未知の花嫁 朝っぱらからなんだかぽかぽかするなと思っていたら熱が出ていた。
俺にしてはめずらしく38度超えの高熱だ。
インフルエンザだといけないということで、慌てて医者に連れて行かれたが風邪の諸症状はなし。もちろんインフルエンザでもなくて、
「ストレスや緊張からくる発熱じゃな。知恵熱みたいなもんじゃから安静にしてればすぐに下がるわい」
白い口髭を蓄えたカンパニーかかりつけの老医師は、ふぉっふぉと笑って薬の処方もなかった。
ふだんは風邪一つひかない健康体なのに、なんでよりによって今日なんだよ。
目が覚めるといつもと違う部屋の様子に一瞬戸惑ったが、そういえば至さんの部屋で寝かせてもらってたんだと思い出す。
年末年始の帰省で人が少なくなるから至さんが看病すると言ってくれて、103号室に俺の布団を運び込んだんだった。千景さんは206号室で開催される居残り組の年越し飲み会に参加するらしい。
俺たちは居残る予定じゃなかったから、気を使わせたのかと思うと申し訳ない。
本当なら俺と至さんは今頃ホテルにいるはずだった。クリスマスは至さんの仕事が忙しくて恋人同士の時間を過ごすどころじゃないだろうから、正月の帰省をお互い一日ずらしてどこかに泊まろうかということになっていたのだ。大晦日のホテルなんて高い上に早くから予約しなきゃ取れないのに、俺の急な発熱のせいでキャンセルさせてしまった。
しかもそれだけじゃない。今日は大事な約束が果たされる日だったのにこの体たらく。マジで情けねえ。
「あれ、起きてたんだ。具合どう?」
「もう微熱。てか今朝のも大したことなかったのに。熱以外の症状なかったし」
「でも発熱って辛いじゃん」
いつもより口数は少なくなぜかこっちを見ない至さん。怒ってんのかな。至さんにとっても今日は特別な日になるはずだったのに出鼻をくじかれたもんな。
「すんません」
「何急に」
「せっかく泊まりに行こうって言ってたのに俺が熱なんか出したせいで取りやめになって」
「いいってそんなの」
「でも至さん怒ってない?」
「別に」
顔が見たくて、頬に触れようとした手が避けられる。
「…やっぱ怒ってんじゃん」
「怒ってないよ」
「だったらなんでさっきから俺の方見ねーんだよ……は?なっ、いたるさ、」
無理に俺の方に向かせた瞳が揺らめいて、今にも溢れ落ちそうで、すぐに隠されたそれに俺はめちゃくちゃ動揺した。
「寝てろって」
ぐいぐい押してくるがそんな状態の至さんを放っておとなしく寝てられるわけがない。
「分かった。ちゃんと横になってっから、なんで泣きそうな顔してんのか教えて。なぁ、俺なんかした?」
「……」
黙ってかぶりを振るのは違うという意だろう。
「泊まり、なくなったから怒ってる?」
「……」
ふるふる。
「じゃあ…」
一番考えたくなかったけど心当たりはあと一つだけだ。
「俺に触られんのやだ?」
「そっ、れは…」
「俺に、抱かれんの嫌になった?」
今日俺は、はじめてこの人を抱く約束だった。
好きになって、最初は本気にさえしてもらえなくて、それでも諦めきれなくて、何度も告白してやっと受け入れてくれたのは、俺が高校を卒業するときだった。
そのときに出された至さんからの条件が一つ。
俺が成人するまではプラトニックであること。
正直なところ両思いなったのならすぐさまアレやこれをしたいと考える健康的な男子高校生の俺にはめちゃくちゃ辛い条件だった。
だけど破天荒に見えて根は真面目な至さんが未成年とどうこうするのをためらう気持ちも分かるから、俺はしぶしぶその条件をのんだ。おかげで交際から二年も経つのに俺たちはちゅー止まりの中学生みたいな清い仲である。
そしてようやく二十歳を迎えたのが今年。俺の誕生日は秋組公演やそれに関してのゴタゴタがあって、流れに流れていた俺たちの初夜が今日だった。
もしかしたら至さんは約束だからと了承してくれてたけど本当は俺に抱かれることを迷っていて、今回俺が熱を出して流れたことでやっぱり無理だと考えてしまったんじゃないのかと不安になる。
「ばんりの…」
「ん?」
「それは万里の方じゃないの?」
「はぁ?」
「だって調べたら大人の知恵熱ってストレスとか緊張でなるって」
「あー…」
緊張。確かにそうかもしれない。
「やっぱり……、二年も待たせてる間に冷静になったら俺なんか抱きたくなくなったんだろ。でも万里は優しいからいまさら嫌になったとか言い出せなくてそのストレスで…」
「は?ちげーって!それすげぇ勘違い。むしろその逆!」
「逆?」
「聞いて至さん。ダセェ話なんだけどさ、やっと至さんを俺のものにできるのかと思ったら嬉しくて楽しみで。だけど俺はじめてだし上手くできんのかとか、もし至さんを気持ちよくできなかったら、痛いだけでしんどくさちまったらどうしようとか色々考えすぎて無駄に緊張してここ最近眠れなくて睡眠不足だっただけだっつーの」
「ほんとに?」
「ったり前だろ。俺がどんなにこの日を待ってたと思ってんだよ」
こんなかっこ悪いこと言いたくなかったけど至さんが変な自虐に走るより数倍マシだ。
「ふっ…は、楽しみにしすぎて熱出すとか、子どもみたい」
「ガキの頃でもこんなんなったことねーよ」
カンパニーに入って舞台の緊張感や楽しさを知ったけど、ちょっとやればなんでも器用にこなせたから、運動会も遠足も受験や入学式だって緊張して楽しみで体調に異常をきたすほど可愛げのあるガキじゃなかった。なのに大好きな人との初夜を前に熱出すとかマジでダサい。どんだけ緊張してんだ。
「はは、かわいいね万里」
「うっせ」
「そっか、安心した。うん、じゃあやっぱ今日しよ」
「は?」
「さっきもう微熱でしんどくないって言ってたじゃん」
「それはそうだけど」
「だったらしよ」
「ここで?!」
寮でコトに及ぶのは落ち着かないからと嫌がってたのに。
「大丈夫。みんな初詣して甘酒ふるまってもらってくるとか言って出て行ったから今寮内無人だし。そのまま初日の出見に行くらしいから朝まで帰ってこないよ」
「い、たるさ…」
いつもへなちょこパンチのくせにびっくりするほどの力で押し倒されて焦る。
「じっとして。イイ子にしてたら気持ちよくさせてあげるから」
「って、おいそれ俺のセリフ」
「だって、ずっと我慢してたのはお前だけじゃないよ。楽しみだったのも、緊張してるのも…」
知らなかった?と導かれた手に伝わるのはドキドキと常より早い鼓動。
あぁ、至さんも俺と同じなんだ。
「それにさ、新しい年にはじめて万里とするのも悪くないなと思って」
悪くないどころか最高だ。
至さんの手首を掴んで反転させると、期待と不安が混じった瞳が俺を見上げる。
「至さん、大事にするから」
「ははっ、まじめかよ。…うん、よろしくお願いします」
揺れるピンク色のルベライトが、情欲を灯してルビーみたいに赤が濃くなった。すごくきれいだ。
緊張で少しカサついた唇を合わせたとき、遠くの方から除夜の鐘の音が聞こえた。