」
    「その主役が完全に今日の予定忘れとるぞ」
    トレイシーが首を傾げるのと、バルクが槌の柄でトレイシーの頭を小突くタイミングが同じだった。まるで頭を差し出すかのような動作に、コンという音が重なる。
    「痛あ!」
    「いい音がしたな」
    「あの、たんこぶ出来たら困るんで控えめにお願いします」
    トレイシーが頭を抑える。槌じゃない方でも結構痛い。
    痛みに呻くトレイシーを、大人しくてこれ幸いとばかりにジョゼフが小脇に抱える。
    「主役確保」
    「まあ概ね予定通りか」
    「ううう……」
    すたすたと歩き出した三人の目的は同じらしい。しかし先ほどから話題に出ている「予定」や「主役」という言葉が何のことか、トレイシーにはさっぱり分からない。
    何故だか逃げ出すと思われているらしいけれど、イライが関わっているなら危険なことではない筈。一体何を自分は忘れているのだろうか。
    トレイシーはすぐ隣を歩いているイライに目を向ける。
    「今日ってなんかあったっけ?」
    「あるんだよ。トレイシー寝込んでたから予定ずれ込んだんだけど」
    「んん?」
    「……本当に忘れてたんだね。いや覚えてたら逃げ回るからいいんだけど」
    イライが説明してくれた内容は、確かに一ヶ月前にナイチンゲールから通達されていた事だった。トレイシーはあまり興味がない事なのですっかり忘れていたのだ。
    しかし思い出したところで特に逃げ出すような事柄ではない。何をみんな警戒しているのか。
    首を捻っているトレイシーの前に、イライが一枚の紙を開いてみせる。
    それを見たトレイシーは目を見開いて固まった。


    「くっ、この!暴れるな!じゃじゃ馬め!」
    「なんで見せたんじゃ!」
    「こんなに嫌がるとは思ってなくて!」
    「離せえええええええええ!!!!!」





    リビングの植木に水やりをしていたエマは、気配を感じて顔を上げた。久々に見る顔がおずおずと部屋の中を覗き込んでいるので、エマはくすりと笑う。
    「そんなところにいないで、どうぞなの!ルカさん」
    「ああ……すまない」
    ルカは招かれるがまま室内に入ったが、きょろきょろと辺りを見回している。エマは彼がピアノを弾きにきたのかと思っていたのだが、そうではないらしい。
    だったら何を探しているのかと思い、ああとエマは手を叩く。
    「トレイシーちゃんなら、今はいないの!」
    「今日はゲームはないと思ったのだが」
    「違う御用なの!うふふ、ルカさんも楽しみにしてて欲しいの」
    「?ああ」
    楽しみとは何だろう?ルカはその内容を尋ねたいところだったが、エマは如雨露の他にスコップの入ったバケツを抱えているのでこの後もまだ作業があるのだろう。流石に呼び止めるのは悪い気がして、ルカは部屋を出ていく彼女を黙って見送った。
    誰もいなくなったリビングで、ふらりとピアノの椅子に腰掛ける。
    ――そうか、いないのか。
    ルカは少し緊張していたのだが、目的の人物がいないと分かり気が抜けた。
    マイクとの対話のあと、ルカはトレイシーとの関係をどうすべきか考えていた。謹慎の終わりまでずっとだ。
    現状維持をすれば隣にはいられるが、また同じような事が起こるかもしれない。しかしならば離れられるかと言えば否だ。彼女が他の奴と親しくしているのを見るだけでどろりとした感情が湧いてしまう。
    だったら一層の事、この想いを告げてしまうのがいい。友と思っていた相手だから彼女はきっと戸惑うだろうが、マイクの言う事を信じるなら望みはある。
    「はあ……」
    ルカはピアノの鍵盤に目をやり、溜め息をついた。今はとても叩く気にはなれない。
    告白することは潔く決めたわけだが、やはり緊張はする。そして告白前に、彼女の誤解を解くことから始める必要がある。いや、何よりまずは謝罪をしなくては。
    トレイシーに拒絶された場合の事を考えると、胃の腑が鉛の様に重くなる。というより、もうすでに痛い。
    ただ待っていると碌なことを考えない。トレイシーが現れるまで何か他のことでもしていようかと、ルカはリビングから食堂側の扉を開いた。
    丁度扉の前を通りがかったナワーブとウィリアムがそんなルカに気付き、歩み寄って来る。
    「ルカ!やっと出所したのか」
    「なかなかいうな、君……」
    「ジョークのつもりで嫌味ではないと思うぞ」
    開口一番のウィリアムのセリフにルカは皮肉かとも思ったが、本人はにっかりと笑っているので確かにそのつもりはなさそうだ。
    ナワーブはルカの全身を見回して、うんと頷く。
    「……きのこは生えてねえみたいだな」
    「モートンにもカビが生えそうと言われたよ」
    「違いねえ。持ち直したみたいで良かったぜ。ルカ、マジで落ち込みすぎて湿気でどうにかなるんじゃねえかと」
    「その節はどうも。凄腕のカウンセラーのおかげでどうにかなったよ」
    ルカは苦笑しながら二人に礼を言う。謹慎中のルカを気にして、食事以外にもウィリアムとナワーブはちょくちょく確認に来てくれていたのだ。
    見ると、ナワーブは丸めたシーツを脇に抱え、ウィリアムも布の入った籠を抱えている。洗濯室に向かう最中だったようだ。
    「忙しそうだな。手伝おうか?」
    「ああ、いい、いい。俺らはリネン集めてこいって言われただけだからな。これで終わりだしよ」
    「お前当番じゃねえだろ。それより、いいのか?」
    「何がだい?」
    ナワーブの問いに、ルカは目を瞬かせた。先ほどエマも意味深な笑いを浮かべていたが、なにか自分は忘れていることがあるんだろうか。
    顳顬に手を当てるルカだったが、ウィリアムはナワーブを肘で突く。
    「トレイシーだろ、わざわざ自分で教えると思えねえけど」
    「ああ……それもそうか。というかあいつも忘れてそうだな」
    「なんの話をしているんだ?」
    ルカがそう尋ねると、説明が面倒になったナワーブが上の階を指す。
    「直接見に行った方が早いと思う。バンケットホールに行け」
    「??ああ……」
    リネンを抱えた二人と別れ、ルカは言われた通りに上階のホールへと向かう。
    バンケットホールはパーティーなどの特別な催しでしか使われない、広い空間だ。普段は鍵が掛かっており、入ったとしても何もない。
    そんなところにトレイシーがいるのだろうか?何のために?疑問に思うことしかないが、今はなにも答えはわからない。
    ルカが階段を上がると、確かにナワーブの言う通り
    ホールは開放されており、人が集まっているようだ。賑わった様子の室内に、何事だろうと開け放たれた扉に近付く。内側で何かを話していたノートンとマイクがルカに気付いて振り返る。
    「あれ、バルサーもう解放されたんだ?」
    「ご挨拶だな、キャンベル」
    ノートンの嫌味をルカは鼻で笑う。磁石の事故で味方をハンターの元に吹き飛ばしては、謹慎を常習的に喰らう男が何を言う。
    にやにやとしているノートンを無視して、ルカはマイクに尋ねる。
    「これはなんの集まりなんだ?トレイシーがいると聞いたんだが」
    「なにってそりゃ……あ!そうか、ルカ来てからは初めてか!」
    マイクがはっとした顔でそう叫ぶ。ノートンも「ああ」と納得した顔で手を打ちつける。
    「バルサーってシーズンの切り替えの後で来たんだ。それは知らないはずだ。トレイシーも忘れてたらしいし」
    「普通は自分の番忘れなくない?」
    「あの子の場合は不思議じゃないと思うけど……」
    「話が全く見えないんだが?」
    いい加減、この事態の説明をしてほしい。ルカもついつい苛立たしげな声になってしまう。
    「ごめんごめん。あれだよもうすぐ」
    「ぎゃー‼︎」
    眉間に皺が寄り始めたルカに、マイクが謝りながら説明しようとしたところで、ホールにトレイシーの声が響き渡った。





    イライはほとほと困り果てていた。
    なんとかナイチンゲールの協力のもと、トレイシーを着替えさせることはできた。しかし今度はシーツに包まって出てこない。器用にびっちりと包まって、シーツの端っこを握り込んでいるので剥がすのも難しい。主役がこれではお披露目どころではない。
    「暴れられるより持ち運びには便利」と来る時同様、ホールへの道中もトレイシーを小脇に抱えているジョゼフは気にしていないが、このシーツお化けをどうしたものかとイライは歩きながら悩んでいる。
    「ジャックにシーツを切り裂かせればいいだろう」
    「それ中身までいきませんか」
    バルクがこともなげに言うのを、イライはげんなりとした顔で止める。ホールが地獄絵図に変わりかねない。
    すぐ実力行使に出るハンター陣に期待は出来ないので、どうにかトレイシーを説得できないかとイライはシーツお化けに話しかける。
    「トレイシー」
    「やだ!」
    「……なにがそんなに嫌なんだい」
    「この服が嫌なの!他の人にしてって言ったのに!」
    「そうはいかないよ、君の番なんだから」
    「エマとかヘレナとかいるじゃん!」
    「彼女達にも決まった順番があるんだよ、きっと。それに似合っているよ?」
    「嘘だ!似合わない!」
    「似合っとるぞ」
    「似合っているが」
    トレイシーの言葉に間髪入れずにバルクとジョゼフがそう答える。二人とも特に興味はなさそうなので煽てる意図はなく、ただ淡々と事実を述べているだけのようだ。
    そのあまりにも冷静な答えにトレイシーもぐっと唸る。無関心だからこそ、その言葉が本心なのは理解出来るのだ。
    「……似合っても嫌」
    「赤子か。意味の分からん愚図り方をするな」
    苦し紛れのトレイシーの拒絶に、バルクが心底面倒臭そうにため息を吐く。どうするかと同僚を見上げれば、ジョゼフはふむと顎を撫でて小首を傾げた。
    「手は、無いこともない。切り裂くよりは平和だろう、多分」
    「ほほう。ならそれでいいか」
    ――良いわけがない。絶対不穏な方法だ。
    イライは朝、平和な方法と言って二人がトレイシーを連れ出すために殴って昏倒させようとしていたのを知っている。女性に対してとんでもないと慌てて止めたのだが、次の案が寝てる間に縛って連れて行くというものだったのにも頭を抱えた。
    バルクは誰に対してもこうだが、ジョゼフはもう少し女性に対して丁寧な印象がある。何故トレイシーの扱いだけちょっと雑なんだろう、とイライは思う。
    ジョゼフ曰く平和な方法を実践される前に、なんとかトレイシーを説得できないかとイライは白い塊に話しかける。
    「トレイシー、なんでその服がそんなに嫌なんだい?スカートは他にも衣装あるよね」
    「………………」
    「ん?」
    トレイシーがボソボソと何か言っているが、よく聞こえない。イライはシーツに耳を寄せる。
    「ルカに、見られるのが嫌なの」
    「……なんでだい?」
    イライは不思議に思い、そう尋ねる。二人とも仲が良いはずだ。
    トレイシーは、シーツ越しでも分かる不貞腐れた声で答える。
    「ルカは私のこと男と思ってるのに、こんな格好見せられないよ」
    「え?いやいや。それはないよ」
    イライの即座の否定に、トレイシーはむっとする。自分の方がルカといるから、彼のことは分かっている。なんでそれを他人が否定するのかと苛立ちを覚える。
    思わずぶっきらぼうな声を出してしまう。
    「なんで、イライにそんなことが分かるのさ」
    「初めて会った時に彼に聞かれたんだよ、『人形師の彼女はどこに?』って。だからバルサーさん、トレイシーが女の子って知ってる筈だよ」
    「…………え?」
    イライに言われた内容を、理解するのに数秒かかった。もう一度問い返そうとトレイシーがしたところで、体が高く持ち上げられる。
    何故だか分からないが、トレイシーを小脇に抱えていたジョゼフが、頭上にトレイシーの体を担ぎ上げているようだ。何をする気か分からずトレイシーが身を固くしていると、ぱっと支えの手を離された。
    腹の底から血の気が引く浮遊感に、トレイシーは思わず悲鳴を上げてしまう。
    「ぎゃー‼︎」
    「うわああ!」
    隣でその一部始終を見ていたイライも声を上げる。まさかジョゼフが頭上から人間を落とすとは思っていなかったのだ。ぽかんと見守ってしまったのが間違いだった。
    トレイシーの手が緩んだ隙に、ジョゼフが強引にシーツを毟り取る。小柄な体躯が床に叩きつけられる前に、イライがなんとかトレイシーの下に滑り込んだ。
    「解決」
    「おー、その手があったか」
    「何すんだあああ!」
    シーツを広げて見せるジョゼフに、バルクが手を叩く。呑気な年寄り組にトレイシーが怒鳴る。イライの支えがなかったら無事じゃ済まされなかった。骨の一本二本は折れていたかもしれない。
    「危ないじゃん!」
    「無事だっただろう」
    「イライのお陰でだよ!」
    しれっと悪びれないジョゼフにトレイシーは食ってかかる。もしイライが間に合わなかったらどうする気だったのか。
    じいちゃん呼びが気に入らなかったのか、マッサージチェアを作ったのが気に入らなかったのか、カメラをデコレーションしたのが気に入らなかったのか、とにかくジョゼフはトレイシーの扱いが雑だ。
    「トレイシー!なんともない?」
    「大丈夫、ありがと」
    「良かった……平和な方法って言った時点で疑うべきだったよ」
    「悪足掻きするからだろう。ほれ、もう諦めろ」
    シーツを奪われ、新しい衣装姿を晒すトレイシーがうぐぅと唸る。もう目の前にはバンケットホールの扉がある。
    尻込みするトレイシーに構わず、ぐいぐいとその背をバルクが押す。さっさと新しい衣装を見せて終わらせればいいだけなのに、トレイシーが無駄な抵抗をするのでこちらも無駄な時間と労力を使っているのだ。
    「早くせんか」
    「ちょ、待ってって」
    「もう何度も聞いたわ、待てるか」
    「もうなにしてるの、早く入って来なさいよ」
    バルクとトレイシーが押し問答をしていると、ホールの内側から扉が開かれた。声がするのに中々入ってこないメンバーに焦れて、マーサが出て来たのだ。
    そのマーサの後ろから、ウィラが顔を出した。バルクに押し出されたトレイシーと視線が絡む。ウィラはトレイシーの全身を眺めて驚いたように口に手を当てる。
    「あら、可愛い」
    「本当に!トレイシー、見違えたわ」
    「え、えへ」
    ぎこちなく笑うトレイシーに気づかず、ウィラは他の三人の格好にも視線を向ける。
    イライの落ち着いた黄色の衣服に、ジョゼフの薔薇色の上着、バルクのターコイズカラーの作業着。普段は暗色を纏う三人が明るい色の衣服を身につけているのを見てくすりと笑う。
    「みんなも素敵な色合いね」
    「そうかな。ありがとう」
    「さ!トレイシーも!みんな待ってるわよ。その可愛い格好早く見せてあげて!」
    「え、ちょっと、マーサ待って……!」
    手を掴んでぐいぐいと進んでいくマーサに、踏みとどまる間も無い。トレイシーは引っ張られるがまま、ホールの中へと足を進めるのだった。





    ノートンは右手を翳して声の方に目を凝らしたが、トレイシー当人が来たわけでは無いらしい。何かごたついているのだろうか。
    「どうしたんだろ?」
    「分からないけど、朝も相当トレイシー暴れてたらしいからまだ揉めてるのかも」
    「暴れる?一体なんの話をしているんだ?」
    マイクとノートンの会話に、ルカの不機嫌な声が割り込む。地を這うどころか、雷が落ちる前のごろごろ音のような声になっている。気のせいかパリパリという静電気すら感じる。
    状況が分からない上にトレイシーが暴れたと聞いてルカは今にも飛び出していきそうだ。マイクは咄嗟にルカの両肩を掴んだ。
    「分かった分かった、説明するから待って待って」
    「なんかちょっと見ない間に大分短気になったね」
    マイクに代わり、ノートンがルカの道具袋に繋がる落下防止を掴む。これで飛び出していくのは止められるだろう。
    目が据わっているルカを宥めて、マイクは中断した説明の続きをする。
    「荘園の住人全員の中から四人に、期間限定でシーズンの服っていうのが送られるんだ。その四人の中の一人が必ず『主役』に選ばれる、一回だけね。もうすぐその十一回目のシーズンが来るんだ。で、それが今回トレイシーなんだよ。シーズンの期間が変わる前に、いっつも衣装のお披露目をやってるんだ。今日はその日ってわけさ」
    「大体、交代の一ヶ月前に告知されるんだけど、その時は選ばれた四人と主役が誰かってことしか教えてもらえない」
    マイクの説明にノートンが補足する。それを聞いてルカはなるほどと思う。それをトレイシーは忘れていたというわけか。自身の衣服に無頓着な彼女らしい。
    しかし、いくら無頓着とはいえ、新しい衣服が嬉しく無いわけがない。何故「暴れる」だの「揉める」だのという不穏な単語が出てくるのだろうか。
    ルカが首を捻っていると、マイクが「あー」と言いづらそうにもぐもぐと口を動かす。そのマイクの態度から、なにか自分に関わることなのはルカにも分かった。
    「なんだ?言ってくれモートン」
    「や、その。僕、昨日イライにシーズンのデザイン画見せてもらったんだけど。その時にトレイシーに先に見せない方がいいよって言ったんだよね」
    「どうしてだ?」
    「そりゃ」
    「ほら、早く!」
    「待ってってマーサ!」
    マイクの声を遮り、ホールに響く高い声。やっと主役のトレイシーが現れたと、あちらこちらからその一点に視線が集まった。
    うきうきとした足取りでホールの中心に進み出たマーサは、まだ及び腰なトレイシーの肩を後ろから押してやる。トレイシーは不安そうにしているけれど、みんなの反応を見れば自信がつくはずだと思ったのだ。
    「ほら、顔上げて」
    「うう……」
    肩を窄めて俯くトレイシーの頬を、ウィラが後ろから両手で挟んで上げさせる。
    なにも聞かされていなければ、ここにいるのがトレイシーだとすぐに認識できる者は少なかっただろう。
    可愛らしい、お菓子の装飾があしらわれたアプリコットカラーのワンピース。ふんだんに使われた白いフリルにシフォンジョーゼットの姫袖。編み上げの白いニーソックスに服とお揃いのストラップシューズはおどおどとした仕草をより幼気に見せる。猫の耳を模したヘッドドレスに無骨さの無い、丸いゴーグルは癖を抑えた髪型にとてもよく似合う。
    「キャンディー少女」と名付けられた衣装は、トレイシーの少年のような潔癖さも相俟って、天真な愛らしさをより引き立たせる。
    わっとホールのあちらこちらから称賛の声が上がるのを見ながら、ノートンも「おおー」と声を漏らす。これはいい意味で予想を裏切られた。
    前にトレイシーに来たのは偽笑症や機械人形師といった、可愛らしさとは無縁の格好いいデザインだった。今回もそういう系統かと思っていたら、これだ。
    「ああいうのもいいね。トレイシーには女の子女の子したやつは来ないのかと思ってた」
    「素材はいいから似合うんだって。勿体無いなって僕は思ってたよ」
    マイクがちらとルカを伺うと、目を見開きトレイシーの方を凝視している。こちらの声は聞こえてはいないようだ。ふっと短い溜息をついて、マイクは正面に向き直った。
    ――そういう反応にもなるよねえ。あれ可愛いもん。
    だからデザイン画見た時、絶対これトレイシー嫌がるなって思ったんだけど。
    なにせ、マイクは擦れ違いの実態を知っているが、トレイシー本人は知らないままだ。まだルカが自分を同性と思ってると、頑なに信じている。当人でもない人間が間に入るとより拗れる気がしたので、マイクはそこは何も伝えていない。
    そしてトレイシーはノートンと同じく、自分に来る衣装の系統は決まっていると高を括っていた筈だ。しかし、こちらの思惑を裏切るのがここの荘園の主だ。見事にトレイシーが来て欲しくない、完璧なタイミングで可愛らしい衣装を贈ってきた。まだ、このままの関係でいたいと望む二人を嘲笑っているようだ。
    前々から思ってたけどここの主、絶対性格と根性と意地が悪いんだろうなとマイクが顔を顰めていると、疲れた様子のイライがやって来る。新衣装のお披露目のはずなのに、何故かイライは草臥れて見えた。
    「あれ、イライ向こうはいいの?」
    「もう主役連れてきたから僕の役目は終わったよ」
    ノートンの問いに、肩を竦めて見せるイライ。朝から自由人のバルクやジョゼフと行動を共にしていたので、もう充分だろうと避難してきたのだ。これ以上の厄介ごとは勘弁だ。
    「二人は話聞いてくれないし、トレイシーは駄々っ子だし……」
    「それはまた、お疲れ様だね」
    「マイクの言うこと聞くんだったって後悔してるよ」
    「見せるなって言ったのに、なんでデザイン見せちゃったのさ」
    「とっても可愛かったから喜んでくれるかと思ったんだけどなあ。まさかあんな暴れるほど嫌がられるとは思ってなくて」
    イライはそこでルカに視線を向ける。目がトレイシーの方向に釘付けになっている青年に思わず笑ってしまう。
    「?なんで笑ってんのイライ」
    「いやあ。トレイシーがあんまりあの服嫌がるから、なんでそんなに駄々こねてるのか聞いたんだよ。そしたらバルサーさんは自分を男と思ってるはずだから見られたくないって言うんだ」
    「ああ、うん」
    それはマイクも知っている。こんなことなら先に事実を伝えておいた方が良かったかも、と少し後悔している。
    ノートンはにやにやと笑いながら「へえ」とルカを一瞥する。
    「こんなに長期間気付かない奴いたら、ナワーブとウィリアムの三ヶ月って記録塗り替えるんじゃない?」
    「ああ、それはない。彼は最初から知ってたよ、トレイシーが女の子って」
    「なんだ」
    つまらなそうな顔になるノートンに、イライは苦笑する。
    ノートンは上流階級の雰囲気のある人間を面白く思っていない節がある。ルカも言動の端々に上流階級特有の品の良さと傲慢さが滲むことがあるので、彼は気に入らないようだ。
    「あんなくっついてるから知らないのかと思ってた。マイクは知ってた?」
    「こないだ知った、というかルカから聞いた」
    「それでトレイシー本人は知らないんだ?面白すぎるでしょ」
    「他の人間からそれ聞いたら拗れるかなって思ってさ。言わなかったんだよね」
    「おっと、それなら余計なことしたかな?」
    マイクの発言に、イライはしまったという表情になる。
    「バルサーさんは最初からトレイシーが女性って知ってたよって、教えちゃったんだけど……」
    「なんだ」
    会話を遮るように、飛んできた声にイライとマイクがルカの方に視線を送る。
    ルカは、もうトレイシーの方を見ていなかった。三人の方をじっと見て口元を覆い隠している。
    なにを考えているのかわからない男に、マイクは何と声をかけるのが正解か思い付かず、口を開けない。
    ルカが口元を覆っていた手を下ろす。露になった口角は上がっている。

    「なんだ、知っているのか」

    ルカが呟いた。
    笑みを浮かべているようにも見えたが、細められた目からは何の感情も読み取れない。怒っているのか喜んでいるのか、全くわからない。
    「ふむ、なら作戦を変えるか」
    「ルカ……?」
    「話は早い。感謝するよクラーク」
    くすりと笑うとルカは、マイクの問いかけにも答えずスタスタとホールの中央に歩いて行く。
    ルカを取り巻く空気があまりに普段と違いすぎて、マイクは見送ることしかできなかった。





    可愛い可愛いと褒められる度に、トレイシーはへらりと笑う。ありがとうと返しながら、疲労を感じていた。
    仲間たちに撫でられ抱きつかれ、ハンターに面白がられ、すっかりと揉みくちゃにされているせいだ。
    見られたくない人物はホールにはいないらしく、気が緩んだのもある。あれだけ抵抗していたから少し拍子抜けだ。
    そういえばルカはシーズンのことを知らないのかもしれない。自分が伝えているとみんな思っていたのだろう。それならそれで好都合だ。衣装はお披露目以外は着る着ないは個人の自由だ。この後これも仕舞い込んでしまえばいい。
    ふと、先ほどイライから聞かされた話が頭をよぎる。ルカが自分の性別を知っていた、その事実には驚いた。驚いたけど、トレイシーは『だったらこのまま知らないフリを貫こう』と考える。
    自分が気付かない限り、彼はこの関係を崩すことはないはずだ。
    だったら、このままでいい。このままでいたい。

    「失礼」

    トレイシーがそう思っていた矢先に、今一番聞きたくない声が人垣の向こうから響いた。見たくないのに、視線がそちらを向いてしまう。
    人をかき分けて現れた見慣れた囚人服。逃げようとトレイシーの脳が判断するより先に、しっかりと手首を掴まれる。痛みは無いけれど、絶対に逃す気はない強さだ。
    恐る恐る見上げると、無表情のルカが口を開いた。
    「来てくれ」
    「ルカっ……!」
    頼むような口調なのに、有無を言わせない強さで腕を引かれる。力の差は歴然で、トレイシーが踏ん張る間も無かった。ずるずると引きずられるようにホールから連れ出される。
    「あっ……!」
    慣れないヒールと、大股で歩いていくルカについて行けず、トレイシーが躓きかける。なんとか体勢を立て直すが、今の拍子に捻ったのか、足首がズキズキと痛み始めてしまう。
    「うっ」
    「…………」
    小さく呻いたトレイシーに、ルカは無言のまま振り返った。彼女の前に屈み込み、片腕に座らせるようにして抱き上げた。トレイシーは突然高くなった視界に驚いて、ルカの頭にしがみつく。
    「ひゃっ!」
    「そのままじっとしててくれ」
    「ルカ!どこ行くの……!」
    「…………」
    トレイシーの問いに答えず、ずんずんとルカは歩いていく。抱え上げられたトレイシーに逃げ道はない。ただただしがみつくことしかできない。
    ルカが扉を開いたのは、書斎だった。普段二人が過ごすことが多かった場所だ。
    ルカは使われなくて久しい、大きな暖炉の上にトレイシーを下ろすと、すかさずその両脇に手をついた。一切の逃げる隙は与えてくれない。
    トレイシーはルカの顔が見れず、咄嗟に目を瞑る。頭の中はパニックだ。あそこにルカがいるとは思っていなかったので、これは想定してなかった。
    今、どうするのが正解なのかが分からない。
    このまま気が置けない友達でいたいと願ったばかりなのに、いきなりそれが崩されるとは思っていなかった。さっきまで考えていた、知らない振りもなにも無い。
    「トレイシー」
    「!」
    名前を呼ばれて、びくりと肩を震わせる。悪いことをしたわけでも無いのに、目が開けられない。ただただルカがどう言う反応をするのかが分からないのが怖い。
    本当についさっきまで、ルカは自分を男と思っていると信じていたのだ。それを覆された上に、こんな格好で対面する事になるとは思っていなかった。
    ぎゅっとトレイシーが膝の上で手を握りしめていると、そこに手を重ねられ、更に荷重がかかる。
    トレイシーが不思議に思って目を開くと、ルカの頭が視界に入る。トレイシーの膝に懺悔するように、ルカが伏している。
    「……すまなかった、騙す気はなかったんだ」
    「え?」
    「怒っているんだろう?私が、君が女性なのを気づいて黙っていたことに」
    顔を上げたルカは、へにょりと眉を下げた表情をしている。トレイシーが弱い、落ち込んだ犬のような顔だ。
    どう言うつもりでホールから連れ出されたのか全く分からなかったトレイシーは、混乱して何も反応を返せなかった。本当にこの男は先が読めない。無表情だったから、何か怒っているのかとすら思っていたのに。
    「クラークから聞いたんだろう?」
    「う、うん。さっき聞いた……」
    「君が同性のように接することを望んでいたから、その通りにしていただけなんだ。騙すつもりは無かった。君が気づいていないとは思っていなかった。本当だ」
    「う……」
    ルカが真剣に謝るほど、トレイシーは居た堪れない気持ちでいっぱいになる。勘違いしてたのは自分だけだという事実が、辛い。
    トレイシーは幼い頃から機械油に塗れていたので、まず女の子として扱われることがなかった。女の子として大事にしてくれたのは父親だけだ。この先もそうなんだとトレイシーは思っていた。「年頃になれば」と言う人もいたが、成人してもそれは変わらなかった。
    荘園にやってきてからも状況は変わらなかった。多少は勘のいい人もいたけれど、大概は性別を間違えられる。否定する必要もないのでなるように任せていた。
    まさか、それがこうなるとは。お姉さん方の「今だけよ、それ」という発言を鼻で笑っていた自分の愚かさにのたうち回りたい気分だ。
    「それは、もういいよ……騙されたとか思ってないし」
    「本当か?」
    「本当だってば!」
    「絶交なんて言わないか?」
    「言わないよ!」
    「絶対に?」
    「絶対に」
    「……良かった」
    「…………?」
    もう一度、膝に顔を伏せたルカの声音が、違って聞こえた気がしてトレイシーは眉を寄せる。でもきっと気のせいだと考える。
    それよりも、今は暖炉の上から降りたい。書斎の暖炉は飾りが大きいせいで、高さがあるのだ。なんでよりにもよってルカはここに自分を乗せたのか。身動きが取りづらくて仕方ない。
    もぞもぞとしているトレイシーに気付いているのかいないのか、ルカは顔を伏せたままだ。
    「君に放電してしまったことも謝りたい。本当にすまなかった」
    「もー、何とも無かったからいいってば。ただ二度としないでよ。痛かったんだから」
    「ああ」
    ルカが顔を上げる。もういつも通りの飄々とした表情に戻っている。なにも変わっていないことに、トレイシーはホッと胸を撫で下ろす。膝に乗せた両手を上から握られてることは、少しだけ気になったが。
    トレイシーは抱いた違和感が吹き飛ぶように、努めて明るい声を出す。
    「ルカ、ちょっとやつれた?なんか、こんなに会わなかった事が無いから変な感じ」
    「そうだな。でもお陰で私はゆっくり考える事が出来たよ」
    「?なにを?」
    「君の言う通り、二度とあんな事をしでかさないように私なりに方法を考えたんだ」
    する、と頬を撫でられる。今日のルカはグローブをしていなかった。大きな手は頬から離れる事はなく、親指がトレイシーの耳に触れる。
    ルカが不意に触れてくる事は今までもあった。すぐに払い除けたり、手を伸ばされた時点で叩き落としたりとトレイシーは妙な雰囲気になる前にそれを阻止して来た。
    ところが、今回は両手を膝に抑えられている。暖炉の上は奥行きもないので、仰け反って逃れることもできない。
    トレイシーは内心の焦りを隠す為に顔を顰めて、不機嫌そうな声を出す。
    「ルカ!撫でるのやめてって言ってるでしょ。犬じゃないんだから!」
    「……私はずっと君が望む通りに耐えて来たよ。それが友の為だと思ったからね。でもそれだと君が危険なんだ」
    「危険?なんで?」
    きょとんとした顔をするトレイシーの問いには答えず、ルカは柔らかい笑顔を向ける。まだ満足に歩けない仔犬を見守るような、そんな表情だ。
    「可愛いなぁ、君は」
    「それっ、むぐ」
    トレイシーが抗議の声を上げようとすると、耳を撫でていたルカの親指が唇に押し当てられた。下手に開くと口に指が入ってきそうで、トレイシーは口を噤むしかない。
    「駄目だよ、トレイシー。今度は君が耐える番だ。そうじゃないと不公平だろう?」
    「んむむ!」
    トレイシーが首を激しく振ると、ルカの手はあっさりと離れた。
    この男は本当になにがしたいのか全然わからない。トレイシーはルカを睨みつける。
    「もう、危険とか不公平とか!なんのなの!」
    「私は不満が溜まると帯電してしまうんだ。君が触るな可愛がるなと言うから耐えていたらああなったんだ」
    「わ、私のせいだって言うの」
    「まさか。悪いのは私さ。けれど、また帯電して事故が起きてしまうかもしれない。それなら我慢しない方が安全だ。それに私は君を犬のように思ったことはないよ。女の子を可愛いと言うことはおかしくないだろう?」
    「うう……」
    小首を傾げるルカに、「なんか悪いことした?」と不思議がっている近所の大型犬の姿が重なる。図体がでかいくせに、何故こうもあざといんだろう。
    トレイシーは男同士の可愛いは馬鹿にされていると思っていた。対等に扱われている感じがしなくてとにかく嫌だった。マイクは「そんなことないよ」と言っていたけれど、ルカに言われるのはとにかく下に見られているように感じていた。
    でも全てが自分の勘違いだった今、ルカからの賛辞を拒否する理由は消えてしまった。消えたけれど、益々むず痒さは増してしまう。
    「トレイシー。私ばかり我慢するのは不公平じゃないか。友達なのに、対等じゃないと思わないか?」
    「それはっ……そうだけど」
    トレイシーは熱い耳を手で覆って、声を絞り出す。
    「それでも、私は……その、嫌なの……!今までと同じがいい!」
    「どうして嫌なんだ?」
    「どうしてって」
    「さっきは、嫌がってなかった」
    ルカにやんわりと両手を掴まれ、耳から外される。トレイシーはぷいと顔を背ける。
    そんなことをしても、林檎のように赤くなった頬はルカから丸見えなのだが。
    「可愛い格好だと、似合ってるとみんなに言われて君は笑っていたじゃないか」
    「あれは社交辞令だもん。目くじら立てる必要もないでしょう」
    むすりとした顔でトレイシーがそう返せば、ルカは俯いて猫のように喉を鳴らし、肩を震わせた。
    暖炉に座らされたトレイシーは、ルカより少し高い位置に目線がある。だから今のように下を向かれると顔が見えない。いつもなら下から覗き込んで様子を窺えるのに。それが少し不安になる。
    ルカは勢いよく顔を上げると声を上げて笑い出す。そして両手でトレイシーの頬を覆う。
    突然のルカの行動に、トレイシーは首を竦める。首はトレイシーの弱点なのだ。
    「ひゃうっ……」
    「ああ、トレイシー。それはつまり、私の言葉はお世辞ではないということか」
    「‼︎」
    「本心で言っていると、君は最初からわかっていた訳か」
    「ち、ちがっ……!馬鹿にされてる気がしただけで……!」
    慌てて取り繕おうとするトレイシーの言葉も聞かず、ルカは目を細めて赤い頬をなぞる。逃げ場を求め、トレイシーがうろうろと視線を彷徨わせるのにくつくつと笑う。
    ――可哀想だけど、今日は逃がしてあげられない。
    「お、男が可愛いって言われて喜ぶのは変だって思って!」
    「それなら『今の君』はどう思ったんだ?」
    「それは、その……」
    もごもごと口ごもるトレイシーは顔が熱くなりすぎて、目も潤んでしまっている。
    色が白いトレイシーは顔が赤くなりやすい。感情の変化がわかりやすい反面、なにが原因で赤くなっているのかの判別がつきにくい事がある。怒っているのか恥ずかしがっているのか、ルカには見分けられなかった。
    だがマイクとの会話でようやくその違いに気づいた。
    トレイシーの潤んだ眼尻をなぞって、またぽろりと本心の言葉が漏れる。
    「可愛い」
    「可愛くない!」
    ぎゅっと目を瞑って否定するトレイシーに、ルカは不機嫌になるどころか益々笑みを深くする。
    ――どうして気付かなかったんだろう。この子はずっとこうなることを避けるために、必死に友達であろうとしたのか。
    でもそれは、自分が格別に鈍かったから成り立ったことだ。自覚してしまった今は、いじらしい抵抗をされても手の中でひよこが暴れてるようにしか思えない。
    首を竦めて、両手を膝の上できつく握りしめているトレイシーに、ルカは流石に可哀想かと一度手を外してやる。
    トレイシーはルカが離れた気配に、目に見えて安堵した顔になる。しかしルカが変わらず柔らかい表情を浮かべているのを見て、慌てて自身の両手で頬を覆う。
    弱い箇所に触れられたくないが故の行動だったが、ルカの目には恥じらうような可愛い仕草に映ってしまう。少女の格好をしているから尚更だ。
    トレイシーはにこにこしているルカに、苛立った声で叫ぶ。
    「その顔やめてよ!」
    「どんな顔だ?」
    「にやにやするな!どうせ格好褒めてるだけでしょ!」
    「おや?なら目くじらを立てることでもないんだろう?」
    「っ本心じゃない癖に!揶揄ってるだけに決まってる!」
    トレイシーがそう叫ぶと、ピタリとルカが笑う声が止んだ。暖炉に手をつき、ぐっと顔を寄せるルカにトレイシーは慌ててその肩を両手で押し返す。
    どこも触れられていないのに、距離が近すぎる。上からの視線なら俯いて知らんぷりが出来るのに、これじゃその手も使えない。
    それでも諦めずにルカを押し返そうとするトレイシーの右手を掴み、ルカは淑女にするように口付けた。
    「無駄だよ。なにをしても可愛い。君が聞かなかっただけで、ずっと言っているよ私は」
    ルカの一度閉じた目が開かれると、そこに柔らかさはなく、強い眼光に変わる。トレイシーは手を引き抜こうとしてそれも叶わないことに気付き、ひゅっと喉を鳴らす。
    明らかにルカの纏う空気が変わった。なにか、自分はルカの地雷を踏み抜いたらしい。
    「私の言葉は否定するのに、他の人間の言葉は受け入れるのか」
    「ル、ルカ……」
    「揶揄う?私が?君はどうしたら聞いてくれるんだ?その服が悪いのか?」
    「ちょ、落ち着いてってルカ!」
    まずい。非常にまずい。ルカの目が変だ。
    するりと胸元に伸ばされたルカの手に、トレイシーは咄嗟に左手を絡ませた。右手は使えないから、ぎゅっと相手の中指を握り込んで動きを止めようとする。
    当然、力で敵うわけがないので一時凌ぎだ。トレイシーはルカが動く前に何か言わねばと、頭をフル回転させる。
    何を自分はやらかした?何がルカの琴線に触れたのか。彼の言葉を否定したことだろうか。しかしいつものことのはずなのに。残念そうにはするけれど、そこで引き下がる。
    でも今日は違う。どこで怒らせてしまったんだろうか。何が違ったんだろうか。何でルカが変わった?
    もしかして、否定じゃなくて、疑ったことだろうか?
    うんうんとトレイシーが考えている間も、ルカの眼光は不穏さを漲らせていている。ルカが口を開いたのを見て、トレイシーはええいままよと叫ぶ。
    「トレ」
    「恥ずかしいの!」
    「………………うん?」
    「ルカにかっ……『それ』言われると恥ずかしくて!他の人は平気なのに!ルカは本当だから恥ずかしくて駄目なの!」
    赤い顔で首を振りながら叫ぶトレイシーに、ルカの目にあった険しさが緩む。ぱちぱちと瞬いて、不思議そうな顔で眉を顰める。
    「それは何故だ?」
    「………………………………………………」
    「トレイシー?」
    本音を叫んで脱力したトレイシーの手を解放すると、本当に恥ずかしかったのか、暖炉の上で膝を抱えて蹲ってしまった。
    あれだ。体を丸めて外敵から身を守る、アルマジロにそっくりだ。この場合、外敵は私かとルカは苦く思う。
    当初の予定では、ちゃんとトレイシーに謝って、誤解を解いて、それから告白をする気だったのだ。
    しかし、自分が知らされてないトレイシーのイベントで仲間達は賑わっているわ、当人が出てきたと思えば見たこともない可愛らしい格好をしているわ、触るな言うなと自分は禁止されたのに他の連中に可愛い可愛いとベタベタ触らせているわで大変に不愉快になったのだ。
    一週間だ。一週間こっちはトレイシーと会っていないのにだ。自分が悪いとはいえ、我慢の限界だ。
    とりあえず冷静になる為にもと不快な光景からトレイシーを遠ざけたのに、否定どころか自身の本心まで疑われ憤ってしまった。
    だが、そんな気持ちもこのアルマジロのせいですっかり霧散してしまった。
    耳が真っ赤になったトレイシーの反応を待っていると、そろりと頭が持ちあがり、空色の目が膝から覗く。
    「………………………………わ、笑わない?」
    「笑う様な内容なのか」
    「わかんない…………」
    「いいから話してくれ」
    ルカに促され、トレイシーは顔を上げた。話そうと口を開いて、また閉じるのを繰り返す相手を、ルカはじっと待ってやる。
    マイクにも言われたことだ。自分たちは会話が足りないと。今こそきちんと話をすべきだ。
    トレイシーはルカがずっと話を聞こうとする姿勢を崩さないのを見て、漸く想いを口に出す。
    「……色があったの、昔は。私は人の言葉に色が感じられたの。優しい人達、特にあの人からの言葉はあったかい色だった。他人は白くて、嫌いな人は冷たくて、怖い人は黒くて。そう感じていた事があった。
    あの人、お父さんの口から出る『可愛い』は本当に暖かくて綺麗な色で好きだった。
    でもあの人がいなくなったら、色がなくなってしまった。分からなくなった。だれが親切なのか嘘なのか、分からない。色がないからなんとも思わない。だからそんなこと、もうとっくに忘れてたのに……」
    トレイシーが言葉を切って、恨めしそうにルカを睨む。いや、当人は睨んでるつもりなのだろうが、ルカにはただ巣穴から外を窺うリスにしか見えない。
    「私か?なにかしたか?」
    「ルカが最初に可愛いって言った時に、色があったの」
    「ふうん?それはそれは。どんな色か気になるな」
    「…………………」
    「トレイシー?」
    「…………………」
    「なんだ?なにか悪い色だったのか?」
    「…………………」
    ルカの問いに、トレイシーはだんまりを決め込む。ぐぐと膝を抱える手に力が籠るのを見て、ルカはふむと顎を撫でた。
    「黒や冷たい色、なら君は友達でいてくれるわけがないな。白が他人ならこれも違う。暖かい色であってほしいところだが、それなら何故君は黙っているんだろう。当てはまらない色だったのか、それとも認めたくない色だったのか」
    「…………ルカ、勘がいいからやりにくい」
    「それはどうも」
    「そうだよ、もうなんか訳が分からない色だった。極彩色っていうの?もうゾワゾワするし恥ずかしいしで、なんなのこいつって思ったもん……」
    あの時のことは忘れられない。トレイシーが最初に危機感を覚えた瞬間だから、当然か。
    なんだか横から熱心な視線を感じるな、と思ったらルカがぼそりと「可愛い」と呟いたのだ。その途端感じた色に驚いてそちらを向けば、蜂蜜の様な表情で目で、ルカが自分を見下ろしてる。
    そこでトレイシーは、ルカから感じた色の意味に気付いてしまった。まずいと思った。それは友達に、自分に向くはずがないものだ。誤魔化さなきゃと思ったトレイシーは咄嗟に「可愛いは、ダメ!」と叫んでいたのだ。ルカが自分に好意的なのは分かっていたけれど、友好までだ。それ以上は嫌なのだ。
    その後も警戒はしていたけれど、普段のルカからはそんな素振りは見えない。あれは自分の勘違いだったのかもしれないとトレイシーはこっそり安心していた。自意識過剰だったのかも。そんな訳ないに決まってるのに。それでも念の為に、禁止事項は増やしておいた。
    しかし、ルカはトレイシーが忘れた頃にぽろっと「可愛い」と口にするのだ。その度にトレイシーはあの色を感じて冷や汗をかく。伸びる手を叩き落として、空気が変わらない様に努める。
    今は誤魔化せているけれど、いつか性別に気付かれたら。その時に向けられる感情が変わってしまったら。
    幸い、ルカは自分と同じく人間付き合いが上手くはなかった。友人もいないし、自分の感情にも疎い。それならこのままでいられるかもと期待していたのだ。友達だから、男同士と思われてるからまだ大丈夫と思っていたのに。
    トレイシーが全て話終わると、ルカは盛大にため息をついてトレイシーの膝に額を押し付ける。
    「君、人の事言えないじゃないか」
    「?何が?」
    「私が君の性別に気づいていたように、君は私の好意に最初から気づいていた訳だろう……」
    「う……そう、なる、かも?」
    「はあ。モートンは、流石コミュ力お化けと言われるだけあるな……彼の言うとおりだった」
    ルカはマイクに言われたトレイシーの恋愛観の事を思い出す。そして自分が彼女にとっての危険要素だと言われていたことも。
    推測の域を出ないと言いながら、彼の予測は全て大当たりだった訳だ。
    「……ところでルカ」
    「なんだ?」
    名前を呼ばれて、ルカはトレイシーの膝から頭を上げる。トレイシーは居心地悪げにそわそわと足を擦り合わせる。
    「そろそろ、ここ降りたいんだけど」
    「駄目だよ」
    「なんでよ」
    「本題がまだだから」
    「はあ?」
    トレイシーは思い切り顔を顰めて、口を尖らせる。
    本題がなんだかは分からないが、こんな不安定なところで話を続ける必要がどこにあるのか。
    トレイシーがルカを無視して暖炉から降りようとすると、両脇を抱えて暖炉の上に位置を戻される。
    「ちょっと!」
    「足を捻っているのに、飛び降りたら危ないだろう」
    「…………」
    そういえばそうだったとトレイシーは思い出す。さっきここまで連れてこられる道中で、自分は躓いていたんだった。思い出した途端に痛み出す右足首に、トレイシーは大人しくするしかない。
    だがそれなら尚更、話をするのはルカの背後にあるソファーセットでも良かったはずだ。そこなら飛び降りる必要もなかったのに。どうしてこんな、トレイシーが身動きの取れない場所で話をしようと思うのか。
    トレイシーがむすりとした顔をしているので、ルカはおかしくてくつくつと笑ってしまう。
    この一ヶ月半、相手を見ていたのはトレイシーだけではない。ルカもトレイシーの行動はよく見ていた。だから彼女がなかなかに勘がよく、危険を察知して逃げるのが早いのも知っている。
    今もとても逃げたそうにしている。きっとそうするだろうなと思ったから、逃げられない場所に連れてきたのだ。
    「……ルカ、話があるなら早くして」
    なかなか本題に入らないルカに、トレイシーはもじもじとスカートの裾を弄る。早く終わらせてこれを着替えたいと思っているのに。
    焦れて話を催促してみるも、ルカは緩く微笑んだままだ。
    「ちょっと、聞いてる⁈」
    「ああ、すまない。可愛いなあと思って」
    「かっ、……う……ううう……」
    反射で「可愛くない」と叫ぼうとしたものの、さっきの豹変したルカを思い出して言葉を飲み込む。声に出しては言いたくないが、なかなか怖かったのだ。
    それでも恥ずかしさは変わらないので、トレイシーは唸り声を上げる。そうでもしないと叫んで転がりまわりたくなるのだ。
    トレイシーがふるふる耐えて唸っている姿は、仔猫の威嚇の様に見える。本当に、何をしていても可愛いとルカは目元を緩ませる。
    気づいていなかった以前とは違い、今はトレイシーの態度の意味がわかっている。攻撃的な態度は恥ずかしさの裏返しだった。そう思えば苛立たしく思っていた事実も、なにもかもが可愛らしく思えてしまう。現金なやつだと我ながら呆れてしまうが、こればかりは仕方がない。
    「トレイシー、君は知らないだろうけど、私はこれでも耐えている方なんだ」
    「ど、どこが⁉︎好き放題やってると思うけど⁉︎」
    「それが本当なら私は君を膝に乗せて抱き締めているよ、そこのソファーで」
    「ひっ……!」
    「その反応は傷つくぞ……?」
    自分の体を抱きしめるようにして縮こまるトレイシーに、ルカは苦笑する。血の気が引いた顔を見るに、まだ恋情を理解できていないのかもしれない。
    ルカは一瞬考えて、わざとらしいくらいにしおらしい、しゅんとした顔になる。
    「君は私に触れられるのを露骨に避けるけれど、そんなに私が嫌なのか?」
    「あ……!違うの、そうじゃなくて!ルカが嫌とかじゃないの!ひ、膝に乗せるとか言うから想像しちゃったんじゃん!子供じゃあるまいし、おかしいでしょ!だから別に嫌いなわけじゃ……っていうか、そもそもなんでそんなことしようと思うのさ!」
    弁明している間に、目に見えてニヤニヤし出したルカに、トレイシーは眦を吊り上げる。さっきのしおらしい顔はわざとか!
    怒って肩を拳で叩くが、ルカの表情は崩れない。揶揄ってるのかとも思うけれど、これは禁句だ。さっきのようになられたら困る。
    トレイシーがじっと睨んでいると、ルカは機嫌を取るようにトレイシーの拳を掴んだ。
    「私はずっと、君を可愛いと思っていたし、触れたいし撫でたいとも思っていたよ。友でいたいと君が願うから脈がないのかと思って封じていたけれど。どうやら話を聞くとそうでもないらしい。だからやはり伝えることにする。トレイシー、私は君が欲しいし、抱き締めたい」
    「ふぇっ……」
    ルカの告白に、怯えた様な声を出すトレイシー。しかしその顔は青褪めてた先ほどとは違い、赤く染まっている。
    掴んでいたトレイシーの手を開かせて、ルカは自身の頬に押し当てる。呆然と自分を見ている相手に全ての感情を乗せて微笑む。
    「君が好きだ。愛おしいと思う」
    「ふぎぃ……!」
    耳まで赤くなったトレイシーが、取られた腕を引っ込めようとする。それをルカはしっかりと掴むと、見せつけるように手のひらに唇を落とす。
    「ひああ」とか細く叫び、トレイシーは蹲って顔を隠そうとする。どうにかルカから逃れようと必死だ。
    ここに来て、漸くトレイシーは自分がここに乗せられた理由に気付いた。逃げ道を封じる為だったんだ。もっと早くわかってたら、どうやってでも逃げていたのに!
    あの雰囲気から、流れるように告白までされるとは思っていなかった。
    今度はどこで間違った?なんでおかしくなってしまったの?こうならないようにってずっと気をつけていた筈なのに。
    トレイシーは蹲ったまま、どうしようと考える。
    友達のまま、今のままでいたかっただけなのに、どうしてこうなったんだろう。告白されたら返事をしなきゃいけないんだろうか。断ったら、終わってしまう?全部なくなる?でも、受け入れたら絶対変わってしまう。それも嫌だ。絶対嫌だ。でも、だったら、どうしたら正解なんだろう。全然分からない。
    「ううう……うー……」
    「………………」
    トレイシーが蹲ってぐるぐると悩んでいる間、ルカは唸っているトレイシーを慎重に観察していた。
    見たところ、困ってはいるがルカの告白を拒絶する気はなさそうだ。そして彼女が何を悩んでいるかは大方予想が出来た。謹慎期間中、散々自分も悩んだことだったからだ。
    ルカは幸い、マイクという相談相手に背中を押されて決心がついたし、考える時間がたっぷりあった。トレイシーは誤解の件も含めて全てが一気に押し寄せてきてしまったのだから、それは混乱する筈だ。
    ――まあ、同情はするけれど待つ気は全くないが。
    トレイシーはうんうんと唸りながら悩んでいる。こうなると声をかけるまで戻ってこない。
    ルカはそんなトレイシーを抱き上げると、ソファーに腰掛けた。先程の願望通りに蹲ったままのトレイシーを膝に抱えて満足げに息を吐く。柔らかな髪に頬擦りしてか細い体を抱き締める。ずっと耐えてきたけど、ようやく叶った。
    トレイシーはというと、ルカに好き放題されているのに思考の海に沈んでいるので全く気付かない。
    ちょっとだけ、こんなことなら幾らでも触れる機会はあったなとも考えたけれど、相談相手からの「ケダモノ」呼ばわりを思い出してルカは首を振った。
    流石に、こちらの気持ちを伝える前はそんな行為は許されないことだろう。
    「うん?」
    「戻ってきたかい」
    蹲った状態から顔を上げたトレイシーが、パチパチと瞬く。きょろきょろと辺りを見廻し、最後にルカの方を錆びついた機械人形のような動作で振り返る。
    「な、なに、やってるの……?」
    「君の考えが纏まるまで待っていようと思って。纏まったかな?」
    ルカは如何にも自分は大人しく待っていたという顔で首を傾げている。トレイシーははく、と口を動かす。
    「僕、なんかした?」と壊した玩具を土に埋めて誤魔化してた近所の犬が、こんな顔をしていた。この野郎とトレイシーは思う。
    とぼけた顔をしている癖に、しっかりと腰に腕が回されているし、脚が肘掛けの方向に向いているので伸ばしても床に届かない。暖炉の上からは降ろされたが、結局逃げられないのは変わらない。
    トレイシーは両手でルカの顔を押し返して距離を離そうとする。
    「さ、触っていいとは言ってない!」
    「痛い痛い、トレイシー。容赦ないな」
    「勝手になにやってんの⁈」
    「君は本当に猫みたいな反応をするな……駄目だよ、話が終わるまで逃さない。ここで君を放したら絶対逃げ回るだろう?きちんと話をしよう」
    「うぐ……」
    行動を先読みされて、トレイシーは呻いた。正直、話をするより一人で考える時間が欲しいところなのだが、ルカは待ってくれる気はなさそうだ。
    冷静になるためにも距離を空けて欲しいのに、まさか抱え込まれているとは思ってなかった。これじゃ全然集中出来ない。トレイシーに出来るのは、ルカの胸を押し返して接触する部位を減らすことくらいしかない。
    嫌でも他人の体温を感じてしまうし、顔が火照るのを止められない。こんなことなら暖炉の上の方が数倍マシだったのにとトレイシーは恨めしく思う。ルカはなんだか覚悟が決まってるみたいだけど、こちらは何も心の準備ができていないのだ。
    今までも並んで雑魚寝をしたり、くっついて一枚の設計図を書いたり、ルカを背もたれに作業をしたりと触れ合うことは多かった。
    でもあんな告白をされて、動じない程自分は鈍感ではないのだ。大体こんな接触は友人同士でやることではない。そんなこと、自分は分かっているし、絶対にこの男もわかっている。
    トレイシーはふと数日前にアンドルーに言われた言葉を思い出す。「そいつを信じ過ぎるな」だっただろうか。あの忠告、もう少し真剣に聞いておくんだったと後悔する。――もう遅いのだけれども。
    トレイシーは突っ張っていた腕の力を緩めると、一度深呼吸をしてから、ルカをゆっくりと見上げる。向こうが好き勝手にやるなら、こちらも今の希望は伝えておかないと駄目だ。
    「全然、何も纏まってないけど……私はやっぱり、今までのままがいい。変わりたくない。それに、好きとかそういうのは、よく分かんない。ルカには悪いけれど……私はそういうの、全然想像出来ないよ。その、こんなことされても……困るというか、正直どうしたらいいか分からなくなるっていうか」
    「ふうん?」
    告白を、直接ではないけれど断っているようなものなのに、ルカは特に不機嫌になることも悲しむ様子もない。話を聞いているのかいないのか、空いている手でトレイシーの髪を梳き、適当な相槌を打っている。
    トレイシーはどうにかルカを傷つけないようにと言葉を選んでいるのに、考えの読めない顔で微笑んでいる相手に、少し不気味なものを覚える。
    「……ルカ、話聞いてる?」
    「ああ、聞いているよ。聞こえないわけがない」
    「本当に?」
    「勿論。ただ、嬉しくてね」
    「……なんで?」
    ルカと同じ想いは返せない。そうトレイシーは言っているのに。
    トレイシーが不思議そうに首を傾げると、ルカは優しい動作で彼女の顔にかかった髪を払ってやる。
    トレイシーは、ルカが触れようとすると過剰に反応するが、一度慣らしてしまうとすんなりと受け入れてしまうところがある。こんなに単純で大丈夫かとも思うが、そこがまた可愛らしくて仕方ない。
    「分からない、困ってしまう。君はそう言うが、拒絶の言葉は言わないんだなと思ってね」
    「それはっ、ルカに悪いかなって」
    「ふうん?やだ、ダメ、触るなと散々言われた覚えがあるんだが?」
    「だって!何回言ってもやめないからでしょ!」
    「だったら、トレイシー」
    ルカはゆっくりとした動作で、トレイシーの髪に触れていた手を背中へと移動させる。そして華奢な体を抱き寄せて、薄紅色の耳に顔を寄せる。
    「どうして今は、拒絶しない?」
    「ひうっ……!」
    びくんと跳ねた体に、ルカは静かに笑みを深くする。慌てて耳を覆うトレイシーだがもう遅い。耳が弱点なのはルカには丸わかりだ。
    けれどルカはそんな事には気付いていない素振りで話を続ける。
    「君が嫌だというなら受け入れよう。私は今までもそうしてきた筈だ。知っているだろう?」
    「………………」
    「簡単なことだよ。言葉を選ぶ必要もない。いつも通りに言ってくれるだけでいい。そうすれば終わらせてあげよう」
    ルカはそう言うと抱きしめた腕はそのままで、トレイシーの髪にすりと頬を寄せる。終わらせると宣言した通りに、思い残すことがないように。そう思っているような動作だ。
    トレイシーは耳を塞いだまま、身を縮こまらせてじっと動かない。どうするべきなのかを必死に考えているが、答えが出ないのだ。下手に動けば、それが「答え」になってしまうかも知れない。
    ルカはあやふやな返答を認める気はないのだ。是なのか、否なのか。それしか求めてない。
    きっと、嫌だ離せと言えば解放してくれるのだろう。でも、それは宣言通りの「終わり」だ。それを選べば、ただの「仲間」になる。ルカはいつもと変わらない態度で離れていく。そんな気がする。
    トレイシーは両手で胸元の服を握りしめる。そうでもしないと、そこにぽっかりと穴が空いてしまいそうだ。ルカが離れてく。それは、それだけは嫌だ。
    だからと言って、ルカの告白を受け入れられるかと言えば、それも簡単なことではない。ルカの事は好きだ、一緒にいると楽しい。でもそれは「ルカ・バルサー」という人間としてだ。
    異性として見られていると思うと、身が竦んでしまう。異性として意識しろと言われれば、心臓が破裂しそうだ。嫌なのではない、怖いのだ。
    未知のものなんて、普段なら探究心が刺激されるはずだ。けれどこれは、これだけは違う。だってこれは、変わってしまうのは自分もだ。何もかもが変わる。
    トレイシーは、ブラウスを握る手に力を込める。
    何もかもが変わって、その先にあるものが、怖い。恋愛関係になれば、交わすのはふわふわとした感情だけじゃない筈だ。蜂蜜の様な甘さの眼差しに、欲が見える時が来る。
    ――ああ、そうかとトレイシーは気付く。
    私は、自身が女性として欲望の目で見られるのが怖いのだ。他でもない、大事だと思った相手が、「男」に、恐怖の対象になるのが嫌なのだ。
    「………………」
    カタカタと腕の中で震え出したトレイシーを、ルカは目を細めて見下ろす。ぎゅっと自身の服を握りしめて、小さくなっている少女にゆるりと口角が上がる。ちょっとだけこのまま押し切ってしまいたい気持ちが起こるが、ルカはそれを押し留めた。
    少し期待したけれど、恋情を自覚するのはトレイシーにはまだ早過ぎたようだ。この子は少し、恋愛面に潔癖なところがある。
    ――仕方ない、そろそろ逃げ道を呈示してあげよう。
    ルカは掌をトレイシーの背中に当てて、ぽんぽんと叩いてやる。子供をあやす様な行為だが、ゆっくりと何度も繰り返しているうちに、トレイシーの震えが小さくなっていく。
    強張った体を宥めるように、背中を撫でてやる。欲を隠して、親愛だけが伝わるように。そうしていれば、トレイシーの緊張が緩み、手が縋る様にルカの服に伸びる。それを見ながらルカは穏やかに聞こえる声で囁く。
    「トレイシー、すまない。気が急いてしまった。いきなり答えを出せ、だなんて無茶に決まっているのに」
    「ルカ……」
    「君の感情を考えずに無神経過ぎた。どうか嫌いにならないでくれ」
    「な、ならないよ、嫌いになんて」
    トレイシーがルカの服の胸元をギュッと握り込む。先ほどまであれほど距離を取ろうとしていたのに、今は引き剥がされまいとするようだ。いや、ルカが離れて行かないようにしているのか。

    ルカはずっと見ていたから知っている。トレイシーは欲深い子だ。そしてここまでのやり取りで分かったこともある。
    トレイシーは失った愛を無意識にずっと求めている。そしてルカとの友愛はその穴を十分すぎるほど満たしたのだろう。きっとあの人形を作ることも諦めはしないけれど、この繋がりも彼女は手放したくはないのだ。
    けれど、トレイシーは同時にとても臆病だ。欲しいのは無償の愛で、欲が絡むことを望んでいない。未知の恋愛感情には怯えてしまう。
    だからルカの感情の変化に敏感に反応していたのだ。自身も恋情を全身で現しているのに、自覚しないのだ。
    愛されたいけれど、愛されたくない。
    異性のルカは怖いけれど、友のルカは欲しい。
    側にいて欲しいけれど触れられたくない。
    好きだけど、気付きたくない。
    なんて我儘なのだろうか。それが当然の様に叶うと思っている傲慢さも呆れてしまう。
    ――まあ全部手に入れようとしているのは、こちらもだが。

    背中を撫でる手に、トレイシーは懐かしい気分になる。悪夢を見た夜には大きい手にこうされていた、そんな記憶が脳裏を過る。
    追い詰めるような空気が消えたことに安堵して、そろりとトレイシーは顔を上げる。そうして静かなルカの目を見て、口を開く。
    「ルカ、あのね。ルカの気持ちにはすぐに答えられないけど、でもね。終わるのは嫌だ、ルカと一緒にいたいと思う」
    「ふうん?私といたいのに、それは答えではないんだ」
    「う、えと……ち、違う」
    ぐい、と近づいてきた顔にトレイシーは仰け反って距離を取る。と言っても、抱き込まれているのであまり意味はなしていないが。
    「と、友達は平気なの。友達のルカは。でも、こ……のルカは、無理。怖い。嫌いとかじゃなくて怖いの。だから想像したくない」
    「…………」
    ルカはぶるりと体が震えるのを感じた。腕の中で「恋人」という単語を言うのも恥ずかしがるトレイシーに、どうしてやろうかという気持ちが一瞬湧いた。すぐ平静を装ったが、少し危なかった。
    「ルカ?」
    「ああ、すまない。少し考え事をしていた。トレイシー、怖いというのなら仕方がない。君がそう思わなくなるまでとことん付き合おう、友として」
    「え?」
    「私の一方的な感情を押し付けてしまっただろう?だから申し訳なくて。大丈夫、人目がある場では君に合わせるよ。君といたいのは私も同じだ」
    「それは、今まで通りにしてくれるってこと?でもそんなこと出来る?」
    トレイシーは信用出来ないと半目でルカを見上げる。
    さっき自分は耐えていると言っていた癖に、気付けば願望通りに人を膝に抱き上げている。ルカはトレイシーがダメと言った内容を、結果的に何一つ守ってくれていない。
    ルカは無害そうな顔で微笑んで、付け加えた。
    「そうだな、出来うる限りで」
    「………………」
    「信用していない顔だ。でも耐えているのは本当だよ。君が受け入れてくれるまで無理強いはしない。『私』を怖いと思わなくなるまで、いくらでも付き合おう」
    「………………」
    宥める様に言うルカの言葉に、トレイシーは引っかかるものがあった。
    なぜだろう、自分は是とは言っていないのに、彼を受け入れる前提で話が進んでいないだろうか?そういう関係になりたくないって話をした筈なのに、無かったことにされている。
    こちらの意見を聞き入れているふりをしながら、言葉の隙をついて、ルカの都合のいい流れに引き摺り込まれている。
    人が悩んでいるのに涼しい顔をしている男に、トレイシーは一言言ってやりたかった。なんでも思い通りになると思うなと。
    しかし、ルカは言った。自分からは無理強いはしないと。いくらでもトレイシーに付き合うとも。ということは、受け入れるかどうかはトレイシー次第ということだ。
    トレイシーはこの関係の名を「友達」から変えるつもりはないし、ルカのいいようにされるつもりもない。絶対にだ。
    「それなら、付き合ってもらう。ルカが言ったんだからちゃんと守ってよ」
    「勿論。分かっているとも」
    そう言いながら、ルカは掬い上げたトレイシーの髪に唇を落とした。早速なにをするのかとトレイシーはルカの顔を両手で押し返す。
    「ちょっと!話が違う!どこが分かったわけ⁈」
    「痛い痛い、目はやめてくれトレイシー」
    「いきなり約束破るからでしょ!」
    「いいや?破ってなんかいないよ」
    「は?」
    動きが止まったトレイシーの手から逃れ、ルカはにこりと笑う。如何にも胡散臭そうなその表情に、トレイシーはなんだか嫌な予感を覚える。
    「私は人目のあるところでは君に合わせる、と言ったんだよ。ここには誰もいないだろう?」
    「んなっ!」
    「それにトレイシー、私は言ったよ。今度は君も耐える番だと。私がまた君を傷つける事がない様に、協力してくれないと」
    「協力……?」
    「ああ。二人の時は私に大人しく可愛がられてくれ」
    「!!!!」
    言うが早いか、ルカはトレイシーを抱き竦める。抵抗する間もなかった。慌ててトレイシーがルカの脇を叩くも、相手はどこ吹く風だ。
    身動きできないほど密着しているルカの体温に、トレイシーは顔が熱くなっていく。数秒で早くも限界を迎え、トレイシーは叫んだ。
    「ちょっと!やめてやめて!無理!これ無理!」
    「んー?」
    「聞こえないふりすんなぁ!」
    じたばたと踠くトレイシーだが、本気で嫌がっているわけではない事はもうルカには分かっている。本当に嫌なら歯も爪も使って全力で抵抗をするはずだ。
    にゃーにゃーとただただ恥ずかしがっているのだと思えば、益々可愛がりたくなってしまう。
    こちらはトレイシーが怖がるから、欲を孕んだ感情を隠す様に努力しているのだ。このくらいの楽しみは譲ってくれていいだろう。
    それに逃げ道は見せてあげたけど、逃がしてあげるとは言っていない。
    「ううう……」
    しばらくはジタバタと無駄な抵抗を続けていたトレイシーだったが、元々体力が無いのですぐに力尽きてしまった。くったりとした体を抱き込んでくすくすと笑うルカに、トレイシーは不満気に鼻を鳴らす。
    「やっぱり、好き勝手やってるじゃん……どこが我慢してるのさ」
    「しているよ?言ったらやりたくなってしまうから言わないが」
    親愛を越えないように。内面が幼い彼女が、耐えられる範囲で。ここまで築いた信頼が崩れない様に。
    ルカは慎重にそのラインを見極める。いずれは慣らしてみせるが、今はまだその気配を見せてはいけない。
    例えば、唇にキスがしたいとか。
    例えば、閉じ込めてしまいたいとか。
    例えば、肌に触れたいとか。
    愛欲の片鱗を見せたらこの子は怯えてしまう。それはルカの本意ではない。できる事なら正面から受け入れて欲しい。
    だからまだまだ我慢はしなくては。触れられる様になっただけ大分進歩したけれど、それでも先は長い。二人の時だけと限定したが、これくらいの接触は容認してもらわなくては、また充電されてしまう。
    とは言え今後、トレイシーが大人しく膝に抱き上げられてくれるとは思えないので、今のうちに思い切り堪能させては貰うが。ルカは名残惜しげにトレイシーを抱く腕に力を込める。
    「ルカ、ルカ」
    ぺしぺしと腕を叩かれ名を呼ばれ、ルカは渋々とトレイシーを囲っていた腕を解いた。あまりしつこくして嫌われてしまうことだけは避けなくては。絶交しないという言質は取ったが、覆されてしまうかもしれない。
    ルカが細い肩を掴んで体を離してやれば、トレイシーはぎゅっと瞑っていた目を開き、ちらちらとルカに視線を向けては逸らすという行為を繰り返す。何か、言いたい事があるようだ。
    「トレイシー?」
    「あ、あのね、ルカ」
    きゅっと自身のブラウスを掴み、トレイシーが口を開く。
    ずるずると流されないように、ルカにこれだけはきっちりと言っておかなくてはとトレイシーは覚悟を決める。
    「やっぱりね、これ以上は……絶対無理。考えただけで怖いから、やって欲しくないの。ルカを嫌いになりたくないの。キ、キスとか、そういうのは絶対やだ……」
    「それは、私が怖いから?」
    こくん、とトレイシーが頷く。途方に暮れた顔で自分を見上げる少女に、ルカは堪らなく庇護欲を掻き立てられた。トレイシーの乱れた髪を撫でてやりながら、ずるいなあとルカは思う。この顔をされてしまうと、何もできなくなる。
    「分かった、とれ」
    「だからね!その、やっていいいのは撫でたりとか、ハグとか、こ、こういうのとかまでだから!そこまでは、我慢する!でも、それ以上はダメだから!絶対だから!」
    「……は」
    「あ!二人の時だけってのも絶対に守ってよ!みんながいる時は触っちゃダメ!」
    「んん?」
    びっと鼻先に指先を突きつけられて、ルカはポカンとした顔になる。言われた内容を脳が処理するのに少し時間がかかった。
    撫でる、抱きしめる、抱っこはいいと。これは、トレイシーから破格のお許しが出た、と判断していいのだろうか。まだこちらからは何も言っていないのに、まさかそんな事を言われるとは思ってなかった。やだやだと言われて終わると思っていたので、どう丸め込もうかと算段を立てていたのに。
    よく何を考えているかわからないと言われるが、ルカからすればトレイシーだって何をしでかすかわからない存在だ。大人しくされるがままにならない、ゲームの盤面をひっくり返す才覚は本物だと思う。
    とはいえ、これをそのまま受け入れると「ここまで」と言い切られてやり辛くなってしまう。どうしたものかとルカは考える。
    「…………ルカ」
    「…………」
    「ちょっと」
    「…………」
    ルカが反応せずに黙っているので、トレイシーはそわそわとした気持ちでルカの首枷から下がる鎖を睨む。すっかりとルカの膝から降りる機会を失っているので、早く話を終わらせたい。その為にもとにかく何か早く言ってほしい。
    人が勇気を出して触っていい条件を出したのに、何をぐずぐずしているのだろう。ルカの事だから、流されたらそのままなし崩しで自分に都合のいい方向に話を持っていくに違いない。だから先に譲れないところを決めたのだ。
    何を考えてるのかわからないけれど、それじゃ足りないとでも言うつもりかもしれない。もし、そう言われても折れるつもりは絶対にないけれど。
    そこでふと、トレイシーは気付く。――ルカに考える時間与えたらダメじゃない?
    目の前にぶら下がっている鎖を見つめる。これを今すぐ思い切り引っ張って、考えの邪魔をした方が良いのでは?
    思い立つがまま、トレイシーは首枷の鎖を掴んだ。しかしほぼ同時にその手をルカに掴まれた。
    「あ」
    「こら、引っ張る気だったな?」
    含み笑いをしながら、ルカはトレイシーの手を鎖から外して握り込む。その余裕綽々の表情に、遅かったかとトレイシーは唇を噛む。正反対に、ルカはトレイシーの指を撫でながら機嫌顔だ。
    「そうか、抱っこまではいいと。嬉しいよ、今まで君は触らせてもくれなかったから。当然『可愛い』も解禁してくれるだろう?」
    「うう……改めて確認されると嫌……」
    「そうか、ありがとう」
    「また勝手に話進めてる……!」
    ぎりぎりと悔しそうな顔をしてはいるものの、トレイシーお得意の「ダメ」が出ないので「OK」ということだろう。恥ずかしがりのトレイシーの為に、きちんと意図を理解してやる必要がルカにはある。
    ぐぐ、と唇を噛み締めているトレイシーの頬をルカはむにむにと突く。
    「そんなに噛み締めたら痕になってしまうよ」
    「……うるさい」
    トレイシーの頬を撫でていた手が、口元に移動する。ついてしまった歯型を確認するように、ルカは唇の上を親指で何度もなぞる。そこをじっと見つめながら、ルカはぽそりと呟く。
    「キスは駄目、か」
    「!」
    ルカの少し低くなった声に、トレイシーは慌てて口を覆い隠した。そのあまりに素早い行動に、ルカはくつくつと笑い声を漏らす。ついうっかり、欲を見せてしまったらこの反応だ。
    両手を口に当てたまま、猜疑の目でこちらを見るトレイシーは、全身の毛を逆立てた子猫のようだ。そんなに警戒しなくても、無体は働かないと言っているのに。ルカは自身の信用の無さに少しだけ落ち込んだ。
    「大丈夫、君が怖がることはしない。キスはされたくないんだろう?分かっているさ」
    「本当に?」
    「勝手にはしないよ。絶交されたくない」
    これは紛れもない、ルカの本心だ。しっかりと目を見て答えれば、トレイシーがそろそろと口を覆う手を下ろした。
    ああ、分かってくれたのかとルカも安堵して、トレイシーの額にキスを落とす。途端、トレイシーが「んなあああ!」と悲鳴をあげて額を覆う。
    「?猫の真似かい?」
    「違う違う違う!今わかってるって言わなかった⁉︎言ったよね⁈言った側から何してんの⁉︎」
    「……?私がなにかしたか?」
    ぱちぱちと目を瞬かせ、ルカは首を傾げる。本当に不思議そうな顔をしているのを見て、トレイシーはぱっくりと口を開く。
    ――この顔は本当に分かってない。ということは、今のは無意識でやったという事だ。しかし無意識とはいえ、「キスはしない」と宣言した舌の根も乾かぬうちにしでかす事なのかと問い正したい。
    トレイシーはゴーグルで額を隠しながら、ルカを詰る。
    「今、キスしたでしょ!」
    「…………ああ。したね。つい」
    「しないって言ったくせに!」
    「それは、悪かった。だけど私は親愛のつもりだったんだ。君が恐れるような意図はない。ここにはしてないだろう」
    唇をなぞるルカの指にぞくりと痺れるような感覚が起きる。トレイシーは不自然ではない動作で、指から逃れる為に顔を背けた。
    「口じゃないけどキスした……嘘つき」
    「唇以外はいい事にしてくれないか」
    「しないよ!するわけないでしょ!」
    しれっと自分の希望を口にするルカの胸に、トレイシーは握った拳を振り下ろす。しかし怒ったような口振りとは裏腹に、ルカがトレイシーの顔を覗き込んでみれば、ほんのりと頬が赤い。トレイシーは満更でもなさそうな顔をしている。親愛のスキンシップというのは気に入ったようだ。
    素直じゃないところも大変愛らしい。だけどルカはそれだけでは満足できない。引き出せる条件は全部引き出しておきたい。
    ルカはゆっくりとした動作でトレイシーの肩を抱き寄せて、ぐりぐりと額を擦り付ける。その、動物が親に甘えるような仕草に、トレイシーはつい手を伸ばしてしまう。
    ルカは時折、あの近所にいた犬を思い出させる。まだ父が生きていた頃の、良い思い出の一部を。あの犬は老犬で、トレイシーが幼い頃に亡くなってしまったし、飼い主もすぐに引っ越してしまった。今はいない。だから人の醜さを見た後も、いつまでもトレイシーには綺麗なままの思い出なのだ。
    トレイシーがルカの頭を撫でる。目を閉じてそれを大人しく受け入れてる姿は、耳を倒して撫でられていたあの子にそっくりだ。
    ――やっぱり、可愛い。
    なんでこんな、図体のデカい男にそんなことを思ってしまうんだろう。トレイシーは自分でも不思議で仕方がないのだが、ルカを見ているとそう感じてしまうのだ。駄目だ駄目だといいながら、悲しそうな顔をされるとつい甘やかしてしまいたくなる。ルカがそれを分かっててやっていることも、気付いている。それでもどうにも弱いのだ。
    大人しくされるがままだったルカが、頭を撫でるトレイシーの手を掴む。そして手のひらに唇を押し当てた。さっきも同じことをされたのに、今度はトレイシーは逃げようと言う気が起こらなかった。込められた感情が違うからか。
    ルカはトレイシーの手を頬に当てて、小さく息を吐く。
    「……今のも、駄目?」
    「あ、う……手は、いい……」
    トレイシーの言葉を待って、ルカはもう一度感謝の意味を込めて掌に口付ける。
    そして今度はトレイシーのゴーグルを外し、額の髪を掻き分ける。
    「おでこもしたいな。私には君の体で一番近いし、丸くて可愛いからずっと我慢してたんだ」
    「さっきしたじゃん……」
    「君が駄目というなら、あれが最後だろう。私に祝福の機会を与えて欲しい」
    「その言い方は、ずるいよ……」
    「うん」
    観念したように目を閉じたトレイシーに、ルカは額にキスを落とす。
    さらさらとキャラメル色の髪に指を差し入れて、ルカは小鳥のように首を傾げる。
    「髪は?」
    「おでこが良くて髪がダメなんて言わないよ、もー……好きにして」
    「そうか」
    何が嬉しいのか、ルカはにこりと笑うとトレイシーの髪を掬い上げ口付ける。
    トレイシーは居心地悪げに、膝を擦り合わせる。まさか、ルカはこうやって一個一個許可を取る気なのだろうか。トレイシーはまさかなと思っていたが、ルカは止まらなかった。するりとまろい頬を撫でて、「頬は?」と尋ねてくるのだ。
    ――本当に全身やる気なのか!それなら冗談ではない!
    「も、もう!口以外は!いいから!やめてそれ!」
    「おや、いいのか?」
    「………………変なとこはダメ」
    一応、釘を刺しておく。「変なとこって?」と聞いてきたら引っ叩いてやるとトレイシーはルカを睨む。全部いいと言うと、ルカのいいようにされるに決まっている。
    ルカはすんなりと「分かった」と言うと頬に軽いキスを落とす。
    ちょっとむず痒いけど、これでルカの気が済むならいいか。そう思っていたトレイシーのうなじに、ちりちりとした嫌な予感が走る。
    咄嗟にトレイシーは上半身を逸らして、ルカの口を両手で塞ぐ。
    「耳と首は!変なとこに入るから‼︎」
    「………………」
    今まさに耳を狙っていたルカは心の中で舌打ちをする。先手を打たれたか。折角トレイシーの弱い場所を知れたのに。






    顔色を青くしたり赤くしたり首を振ったり頭を抱えたりと大忙しの青年に、見てるだけなら面白いなとパトリシアは思う。パトリシアに面白がられているマイクはというと、ガラスのコップを扉に押し当てて、書斎内部の会話に聞き耳を立てている最中だ。
    これは決して、疾しい気持ちでしている行動ではなく、ルカに連れ去られたトレイシーの安否を測るための行為なのだ。だからパトリシアも黙って見ているのだ。
    ただならぬ様子だった二人をマイクとパトリシアは追ってきたのだが、ルカが鍵のかかる自室ではなく万人が出入りできる書斎に入って行ったので、一先ず様子を見ることにしたのだ。
    それでも何かあっては事なので、いつでも突入できるように待機している状態だ。
    ところがどんどん顔色が悪くなりながら頬が赤くなっていくマイクに、パトリシアは凭れていた壁から離れ、青年の脇に屈み込む。
    「どうした?マイク。突入するか?」
    「や、今の所は大丈夫そう」
    「どちらかというとお前が大丈夫じゃなさそうだが」
    「人間の多面性に人間不信になりそうだし、結構仲良いと思ってた相手のこういうの聞くの精神に来るなって」
    「何が起きているんだ?」
    「恋人になるか、友達のままでいるかでイチャコラしててる……」
    「は?」
    パトリシアに何言ってるんだお前と言う顔をされても、それが事実なのだから他にどう説明しろと言うんだ。
    マイクは扉に押し付けていたコップを外し、ぺったりとそこに座り込む。中の様子では暫く放置してても危険はなさそうだ。パトリシアもマイクに並んで座り込むと、頬杖をつく。
    「それで、これはどういう状況なんだ?」
    「うーん…まず、僕らの勘違いからなんだけど」
    マイクはトレイシーの『誰か』の人形の話だけを上手に除外して、自分が知っている事情をパトリシアに話して聞かせた。
    ルカが最初からトレイシーを女性と認識していたこと、トレイシーはルカの好意に気付いて自覚させないように努めていたこと、互いにすれ違っていた事実、それに気付いた後も、トレイシーが恋愛を恐れて尻込みしていること。
    全ての事情を聞いた後、パトリシアは顳顬を両手で抑えた。やっぱりきっかけはフィオナの発言のせいか……注意しようにも、あの時は既に種を蒔かれた後だったのか。初心なトレイシーの方ばかりに気を取られていて、ルカの方はノーマークだった。
    もっと真剣にトレイシーには女性の身の安全について言い聞かせておくんだった。心のどこかで、あの少女にはまだ恋愛事は起きないのではと思っていた自分を呪う。パトリシアに何の責任があるわけでもないが、年長者として、他に慕われている身としてはついつい面倒を見たくなってしまうのだ。これはエミリーも通じるものがあると言っていた。
    パトリシアは室内の様子を窺っているマイクに、ふと覚えた疑問を投げかける。
    「そういえば、マイクは何故バルサーとトレイシーをそんなに気にかけるんだ?」
    「一度乗りかけた船っていうか。話せないけどこうなったの多少なりとも僕のせいなとこもあるから、何かあったらこう、夢見が悪いなって……」
    トレイシーに告白してしまえとルカをけしかけたのは自分だ。それが何故こんな最悪のタイミングになったのかと思う。
    トレイシーの秘密を初日からルカの前に晒してしまったのもマイクのせいだし、トレイシーの泣き声を聞かせてしまったのもマイクのせいだ。普通に出会ってても今と変わらなかったかも知れない。けれどルカに特殊な興味を持たせてしまったのはやはり自分のせいなのだ。
    それにケダモノ発言は撤回したが、さっきの表情といい、どうにもルカは「やべえ奴」という感覚が止まないのだ。時々見せる狂気のせいかも知れない。どこまでが彼の天然の性質で、どこからが計算なのかもわからない。
    ――だからトレイシーだといいように丸め込まれちゃう気がするんだよなあ……
    あのルカを「わんこみたいで可愛い」といううら若い機械技師を思い出しマイクはため息をつく。
    「……代わろうか?」
    「お願いしていい?」
    表情の芳しくないマイクに代わり、パトリシアが室内に聞き耳を立てる。
    しかしその表情が段々と歪んでいき、眉間の皺が深くなっていく。最終的に額を覆って扉から耳を離したパトリシアが無言でマイクを見る。
    「どう?」
    「…………どこにキスしていいかで揉めてるんだが、これは、どういうやり取りなんだ?恋人同士になったのか?それにしては妙だが」
    「うーん、それが友達同士のやり取りらしいんだ、信じられないことに」
    「そんなわけあるか」
    「恋人になったんなら良かった良かったで引き上げてるよ、僕も。出歯亀する必要ないじゃん。まだ友達のままでいたいってトレイシーが言い出して、ルカがその交換条件をいろいろ出してるっぽい?」
    「聞いてる限り、そんな対等な内容に聞こえないんだが。乗り込んで締め上げた方が良くないか?あの男」
    「やや、落ち着いて!一応、一応一方通行ではないから一応!多分、トレイシーに合わせてるんだと思うから!多分!多分だけど!」
    「擁護になってないぞ」
    すっくと立ち上がったパトリシアにマイクは慌てる。扉を蹴破るつもりなのではと危惧したが、パトリシアは腕を組んで廊下の先に視線を向ける。すぐに突入する気はないらしい。マイクはほっと胸を撫で下ろす。
    マイクからすれば、ルカとトレイシーが平和にくっつくならくっついてくれた方がいい。トレイシーは恋愛自体を怖がっているだけで、ルカの事は確実に好きな筈だ。
    それに、嫉妬で燃える目を向けられるのも結構堪える。あと本当に怖い。トレイシーは見てないだろうけど、ルカから向けられるこっちは溜まったものではないのだ。
    ただ、ルカはどうやらマイクが思っていたよりも安全な男ではなさそうなので、一線を越えそうな時はトレイシー側につくつもりではあるけれど。
    さもないと、あの金色の人形に恨めしそうに夢枕に立たれる気がする。
    「マイク」
    「え、なに」
    「待つのは構わないが、そろそろマスターキーが来そうなんだが」
    廊下の向こうを見ていたパトリシアが顎をしゃくる。マイクが耳を欹てれば、確かになにか騒がしいものが近づいてくる。
    でもマスターキーって?とマイクは首を傾げる。
    「バルサーは今日まで謹慎していたわけだが、理由は?」
    「トレイシーに、ゲーム外で攻撃しちゃったから、だね」
    「そうその反省を促すためだ。で、反省した筈のバルサーはなにをした?」
    「……トレイシー攫ってったね、みんなの前で」
    「では謹慎命じたのは?」
    「我らが天使ダイアー先生、だね?」
    「その天使が『マスターキー』片手にこっちに向かっているわけだが」
    「!」
    それを聞いたマイクの顔が引き攣る。
    ――マスターキーってあれか‼︎
    エミリーはそれはそれは普段は優しいお医者様だが、怪我や病気を隠そうとするメンバーや女性の敵及びエマの私物を盗むクリーチャーには本当に容赦がない。
    注射が嫌で部屋に立て籠った時に、扉を斧で叩き割られたことは未だにマイクにはトラウマだ。あれ以来、注射より斧を持って微笑むエミリーの方が数倍怖いので大人しく接種を受けるようにしている。
    マイクは書斎のドアノブを掴むと、思い切り扉を叩いた。
    「ルカ、トレイシー、取り込み中悪いんだけど、今すぐ出てきて!今すぐ!大惨事になる前に!」






    「アンドルーの言う通りだったなって」
    窓から差し込む朝日が目に染みる。トレイシーは手を掲げてそれを遮る。籠をひっくり返し、リネンを洗い場に積み上げるアンドルーが口をへの字に曲げる。
    「そうだろうな」
    「疑ってたわけではないんだけど、ネジがぶっ飛んでるの意味をようやく理解したというか。自分の感情自覚した途端にあんなに勢いよく詰めてこられるとは思ってなかった……」
    トレイシーが中身の詰まった籠を抱えて、言い訳するように呟く。アンドルーは興味なさげな顔で、籠の底に溜まったタオルを掻き出して洗い場に放り込む。
    「ああいう輩は世渡りは上手いもんだろう。腹の色を隠すのはお手のものだ。関われば割を食うのはこちらだ」
    「うう、人生の経験者の話は為になるよ……」
    でも出来たらもっと早く聞きたかったかもとトレイシーは頬を掻いた。
    今日のリネン回収はトレイシーとアンドルーが当番だ。
    いろいろ勝手に綺麗になっている荘園だが、肌に触れるものは清潔である保証が欲しいという希望があり、二人の当番が使用済みのリネンを回収に回ることになっている。
    洗濯などはいつの間にか済んでいるのだが、広い荘園内の回収だけでもかなり大仕事になるので、係を二人から三人にすべきではという声も上がっている。
    トレイシーは最後の籠の中身を洗い場に放り込んで、ぱんぱんと手を叩く。
    「よし、終わり!」
    「もう済んだんなら僕は部屋に戻るぞ」
    「うん。後はやっとくよ。お疲れ様」
    籠の片付けくらいなら、トレイシー一人で十分だ。重い籠の運搬をしてくれていたのはアンドルーだし、この程度なら任せてもらっても問題ない。
    トレイシーが明るくそう返すと、アンドルーはなにやらうんざりとした顔で重い溜息をつく。
    「?なに?なんか変なこと言った?私」
    「いや……あんたに何か思うところがあったわけじゃない」
    「?」
    首を捻るトレイシーに、アンドルーは「後ろ」と告げる。言われるがままにトレイシーが振り返ると、いつの間にやら奥の壁に凭れたルカがいる。ちょっと前までは誰もそこにはいなかった筈だ。
    朝まで作業をしていることはあれど、こんな時間にまともに活動している事など滅多にない男だ。そんな人間が、わざわざこんな時間にここにいる理由は一つだろう。
    「あれは、どこかでずっと見てたな……終わると同時に出てくるのはおかしい」
    「そんな、ピアソンさんじゃあるまいし」
    「同じだろ」
    アンドルーが面白くなさそうに言った言葉に、トレイシーは少しだけ不快感を覚えた。あのストーカーとルカが同列に扱われるのは、違うと思ったのだ。
    むっとした顔の機械技師に、アンドルーはふんと鼻を鳴らし、不気味なものを見る目でトレイシーを見下ろす。
    「僕にはどうでもいいことだ。けど、あんなあからさまな行動に出たってことはあんたもう手遅れってことか。御愁傷様だな」
    「そんなに皮肉込めないでよ、まだそういうのじゃないから」
    小馬鹿にしきったアンドルーの言葉に、トレイシーは苦く笑うしかない。
    彼の忠告は、全くの無駄だったわけではないのだ。トレイシーが完全にルカに流されずに済んだのは、アンドルーの言葉もあったからだ。
    「あの人種は自分の思い通りになるまで折れることはないと思うけど」
    「そう言う話もできたら先に聞きたかった」
    「僕が知るか。精々、奴の被った猫の機嫌でも取って、延命するんだな」
    アンドルーはそう告げると、用は済んだと足早に去っていく。トレイシーはその背を見送ってくすりと笑う。
    ――アンドルーって言葉は冷たいけど、なんだかんだ忠告はくれるんだよな。まあ、ルカが被ってるのは猫というより犬だけど。
    トレイシーは積み重ねた籠を戸棚に押し込む。これで当番の仕事は完全に終了だ。戸を閉じると同時に肩に手を置かれる。
    「終わったかい?」
    「うん」
    「それなら今度は私の相手をしてくれ」
    「いいけど」
    待ってましたとばかりにやって来たルカに、トレイシーはくすくすと笑ってしまう。何故か自分の顔を見て笑い出したトレイシーに、ルカは首を傾げる。
    「なにか、私の顔についているかい?」
    「違う。ルカってば今、アンドルーにストーカー呼ばわりされてたんだよ。私に引っ付いて回ってるって思われちゃってるのおかしくて!そんな事ないのにね」
    自分の研究があれば、ルカはそちらに没頭するから数日会わない事だってある。トレイシーだって新しい設計案が浮かべば部屋に引き篭もることはざらだ。一緒にいることが多いのは否定しないけど、流石にそんなずっとくっついているわけではない。
    トレイシーの言葉に、ルカは緩く微笑むだけで否定も肯定もしなかった。
    「クレスとはあまり話す機会がないんだが、どうにもいい印象を持たれていないようだ」
    「あはは……」
    ルカが少し残念そうに言うのを、トレイシーは笑って誤魔化す。いい印象どころか、多分あれは好かれてないと思う。嘘になるので否定もできないが、事実を伝えるのも角が立つ。
    飄々とした雰囲気に、薄く笑ったような表情。トレイシーが見上げたルカは、いつも通りに見えた。それにトレイシーは安心する。彼に会うまで、少し緊張していたのだ。
    朝起きた時に、昨日書斎であったことは夢だったんじゃないかと期待した自分がいた。けれど、クローゼットには確かに自分に似つかわしくないフリフリ衣装がある。
    出来ることならこの衣装ごと、昨日起きたことも無くなって欲しかったのだが、そうはいかなかった。
    ルカはトレイシーが慣れるまでは今まで通りに接するという約束もしたが、それと引き換えにとんでもない約束もしてしまった。マイクの乱入をこれ幸いとトレイシーは逃げるように部屋に戻って来てしまったのもあり、次にルカがどう出るかとドキドキしていたのだ。
    やっぱり、昨日はいつもと違う格好だったから変な雰囲気になってしまっただけかもしれない。
    今日のトレイシーはいつもの「野暮ったい」とウィラに言われる作業着だ。この格好の自分に変な気を起こす人間はいない筈だ。杞憂が過ぎたかもしれない。
    「ルカ、朝ごはん食べた?」
    「いや、君を誘おうかと思っていたんだ。ただずっと室内にいたからその前に陽にあたろうかと」
    「ああ、カビが生えそうだったってナワーブ達が言ってたもんね」
    「モートンにはきのこが生えてそうとまで言われたよ」
    「ふふ」
    洗濯室から温室へと続く扉に手を掛け、肩を竦めるルカ。自信家のこの男が、カビやらきのこが生えそうなくらい落ち込んでいた姿を、トレイシーも少しだけ見てみたかったなと思う。
    そしてそうか、ルカは温室に用事があっただけなのかとトレイシーは納得する。やっぱりストーカーなんてアンドルーの考えすぎだったのだ。
    ガラス張りの温室に出たルカは、眩しそうにしながらも、思い切り伸びをしている。外の空気が吸えるわけではないけれど、外光を浴びるだけでも気分は変わるものだ。トレイシーも最近はゲーム以外はほぼ引きこもっていたので、久々にまともな陽を浴びた気がする。温室中央を陣取るカエルの像すら眩しく感じて、トレイシーは目に優しい緑に視線を向けた。
    ルカは階段に腰を下ろすと、トレイシーを振り仰いだ。
    「トレイシー」
    「…………」
    柔らかな声で名を呼ばれ、ルカから差し出された手に、トレイシーはぎくりと肩を揺らした。
    以前なら、ルカは無言で自身の隣を叩いてそこに座るようにトレイシーに促した筈だ。友なのだから、並んで座るのが普通だろう。
    ――だったら、この手はなに?
    自分に伸べられた手のひらに、トレイシーは胸の前で両手をぎゅっと握り込む。半歩下がって、ルカの手から距離を取る。
    さっきまで、ルカは前と一緒だったのに。どうして急に態度が変わったのか。
    そう考えて、トレイシーは気付く。温室のガラスの外は人が立ち入らない林が広がっている。そして温室内部が見える窓は無く、居館と繋がる扉はトレイシーの後ろにある一つだけだ。開放的だから失念していたけれど、今ここはルカとトレイシーの二人だけの状況だ。

    ――二人の時は私に大人しく可愛がられてくれ――

    愕然としてルカを見れば、どうかした?と言わんばかりのとぼけ顔をしている。その態とらしい態度にトレイシーは顔を顰める。どうやら自分は間抜けにもこの男に誘い出されたらしい。
    「トレイシー?」
    じっと動かないトレイシーに、ルカは言い聞かせるようにもう一度名を呼ぶ。のろのろと顔を上げたトレイシーは、諦め悪く扉を振り返る。そこから誰かが来てくれることを願っているのだろうけど、残念ながらここに来る人間は今はいない。
    ルカはきちんと線引きを守っている。他の人間が来るかもしれない場所では、確かに以前と同じ態度を貫いていた。トレイシーが勘違いしてしまうほどに完璧に。
    そして二人きりになった途端にこれだ。切り替えが本当に明確だ。トレイシーはそんなスイッチのような切り替えはできない。
    渋々といった態度で、トレイシーは差し出されたルカの手を取った。ルカがその腕を引くと、トレイシーは大人しく膝に座る。ルカは機嫌良さげに金色の髪にキスを落とし、トレイシーの輪郭を撫でる。むにむにと頬で遊び始めたのは流石に嫌がられたが、トレイシーはむっすりとはしているものの抵抗する気は無さそうだ。
    ただ、時折何か物言いたげな目をルカに向ける。
    「どうかしたかい?」
    「ルカは昨日の格好がいいのかと思ってた」
    「うん?私はいつでも君を愛らしいと思っているよ」
    「う、ううう……!」
    真っ赤になって唸りながら顔を隠そうとするトレイシーに、ルカは目を細める。
    触れられること自体は欲を絡ませなければトレイシーは大人しいが、「色」が分かる言葉はルカの隠している感情も全て感じてしまうらしく、どうにも苦手なようだ。
    ――耐えようとしている姿がまた堪らないのだけれど。
    「もう!とにかく!作業着の時もそういう反応するとは思ってなかったの!」
    「だから、何故そう思うんだ?」
    「だって、野暮ったいって言われるし……そんな格好じゃ嫁の貰い手もないって、散々言われたし……」
    「私は欲しい」
    「ああああ!」
    前のめりになるルカの顎を下から押し上げて、トレイシーが叫ぶ。
    「もう!もう!いきなり何言ってんの!」
    「痛いよ、トレイシー」
    「私に合わせるって話はどこ行ったの⁉︎慣れるわけないでしょ、こんなの!」
    「すまない、つい」
    ルカは自身を我慢強い方だと思っていたが、どうにも一度緩めた箍は戻らないらしい。今まできっちりと隠していた本音がぽろぽろと溢れてしまう。
    人目のあるところでは今まで通りにする代わりに、二人きりになれば触れて良い。その確約が得られたことに、舞い上がっているせいもあるかもしれない。
    ルカはトレイシーの姿を改めて上から下までとっくりと見やる。そしてうんと頷いた。
    「一つ言わせてほしい」
    「なに?」
    「この格好の私が人の姿が野暮かどうかを気にすると思うか?」
    「……なるほど」
    トレイシーは囚人服の男を見上げて、それもそうだと納得する。野暮とかそんな問題じゃない格好してたよ、この人。
    「それに、昨日言ったはずだ。なにをしてもどんな格好をしていても君は可愛い」
    「‼︎可愛くない!」
    「いいや、可愛い」
    反射的に否定を叫ぶトレイシーの言葉を打ち消して、ルカはちょんと瞼にキスを落とす。途端に悲鳴が上がるが、口以外ならしていいと言ったのはトレイシーだ。続けて頬、鼻と口付ける。
    じたばたと踠くトレイシーを抱き込んで、ルカはくすくすと笑う。早く慣れてほしいとも思うが、こうやって恥ずかしがっている様も非常に可愛らしい。
    「んもー!もおおおお!」
    「こらこら逃げるな」
    「無理!無理いい!」
    「よしよし。慣れるまで頑張ろうか、トレイシー」
    「そんな日来る気しないんだけど……!」
    「大丈夫さ。いくらでも付き合うよ。ゆっくりじっくり慣れていってくれ」
    首まで真っ赤にして蹲るトレイシーに、ルカは金色の髪に顔を埋め、上機嫌に告げたのだった。

     

    END







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