花言葉は、『カアアアーーッ、死亡! 胡蝶シノブ死亡! 上弦ノ弐ト格闘ノ末死亡ーーーッ!』
ああ、とうとうあの約束を果たさないままになってしまった――
◇
「ねえ、冨岡さん。そのお花、なんて言うか知ってますか?」
「……知らん」
「房藤空木って言うんです。藤みたいで綺麗でしょう?」
「……そうだな」
「花言葉……は、もちろん知りませんよね」
「……」
「いつか、調べてみてくださいね」
「……なぜだ」
「冨岡さんに、房藤空木の花言葉を知ってほしいからです」
「胡蝶は知らないのか」
「私は知ってますよ。でも、教えません」
「……」
「ねえ、冨岡さん。約束ですよ。いつかきっと――」
◇
あの会話は、いつのことだっただろう。
柔らかな陽射しが降りそそぐ、満開の桜並木の中。
一歩一歩ゆっくりと歩を進めながら、冨岡義勇はぼんやりと記憶を辿っていた。
蝶屋敷の診療室。
胡蝶しのぶに腕の傷の経過を診てもらっている間、手持ち無沙汰だった義勇がなんの気なしに目を向けた窓辺に飾られていた、優しい藤色の花。
その視線の先に気づいたらしいしのぶが、診察を済ませた彼の腕に包帯を巻き直しながら口を開く。
『ねえ、冨岡さん。そのお花、なんて言うか知ってますか?』
――房藤空木。
あの時しのぶがその名を教えてくれた花が、今、義勇の腕の中で揺れている。
「気づくのがあまりにも遅すぎた……すまない、胡蝶」
緩やかな坂を上りきった先。目的の場所――鬼殺隊の墓所へと足を踏み入れ、義勇はほろ苦い想いを滲ませたつぶやきを漏らす。
先日、竈門炭治郎、竈門禰豆子、我妻善逸、嘴平伊之助らが三日かけてすべての墓前に参り供えていった花たちが、大勢の仲間が永眠る場所を温かく彩っている。
その中をまたゆっくりと、奥を目指して義勇は進む。
辿り着いた先には、真新しい墓碑。
刻まれた名は――
蟲柱 胡蝶しのぶ
しかしそこに彼女は永眠らない。
花柱であった最愛の姉――胡蝶カナエを殺した鬼――上弦の弐・童磨との戦いでその命を散らした少女は、仇敵の血肉となることでその首を討ち取ったのだ。
骨のひと欠片はもちろん、髪の毛の一本さえも遺せないことを承知の上で、藤の花の毒でその身を満たし、憎い相手に喰わせるためだけに己を磨き上げて……。
そんな彼女の墓に納められたのは、鬼の始祖――鬼舞辻無惨との最終決戦後に隠が瓦礫の中から探し出してきた彼女の日輪刀と、カナエの形見でもあった羽織のみ。
義勇は左腕に抱いていた花をしのぶの墓前に手向け、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
「胡蝶。お前はここにはいない。それでも、俺の言葉はお前に届くだろうか。お前に話したいことが……聞いてほしいことがあるんだ」
春風に揺れる供花を眺めながら、義勇はぽつりぽつりと語り出す。
「そうだな……他の者からすでに聞いているかもしれないが、まずは最終決戦の顛末から話そうと思う」
◇
「鬼舞辻無惨を倒してから、もう三ヶ月が経った。報告が遅くなってしまい、すまない。
多くの犠牲を払ったが、生き残った者もまた多くいる。炭治郎、禰豆子、我妻に嘴平……それから、栗花落も。
禰豆子は、無事に薬が効いて人間に戻ることができた。
現役の柱で生き残ったのは、俺と不死川だけだった。悲鳴嶼さんも、伊黒も、甘露寺も、時透も……皆、最期まで全力を尽くしてくれた。
――胡蝶、もちろんお前も」
「鬼舞辻を討ったあと、一度炭治郎が鬼になったんだ。
人を殺してしまう前に炭治郎を討たねばと思ったが、日光も赫い日輪刀も効かなくてな……おまけに、隊員を襲おうとしたところに止めに入った禰豆子を噛んでしまった。
あの時はもうだめだと思ったよ。
だが、炭治郎は鬼舞辻の血に抗って、俺たちのところに戻ってきてくれた。
お前が栗花落に、藤の花から作った薬を渡していたんだろう? それがあったのもよかったらしい」
「花の呼吸の終ノ型を使ったことで、栗花落はほとんど視力を失くしてしまった。
だが、伊黒の蛇が一緒にいて栗花落の目の代わりをしている。だから心配することはない。
たしか……鏑丸と言ったか。とても賢い蛇だ。
蝶屋敷の他の者たちも、元気でやっている」
「お前の髪飾りは、今、栗花落が大切に使っている。よく似合っていた。
以前使っていたのは、胡蝶の……お前の姉のものだったそうだな。あれは、上弦の弐との戦いで壊れてしまったらしい。
今は宝物として大事に仕舞っていると言っていた」
「俺は右腕を失ってしまったが、このとおりちゃんと生きている。
二月に誕生日を迎えて、二十二になった。俺は痣の者となったから、長くてあと三年ほどの命だろう。
皆が繋いでくれた命……必ず最期までまっとうする」
「ようやく、片腕での生活にも少し慣れてきたところだ。
箸はもう左手で使えるようになった。今は字が書けるよう練習をしている。だが、着替えはまだ少々難儀だ……。
髪は短くした。もう、自分で結ぶのは無理だからな。
片腕だと、動く時に体のバランスをとるのも以前のようにはいかなくなった。まだ傷が完治していないこともあって、慣れるまでは慎重に動くようにと言われている。
実は、今日ここまで来る間にも、何度か転びそうになってしまったんだ……神崎に知られたら叱責されるかもしれないな」
「先日、最後の柱合会議があった。
鬼殺隊は、解散した。
もう、人を害する鬼はいない。もう、鬼殺の剣士は必要ない。
ようやくすべて終わったんだ、胡蝶」
「輝利哉様は、最後まで立派にお館様としての務めを果たされたよ。
くいな様も、かなた様も……すぐには難しいだろうが、あの方たちにはこれから年相応の子どもとして穏やかに暮らしてほしいものだ」
◇
「ふう……」
あまり長く話すことに慣れていない義勇は、報告を終えてひと息つく。
(数年分ぐらい一気にしゃべった気分だ……)
少々疲れたが、まだ一番大事なことを話していない。気を取り直して再び口を開く。
「それから……今日は、あの時の約束を果たしにきたんだ」
◇
「神崎。房藤空木の花言葉を知らないか」
「房藤空木の花言葉……ですか?」
最終決戦後――蝶屋敷で療養中だった義勇が、ようやく自力で起き上がれるようになった頃。
病室まで食事を運んできてくれた神崎アオイに尋ねてみると、彼女は驚いたように目をしばたたかせた。
「水柱様、花言葉に関心がおありなんですね」
意外です、とでも続きそうな口ぶりに内心苦笑しつつ、義勇はわけを告げる。
「いや、以前、胡蝶に調べてみろと言われて……そのままにしていたのを思い出したんだ」
「しのぶ様が……そうでしたか……」
今は亡き屋敷の主の名に、アオイの顔が寂しそうに曇る。しかしそれを打ち消すようにかぶりを振ると、彼女はいつものきりりとした表情に戻って答えを口にした。
「房藤空木の花言葉は――」
アオイが退室したあとの病室で、義勇はひとり声を殺して泣いたのだった……。
◇
「その花を覚えているか、胡蝶」
自身が手向けた花に目を向けながら、義勇はまたゆっくりと話し始める。
「房藤空木……お前があの時教えてくれた花だ。本来は、夏から秋にかけてが盛りらしいな」
(そういえば、あの会話をしたのは秋だった気がする……赤とんぼが飛んでいた)
窓辺で揺れる藤色の向こう側を、優雅に横切っていく茜色。
その光景を、義勇は今さらながらに思い出した。
「嘴平が蝶屋敷の裏山に入った時に、季節外れに蕾をつけていたものをたまたま採ってきていたらしい。今朝、神崎が綺麗に咲いたからと、わざわざ俺の屋敷まで持ってきてくれた」
『しのぶ様に、返事をして差し上げてください』
房藤空木の小さな花束を抱えてやってきたアオイの言葉と、懇願するような表情が、義勇の脳裏によみがえる。
房藤空木の花言葉を尋ねたあの時――きっと彼女は、答えを聞いた義勇の動揺と後悔に気づいていたのだろう。そして、自身の敬愛する少女が遺した意図にも。
『ねえ、冨岡さん。約束ですよ。いつかきっと、お返事くださいね』
そう言って顔を覗き込んできたしのぶの笑顔を思い出し、義勇の胸が軋む。
いつもの嫋やかな、彼女の姉のそれを模した偽りの笑顔とは違う、はにかんだ微笑。
そんな、まさに十代の乙女にふさわしい可憐な表情に、義勇は思わず見惚れてしまったものだった。
「あの時のお前の言葉の意味が、あの笑顔の意味が、ようやく分かった。だが、気づくのがあまりにも遅すぎた……本当にすまない……」
義勇の後悔が絞り出された苦いつぶやきを、柔らかな風が攫っていく。
「神崎に背中を押してもらわなければ、きっと……俺はずっと、ここに来ることさえできなかった……彼女には感謝しかないな」
己の不甲斐なさに自嘲の笑みをこぼすと、暗い気持ちを追い出すようにひとつ深呼吸をし、義勇は改めて目の前の墓碑に刻まれた少女の名に向き直る。
「こんなに遅くなってしまって、なにを今さらと思っているかもしれないが……どうか、俺の返事を聞いてほしい」
そうして義勇はようやく、ずっと彼女に伝えたかった想いを口にした。
「胡蝶……いや、しのぶ。俺も、ずっとお前を――」
房藤空木(英名・ブッドレア)の花言葉
『恋の予感』
『あなたを慕う』