今じゃないだろ階段の踊り場に立つ人物に気付いて、エマはぱちくりと目を瞬いた。赤と黒のドレスに、結い上げられた月白色の髪、冠を被った瑠璃色の瞳のその人は、じっとこちらを無表情に見下ろしている。
エマに倣って階段上を見上げたマーサがひそりと囁く。
「エマ、知ってる人?」
「う、ううん。分からないの」
仲間が増えるとは聞いてない。ハンターは新しい人が来るけど、男の人だった筈。踊り場の人物は、多分サバイバーの筈だ。短剣を腰に下げているけれど、その筈。
エマとマーサが見上げる先で、女性はゆったりとした動作で階段を降りてくる。さらさらと衣擦れの音をさせ、目の前まで降りてきた人物に、二人は既視感を覚える。でも近くで見ても、やはり誰かは分からない。
困惑した顔で黙り込んでいる二人に、冠の人物は「ぷっ」と噴き出した。
「あはははははは!!面白い顔ー!!」
「な!?」
「ええ?!トレイシーちゃんなの!?」
高慢そうな雰囲気が消えれば、あっさりと正体が分かる。だんだんと階段の手摺りを叩いて笑い転げる姿は、いつものトレイシー・レズニックだ。
すっかりと騙されていたマーサははくはくと口を動かすしかないし、エマは手を叩いて目を輝かせる。
「すごいすごーい!分からなかったの!」
「エダのメイク技術のお陰かな。ずっと無表情でいろって言われたのは難しかったけど」
「すぐ笑ってしまうからなぁ、君は」
すぐ上から降ってきた声に、マーサが顔を上げる。
ニタニタと笑うルキノと、手摺りに肘をつくルカが上階に立っていた。ご機嫌に尾を振るルキノとは対照的に、ルカはむすりとした顔をしている。
「はあ……また教授の勝ちか……」
「!!もしかして私達で賭けしてたわけ!?」
「賭けはしてないよ。ただこの格好の私に気付くかどうかを当てっこしてただけ」
トレイシーが、スカートを摘んで貴族のような挨拶をしてみせる。正体が分かっても、そう言う動作をされると別人に感じてしまう。
「トレイシーちゃん、お姫様みたいなの!新しい衣装、素敵!」
「えへへ、そうかな?」
「いつからやってたのよ、その当てっこ」
「えーと……」
「昼前?」
揃って首を傾げる男どもに、マーサは眦を吊り上げた。
「もうお茶の時間よ!なにやってんの!」
「おや、そんなに経っていたとは」
「つい面白くなってしまったからな」
よっこいしょと手摺りを飛び越えて着地したルキノに、エマは興味津々で問いかける。
「ねえねえ、トレイシーちゃんって分かった人は何人いたの?」
「そんなにはいないな。ジャックとアユソは普通に衣装褒め称えた上で口説いてたが」
「あの二人はそうでしょうね」
「ガラテア嬢とワルデン君も分かってたな。芸術組は強いな」
「フィリップさんの骨格でバレたのはびっくりしたよ……」
「他の連中は気付かなかったな」
うんうんと頷いている悪戯仕掛け人の三人に、マーサは呆れた目を向ける。一体何人に仕掛けたのやら。
ふと柱時計を見ると、3時を間もなく指そうとしている。マーサは慌ててエマの腕を引く。
「エマ、お茶に間に合わないわ」
「あ!本当なの!お手伝いに行かなきゃ!じゃあ後でね、ルキノさん、ルカくん、トレイシーちゃん」
「遊んでないで早く来なさいよ!」
ぱたぱたと走り去る二人を見送り、ルカも階段を降りていく。
注意されてしまったし、そろそろお開きにするしかないだろう。ちょっと全員の反応が見たかったのが本音だが。
「ふむ、じゃあそろそろ」
「待って!!」
終わりを告げようとするトカゲの尾を掴み、トレイシーがうきうきとした顔で叫ぶ。
「ナワーブがまだだよ!」
「……トレイシー、それはだな」
「結果が既に決まっているというか」
当てるまでもないのでは。ルカとルキノは顔を見合わせて肩を竦める。けれどトレイシーは自信満々な顔でスカートを摘んでくるりと回って見せる。
「女の人達も分かんなかったんだよ。鋭いマーサでも気付かなかったもん。ナワーブも気づかないかもしれないじゃん」
「……そうなのか?」
「…………………………」
ルキノがひそりと囁くのに対し、ルカは黙ったまま首の後ろを掻く。
勿論、そんな訳ない。そんな世迷いごとを思っているのはトレイシー本人だけだ。寧ろ相手は「気付かないかも」と疑われたことに、機嫌を損ねるのではないだろうか。
「先輩、それはやめておいた方が……」
「えー、いいじゃんいいじゃん、やろうぜ」
「!」
トレイシーを止めようとしていたルカの肩を、力強い手が掴んだ。振り返ればウィリアムがにっかり笑顔を浮かべている。その両隣にはいつの間にやらノートンとイライも揃っている。
この三人もそれぞれがトレイシーの姫演技に引っ掛かっていた。笑ったり悔しがったりしながら別れた筈なのに、なぜここにいるのか。
訝しんでいるルカを他所に、イライは人好きのする笑顔でトレイシーに歩み寄る。
「トレイシー、ナワーブなら森で昼寝してるよ」
「え、いつもの木のとこ?」
「そうそう」
「ありがとー!行ってくる!」
フィッシュテールドレスの裾を翻して、駆けていくトレイシー。それを手を振って見送り、「さて」とイライはこちらに向き直る。
「ウィリアムの予想は?」
「俺は尻、いや脚で気付く。ノートンどうする」
「僕は、匂いにしとこう」
「ドゥルギさんとルカ君はどうする?」
「どうするとは」
「なんの話をしてるんだ……」
ルカとルキノが困惑気味に首を傾げていると、イライは声をあげて笑い出す。
「やだなあ、当てっこだよ。君たちさっきまでやってたじゃないか」
「いや、そもそも何を当てるんだ」
「サベダーが先輩のことで分からないことなんて乙女心ぐらいだろ」
「おー!うまいこと言うな、ルカ!」
「あだっ!」
ウィリアムに背中を叩かれて、ルカがよろめいた。褒めたつもりなのだろうけど、こっちは体育会系ではないので加減してほしい。
「どこでトレイシーって気づくかっていう賭けだよ」
「賭けって言ってるが」
「やらない?」
「やめておく」
「私もだ」
「そっかぁ」
少し残念そうなノートンに、ルキノは降りて正解だったなと舌を揺らす。カモる気満々だったに違いない。
「クラークは賭けないのか」
「僕は今回は視えちゃってるからね」
「というか脚とか匂いとか、君らサベダーのことどう思ってるんだ……?」
「え、ムッツリ」
「ロリコン」
「ヘタレ犬」
ウィリアム、ノートン、イライが流れるように回答するのを聞いて、ルカは額を抑えた。酷いな、おい。なんだか本当に頭が痛くなってきたような気がする。
ルキノは自身の顎を撫でながら、ふむふむと頷いている。
「それはなかなか、いい趣味だな」
「……………………」
それはトレイシーとナワーブどっちのことを言っているんだ。
慣れた森の道が、遠く感じる。トレイシーは忌々しげに足元のブーツを見下ろす。普段は踵が低い靴で生活しているから、体重が集中する足の甲の先が痛い。
ヒールが高い靴は「機械人形師」や「心の鍵」で少しは慣れたけれど、柔らかい土の上は本当に歩きづらいのだ。
「ぺたんこの靴でいいのに……」
ぶつぶつと文句を言いながら、トレイシーはブーツを脱ぎにかかる。もう足が限界だったし、この後は着替える気満々だから、靴ぐらいは構わないだろう。
今日は新しい衣装が来ることはわかっていたので、彼をびっくりさせようと思っていたのだ。だから昼食の時間に必ず通る、エントランスホールで待ち構えていたのだ。なのに全く姿が見えないと思ったら、森で寝こけているときた。
「もう!今日に限って、食いしん坊のくせに!」
ぷりぷりと怒りながら、トレイシーはブーツを掴んで歩きだす。タイツの足裏に地面が柔らかく当たるのが気持ちいい。踵が高い靴を脱いだ後の、この感覚は嫌いじゃない。
裸足で森を歩くなんて本来なら危険だけど、ここの道は綺麗に平坦に整えられている。タイツは汚れるだろうけど、荘園の衣装は明日には勝手に綺麗になっているし、問題ない筈。
「せめて部屋で寝ててよね……!」
枝に引っかかるスカートを、空いてる手でまとめてたくしあげる。どう考えても、森を歩くのには向いていない格好だ。
ここまでして会いに行って、無反応だったらどうしてやろうか。ブーツの踵で踏むぐらいはしてやりたい。
朝から活動していたこともあって、疲れているトレイシーは物騒な考えになっている。ナワーブも、流石におやつの時間には現れるだろうと思って、足の怠さを我慢していたのだから無理もない。
普段より時間をかけて、トレイシーは「いつもの木」に辿り着いた。
巨木とまでは行かないが、それなりの太さがある木だ。根本が座るのに丁度いい形に窪んでおり、そこにすっぽりと収まったナワーブが、幹に背を預けてぐうすかと寝こけている。
「……うーん」
トレイシーはぐうぐうと寝続けているナワーブを前に、考える。ここまで来たのはいいけれど、どうやって起こそうか。
声をかけて普通に起こすことも考えたけれど、それだと自分だと最初からバレてしまう。それは面白くない。
なにかこう、驚かしてやりたいところだけど、こういううたた寝状態の時に驚かせると傭兵だった時の習性で、とんでもない反撃を受ける。それで前に腕を捻られたことがある。あの時は自分が悪かったのに、ナワーブがエミリーにこっぴどく叱られていた。
「んー……」
腕を組んで、目を閉じて唸る。
なにか、安全に正体がバレずに起こす方法。離れたところから何か投げるとか?石は流石にまずいから、木の実とかぶつけてみるのはどうだろう。どんぐりなら転がっていそうな気がする。
よし、とトレイシーが目を開くと、フードの下から覗いている目と視線が合った。
「…………」
「…………」
ぼーっとした顔のナワーブは多分まだ寝ぼけている。トレイシーは慌てて無表情を取り繕い、じっと相手を見返す。さて、どう言う反応をするだろう。
ちょっとワクワクしながらトレイシーが佇んでいると、ナワーブはぼーっとしたまま、片手を地面について腰を浮かす。立つ気かな?とのっそりとした動きをトレイシーが見ていると、素早く伸びてきた手に腕を掴まれ強引に引っ張られる。
「!!」
まさかそんな行動に出るとは思っていなかったので、踏ん張る間もなかった。ナワーブは元の位置に腰を下ろして、つんのめったトレイシーもそこに倒れ込むしかない。人の体とはいえ、筋肉質な体はクッションには硬すぎた。ナワーブの胸に顔面をぶつけて、トレイシーは思わず呻いてしまう。
体を起こそうとした時には、がっしりと二本の腕が体に巻き付いていて、動けなくなっていた。
「ちょっ」
「……ん」
文句を言おうとすると、頭を掴まれた。何かと思っていると、トレイシーの冠が外される。髪飾りも同じように引き抜いて、ナワーブはそれらを放り投げる。
そうして満足そうに「よし」と呟くと、トレイシーを抱え直し、再び寝る体勢に戻った。
一連の動作の意味がわからずにしばらくフリーズしていたトレイシーだったが、髪にかかるナワーブの吐息で気付いた。
ーー顔に当たるから邪魔だったってこと?!
「ちょっと!起きてよナワーブ!寝ないで!」
「うるせえ枕、静かにしろ」
「まだ寝る気?!」
「………………」
「本当に寝てるし」
トレイシーは体の位置を動かそうとして、しっかりと巻き付いている腕にそれを諦めた。
折角の新しい衣装なのに、汚れてしまう。綺麗な状態で見せたかったのに、寝ぼけて台無しにするとはどうしてくれる。
むうとトレイシーは頬を膨らませて、せめてもの抵抗でナワーブの顎に頭突きをする。そんなに威力はないけれど気持ちよく寝ているのが腹が立つ。
「あぐっ、なにしやがる……」
「こっちのセリフなんだけど」
「わかったわかった、後で遊んでやる……」
「もー!」
ダメだ、起きる気ない。よしよしと頭を撫でられて、トレイシーは子供扱いすんなと手を払い落とす。面白くない。本当に面白くない。
動く気がないなら、ここで自分も寝てしまおう。はっきり起きた時にナワーブがどうするかわからないけど、放置されることだけはない筈だ。
トレイシーは体を縮めてナワーブに体重を預ける。重くても自業自得だし、知ったことじゃない。
不貞寝のつもりだったトレイシーだったが、朝から動き回っていたので疲れていたらしい。日差しの暖かさもあり、すうっと睡魔に引き寄せられる。
ナワーブは体の力が抜けたトレイシーの頭に頬をすり寄せる。
「来るのが遅えよ……」
「ん……って、どわ!!」
ナワーブが目を覚ますと、目の前にウィリアム、ノートン、イライの三人が並んでしゃがんでいた。咄嗟に腕に抱えていたものに力を込める。
「んん……」
「は?!」
腕の中から呻く声がして、視線を向ければ寝入っているトレイシーがいた。
どう言う状況だ??!
ナワーブは混乱してトレイシーと三人を交互に見やる。森で昼寝してたのは覚えてる。そこから何故こんなことになっているのかが分からない。
トレイシーの格好から新衣装を見せに来たのであろうことは分かるが、何故靴やら髪飾りが散乱しているのか。なにかしたかと思うが、幸いにお互いの着衣に乱れはない。
一人ワタワタしてるナワーブを黙って見ていたノートンが、くつくつと耐えきれずに笑い出す。
「考えてることが全部顔に出てる」
「寝ぼけてる時の方が大胆とはとんだヘタレ」
「寝ながら撫で回してるあたりやっぱムッツリだろ」
「お、お前ら」
好き放題言っている三人に怒鳴り返したいが、腕の中ですやすやと眠っている存在を起こすのも忍びなく、ナワーブは呻くことしかできない。
よっこらせとイライは立ち上がる。なかなか帰ってこないトレイシーを探しに来たわけだが、この状況を面白がった二人に付き合って、ずっとナワーブが起きるのを待っていたのだ。
「そんで、どうなんだナワーブ」
「なにがだ?」
「トレイシーのその格好見て、なんかないの」
「あ?ああー……なんかちょっとこいつらしくない衣装だな」
「他には」
「……触り心地はいい」
「変態か」
「そう言う意味じゃねえ」
ウィリアムに胡乱な目を向けられて、慌てて否定をする。
まだ頭が完全に起きていないので、つい思ったことを言ってしまった。実際トレイシーの服は、高級そうな、手触りのいい生地で出来ている。サイズも手触りもいいとは抱き枕としては文句がない。
ノートンは指で自身の膝を叩く。ナワーブの態度にちょっとイラッとしてきた。
「そうじゃなくて、なんかさあ」
「可愛いとか綺麗とかそういう感想は無いのかい?」
「そう!」
「……こいつが可愛いのはいつものことだろ」
「っっあああああああ!」
何言ってんだとばかりにそう答えるナワーブに、ノートンはとうとう耐えきれずに叫んだ。ナワーブはぎょっとしてトレイシーの耳を抑えた。起こす気か。
すっくと立ち上がったノートンが、ナワーブに人差し指を突きつける。背が高いので圧が強い。もう下がれないのにナワーブは仰反ってしまう。
「なんっでそれを起きてる本人に言わないかなあ?!」
「い、言えるわけねえだろ!」
「本当だよ、寝てる時だけ惚気るな」
「惚気にもなってねえだろ、片思い」
「うるせー!」
イライとウィリアムの容赦ない畳み掛けに、ナワーブはたじたじになる。
なんで俺こんなに責められてんだ。そしてなんでノートンはこんなにキレてんだ。
「恥ずかしがるな野郎が、気持ち悪い!言えよ!嫉妬心だけ一丁前に剥き出しにしてくる癖に!」
「はあ?俺がいつ……」
「アンドルーから『最近サベダーによく睨まれてる気がする』って訴えが来てるぞー。ホセにも『彼は機嫌が悪いのか』ってよく聞かれる」
「最近ゲーム参加できてないもんねえ、ナワーブ」
「終わる度にすんごい顔してこっち見てくるのやめろ」
「………………すまん」
ぐうの音も出ない。身に覚えがありすぎる。ナワーブは謝ることしかできない。
最近ちょっとだけ動けるようになったトレイシーは、ゲームに前より積極的に参加するようになってきた。だから以前の様に、一緒に行動出来るとナワーブは思っていたのだ。
ところが新たなルールの追加、新しいメンバーの性能により、敵陣営から拒否されるのがイライではなく、最近は自分が選ばれる様になってしまった。
ゲームに出れてもトレイシーと重なることは稀で、どちらかといえばノートンの方が彼女といることが増えていた。
トレイシーがピンチになる度に、タイミングよく現れ援護するノートン。ゲームが終わった後に、人懐っこくお礼を言うトレイシーと、その頭を撫でるノートンの姿にもやもやしていた。そしてそれが態度に出ていたことは、否定出来ない。
ナワーブが素直に謝ったことで、少しは溜飲が下がったらしい。ノートンはふん、と鼻を鳴らして体を起こす。
「妬く前にとっととくっつくなり手を出すなりして欲しい」
「先に手を出したら処す」
「え、怖っ」
ノートンの言葉に、地を這うような声で返すイライにウィリアムが身を震わせる。
自分とノートンは煮え切らないナワーブに発破をかけてるが、イライはトレイシー側の人間だ。あんなにトレイシーからは好き好きオーラを出しているのに、全く動かないナワーブの背を蹴っ飛ばしたいだけで、『とにかく早くくっつけ』と思っているわけではない。
ナワーブが強硬手段に出ようものなら、容赦なく鈍器で殴って止めると思う。多分下手なことしたら、それを幇助した罪とかでこっちにもとばっちりが来る。
「合意があればいいだけだよ。合意があれば」
にこにこと笑っているイライの声はいつも通りだけど、さっきのは本気だった。あまり、面白がりすぎないようにしようとウィリアムはひっそり息を吐き出す。
「つーか、なんでお前らここいんだ?」
今更ながら、ナワーブは三人が昼寝してる自分を取り囲んでいたことについて尋ねる。わざわざ起きるまで待っていたようだし、なにか用事があったんじゃないのか。
ナワーブの問いに、ウィリアムは「そうだった」と手を打ちつける。
「ナワーブ、お前それトレイシーってどこで気づいた?」
「は?」
「別人にしか見えねえだろ。俺らすっかり騙されたんだぜ」
「髪型変わると分からないって言うけど、本当なんだなあって、ね」
ノートンに同意を求められて、イライも苦笑して頷いている。
階段からしゃなりしゃなりと降りてくる姿は、作業着の少女とは全く重ならなかった。女は化けると言うけれど、成る程と感心したものだ。
「どこって、なぁ」
ナワーブは、すよすよと眠っているトレイシーに視線を落とす。
いつもと違う髪色、髪型、強めの化粧に、華美な衣服。全てが見慣れないものではある。しかし、見慣れないだけだ。ナワーブは肩を竦めて、事も無げに告げる。
「どう見たってこいつはこいつだろ。間違えようがねぇよ」
「ちょっとでも誰だ、ってならなかったんか」
「なるかよ。ガリガリだった時から見てんだ。分からねえ筈ねぇだろ」
「っっ、はあああ〜……はいはい、どうせんな事だと思ったよ……」
自信満々で言い切るナワーブに、ウィリアムは頭を掻きながら立ち上がった。
同じく荘園に来たばかりの頃の、ガリガリだったトレイシーをウィリアムも知っているが、そんな事で分かるはずがない。ナワーブがトレイシーをよく見ているから、分かるのだ。
賭けにもならなかった賭けの正解を求めて、ウィリアムがイライを見る。イライはしたり顔で、自身の顎を撫でる。
「うん、まあつまり、愛だよね」
「なに、その答え……」
「イライが賭けとか言い出す時点で疑うべきだったわ」
「嫌だなぁ、当てっこって言ったじゃないか」
「??なんの話してんだ?」
「こっちの話だよ」
聞こえてきた賭けという言葉に、ナワーブが顰めっ面になる。それを受け流して、ノートンは全然起きる気配のないトレイシーに視線を向ける。
あれだけ騒いだから、ちょっとは起きるかと思ったのに。地面よりマシとはいえ野郎の体、寝心地がいいはずは無いのにトレイシーは完全にナワーブに体を預けて、穏やかな寝顔を浮かべている。もしかすると、また夜更かしでもしていたのかもしれない。
ーーすっかり安心しきっちゃって、まあ。
彼女にとってみれば、一番安全で信頼出来る場所だから当然か。
しかし、そんなトレイシーをしっかりがっしりと抱え込んでいるナワーブについては気に入らない。起きてる時は素っ気ない態度で、トレイシーが近づいて来るのを待つ態勢な癖に、なにをちゃっかり自分のもののように抱えているのか。
「やっぱなんかムカつくな」
「え、どうしたノートン。お前までやめろよ。イライは止められるがお前はきつい」
黙り込んでいると思ったら、突然腹の底からの低い声を出すノートンに、ウィリアムは慌ててしまう。なんかよく分からないけど、ナワーブに殴りかかりそうで怖い。
イライは最悪、暴れても羽交い締めにすれば止められるけど、体格も筋力もあるノートンはちょっとどうなるか分からない。
ウィリアムの心配を他所に、ノートンはジロリとナワーブを睨みつける。
「ナワーブ、余裕かましてるけどずっとそんな態度でトレイシーが他所に行くとか思わないわけ」
「!」
ナワーブが、びくりと肩を震わせる。その反応に、ほーうとイライは周りからは見えない目を細めた。視線を流せばノートンもこくりと頷いている。
こいつ、大丈夫だろうって高を括ってたな?
どうとっちめてやろうかとイライとノートンが考えていると、ウィリアムが「ああ」と声をあげる。
「確かに、刷り込みみたいなもんだもんな、トレイシーがお前に懐いたの。つってもマーサにも懐いてるし、マーサが年上で男だったら危なかったかもな。そう考えると今は頼りになるやつ多いし、お前みたいなムッツリじゃない奴も選り取り見取りだな。うかうかしてられねえんじゃね?」
はっはっはと笑うウィリアムに、イライはナイスと心の中で親指を上げる。自分たちが嫌味を言うより、こっちのほうが悪意がない分、切れ味は抜群だ。
現にナワーブは項垂れて動かない。思い当たる事ばかりで、ダメージを負ったと見える。
「だから早いとこくっつけって話なんだけど」
「おう、俺はずっと思ってる」
「そうだよ、乙女心はいつ変わっちゃうか分らないよ」
「っ、あああああああ、もう、うるせえうるせえ!分かってるっつの!」
吠える勢いでがなるナワーブに「怒った!」と距離をとるウィリアムと肩をすくめるノートン。
そんな最中でもちゃんとトレイシーの耳は抑えるナワーブに、イライは小さく笑う。トレイシーが一回寝入ったらなかなか起きないって教えてくれたのはナワーブの筈だけど、過保護だなあ。
ナワーブは息をつくと、ぼそりと呟く。
「お前らに言われなくても、分かってる。……時期が来たら俺から言う」
「…………失敗する方に賭けていい?」
「賭けんな!!」
指に挟んだコインを見せるノートンに、ナワーブは近くに落ちていたどんぐりを投げつける。それを一歩下がって避けて、ノートンは首を傾げる。
「分かってるならいいけどさ。言っとくけど、付き合ったら終わりじゃないからね。今のままの態度ならすぐ捨てられてもおかしくないから」
「うっ……ノートン、お前なんか今日、俺に厳しくねぇか?」
「アドバイスしてあげてるんじゃん、年上として」
「お前、「乙女心が分からない」ってみんなに認識されてるし」
「マジかよ」
乙女心という単語から、一番縁遠そうなウィリアムにそれを言われると、ちょっと凹む。確かに、疎いという自覚はあるけれど。
ノートンは、目に見えて沈んでいるナワーブをせせら笑う。んな事起きるわけないのに、本当にアホだ。
ナワーブの機嫌が悪くても、調子が悪くても、何をされても大好きオーラが強烈なトレイシーが、そんなことをするわけない。大体こいつ自身もそれは同じ筈だ。
周囲に互いの感情は筒抜けだし、なんなら付き合っていると認識されているかもしれない。だからこそもどかしいし、苛つく原因なんだが。
「そんじゃ、乙女心が分からない野郎に説法でも聞かせてやってくれ、先生」
「え?」
ノートンはぽん、とイライの肩をたたく。突然話を振られて驚いているイライに、ひらりと手を振りその場を後にする。言いたいことは言ったし、後は好きにして欲しい。
すたすたと立ち去っていくノートンの後姿に、イライは困ったように頬を掻く。
「あいつ、好き放題言って行きやがったな……」
「まあ、概ね僕も言いたいことだったけど」
「うん、同じく」
「分かったって言ってんだろ」
「本当かなぁ。言わなくても大丈夫って思い込みは危険だよ?女性は愛を確かめたい生き物なんだから」
「婚約経験者様のお言葉だぞ、聞いとけムッツリ」
「お前もメモしとけよ未経験者」
ナワーブはニヤニヤしてるウィリアムを鼻で笑う。同じ状況になったら覚えてろよ。絶対仕返ししてやる。
見苦しい男共の当て擦り合いを、イライは涼しい顔で聞き流す。
「服に装飾品、香水の変化、髪の長さの変化も気付いたら言わないとダメだよ。そしてちゃんと褒めるんだ。ナワーブ出来てる?」
「出来てると思うか、先生。これ多分邪魔だから毟ったんだと思うぜ」
ウィリアムが、くいと地面に転がる冠を親指で示す。眠るトレイシーは、ナワーブの首の下にすっぽりと頭が収まっている。冠があればナワーブの顎に刺さる。トレイシーが自分で取ったとは思えないから、犯人は一人だろう。
ナワーブはと言えば、明後日の方向に視線を泳がせている。そういえば顎に何かがチクチク当たるなと、思った覚えが、ある。
そんなナワーブの挙動を見て、両手を組んだウィリアムが深刻そうに唸る。
「イライ、こいつ駄目じゃね?」
「ナワーブはヘタレ野郎なだけで、駄目か駄目じゃないかで言えば駄目だけどまだ可能性はあると僕は思ってるよ」
「駄目なんじゃん」
「ガツガツいかれるよりはマシかなって。この子押しに弱そうだし、悪い男に引っ掛かるくらいならこのヘタレの方がいい」
「あー、なるほど。飴貰ったら着いていきそうだしな」
「おい、その相談、俺の耳に聞こえないところでやってくれ」
頭上でひそひそと交わされる失礼すぎる会話に、ナワーブが青筋を浮かべながら呻く。動けないと分かっているから好き放題だな、こいつら。
ふと、ナワーブは見上げた先の空の色の変化に気付く。さっきまでまだ明るかったが、向こうの空は濃い色に変わり始めている。雲も橙を帯びてすっかり夕方になっている。
ここに来たのは昼頃だったはずと、ナワーブは慌てて二人に尋ねる。
「今何時だ?」
「ん?あー、多分5時くらいか」
「そんなに経ってんのか?!」
寝ているトレイシーの体温は高く、春に変わりかけた気候だからか、抱えているナワーブは少し暑く感じるくらいだ。しかし、それでもまだ油断できるような季節じゃない。現に、日が傾いた今はひんやりとした気温になってきている。
新しい衣服は多少は厚手のようだが、それにしても屋外で長時間寝こけていい格好ではない。慣れている自分はともかくとして、だ。
「こいつ、いつからここにいたんだ?!」
「3時くらいからだね」
「っっ2時間も寝てんのか?!嘘だろ!」
「……」
「……」
5時間以上も寝こけてたやつがそれを言うか?とイライもウィリアムも思ったが、トレイシーの身を案じての発言なので黙っていることにした。イライは当然、ウィリアムも必要な空気は読める男だ。
ナワーブは、そんな二人の微妙な反応は意にも介さず、起きない少女の肩と膝裏を抱えて立ち上がる。日が落ちるのは時間がかかるとは言え、気温はどんどん下がっていくはずだ。
「こいつ部屋連れてく!」
「おう。え?あ、おい靴!」
「回収頼んだ!」
走り出したナワーブは、あっという間に梢の影に見えなくなってしまった。肘当てでも使ったのかと疑ってしまうレベルだ。
「……はっや」
「ああやってナワーブはヘタレっぷりを帳消しにするんだよねぇ、ずるい男だよ」
「なんであれで付き合うに至らねえの、あいつら」
ウィリアムが呆れながら、地面に転がる冠を拾い上げようとする。イライはそれを遮って、空を指差す。
「ウィル、夜のゲームあったよね。夕飯先に取らないと時間なくなっちゃうよ」
「イライは?」
「僕は今日も暇組だよ。だからそれ僕がやっとくよ」
「そうか?悪い、じゃ頼んだ」
ひらりと手を振って、走り去っていくウィリアム。イライは誰もいなくなった森の中でふっと息を吐き出して、トレイシーの装備品を拾い集める。
「ピュイ」という鳴き声に視線を落とせば、髪飾りの片割れを咥えた相棒の姿があり、イライはその嘴を撫でてやる。
「ありがとう、見つけてくれたんだね」
「キュルル……」
「うんうん、寝ぼけて物に当たるのは良くないよねぇ」
相棒が何を言っているかは、今は聞こえないけれど、なんとなく何が言いたいかはわかる。
イライは知っているのだ。トレイシーが新しい衣装で、ルキノとルカと一緒に楽しげにしているのを見て、森に引き返して行ったナワーブの事を。トレイシーが自分を探しに来ることを知った上で、ナワーブはわかりやすい場所で待ち構えていたのだ。
予想外にトレイシーの登場が遅れたせいで、本当に眠ってしまっていたのは彼には誤算だったろう。寝ぼけた結果があれだ。まあ起きていても素直に褒めたか怪しいところだけども。
可愛いと言いながら、髪を崩して台無しにしているあたりがヘタレだとイライは思う。同じ「主題」の衣装は、ナワーブとトレイシーは久しく来ていない。それが面白くないのだろう。直接言えばいいのに。きっとトレイシーは喜ぶ。
度が過ぎるのは良くないけれど、嫉妬するのは愛されてる証拠だ。ナワーブはわかりづらいんだから、こう言う時こそ主張するべきだとイライは思う。
「ピュー」
「うん、僕はああならないように気をつけるよ」
羽ばたく相棒に苦笑してそう返す。なんとなく、そう言われている気がした。
「……しまった」
ナワーブはエントランスの扉の前で、自分の判断ミスに気付いた。両手が塞がっていて、扉を開けられないのだ。
トレイシーを案じて突っ走ってしまったが、こんなことなら慌てずに、イライかウィリアムについてきて貰うんだった。
どうしたものかと途方に暮れていると、がちゃりと内側から扉が開かれた。
「ありゃ、誰かと思えば」
開いた隙間から顔を出したのはデミだった。ナワーブの顔を見て、ちらりと抱えたトレイシーに視線を移し、入るのを促すように大きく扉を開く。ナワーブは短く礼を言って扉を潜った。
「助かった」
「なんか人がいる気がしたんだよねぇ。商売柄、そういうのは分かるんだ。……ところで、あんたが抱えてるお嬢さんはどこの誰だい?」
ちらちらと興味津々にトレイシーを気にしているデミに、ナワーブは驚いて目を瞬かせる。
――本当に分からないのか。ウィリアムが言ってたのは冗談じゃなくて、本当の事だったのか。
「これ、トレイシーだぜ」
「え、嘘!?」
デミはナワーブに抱かれたトレイシーを至近距離で確認する。
だが目を細めてみても見開いてみても、化粧のせいかやっぱり全然分からない。ちょっと失礼と目の飾りを外して、やっと言われてみればそうかもと思ったくらいだ。
「全っ然分かんない。女の子は本当に印象変わるねぇ」
「感心してるとこ悪いんだが、ついでにこいつの部屋開けてくれねぇか?手がこれで開けられなくて」
「あー、うん。いいよ」
にかっと笑うデミが頷く。元々テンションは高めの女性ではあるが、今日は何故だかとても機嫌がいいように見えた。
うきうきした足取りのデミに続き、ナワーブはトレイシーを抱え直す。しかし本当に起きないな、こいつ。気持ちよさそうにぐっすりと寝入っている。
狸寝入りじゃないよな、と腕の中の少女を見つめていると、視線を感じる。顔を上げると、横目でこちらを見ているデミと目が合う。彼女はにんまりと笑って、前に向き直る。
「?なんだよ。なんか言いたいことでもあるのか」
「ええ?いやぁねぇ。そうだよねぇ、あんたがそんな大事そうに抱っこする子なんて、一人しかいないよねぇと思って」
「大事……普通だろ」
「ふっふっふー!」
ナワーブがぶっきらぼうに返しても、デミの機嫌は更に上がる一方だ。何がそんなに楽しいのか、ナワーブにはさっぱり分からないが。
「うーん、今日はちょっといいお酒を開けちゃおうかな。いい肴も出来たし他に人も呼んで……うんうん、そうしよう」
「??なにか言ったか?聞こえないんだが」
「いいのいいの、こっちの話」
「そうか?」
一人でぶつぶつと呟いているデミに、ナワーブは首を傾げる。なんだか今日は彼女の独り言が多い気がする。普段はそんな感じはしないんだが。
デミが、楽しい楽しい酒盛りの事をあれこれ考えているうちに、トレイシーの部屋の前につく。鍵がかかっているかと思ったが、ドアノブに手をかければすんなりと扉が開いた。
あまりに不用心じゃないかとデミは思ったが、部屋の中を見て呆気に取られる。
各々の部屋に備え付けたれた寝台やクローゼットこそ見覚えがあったが、壁一面に大きな引き出しが無数についた棚が並べられ、窓のある壁には共通の机ではなく、広い作業台が置かれている。当然その上には工具や整理された道具が並べられていて、作業中なのか見覚えのある人形の手足が置かれていた。
床にも箱が乱雑にいくつも置かれており、巻かれた紙やら、機械パーツ、何に使うのか不明の金属の鉄板やらゴツい機材などが入っている。
寝台にもたれるように座らせられた機械人形が3体、作りかけなのか胸の部分が開いている状態でおり、完成品らしいエプロンを着けたものとフードを被った人形の2体は、クローゼットの脇に直立で立っている。
散らかっている、汚れているという印象はなくきちんと整理されているとは思うが、とても女の子の部屋とは思えない内装だ。
デミは背後を振り返り、部屋の中を指さす。
「……ここは人が生活する部屋じゃないんじゃない?」
「知らなかったか?結構有名だと思うんだが」
ナワーブが意外そうにそう尋ねる。
トレイシーと言えばなんでも器用に直すので、時計やアクセサリー、人によっては義手や義足なんかの修理を頼んでいる。他にそういうのが得意そうなバルクやルカもいるが、頼みやすいのかトレイシーに声がかかることが多い。
工房も兼ねた私室なので、依頼の為に訪ねる連中もいるし、女性同士ならば「女子会」と言われる謎の定期会合もあるはずだ。だから当然、女性陣はみんなこの状況を知っていると思っていたのだが。
デミは首を振って、自身の額を叩く。
「なんでトレイシーだけ女子会会場持ち回りから外されてたのか分かったわ。これは集まれないね」
「まあ、こん中で寝れるやつなんて限られてるだろうな。バルサーすら「無理」って言ってたらしいし」
「あの変人でも無理なの?よっぽどじゃない」
「まあ、俺は気にならないが」
「…………ほーん」
箱と人形を退けてくれたデミのお陰で、ようやく寝台にトレイシーを寝かせることができた。外で寝ていた服だが、そもそも床でも平気で寝落ちるトレイシーのことなので気にしないだろう。
小柄とはいえ人間一人を抱えていたので、ようやく重荷から解放されたとナワーブは腰を叩きながら体を起こす。するとによによしているデミが視界に入り、今度はなんだと軽く睨む。
「気にならないなんて熱いじゃないの。アンタ、なんか冷めてるから心配だったんだけど、杞憂だったなぁと思って」
「寝る場所に拘りなんてねえって意味だが」
「もう!今更照れなさんな!」
頬に手を当てて手をひらひらさせる姿は故郷のおばちゃんを思い出す。彼女は大分若いはずだがとナワーブはフードの頭を掻く。
戦場では場所を問わずに休息を取る必要があった。泥の中でも、仲間の死体に囲まれた状態であってもだ。それに比べたらこのくらいはなんでもない、という意味で言ったんだがな。
なんだか幸せな思い違いをしているようだが、否定するのも億劫に感じる。というか何を言っても照れ隠しと思われる気がする。
ナワーブもここで学んだことがある。色恋に盛り上がった女性は止められない。野暮なことは言わない方がいいということだ。
「さて、邪魔者はそろそろ退散しようか」
「いらん気を回すなよ。俺も帰るに決まって、っ!」
部屋を出るデミにそう答えようとしてナワーブは動きを止める。くん、と上着を引っぱられたのだ。そちらに視線を向ければうっすら開いた青い目がある。
トレイシーははっきりと覚醒はしていないながら、不機嫌な顔でしっかりとナワーブの上着を掴んでいる。
「お前起きて」
「……ない」
「は?」
「靴、ない……」
起きてすぐに、ぱふんと布団を叩くトレイシー。寝台の上だから当然なのだが、まだ寝ぼけているらしい。
そもそもなんで彼女が靴を履いてなかったのかを、ナワーブは知らない。髪飾りは自分がやったことだと思う。だが靴は違う。運んでいる時に気付いたが、トレイシーの足は土で汚れていた。あそこまで裸足で歩いてきた様だった。
「靴……」
「お前運ぶ時に置いてきたんだ。後で持ってきてやる」
何故だかしつこく靴の所在を気にしているトレイシーにそう言うと、彼女はむすりとした顔でナワーブを見上げる。
「なわーぶ、ふむ……」
「なんでだよ」
「なんもいってくれない」
「あ?」
「せっかく、あたらしいのに……」
急にしゅんと落ち込んだ様子でパタリと突っ伏すトレイシーに、ナワーブは疑問符で頭がいっぱいになる。別に冷たくしたつもりはない、なるべく自分としてはやんわりと対応したつもりなのだが、何故落ち込んだのかが分からない。
何を間違えた?と内心焦っているとつくつく脇を突かれる。振り返るとデミがすぐ後ろに来ており、ひそりと囁く。
「服!」
「え?」
「服だよ、早く褒めて!新しいのなんて服しかないでしょ!」
「あ、ああそうか…」
そういえばイライにさっき変化に気付けとかうんたらかんたら言われてたな、と今更ながらに思い出したナワーブは、トレイシーに向き直る。
「い、いいと思うぞ」
「………んんんんんぅー!」
無難にそう言ってみたところ、突っ伏したままのトレイシーがサイレンの様に唸り出した。どうやら非常にご不満だったようだ。
背後のデミも「そうじゃないだろ」とばかりに脹脛を蹴り付ける。
「犬褒めてるんじゃ無いんだよ!」
「いや、悪かったって!」
「感想を言うんだよ!感想を!」
ひそひそとデミに怒られて、ナワーブは咳払いをしてトレイシーの頭に手を置き緩やかに撫でてやる。
「んんんんん」
「怒るな怒るな。ちゃんと見てやれなくて悪かった。雰囲気がいつもと違うが、その、可愛いぜ」
「…………」
褒めた途端にぴたりと唸るのをやめたトレイシーに、笑ってしまう。けれどまだご機嫌斜めな様子で、顔は突っ伏したまま上がらない。どうやらもう一声必要なようだ。
どうしようかともう一度イライのアドバイスを思い返す。女性は愛を確かめたい生き物、とか変化に気付いたら言え、だとか。髪型でも匂いでも、気付いたなら褒めろと言っていた。
「…………」
ーーどんなことでも気付いたら。
ナワーブは先程見たトレイシーの瞳を思い出す。彼女のことなら忘れない。空色の瞳だったことは今までもあったけれど、あんなに深い色の青は初めて見た。
正直ナワーブは、歯が痒くなる様なことは言いたくはない。言いたくはないが、ノートンやイライに散々脅された後なので、言わねばならない気がする。後ろからの圧もあるので尚更だ。
覚悟を決めて腰を屈め、ナワーブはトレイシーにだけ聞かせるように口を開く。
「その目、瑠璃みたいだ。綺麗だと思う」
「………………………………け」
「うん?」
「め、だけ?」
自分の手の影から伺うように、トレイシーが顔を少しだけ上げる。訴えるような目が、夕日の反射できらきらと反射する。
ナワーブが綺麗だなと見入っていると、ガスガスと脹脛に追撃が来た。
「いてぇよ!」
「なにぼーっとしてんだいこの唐変木が!女性にかける言葉が先だろ!早くしな!」
好きで邪魔してんじゃないんだよ、私は!とデミも怒り心頭だ。いい雰囲気になってきたから邪魔者は立ち去ろうと、何度もそろりそろりと出口に向かっていたのに、ナワーブがあと少しのところでやらかすので、さっきから指摘のために往復しているのだ。
トレイシーがナワーブへの好意を隠さず全開なのはいつものことだ。だけど、こんなに目に見えて甘えてるとこなんか見たことがない。多分、いや絶対にデミの存在に気付いていない。気づいていない上に寝ぼけているからこうなっているんだろう。
これは好機なのではとデミは思っている。まどろっこしいこの二人の関係にイライラしているのは、ノートンだけでは無いのだ。
楽しい酒盛りのためにも、いい結果にしてくれとデミは思う。じゃないと肴にできないじゃないか。
「なわーぶ」
ひそひそと二人がやりとりしている間に、焦れたのかトレイシーが名前を呼ぶ。自身の頭に置かれていたナワーブの右手を掴んで落とす。
「おい?」
「こどもじゃないもん……」
子供じゃないと言いながら、払い落としたナワーブの手を両手で抱え込む。手を引き抜こうとするナワーブにいやいやと首を振る。返事をしなかったことに完全にトレイシーは拗ねてしまった様だ。
少し力を入れれば手は解放されるだろうが、その対応が悪手なことは、人に言われなくてもナワーブにも分かる。だが、果たしてどう返すのが正解なのか、それは分からない
ぐるぐると思い悩んでいる男に、デミは仕方ないと小さく息を吐く。恋する乙女に向き合おうとしている姿勢は、不器用だけども評価してやろう。
デミは軽めにナワーブの脹脛を蹴り、ひそりと助言を吹き込んでやる。これで察せないなら見込みはない。目を丸くしている男の背中を叩いて、今度こそ部屋を出る。これ以上は野暮になる。邪魔者は退散だ。
ぱたんと閉じた扉の音を背に、ナワーブは目の前の寝ぼけ姫に向き直る。トレイシーは人の手を抱えたまま、うとうとしている。
――まったく。猫か、お前は。
飼ったことはないが、話には聞いている。気ままに奔放に振る舞う。こちらの都合に構わずに擦り寄り、そして逃げていく。目が離せない、一度迎えれば手放せない存在なのだと。
人の気も知らずに、じゃれついたかと思えば他所に向かい、近くにいても機械いじりに夢中になってしまうこいつにそっくりだ。
ふっと笑い、ナワーブがトレイシーに左手を伸ばす。取られると思ったのか、トレイシーは抱えたナワーブの右手にぎゅっと力を込めて、くるりと丸くなった。
「おい。」
「や」
「お前なぁ……そういう可愛いことは起きてる時にやれよ……」
同意が無いと手が出せねぇんだっつの。ナワーブは片手で顔を覆い、嘆く。ヘタレヘタレと好き勝手言ってくれる。こっちはどれだけの理性をかき集めて耐えていると思っているんだ。
一度、寝ぼけてトレイシーに怪我をさせてしまったことがある。当人は気にしてないと言うが、あの時の青ざめた表情が忘れられない。だから少しの事でも怯えさせたくはないのだ。
しかしトレイシーには、ナワーブの葛藤など知る由もない。ただただ抱えた手を取られない様にと、ぎゅうぎゅうに抱きしめる。
「こどもじゃない……」
「とれ、」
「こどもあつかい、しないで」
濡れた青い目に大人びた化粧。切なげに見上げる顔にどきりとする。仕草は酷く幼いのに、色香を感じずにはいられない。
『その子の格好、本当に「可愛い」かい?よく考えなよ「お兄ちゃん」』
去り際にデミが言った言葉が、鐘の様に脳内に響く。嫌味のような兄呼びも、自分の中で刺さっていた棘を剥き出しにされたような気分だ。
トレイシーが自分に好意的なのはナワーブも感じている。だがそれは恋愛ではなく、兄を慕う様な気持ちなのではないかと不安に思っていたのも確かだ。そんなことはないとわかっているが、完全には拭い去れない疑念だった。
まだ子供だから、幼いからと散々理由をつけてきた。だがその言い訳もトレイシー本人には筒抜けだったのかと思う。
ナワーブは自分の顔が熱くなるのを感じた。こんなに明確に指摘されるとは思ってなかった。顔を覆いたい気分だったが、片手はトレイシーが捕らえて離してくれない。逃げ道はなかった。
「……綺麗だと思ったよ。最初に見た時に」
観念したナワーブは、前髪を乱雑に掻き上げて、白状する。
本当はトレイシーが着替える前からエントランスにいたこと、出てきた姿に見惚れていたこと、そして仲良くルカとルキノと会話している姿に嫉妬が抑えられなくなり、逃げ出したことを。
ナワーブがそう告白するのを、トレイシーは潤んだ目のままじっと聞いている。眠そうな瞳は今にも閉じそうだったが、ナワーブの右手をしっかりと掴んだ力は緩まない。
ナワーブが話終えると、トレイシーは体を起こして屈んでいたナワーブのフードを掴む。
「なわーぶ、私、こどもじゃない?」
「……だから、そう言ってんだ、っ」
くん、とフードの襟元を引かれて、前のめりになっていたナワーブが体勢を崩す。慌てて寝台に手をついたナワーブの頬に、ちゅっと可愛い音を立ててトレイシーがキスをする。
「!!!!」
「うふふー」
トレイシーは満足そうに笑うと、パタリと倒れてくうくうと寝息を立て始めた。残されたナワーブは頬、というよりも唇の隣あたりを抑えて固まるしかない。
予想外のトレイシーの行動に、ナワーブは思考も止まってしまった。動けないでいるナワーブが取り残された空間に、時計の針が時を刻む音だけが鳴り響いている。
数分後に正気を取り戻したナワーブはがくりとその場に膝をついた。
「……………………………………お前、本当に、猫かよ!!」
「んぅ?」
コンコンというノックの音で目が覚めたトレイシーは、目を擦りながら扉を開いた。
「おはようトレイシー」
「おはよーイライ」
鏡も確認せずに出たトレイシーは、昨日の格好のままだった。折角の新衣装がぐしゃぐしゃになっているがトレイシーだから仕方ない。朝に起きてくれたことの方が珍しいのだ。イライは気にせずに持ってきたブーツと髪飾りを手渡す。
「はい、落とし物届けにきたよ」
「ありがとー、って落としもの……??」
寝ぼけたまま差し出されたものを受け取り、トレイシーは顔を上げる。よく寝たお陰で覚醒は一瞬だった。
目を閉じて数秒のうちに昨日の記憶を掘り返す。といってもところどころうろ覚えなわけだが。それでも思い出せたことを繋ぎ合わせて、トレイシーはうんと頷く。
「ブーツで踏む予定はなくなったかな」
「なんの話?」
「こっちの話。イライ、ナワーブ見た?」
「朝ごはん食べた後は見てないなぁ。なんか機嫌は良くなさそうだったけど……」
「そっか」
機嫌悪いのか、とトレイシーは抱えたブーツに視線を落とす。
ぶつ切れの記憶の最後があれなので、ナワーブとどう顔を合わせたものかと思っていたのだけど。機嫌、悪いんだ。怒らせちゃったのかな、それとも嫌だったのかな。嬉しくてついやってしまったんだけど。
イライはブーツの留め具を弄り、考え込んでいるトレイシーの顔を覗き込んだ。
「トレイシー、着替えておいで。朝ごはんを食べよう」
「え」
「昨日の昼から食べてないよね。だから朝はしっかり食べないと。そしたらお話をしよう。……聞いて欲しいことが、あるんじゃないかい?」
「……うん」
こくりと頷き、トレイシーは「待ってて」と扉を閉じた。
どたんばたんとする音を聴きながら、イライは壁に寄りかかって、ふっと笑う。
「クルル……」
「うん。トレイシーは素直でいい子なのに、あっちは本当にダメだよねえ」
肩に止まった相棒が、返事をするように短く鳴く。指を差し出すと、フクロウは甘えるように顔を擦り付ける。
さっき食堂で会ったナワーブは目深にフードを被り、機嫌の悪さを隠そうともしていなかった。何かあったんだろうなと話しかけてみたけれど「お前には関係ない」の一言でどこかに消えてしまった。
――彼がそう答える前に、たっぷり20秒ぐらいの沈黙があったわけだけど。
「アドバイスした責任くらい取ってあげたんだけどなあ」
「ピュイ」
「ん?甘やかすなってこと?」
かじかじと指を弱く齧られ、イライは相棒の言わんとすることを感じ取り苦笑する。
ナワーブに親切にしたいわけじゃなくて、どっちかっていうとトレイシーが可哀想に思えてしまうから、ついつい口出ししたくなっちゃうんだよなあ。彼の、あのハンターに突っ込んでいく勇ましさはどこに行くんだ、本当に。
イライがうーんと唸る横で、フクロウは知らん顔で羽繕いを始める。そんなもの、悩むだけ無駄だといった態度だ。
「……って感じで甘えた仕草が可愛くてねえ」
「ふーん、やるねトレイシー」
頬に手を当ててしみじみと語るデミに、イライはふむふむと頷きながら温かいコーヒーを啜る。
トレイシーが朝食を食べている間、イライは恥ずかしがりのこの子からどう話を聞き出そうかと思っていたのだ。すると「おかわりはいかが?」とコーヒーのポットを手にしたデミが現れた。イライと目が合うとウインクをする。
あ、これはなにか知っていると思い、「いただくよ」と返し、今に至る。
「デ、デミっ……もういい……!」
自分が寝ぼけてしでかした事の全容を語られ、トレイシーはフォークを手にしたまま突っ伏してしまう。ふんわりとは覚えていたけれど、まじまじと語られると辛いし、あれをナワーブだけじゃなくデミにも見られていたのかと思うと恥ずかし過ぎる。
それに、自分がお姫様抱っこで如何に大事そうに運ばれたかを他人の目線で朗々と語られるのも耐え難い。むず痒さで逃げ出したい。ちょっぴり「大事そうにされてたのか」と嬉しくも思うけど!
イライとデミはのんびりとした雰囲気だけど、トレイシーは食事が一切喉を通らない。
「あ、おかわりもらっていいかい?」
イライが差し出したカップに中身を注ごうとして、ポットが空な事にデミが気付く。
「あら、ちょっと取ってくるわね。トレイシーもおかわりいる?」
「いる……」
喉が干上がる気分だったトレイシーのグラスも、オレンジジュースは殆ど残っていなかった。
「オーケー」と席を立ったデミ。トレイシーはこの隙にと顔を上げ、ベーコンエッグの皿を抱えて残りを口に掻き込んだ。デミの語りがある限り、いつまで経っても食事が終わらない。ご飯が残っている限り席も立てないので、片付けるなら今しかない。
頬いっぱいに朝食を詰め込むトレイシーに、リスみたいだなとイライは思う。邪魔したら悪いので口にはしないが。
トレイシーがスープを皿から直接飲み干して口を拭ったところで、デミが「お待たせ」と戻ってきた。ーーなぜか人型のルキノを伴って。
「はーい、イライおかわりどうぞ」
「ありがとう」
「君のおかわりもあるぞ」
「あ、ありがとう……」
ジュースの入った水差しを差し出すルキノに、取り敢えずトレイシーはお礼を言う。しかしその後、隣の席に着いた男に無言でもの言いたげな視線を送る。
「………………」
「私の事は気にしないでいいぞ」
「気になるんだよ」
「困ったな。私はサベダーと違ってロリコンの気は無いんだが」
「ルーキーノー!」
真顔で戯けるルキノに、トレイシーはごんごんと空のグラスをテーブルに叩きつける。しかしルキノはトレイシーの怒りも気にせずに肘をついて寛いだ姿勢を取る。
「仕方ないだろう、耳がいいもので話が筒抜けなんだ。どうせなら盗み聞きではなく堂々と聞こうかと」
「聞こえないとこに行けばいいじゃん!」
「続きが気になる」
「もー!!」
この大人、ああいえばこう言う!!
食堂は荘園にいる全員が一度に揃っても食事ができるように、広く造られている。実際に揃うことは稀だが、朝食の後もそのままカフェスペースとして使うものもいる為、無人になることは滅多にない。
今も広い空間で過ごしているメンバーはそれなりにいた。トレイシー達は隅の方にいるし、周りには人がいないので大丈夫と思っていたのだが、トカゲの聴力を舐めていた。
「それで、その後ナワーブはどうしたのかな」
「もー、それがトレイシーに見惚れちゃって動かないの!思わずこう、がんって」
「容赦ないな」
「ううう……!」
聞き手が増えたことで、よりデミの語りは盛り上がっている。他者から語られる自分達のやりとりに、トレイシーの恥ずかしさも倍増だ。喉の乾きも酷くなり、トレイシーはグラスになみなみとジュースを注ぎ、一気に飲み干す。
そんな甘々な感じになってたのか自分。子供じゃないのに、本当になにをしているのか。その場に今の自分が居たら、起きろって全力で頬を叩いてやるのに。
悔やんでも悔やんでももうやってしまったことだ。本当に次にナワーブと顔を合わせる時、どうしたらいいんだろう。
「……で、アドバイスだけして部屋を出たんだけど」
「ということは続きは君が語るしかないようだ」
「…………なにが?」
トレイシーはルキノに肩を叩かれ、ぐるぐると沈んでいた思考の海から浮上する。途中から話を聞いていなかったので、トレイシーは何故3人が自分を見ているのか分からない。
ルキノは「聞いてなかったのか」と呆れ顔でため息をつく。
「その集中力は素晴らしいとは思うが、隣で君の色恋話で盛り上がっているのによく他のことが考えられるな」
「聞いてられないから他のこと考えてたんだよ、先生」
「主役がそれでは困るな。子供じゃないと男の腕を抱え込んで誘惑した後の話を頼む」
「ゆっ……言い方!」
むすっとした顔でルキノに怒るトレイシーを見て、イライは少し驚いている。
この手の話を聞き出す時、トレイシーが自分で言い出せるようになるまでイライは根気よく待つしか無かったのだ。それをルキノ相手だとトレイシーはムッとしながらもぽんぽんと言い返している。
次からドゥルギさんも協力してもらおう。そうしよう。イライがそう思っていると、同意するようにくるると相棒のフクロウも鳴く。
「まあまあトレイシー。それで?あのあとサベダーはちゃんと褒めてくれた?」
デミがトレイシーを宥めて、話の先を促す。優しい声と顔で尋ねるデミは、普段の元気な看板娘と打って変わって、安心できるお姉さんといった雰囲気だ。トレイシーは釣り上げていた眉毛をへにゃりと下げて、薄っすらと赤くなった顔を空のグラスに隠す。
「……き、綺麗だと思うって、言ってくれた……」
俯いてぽそぽそと喋るトレイシーの声は、向かいに座るイライの耳にギリギリ届いた。それを聞いてイライは目立たないように拳を握りガッツポーズをする。
よく言った、ナワーブ……!アドバイス受けるまで気付かないとこはやっぱダメだけど!それでもヘタレ返上は出来そうだ。
「それで、その……本当は着替えたとこ見てて……でも、ルカ達といたから、嫉妬したって……言われて……」
「おお……」
「ナワーブと同じ時の服って、最近あんまりなくて……イライとか何回も来てるのにって……えっと、で、その……そう思ったら、面白くなかったって……お揃いが、羨ましかったって……」
どんどん赤くなっていく顔に、小さくなっていく声。トレイシーは話すことに必死で気付いていないが、デミは前のめりになっているし、ルキノもいつも通りの表情ではあるが、ふむふむと楽しげに相槌を打っている。
イライはそこまで素直にナワーブが本音を話していたとは思っていなかったので、少し感動すら覚えている。だがそうなると、何故あんなにナワーブが不機嫌だったのかと疑問が残る。
「森にいたのは、その……私なら絶対に見せにくるって、思ってたからだって……そしたらひ、独り占め出来るって……」
「おわぁ……」
「ヘタレという割には独占欲が強いな」
「それを表に出さないからヘタレと」
「なるほど」
「しっ」
デミが見開いた目で人差し指を口に当てるので、ルキノとイライは口を噤んだ。デミの瞳孔が開いてて本当に怖い。
トレイシーは赤く染まった頬にグラスを押し当てた。熱すぎて火が出そうだ。少しでもこの熱がグラスに移ればいいのに。
寝ぼけてたから、あの時はただただ嬉しいなって気持ちしかなかったけど、改めてナワーブに言われた事を思い返すと、とんでもなく強烈な告白だったんだと思い知る。
今更ながら、喜びたい気持ちと恥ずかしさでのたうち回りたい気分だ。
「それで、その後はどうなったの?」
もじもじとしたまま、黙り込んでしまったトレイシーにデミは優しく続きを促す。声の調子は優しいけれど、やっぱり目は爛々としている。髪を弄る振りをして、真っ赤になった耳と頬を誤魔化そうとするトレイシーは気づいていなかったけれど。
「えっと…………」
「うん?」
「あの、その……うう……」
話そうと口を開くけど、恥ずかしがって俯くという行動を繰り返す。短気な相手ならイライラしただろうけど、ここにいるメンバーは全員待ちの構えでいる。デミは職業柄慣れているし、イライも相談慣れしている。ルキノは単にこれはこれで面白いと思っているので動じることはない。
だから、たっぷりと迷う時間をもらえたトレイシーは意を決して口を開いた。
「こ、子供じゃない?って聞いたの……そしたら、頷いてくれたから……」
「うん」
「あの、それで……う、嬉しくなっちゃって……だから、な、ナワーブのほっぺに、キス、しちゃったの……で、その後、覚えてないから、多分寝ちゃった、かも……」
「……」
「……」
「……」
ぎゅううっと目を閉じて消え入る様な声でトレイシーはそう言うと顔を覆って俯いてしまった。耳は完全に赤くなっている。
ルキノはトレイシーのグラスにジュースを注いでやり、労うように肩を叩いた。揶揄う気が起きないくらい初心な内容で一層微笑ましい。
向かいのデミを見れば、肩を震わせて突っ伏しているので、恐らく笑いたいのを必死に堪えているのかもしれない。煮え切らない態度を取り続けていた男が奮闘した結末は、デミには喜劇にしかならない。
イライはというと、こちらは虚空を見上げて遠い目をしている。……目は見えないけど。
ルキノと目が合うと、イライはなんとも哀愁漂う笑顔を取り繕う。
「どうした、そんなに老け込んで」
「僕若いよ、まだ。いやその、ナワーブが不機嫌だった理由はっきりしたなって……」
普段は多くを語らないし、本音も見せない男がそれだけの事をぶちまけたのだ。覚悟を決めて、告白する流れだったんじゃないだろうか、それ。
いよいよというところで、トレイシーに先手で不意打ちされた上に、夢の世界に逃げられた訳だ。そりゃあ、不機嫌にもなる、仕方がない。今回ばかりは同情する。
イライの言葉に、おずおずとトレイシーは顔を上げる。
「ううう……ナワーブ怒ってるかなあ?」
「怒っては、いないと思うよ」
ただ機嫌が悪いだけで。あと照れ隠しもあるかもしれない。どちらにしろしばらくトレイシーの前には出てこないかもしれない。
「ふう、危なかった……」
トレイシーがグラスに手を伸ばす余裕が出来た頃、ようやく突っ伏していたデミが体を起こした。笑いの虫が収まったらしい。
「なにが危なかったの?」
「いやいや気にしないで、今夜もお酒が美味しいなって思って」
「??飲み過ぎない方がいいよ?」
「うんうん、気をつけるよ」
デミはにっこりと笑ってみせる。ナワーブに関しちゃいいおもちゃだと思ってるけど、トレイシーの可愛い恋は純粋に応援してやりたい。
ルキノは「ところで」と気になっていたことを尋ねる。
「トレイシー、君は寝ぼけていた割によく話の内容を覚えているな」
「あ、うん。お父さんにもよく驚かれてた。読み聞かせしてた本の内容最後まで覚えてたから、寝てたはずなのにって」
「耳からの情報を記憶しやすいタイプなのかもね」
「半分くらい寝てそうな感じだったから、私も覚えてるとは思ってなかったわ」
「えへへ」
照れたように笑うトレイシーだったが、ルキノは「ううむ」と唸る。なにか考え込んでいるようだ。
「?ルキノ?どうしたの?」
「彼女と同じことをサベダーも思っているんじゃないか?つまり君が昨夜のことを覚えてないと」
「…………多分、そう思ってる、はず」
イライは今朝見たナワーブの態度から、そう予想する。あの態度は行きどころのない感情を持て余してると感じた。トレイシー本人に八つ当たりするわけにもいかないし、だから誰にも会わない時間帯に朝食を取りに来ていたのだろう。
デミはそれを聞いて、眉を顰める。
「そうか、そうだよね。ただトレイシーが寝て終わっただけなら起きるまで待ってればいい話だもの」
「告白したことを流されたからじゃなくて、覚えてないと思ってるなら……あの彼の沈黙の意味も分かるな。話そうかどうしようか悩んでた訳だ」
「ということは、つまり今、君が語ったことは誰も知らない筈の内容なんだ」
ルキノにぴっと指さされたトレイシーは、ひくりと頬を引き攣らせる。
喋っちゃった、喋っちゃったよ私!二人しか知らないはずの事を!
トレイシーは両手をぱんと打ち合わせて3人に頭を下げる。
「お願い!このことは言わないで!!本当に誰にも言わないで!!お願いお願い!!」
必死に拝んで頼み込むトレイシーに、ルキノは興味が無さそうに額を撫でる。
「ただ好奇心で聞きに来ただけで元より言いふらす趣味は私は無いよ」
「僕はそんなに信用ない?トレイシー」
「そんなことないけど……」
イライには毎回相談に乗ってもらってる。当然口が軽い人じゃないのは分かってるけど、自分よりもナワーブの側にいることが多いので不安なものは不安なのだ。
最後にちら、とデミに視線を送る。デミはというとよしよしとトレイシーの頭を撫でて、安心させるように笑う。
「可愛い女の子の相談話を言いふらす様なことはしないよ。ダメ男の恋愛失敗話なら面白おかしく広めちゃうけどね」
ウインクするデミにトレイシーは安堵した表情でこくりと頷く。
「でもトレイシー、君が覚えてることを彼に言うのか、覚えていないふりをするのかははっきりさせないといけないよ」
「う、うん」
「私としては拗らせない方がいいとは思うが、まあ知らぬ振りで焦らすのも恋愛のテクニックかもしれない」
「そんな上級なこと出来ないよ……」
惑わす様なことを言うルキノに、トレイシーは抱え込んだグラスの縁を噛む。
知らないふりをするならいつもと同じ態度でいればいいだけだ。でもそれならほっぺのキスのこともなかったことにしないといけない。赤くならずにナワーブの前で立ち回れるだろうか。
覚えてることを正直に言うなら……その場合はどうしたらいいんだろう。
その疑問をトレイシーは思い切って3人にぶつけてみる。ここまで話したんなら、相談に乗ってもらえるのはこのメンバーしかいない。
「ねえ、その、覚えてるって言ったらその時はどうしたらいいのかな」
「つまり、キスのお返しが欲しいと」
「ち、ちがっ!」
「違うのか?」
「うっ……」
ルキノが不思議そうな顔をするので、言葉に詰まる。本当にこの大人は痛いとこを突いてくる。そう言う訳じゃないけど、そうじゃないわけでもない。それを自分から言うのは、トレイシーには勇気がちょっと足りない。
「まあまあ。あんま苛めてやりなさんな。トレイシーは、サベダーのレアな告白を聞いちゃったことをどう伝えたらいいのか悩んでるんじゃないかい?」
「うん、そう」
「いつも通りでいいんじゃない?」
「い、いつも通り……って?」
あっけらかんと答えるデミに、トレイシーは何を言っているんだという顔を向ける。
「『ナワーブ私も大好き愛してる』って飛びつけば良くない?」
「そんな事言ってないよ?!!」
「そうだよ、バーボンさん。飛びついてはいたけど」
「飛びついてはいたな」
トレイシーも飛びついたことは認める。嬉しくなると飛びつきたくなるのだから仕方ない。
でもそれもナワーブがいっつも隙だらけの背中を向けているからで、怒らないと分かっているからやっていることだ。今回のはちょっと訳が違う。
悶々と悩んでいるトレイシーに、ルキノは呆れた顔で頬杖をつく。
「君、あれだな。追いかける恋愛は好きだけど正面切って向かってこられるの苦手なタイプだな?」
「ううう、そんなの分かんないよ、初めてだもん……」
「……へえ、初めて」
「初めてと、ほう」
「繰り返さないでよ!」
デミとルキノがにま、と笑うのを見てトレイシーはグラスをテーブルに叩きつける。これだからイライ以外に相談したくなかったんだ。面白がられるから!
「でも一番簡単な解決方法なのは本当よ?」
「まだるっこしい説明は一切いらないな、確かに」
「そうだけどお……!」
トレイシーは剥れた顔で片頬をテーブルに押し付ける。
そんなことできるなら最初に自分から告白してる。好きって思いは伝えられるけど、恋愛の感情を伝えるのは別なのだ。
下心がなかったとは言わないけれど、妹扱いなのにぬくぬく甘えていたことも確かなのだ。実際はそんな事なくて向こうもそういう感情だったわけだけど。
分かってしまった今、なかなかいつも通りとはいかない。
すっかり煮詰まった顔で唸り始めたトレイシーに、イライは仕方ないなと肩を竦める。
「トレイシー、そんなに悩むなら今日一日じっくり考えてみるといいよ。幸い今日はゲームもないよね?」
「うん、無い……」
「先延ばしにできる問題じゃないけど、急いでも仕方ないしね。あの様子だとしばらくナワーブ隠れてるだろうし。トレイシーの覚悟が決まったら捕まえてきてあげるから」
イライの言葉に答えるように、フクロウが一声鳴いてみせる。あ、サベダー側の事情はどうでもいいんだとルキノは思う。クラークは優しい顔して男の扱いが大分雑だ。
トレイシーは顔を上げないまま、目を閉じて「そうする……」とだけ答えた。
イライ達と別れて、食堂を後にしたトレイシーは、一先ず一人になれる空間を探すことにする。自室はいつ誰がくるか分からないし、昨日のこともあるのでちょっと考え事に向かないのだ。
森は静かだけど件の人物が居そうだし、図書室の奥の倉庫なんかがいいかもしれない。埃っぽいところではあるけれど、今の気分にはなかなかぴったりの場所だと思う。
そうと決まればとトレイシーは目的地に向かう。図書室の扉を開けば、まだ朝日の匂いが残る時間帯だからか、中に人は誰も居なかった。
一瞬ここでいいかな、とトレイシーは考えたが、誰がいつくるか分からないのは自室と変わらない。やっぱり人の気配が無い方が考えに集中できる。予定通りに奥の倉庫を借りる事にする。
図書室はしんとしているが、遠くで人が活動している音が微かに聞こえる。それも倉庫に入ってしまえば感じられなくなる筈。
トレイシーは鍵の掛かっていない、軋む扉を押し開けた。
「あっ!?」
どん、と背中を押され、倉庫の中に蹈鞴を踏んでトレイシーは転がりこむ。誰の仕業かと振り返れば、扉に手をかけているナワーブの姿があった。
ひくりと喉の奥で音にならない悲鳴をトレイシーは飲み込む。まさか、こんなすぐに当人と対面するとは思っていなかった。
本棚にびたりと背中をつけて距離を取るトレイシーをじっと見据えて、ナワーブは後ろ手で倉庫の扉を閉じた。そうして唯一の出口である扉に凭れ掛かり、腕を組む。
倉庫にも空気を入れ替えるための窓はあるが、ここは2階だ。トレイシーに逃げ出す手段はない。
ナワーブは出てこないって言っていたのに、イライの嘘つき!トレイシーは冷や汗が噴き出すのを感じながら、イライへの文句を心の中で並べ立てる。
強い視線がこちらに向いているのを感じるけれど、トレイシーはとてもじゃないが顔を上げられない。思考を整理するために場所を探していたのに、そこで追い込まれる羽目に合うとは、まさか夢にも思うわけがない。
お互いに静止したまま数分、先に口を開いたのはナワーブだった。
「……それで?決まったのか?」
「な、にが」
「覚えてねえふりするのか、しねえのか」
「!」
トレイシーが目を見開いて、ナワーブに顔を向ける。不機嫌な筈の男は微笑んでおり、しかし目が不穏な色をしているのでなんとも不気味な雰囲気を纏っている。
「俺も耳はいい方なんでな」
とん、とフードの上から耳を指で叩くナワーブに、トレイシーはさあ、と青褪める。
今、『俺も』って言った。ということは、最低でもルキノが合流したところから話を聞いていたと言うことになる。
ーーってことは考えるまでもないじゃないか!
ブンブンと首を必死で横に振るトレイシーに、「どっちだ、それ」とナワーブの声は完全に面白がっている。
当然、トレイシーは昨夜の事を覚えてないだろうとナワーブは思っていたのだ。こっちはどんな思いで本音をぶちまけたと思っているのか。
さすがに2回目は無理と、一人木に登って凹んでいた訳だが、そこに窓から聞こえてきたのがさっきの会話だ。よくもペラペラと人の告白を話してくれたなともナワーブは思ったが、覚えているなら好都合。自分がやったこともしっかり覚えているなら空っとぼけることも出来ない。
トレイシーに考える間を与えるつもりはなかった。気配を消してずっと後ろをつけていたのは、隙を見て何処かに引きずり込むつもりだったからだ。トレイシーが自ら人気のない方へ、袋小路へと入って行く姿は好都合過ぎて、ナワーブは噴き出したいのを堪えていたくらいだ。
小さな体を更に縮こまらせているトレイシーは、哀れではあるけれど、昨日散々翻弄されたナワーブとしては、どうしてやろうかという気持ちの方が強い。
扉から身を起こして、ナワーブはトレイシーの右脇の棚に腕を掛けて、凭れ掛かる。トレイシーに半分覆い被さるような態勢だ。
益々縮こまる少女に、ナワーブはくくと笑う。いつも溌剌としてるトレイシーが、自分に対して小動物のようにふるふるしている姿は中々に楽しい。
「どっちにすんだ?」
「お……」
「ん?」
「覚えてないって、言ったら!……ど、どうするの……」
やけっぱちに叫んだトレイシーだが、語尾は小さくなっていく。ただただ押されている状況が悔しかったのだが、ナワーブの顔を見ると、昨日の事が思い出されて恥ずかしさが勝って、俯いてしまう。
それでも言ってやった!と思うとちょっと気分はいい。いつも何を言ってもこの男は「はいはい」って態度で遇らうんだから、少しは同じ気持ちになればいいんだ。
ところが何かアクションがあると思ったナワーブは、黙ったまま動かない。しんとまた静まり返った空間に、トレイシーは恐る恐る顔を上げる。そして、視線が合った途端に、ぐにゃりと歪んだ男の笑う目に「ひぇ」と声が出た。
「そうだなぁ…………めいいっぱい『子供扱い』してやろう、今から」
「……は」
「膝に乗せて、飯も俺が食わせるし、夜は添い寝してやろう。着替えも風呂も手伝ってやろうか」
「‼︎」
「子供なら仕方がない。そうだろう?」
「ひぃぃ……」
ふるふると首を振るトレイシー。ナワーブの面倒見の良さは身をもって知ってる。荘園に来た当初は未成年と思われていたから、それはもう過保護なくらいに甲斐甲斐しくお世話をされた。
あの時は純粋な善意だけど、嫌がらせ全開となると何をされるか分からない。
「い、いい!しなくていい!」
「覚えてないんだろう?」
「お、覚えてる!覚えてるから!言ってみただけ!」
「ほお。だったら『子供扱いしないで』いいんだよな?」
下を向いてても分かる、笑っている声だ。今日のナワーブはトレイシーに考える間もくれずに、畳み掛けてくる。
ナワーブがいない方に逃げを打とうとすれば、左肩をやんわりと掴まれる。力は入ってないけれど、逃す気はないぞと言われているようだ。
「お前が言ったんだぞ?覚えてるんだろ?」
「あうぅ……い、言った、けど」
「ん?」
「ナワーブ、いつもと、違う……」
ぎゅっと目を閉じて、トレイシーは呟く。困っていたら助けてくれる、ナワーブはそんな存在だ。なのに今一番トレイシーを困らせているのがその本人だ。しかも困ってるのを楽しんでいるような気すらする。
トレイシーの肩を掴んでいた手が、首を辿って頬に添えられる。そのまま上を向かされて、開いた目に入ってきたのはやっぱり愉しげな二つの鉄色。
「要望に答えてやってるんじゃねえか。遠慮しなくていいんだろ」
「……ぃて」
「聞こえねえ」
「遠慮、して!」
「いやだ」
「ううう……やっぱり怒ってるじゃん……」
全然頼みを聞いてくれないナワーブに、トレイシーは背中を本棚に擦りながら横へと逃げていく。が、逃げた分だけナワーブも動くので、最終的に角に追い込まれてしまう。
「怒ってねえだろ」
「怒ってないなら、なんでこんな意地悪するの!」
「意地悪?してるか?」
くつくつ笑うナワーブはトレイシーの目の前に立ってるだけで、確かに何もしていない。ただ、ここからトレイシーが逃げられる隙がないだけだ。
普段は沈んだ色合いの鉄の瞳が、きらきらと猫のように輝いている。ただし獲物を見る不穏さで、だ。トレイシーは狩られる前のネズミってこんな気分なのかなと思ってしまう。
「俺はただ話がしたいだけだぜ。二人だけでな」
「場所を、変えたいなーって……」
「俺の部屋ならいいが」
「う……」
ナワーブの部屋は、内鍵がかかる。トレイシーが「心の鍵」の万能キーで何度も侵入したせいだ。悪戯でナワーブに寝起きドッキリを仕掛けた為に、いろいろ男として同情したメンバーの意見により取り付けられたのだ。
無いとは思うけど、何かあった時に内鍵がかかっていたら外からは助けてもらえない。自分の行いがこんな形で災いになるとは。
「どうする?」
「こ……ここで、いいです……」
「よし」
「うう、話あるならさっき声かけてくれれば良かったじゃん……食堂いたんでしょ」
「いや?窓の外だぞ。俺がいたの」
「は⁈」
「お前の後ろずっとつけてたんだが、全く気づかなかったな」
トレイシーはそこではっとする。自分がうんうん唸って悩んでた時に、当の本人が後ろにいたということだ。怖すぎる。猫並みの隠密行動だ。
そして食堂にイライと共に向かった時点でトレイシーに逃げ場は無かったのか。もしくは窓のない席を選んでいれば。そしてこれなら素直に部屋に戻った方が良かったのかもしれない。追い込まれた今の状況では、どれもこれも手遅れだけど。
脱力してペタリと座り込むトレイシーを追って、ナワーブもその場にしゃがみ込む。
「ううう……ごめんなさい」
「何がだ?」
「みんなに喋っちゃったこと、怒ってるよね?」
「まあ、面白くはねえな」
「言いふらそうと思ったわけじゃなくて、その、相談に乗って欲しかっただけで……」
「トレイシー」
名前を呼ばれて、恐る恐る見上げた顔には愉快そうな笑みが浮かんでいる。ナワーブはとん、と自身の頬を指す。
昨夜、寝ぼけたトレイシーがキスをした位置だ。
「違うだろ。俺が聞きたいのはそれじゃねえ」
「うぎっ……」
「キスのお返しが欲しい、だったか?」
「い、言ってない!」
「じゃあ答えろ、いるのかいらないのか」
「え」
「今、ここで。答えろ。お前の口でな」
何を言われたのか、思考が停止したトレイシーにはしばらく理解できなかった。ぽかんと口を開けてナワーブを見上げるしかない。ナワーブはというと、頬杖をついてすっかり待ちの態勢だ。
お返し??キスの??私が……口で言えってことは、ナワーブに強請れって、こと……?え??キス、を??
じわじわと言われた意味を理解し始めると、トレイシーは音が鳴りそうな程顔を赤くして、膝を抱える。そんなこと、出来るわけがない。できないから覚えてないふりするかどうかを悩んでいたのに。
トレイシーはブンブンと首を振って膝に顔を埋める。
「む、無理……!」
「子供扱いするなっていったのはお前だろ」
「言ったけど!言ったけどぉ……!」
「だったら自分で言ったことは責任を取らねえとな」
真っ赤に染まったトレイシーの耳元で、ナワーブが言い聞かせるように囁く。もう一思いに止めを刺してくれってこういう気分なのかとトレイシーは思う。
今になって自分がどれだけ甘やかされていたのかを思い知る。子供扱いを、本当にされていたんだと感じる。本来のナワーブはこんな意地悪な性質だったのか。
それでも嫌だとかそういう感情はない。知らなかった一面を知れて嬉しいとすら思っている自分がいる。ダメだ、どうあっても自分はこの男が好きで仕方ない。
しかし自分からキスを強請れと言うのは、トレイシーにはハードルが高過ぎた。まずトレイシーは、恋愛を指南するような小説や芝居を見たことがない。そんな話を聞かせてくれる大人の女性も近くにいなかった。そもそも人を好きになったのが初めてなのだ。
本当に、どうやればいいのかがわからない。何か突破口はないかと悩む脳内で、ぐるぐると目まぐるしく記憶が回る。走馬灯ってこう言うのかなとトレイシーは他人事のように思う。
『いつも通りでいいんじゃない?』
ぴたりと記憶の回転が止まる。
これはデミの声。さっきの食堂での会話だ。そう、まさに今の状況になったらどうしたらいい?と問うた時のもの。
トレイシーは閉じていた目を開ける。あの時、デミはなんて言ってたっけ?
『一番簡単な解決方法なのは本当よ?』
『まだるっこしい説明は一切いらないな、確かに』
膝を抱えているトレイシーのつむじを眺めながら、ナワーブはふうと息を吐き出す。うんうん唸るトレイシーに悩め悩めと思う。俺も昨日はそのくらい困らされたんだから。
流石に泣き出すようならやめようと思っていたが、向きになって言い返してくるのだから、遠慮はいらないと判断する。大体、子供扱いするなといった直後にすやすや眠る奴があるか。赤子もびっくりな寝付きの良さだ、葛藤した時間を返せとナワーブは思っている。
だからこれは、ちょっとしたナワーブの意趣返しだ。トレイシーがどうするか、たっぷりと待つ心づもりでいる。
「………………」
そこから数分か数十分か、唸るのをやめたトレイシーがそろりと頭を起こした。と、言っても少し動かしただけなので、赤くなった頬が見える程度だ。
どうするのかナワーブが見ていると、ぽそりと何かトレイシーが呟いた。聞き辛い声量に、トレイシーの顔を覗き込む。
「……なんだ?」
「っ、あああもー!」
「おわっ⁈」
突然叫ぶと、トレイシーが思い切り頭突きを繰り出す。避けようとして後ろに尻餅をついたナワーブにのし掛かり、首に両腕を回ししがみつく。
「おま、突然なに」
「すき!」
「は?」
「だからっ、わ、わたしもだいすきあいしてる、から、うう……いじわる、しないで……」
「………………」
なんだろう、告白されたはずなのにこの間の抜けたような空気は。トレイシーの酷く棒読みで捲し立てるようなこのセリフ、どこかで聞いたなと押し倒されたままナワーブは空を見て考える。
あ、そうだ。バーボンが「飛びつけ」と言ってたやつだ。でもそのまま言うか、おい。
呆れはするものの、首に縋り付く、というよりも顔を隠そうとしがみつくトレイシーは熱でもあるのかと思うほどに体温が高い。羞恥で死にそうになってるのだろう。心臓の音も聞こえてきそうだ。
仕方がないとナワーブは金の頭を軽く撫でる。元より「キスして」なんてトレイシーが言えるとは思ってはいなかった。それでもこう来るとは。色気も何もあったものではない。
少し不満は残るがトレイシーは恋愛そのものが初めてだとも言っていたから、それに免じてここらで勘弁してやろう。
「だから、してねえって言ってんだろ」
「してるもん……意地悪だもん……」
ぐすりと鼻を啜る音がする。どうにか体を起こしたナワーブは、首にひっついたままのトレイシーを膝に抱え直す。背中を撫でて宥めながら、はっと嘲るように笑う。
――意地悪、ねぇ。あの程度でか。
もっと「意地悪」が出来る機会はいくらでもあったのに、耐えてやってたんだぞ俺は。
ナワーブはそう言ってやりたかったが、腕の中ですんすんと鼻を鳴らしているトレイシーの姿に毒気を抜かれてしまう。仕方がないのでいずれ身をもって知って貰う事にしよう。
「ナワーブ、それで」
「あん?」
「返事は」
「お前な……」
人の首に縋りついたまま顔も上げられないくせに、ちゃっかりと告白の返事を要求してくるトレイシー。しおらしげにしてると思ったのは、気のせいだったようだ。
「ちゃんと言質はとれって」
「誰に言われた」
「先生」
――ルキノか。
ナワーブは特大の溜息をつく。あいつといいバーボンといい、こいつに余計な知識を吹き込むな、本当に。イライはトレイシーの相談に乗ってはやっても、過剰なアドバイスはしなかった。
だが今、そのお節介のせいで変わらなかった距離に変化が起きているのも事実だ。トレイシーとの関係性が変わるなら、そのきっかけをくれた事には感謝すべきだろうか。
ナワーブがそんな事を考えていると、窺うようにそろりと顔を上げるトレイシー。赤くなった目と鼻にナワーブは思わず「くは」と笑ってしまった。昔、飼い主に悪戯がバレた仔犬がこんな顔になってたな。
トレイシーの乱れた前髪を払って、額から頬に手を滑らせる。自分よりも明るい、春の芽吹きを思わせる瞳はすっかりと涙で潤んでいる。そして、やっぱり綺麗だとナワーブは思う。
――ああ、色じゃなくて俺はこいつの目が好きなんだな。
「ナワーブ?」
トレイシーが見上げたナワーブは、頼りになる「傭兵」でも優しい「保護者」でもなく、とろりと溶けそうな柔らかい表情を浮かべている。今まで見た事の無い顔だ。
初めて見る表情をトレイシーがまじまじと見つめていると、ナワーブがゆっくりと口を開く。
「好きだ、俺も」
「!」
「お前が好きだ」
すり、とカサついた指先で頬を撫でられる。「これでいいか?」というナワーブの顔はいつも通りに戻ってしまっていたけれど、さっきの蕩けるような顔がトレイシーには衝撃過ぎて返事が出来ない。
「おい、聞いてるのか」
「ふぇ……」
「いちいち隠すな、面倒くせえ」
自分の胸元に顔を押し付けたトレイシーに、ナワーブは億劫そうな声を出す。しかしその口元は笑っており、誰がどう見ても初々しいトレイシーの反応を楽しんでいる。
トレイシーはもう自分が恥ずかしいのか嬉しいのか逃げ出したいのかわからなくなっている。ナワーブを今は直視出来ない事だけは確かだ。肩を掴んで引き離そうとするナワーブに負けじと、緑の上着を掴んで頭をぐりぐりと擦り付ける。
「痛ぇな。顔見せろ」
「や!無理!」
「お前さっきからそればっかだな」
「だって無理だもん!」
「今からそれでどうする気だ?とっとと慣れろ。恋人の顔が見れませんなんて言ってたら、いつまで経っても先に進まねえだろ」
「へあ⁉︎」
ナワーブがサラリと放った言葉に、トレイシーは馬乗り状態から飛び起きる。勢いが良すぎてそのまま後ろの本棚に背中をぶつけてしまう。
「こっ、こい、こ⁉︎」
「鶏か」
「恋人って⁉︎」
「お前が愛の告白して俺が返事したんだからそういうことだろうが。要求しといて何を今更」
「そ、そうなるの……⁈」
「じゃなきゃなんなんだよ。やっぱり子供扱いされたいのか?やるぞ?」
「こ、恋人が、いいです……!」
「よし」
「うう……」
満足そうに頷くナワーブに、トレイシーはなんだか丸め込まれたような気がしなくもない。しかし、恋人という言葉は甘く胸に響いた。それは純粋に嬉しい。
まだちょっと心の整理が追いついていないトレイシーを他所に、ナワーブはさっさと立ち上がると服についた埃を払う。その所作はいつも通りで、何の気兼ねもなさそうだ。
「ほら、立て。汚れるぞ」
「切り替えが早いよ……」
のろのろとした動きのトレイシーに痺れを切らしたのか、ナワーブは細い二の腕を掴んで無理矢理立たせる。甘さもなにもあったものではなかった。
本当に、今の今までこの男が恋について口にしていた
のは現実だったんだろうかとすら考える。
「ああ、そうだ。忘れてた」
「?」
何をとトレイシーが不思議に思った時には、ナワーブの顔は目の前にあった。そして柔らかい感触が頬、というより唇の端に落ちる。ちゅ、という音で何をされてるかを自覚して目を見開く。
ーーほっぺに、キスされた。ナワーブに。
ペしんと唇が触れていた箇所を抑えて呆然と目の前の男を見上げる。ナワーブはというと、すっかり普段の感情が読めない表情になっている。こんなことをしておいてなんで無なのか。
「な、に、して」
「口が良かったか?」
「そ!そうじゃなくて!今じゃないよね!」
「いるのかいらないのか答えろっつっただろ。お返し」
「っったけど!」
「大好き愛してるは『いる』ってことじゃないのか。……それとも、嫌だったか?」
「うっ……」
ちょっと悲しそうな顔するのは狡いのでは。
眉根を下げるナワーブに、トレイシーはブンブンと首を振る。嬉しくないわけはない。ただびっくりしただけで。
トレイシーの必死の否定に、ナワーブはくっと笑う。
「なら、いいな。今はこのくらいにしといてやる」
「い、今はっ、て」
「…………」
「あああ!いい!やっぱいい!分かった!」
ナワーブが無言で顔を上向かせようとするので、慌ててトレイシーは目の前の胸を押し返す。これ以上は限界だ。本当にもう、勘弁して欲しいとトレイシーは首を振る。
「きゅ、急には無理!まだ待って!」
「ああ、いいぞ。段階は踏まないとな」
「良かった……」
あっさりと身を離すナワーブに、トレイシーは心底安堵してほうと息を吐き出す。悔しいけど相手が大人で良かった。初っ端からぐいぐい来られると身がもたない。
ルキノが言っていた通り、追いかけるのはいいが向かってこられるのはやっぱり身が竦む。胸元を抑えればどくどくと早鐘を打つ鼓動を感じる。
ナワーブは、安心しきっているトレイシーの耳元に顔を寄せる。
「段階踏んでやるから、早く慣れろよ?」
「うひっ……!」
耳に触れる距離で、低い声で囁かれる。トレイシーは首を竦める。擽ったいような、ゾクゾクするような感覚に襲われ身を震わせた。苦手なのでやめて欲しい。
耳を抑えて、文句を言おうとナワーブを見上げれば、何故かまたあのキラキラした猫の目をしている。どこが恋人だ。獲物狙う目じゃん!
どこから食いついてやろうかと言っている目に、トレイシーは言葉を飲み込んだ。なんとなく、こっちが噛みつくとより一層ナワーブが「ご機嫌」になっていくことに気付いたのだ。巨大な猫でも相手にしてる気分になる。ここは静かにやり過ごすべきだ。
「ど」
「うん?」
「努力します……」
トレイシーは蚊の鳴くような声で、それだけ搾り出した。耳はしっかりとガードした状態で。
丸くなって防御を固めるアルマジロの様な姿に、ナワーブはふくっと口の中でだけ笑う。噴き出すのは何とか堪えた。何しても可愛いな、こいつ。
潤んだ目から「もうやめてもう限界」と訴えるトレイシーに、ナワーブも仕方がないと体を離す。あんまり追い詰め過ぎると怖がられてしまう。逃げられてしまっては意味がない。段階を踏むと言ったのは自分だ。
「それじゃ、これからよろしくな、恋人」
「お……」
「ん?」
「お手柔らかにお願い、ほんとに……」
「ふはっ!」
今度は耐えられず、噴き出してしまった。臆病と言いながらしっかりちゃっかり自分の主張は通す我の強さ、嫌いじゃない。
ナワーブはくつくつと笑いながらトレイシーの頭を撫でた。 そうしてまだ混乱中の彼女を置いて、倉庫を出て行った。1人で整理する時間も必要だろうと考えて。
残されたトレイシーは、ふらりと本棚に凭れ、ずるずるとそのまま座り込んだ。虚勢で耐えていたけれど、本当にもう限界だった。
「…………こいびと」
ぽそりと呟き、その言葉の意味を噛み締める。
恋人って言われた。あのナワーブに。恋愛とか、全然興味なさそうな顔した男に。
優しいけど、抱きついても纏わりついても素っ気なくあしらわれるから、自分には興味ないんじゃないか、そういう対象に見られてないんじゃないかとも思っていたのに。
じわじわと言葉の意味が浸透すると共に、頬が熱をもつ。恥ずかしさでじゃなく、嬉しいという感情で。
ただ、とっても嬉しい反面、ちょっと気になってることもある。
親切で勇敢で、優しくて格好いい筈の「傭兵」にキラキラした猫の目で獲物認定されてしまった事だ。なんかもう、あの目を見ると脳内で警報が鳴り出すのを感じている。
男は狼だって聞くけれど、ナワーブは猫だと思う。でもあの可愛いイエネコじゃない。こっちを狩る気満々のネコ科の猛獣だ。
恋人という響きは間違いなく甘いし嬉しいけれど、油断したらどんな目に合うか分からない。これからはスキンシップは控えめにしようとトレイシーは心に決める。
――心に決めたのだが。
翌朝。
「‼︎」
「おはよう」
目を開けて、見えた背中にトレイシーは飛び起きた。寝台に、さも当然といった態度でナワーブが腰掛けている。
ここはトレイシーの部屋で、自分は寝巻きのままだ。普段から鍵はかけていないけれど、ナワーブに寝起きドッキリされたのは初めての事だ。思わず壁に張り付いて叫ぶ。
「な、ななな、なんでいるの⁈!」
「段階踏んでやるって言っただろ」
「そ、そうだけど!」
「お前が今までしてきた事をひとつひとつ返してやろうと思ってな」
「それって、え」
「さて、お前が俺の寝床に潜り込んだ回数と、馬乗りになってた回数はどのくらいだったか」
「ふえ!」
「全部やり返してやるから、覚悟しろよ?」
にんまりと笑う男は上機嫌でごろごろと喉でも鳴らしそうだ。「やっぱり猫だ」とトレイシーは顔を覆う。
そしてその表情も好きだと思う自分は、到底逃げられるはずもない。
END