戯れに、キスをした。
酒の勢いだとか、脱稿ハイを言い訳にして。
戯れは続き、触れるだけだったキスはやがて、水音を立てるようになった。
お互いの背や首に腕を回すともう、見境がなくなって。
でも、これは戯れ。
そう、これは戯れ。
何故なら、私達は恋人でも何でもない、ただの同居人なのだから。
***
目が覚めた時、まず自分が衣服を身につけていないことに驚いて死んだ。
それから、隣に寝ている同居人も衣服を身につけていないことに驚愕してまた死んだ。
男二人が並ぶには狭いベッド。分け合っていた毛布の下から飛び出し、あからさまなゴミだけでもと掴み取り、目に付かぬようにゴミ箱の奥底にねじ込んだ。
それから自分の下着だとか夜着を引っ掴んで棺桶の中へ逃げるように滑り込み、勢いよく、でも音は立てないように蓋を閉めた。
そして多幸感、罪悪感、いろんな感情に押しつぶされて死んだ──のがほんの数ヶ月前。
あの日確かに猛省したはずなのに、その後も度々同じ事を繰り返している。
普段飲みもしないビールのプルタブをロナルド君が開けるのが密やかな合図。
あくまで酒に酔っていたからというアルコールに弱いからこその言い訳。
これでいいはずはないと分かっていても、それでも誘惑には勝てなかった。抗えなかった。
──性欲処理をしてやるのも相棒としての責務だろう?
──君だって一人でするより気持ちいいと思っているだろう?
──君に好きな人が出来るまでの戯れだよ。悪くないだろう?
下手な言い訳を捲し立てるように沢山並べた。
ロナルド君は少し考えたふうではあったが、そういう事なら……?と私を受け入れている。
「ん……。」
大体において私がロナルド君を抱き潰すことがほとんどだったが、ずるいだのなんだの難癖をつけて、時折だがロナルド君も私に触れるようになった。
「ね、ちょっと待って……。」
初めての時は恐る恐ると言った感じで舌先でちろちろ舐めるだの咥えるだけだった。
気持ちよくはなかったが気持ちは良かった。(ファー)
それが今やどうだ。
私の反応を逐一拾い上げ、巧みに高みへと連れていこうとする。
「ね、もういいから。」
元々スペックが高い奴なのだ。おまけに生真面目で勤勉。
私がどんなふうにしてるだとか、どうしたら私が反応するかだとかをつぶさに観察したのだろう。
そしてそれを実行に移せる器用さも持ち合わせていた。
「ね、待って、離して……!」
ちら、と見上げてきたその瞳はいつになく静かだった。
「もう十分だ、今イクと出来なくなるから離せ。」
柔らかな髪を撫でてやる。
「よーし、いい子だ。」
少し緩んだ拘束にそう声をかけた次の瞬間、ロナルド君の喉がゴクリ、と動いた。
「────っ!!」
引きずり込まれる。
そんな感覚だった。
喉の奥深くに捉えられ、締めあげられる。
「駄目!ロナルド君、離し……っ!!」
腰を引こうにもがっちりと抱え込まれてビクともしない。
手で頭を押しやろうとしても、両足で突っぱねても逞しい身体はビクともしない。
「駄目だって、出る……!」
懇願虚しくロナルド君の喉の奥の奥で果てた。
ぜぇぜぇと荒い息。
肩も激しく上下する。
「……。」
ずるんと私を吐き出したロナルド君は立ち上がり、予備室から出ていった。
──口でもゆすぎに行ったか。まさか飲んだりしてないだろうな?
気にはなったが動けないのでパタンとマットレスに倒れ込んだ。
──一体どういうつもりだ。
いつもならやめろと言えばやめてくれていた。
なのに今日は静止を振り切った。
私をイかせてみたかったとか?
キィ、パタン、とドアの開く音と閉じる音がして、ロナルド君が戻ってきた。
手には濡らしてあるらしいタオルを持っている。
「ロナルド君、少し待ってくれたまえ、もう少ししたら──。」
君にもしてやるから、と言い終わる前にロナルド君が手に持っていたタオルで欲を吐き出してすっかりくったりとしてしまっている私を拭った。
太腿に垂れた唾液だとかもすっかり綺麗にすると、中途半端にずらしていた下着を元の位置に戻し、たくしあげていた夜着を元通りに直した。
「ロナルド君……?」
いつもと違う行動に不安がよぎる。
心臓が嫌な音を立て始め、頭皮にじっとりと汗が滲んだ。
少し俯いたロナルド君が口にした言葉に、体の末端が少し砂になる。
「お前と、こういう事はもうしない。」
──あぁ、言われてしまったな。
いつかこんな日が来るとは思っていた。
だがしかしいっそこのまま情でも湧いていい感じになれるのでは?と期待しないでもなかった。
──だって、私は、とっくに。
「……好きな人が、出来たのかね?」
私の言葉にロナルド君が小さく頷く。
「そうか。」
ゆっくりと体を起こし、乱れた夜着を正す。
「……その人と君が結ばれるまでは、私、ここにいていいかね?」
我ながら未練がましいな、と内心笑う。
とっとと出ていけばいいものを。
見届けられるか?私に。
ロナルド君が誰かのものになってしまうのを。
「ん……お前がそれでいいんなら。」
「いいとも。ありがとう。」
歩けるか?と聞かれたので、誰かさんのせいで腰が立たん。運んでくれ。と強請る。
──これくらい、バチは当たらんだろう?
もう、熱を持って君に触れられないのだから。
「明日の夜食は何がいいかね?」
逞しい腕に横抱きに抱えられ、予備室を後にする。
「唐揚げ。」
「好きだねぇ。」
棺桶に横たえられ、胸の上で手を緩く組む。
蓋を締められるその刹那に見えた美しい瞳。
あの瞳は、誰を映すのだろう?
「おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
落胆と絶望と虚無に押しつぶされて、私は静かに砂になった。
***
「……君、好きな人とやらはどうなったのかね。」
想い人と結ばれるまで、と居座り続けて三十年が過ぎた。
いや、奥手だとは知っていたが程があるだろう?
「あ?まだ好きだぜ?」
「いや、もう三十年経つんだぞ!?御相手もいい歳だろう。結婚とかしててもおかしくないだろう?」
「まだ独身だな。」
「把握はしてるのか……。」
やれやれ、と溜息をつきながら皿を拭く。
「珈琲飲むかね?」
「おう。」
ミルに珈琲豆を入れてロナルド君に渡す。
ガリガリと豆を挽く音。
耳に心地いいその音を聞きながらお湯を沸かし、ドリッパーを用意する。
出来た。と渡されたミルから中挽きにされた豆をドリッパーに移して細くお湯を回しかける。
ふわりと泡が立ち、豆が膨らむ。
立ちのぼる珈琲の香り。
しっかりと蒸らした後、何度かに分けてお湯を注ぐ。
たっぷりサイズのマグカップに珈琲を入れて、昨日焼いたクッキーを添えてロナルド君に渡す。
サンキュ、と言いながら受け取った珈琲とクッキーを一口。
「美味いな。」
「当然だ。」
いや、おかしいだろ。
どう見ても私達夫婦じゃない?
三十年以上一緒に暮らして、好みも癖も知り尽くして、阿吽の呼吸で珈琲なんか淹れてさぁ!
これで私の片想いって凄くない?
どこでルート間違えた?
「……ねぇロナルド君。」
「何だよ。」
「君、いつになったら告白する気なのかね。」
「あぁ?……まだする気はねぇよ。」
「そう言ってもう三十年だろう?諦めているのかね?」
「諦めては……ない……けど。」
「もっと自信を持て若造。君を好きにならない者などいるものか。その顔は何のためについているのかね。」
想い人と結ばれて欲しいなんて、悪いがこれっぽっちも思ってない。
むしろ玉砕してくれればワンチャン、とすら思っている。
だがそう思って放っておいたら三十年経ってもこのザマだ。
分の悪い賭けではあるが、いつ行動に移すのかと悶々とするのにも疲れてしまった。
何しろ三十年も経っているのだ。残りの寿命を考えると、そう静観もしていられないと気付いてしまった。
三十年も付き合ったんだから、残りの時間くらい私にくれたって──。
「……告白したら、全部失くしそうだからな。」
「は?玉砕前提なのかね。それでもいいだろう。いつまでもこうやって──。」
「……俺が片想いなら、お前、ここにいるんだろう?」
「……?まぁ、そうだが……?」
真っ赤に染まったロナルド君の頬。なんなら耳まで赤い。
今、照れる要素があったか?と、思案をめぐらせる。
「玉砕なら私が出て行く理由はないだろう?」
「……。」
「ロナルド君?」
「……ずっと、片想いでいいんだよ。」
ああもう分からん!
何をそんなに躊躇う必要があるというのか。
長年この男のそばに居るが、頑なになった時のこの男の頑固さと言ったら!
「玉砕したら盛大に慰めてやる!だからとっととスッキリしてこい!」
ヒラヒラと振った手を、ロナルド君が掴む。
「ん?どうした?」
「玉砕したら、俺がお前とは居られないんだよ。」
「は?どういう事だね。」
「お前に、ずっとここにいて欲しいから。俺は片想いでいい。」
「……。」
閃きかけた答え。
「ロナルド君……?」
それって。
「それ以上聞くな。」
その。
「ねぇ。」
つまり。
「もういいだろ、この話は。」
そういう事?
「聞け。」
「嫌だ。」
「いいから聞け。」
「嫌だって言ってんだろ。」
「好きだバァカ!!!」
「ほぇっ!?」
あぁ、バカはお互い様だな。
私も、その可能性に気づかないなど。
いや、気づかないだろう?!
だって、若造の好みの正反対だぞ私は!
「何っで言わなかったバカルド!ほら早く言え!君も!」
「え、えぇ……?」
「いや待て!言質を取る!スマホをとってくるから待ってろ!」
「録音する気かよ!やめろ!」
「嫌ならとっとと言え!」
「……う……好き、です……。」
「ブッフ!何で敬語!」
腹を抱えて笑い転げる。
あぁ何でこんな簡単な事に三十年も気が付かなかった!
見えなくなっていたのか。
片想いの間はそばにいられる。その思いに縛られて。
「じゃあ、もうキスしてもいいかね?」
「へっ?!」
「三十年も我慢したんだ!もういいだろう!」
「え……えっと、ヨロシクオネガイシマス……?」
「んっふ、いい子。」
夢中で口付けた。
三十年分を取り戻すように。
到底、取り戻せはしないけれど。
「な、なぁ。」
キスの合間、ロナルド君が何か問いたげに私をやんわりと制した。
「何。私君にキスするので忙しいんだが。」
「そ、その、お前、本当に……?」
「はぁ!?疑うのかね君は。君に想い人がいると分かっていても三十年そばに居座ったこの私を。」
「だってお前、そんなそぶり全然……。」
「……心外だな。好きでもない奴に、私があんな事をするとでも?」
三十年前の蜜月の時のような触れ合いを思い出したのだろう、ロナルド君の顔が真っ赤に染まる。
「じゃあ、お前あの時から……?」
「いや?実質もっと前からだな。棺桶を君のベッドの隣に置く、その意味を考えろ。」
「マジかよ……。」
「君こそ、よくも三十年も黙っててくれたな?何故言わなかった。」
「お前が相棒だから性欲処理してやるとか、俺に好きな人ができるまでとか言うから脈ねぇなって。それで辛くなって…。」
うわぁ私の馬鹿!
最低な言い訳が最低な結果をもたらしたな!?
「ああいう事してくれるんだから、もしかしたらって思った時もあったけど、そんなわけねぇよなって。」
「自己肯定感底辺だったな君は。」
「それに、もし上手くいったとしてもお前飽きっぽいだろ?それで出ていかれるよりはって。」
だから片想いを貫こうとしたのか。
片想いの間は私はここにいると言ったから。
君も、私の言葉に縛られ続けたのか。
「私の執着を甘く見るなよ若造。嫌だと言っても二度と離してなどやらん。」
「お、おう。」
「ホテルのスイートでもいいが、そうすると君の食事がルームサービスのみになるな……それは看過し難い。ふむ。ジョン達をお父様に預かって頂くか。」
「……何言ってんだ?お前。」
「ああ、ロナルド君。当分休みを取ってくれたまえよ?そうだなぁ一年とは言わないが、せめて半年くらいは……。」
「ちょっと待て!なんの話だよ!」
「三十年分ヤる為だ……おっと、いやいや三十年分の君との時間を取り戻すためだ。」
「はぁ!?ずっと一緒に居ただろうがよ!」
「バカか君は。その三十年、君と恋人でありたかったのだよ私は!」
「そんなの、俺だってそうだわ!」
「じゃあ口説けバァカ!!」
「う……。」
念願叶って恋人になったというのに、私たちの間には色気もムードも何もない。
仕方ないな、私達だから。
三十年を無駄にしてしまったことは、正直この上なく腹立たしいが、過ぎてしまったことだ。
だが恐らく三十年前のあの日、私がロナルド君に好きだと言ったとしても、ロナルド君は信じはしなかっただろう。
そんなわけないだろ、とか、こんな事してるから勘違いしてるだけだろ、とか、そんな事を言って。
下手をすれば拗れに拗れていたかもしれないな。
必要だったのだ。この三十年は。
そう思う事にして、これからの事を考えるとしよう。
もうロナルド君が、誰かのものになってしまうかもと思わなくていいのだから。
三十年分を取り戻すなんてヌルい。
三十年分よりももっと濃密な時間を作り出してやるとも!
ロナルド君は紛うことなく、確かに私のものなのだから!