猫と怪物 6の裏 主はちゃんと煙草を買いに連れ行ってくれた。オレのためにたくさん煙草を買って、ライターも買ってくれようとしたけど、それは断った。まだ初心者だし、こだわりができて大事にする自信が持ててからでいいかなって。煙草が吸える喫茶店を教えてもらって、そこで全種類試した。煙草にまつわる話は主を傷つけないのか、現世にいた時の話も少ししてくれた。オレはちゃんと主が直感で選んだ一箱を当てられたし、それはちゃんとオレの好みだった。
主とはそれから何度も出かけた。演練はみんなもいっしょだけど、会議とか政府の集まりにはふたりで行った。会議とかの時も、主はお茶に誘ってくれた。
「みんなには内緒ですよ」
そういう時の笑顔はとびっきりかわいかった。
雪は結局オレが降らせてほしいってことにした。おねだりをすると、主は少し考えこむようにしたけれど、いくらもしないうちにやってみてくれることになった。
食事はいつも一緒に食堂でとってくれた。毎日向かいに座って観察していると、どれが主の嫌いな食べ物なのかわかるようになった。毎日だとまた子供じゃないからと言われそうだったので、何日かに一回歌仙にもらった、誰それにもらった、と言っておやつを食べさせた。最初はオレだけで食べるように言っていたけれど、いっしょに食べるのがおいしいんだよ、と言ったらその日から素直に食べてくれるようになった。
蜂須賀から風邪を引くとは聞いていたけれど、最初になった時オレにはわからなかった。いつも通り朝だからぼんやりしているんだと思っていたら、蜂須賀がいきなり近寄って白い額に触ったんだ。
「熱があります。今日は一日お休みなさってください」
オレはちゃんと予習をしていなくて、蜂須賀のその言葉で風邪だってことはわかったけど、情けないことに何をしたらいいかわからなくてオロオロしてしまった。できたのは蜂須賀から粥の器を渡されて、ただそれを持って一歩下がっていることだけだった。
蜂須賀は主を一旦端にどかして布団を敷き直すと、でも、とか言ってる主を強引に布団の中に入れて、もう一度粥椀を持たせた。
「笹貫は、今日はずっとここでついていてくれ。食事はふたり分俺が運ぶ。目を離すとうろうろするので気をつけてほしい。夜着を何枚か持ってくるので、こまめに汗を拭いて着替えさせるように。水分はたくさん摂らせてくれ。予備の布団も持ってくるから、寒気があったらかけて差し上げろ。頭痛や吐き気、腹痛などが起こったらすぐにメッセージで知らせて欲しい」
矢継ぎ早にそう言うと、風のように部屋を出ていき、言った通りのものを持って戻ってきた。オレはと言えば壊れたように何度もうなずいて、粥を食べずにぼんやりしている主を見つめていた。
「主、今は食べたくないですか?それとも何か他のものなら食べられそうですか?」
「このくらい、平気だと思うのですが…」
「毎年そうおっしゃって後で熱が上がるでしょう。今日は大手をふるって本を読んで寝て過ごせるのですから、おとなしくそうなさって下さい。猫のところには、俺がちゃんと行きますから」
主のきれいな顔は、珍しく不満を露わにしていたけれど、結局は蜂須賀には勝てずにおとなしく横になった。お粥は食べなかった。蜂須賀は盆を下げに行って、氷枕と体温計、ふきんと解熱剤を置いて今度こそ執務に行った。
オレは大急ぎでスマホで風邪について調べた。 いろんなことが書いてあって混乱したけど、多分、だいたいわかった、と思う。画面から顔を上げると、本を読んでいる主の呼吸が速く、浅くなっていた。体温計を使わせると熱が上がっていたので、解熱剤を飲ませて寝るよう促す。
「笹貫も…ずっと見ていなくてだいじょうぶですよ。慣れていますし、蜂須賀の言うとおり寝ているだけですから」
「今日は、見てるのがオレの仕事。でも主が寝ている間、ここにある本読んでもいい?持ち出したりしないから」
主はオレにそれを許すと、すこんと寝てしまった。治るまでに三日かかり、オレはその間部屋のあちこちを探検した。そしてこの冬、オレに復習をさせるみたいに主はもう一度風邪を引いた。
一瞬で離せば、触れても体を固くしなくなった。歩いているときの距離をほんの少し詰めても避けられなくなった。なにより、オレの大好きな笑顔を見る回数が少し増えた。
煙草を吸うときに少し伏せられた目は、本を読むときにも似ていて、陰になった瞳が色の深さを増すこと。曇りの日の光の中だと肌の色が透けそうなこと。ふざけているときに、泣きぼくろのある左目を少し眇めること。
この本丸でただひとりの人間だから、こんなに情欲を覚えるのかと思っていた。けれどたくさん連れ歩いてもらって目にした他の人間には、なんの興味も持てなかった。オレはオレの主が好きだった。好きになったんだ。
オレは最初に主が記憶をなくしたあと、主への詮索をやめた。あの時深々と頭を下げた主を見て、知らなかったとはいえ、オレがこれをさせたんだと思ったから。でも一度だけ、ふたりきりの珈琲屋でオレの気持ちを言って、急にこわくなって冗談のふりをして、オレの知らない主のことを聞いた。主は、少し戸惑った顔で、でも嘘はつかなかった。多分。主が言ったことは、オレが主に恋をしててもいいよって意味に聞こえた。次の日に記憶をなくすかと思ったけど、主はそのままだった。オレも、何事もなかったふりをして主に仕えた。