ラスト・ラブ・レター「他人宛てのラブレターを大事に保管し続ける理由って何だろうね?」
「誤配ですか? 正しい宛先がわかるなら、僕が届けてきますけれど」
「あ、ごめん。トランスポーター的にはそうなっちゃうよね」
執務室に立ちのぼるのはあたたかな紅茶の香りとバターと香辛料の優しい甘さ。書類の山を端へと――このひと時だけでも視界から外したかったのだ――押しやりながら、ドクターはふと本日の秘書役へと雑談を振った。
「もう全部開封されてて、多分正しく届けられた後だと思うんだ。だからもう手紙としての役割は終わってる」
「ですがご自身宛てのものではない、と。安直ですが偽名を使った秘密のお手紙でしょうか」
カップを片手にイトラ特有の細い耳を揺らす彼もまた、機密の輸送に携わる身だ。こういう反応が返ってくるとわかっていてしかるべきだったというのに、本日の自分はどうもぼんやりしてしまっているらしい。
「ひとつだけ開けてみたんだけど、特に不自然なところもなく普通のラブレターだったんだよね」
「へぇ」
ドクターがおっしゃるなら本当にただのラブレターなんでしょうね、とクーリエは盛大に持ち上げてくれたが、別に私は暗号の専門家でも何でもない。ただの記憶喪失の、うん、本当に何なんだろうな私は。
「だから気になってしまったのかな」
「ふふ。誰かの恋愛事情が気になるなんて、ドクター様も普通の御人だったのですねぇ」
うっかりこぼれてしまった独り言だったが、頭の回転が速い彼は上手いこと誤解してくれたのでそのまま誤魔化すことにする。そのまま、彼が昔届けたのだというとある恋文の劇的な顛末を聞きながら、ドクターは言い出せなかった手紙の送り主の名前――目の前の彼の主人についてぼんやりと思案を巡らせていた。
***
「――では、■■■■■というのはどうだろう」
「却下だ」
片手で取り寄せたばかりの論文をめくりながらの一手は、本日もまた圧倒的に不利な盤面へと青年を追い込んでゆく。ヴィクトリアの冬は故郷の厳しいそれとは比較するまでもないとはいえ、薄い上着一枚でしのげるほどやさしいものでもない。だというのに彼はといえば毛玉だらけの伸び切った袖口から骨と皮ばかりの指先でひとつまたひとつとあくび混じりにこちらの手を無力化していく。
「それはその論文の筆頭著者のファーストネームだろう」
「ばれたか。だが良い名前だと思わないか? 耳馴染みが良く、どこにでもいそうで、この名前ならまず聞き返されることもない。名前としての必要条件を十分に満たしている」
「私が聞いたのはお前の名前だ」
むっとした表情で言い返せば、彼はニヤニヤと意地の悪い笑みで両手を広げてみせた。
「かわいいなぁ。本当にかわいい。久しぶりにお前から勝負を申し込んで来たかと思えばそんなことを聞きたがる。お前、これ以上わたしの好みに育ってどうするつもりなんだ」
「別にお前のためにこうなったわけじゃない」
初めてこの学び舎に足を踏み入れた頃と比べめきめき伸びた身長はとっくの昔に小柄な彼の背丈など超えてしまったし、来年にはこの襟章の横にもうひとつを賜ることさえ確定している。だというのに初めて会ったときからこちら、ちっとも彼との距離が縮まった気がしない。
「ドアプレートも郵便物も、てんで出鱈目な名前が書いてあるのにどうしてちゃんと届くんだ」
「優秀なトランスポーターのおかげだよ。君も出会えたら大事にするといい」
あの誰も彼も敵ばかりの故郷でどうやって味方を見つけろというのだろう。守らねばならない家族の他、心を預けられる相手などそう易々と見つけられるものではない。だが彼はと言えばさも当然の未来であるかのように語るものだから、苛立ちと不安を通り越して呆れてしまった。
「ではもうそれでいい」
「うん?」
「私とお前しか知らないお前の名前宛てに手紙を書こう。お前は知っているのだから、どこにいたって絶対に受け取ってくれ」
「ああ、なるほど。誰から聞いた?」
「史学科の変な帽子の彼と、あと薬学部のマダムから」
「はは、相変わらずお歴々は耳が早い。とはいえ私はただの相談役に過ぎないし、あれがこれからどう育つのかなんてわかったものじゃない。ひょっとしたらまったく予想もできないものに化けてしまう可能性だってある。
まあでも、心配しなくても少なくとも君が故郷に帰るまではここにいるさ。安心したまえ」
彼の口から放たれる『安心』という単語はどうしてこんなにも胡散臭く聞こえるのだろう。もういい、と諦めを吐息に乗せ会話を打ち切ろうとすると、彼は相変わらずニヤニヤと意地の悪い笑顔でまるで歌うように言葉を紡いだ。
「待ち遠しいね。君はどんな手紙を書くんだろう。古めかしい万年筆で? それとも最新式のタイプライター? 文字とは人の個性が如実に反映されてしまう情報媒体のひとつだ。紙の選び方、サインの位置、さて君はどんな君を見せてくれるのかな」
だからそれはラブレターだった。裏も表もなく、ありったけの真意をこめた、今は失われてしまったあなた宛のラブレター。