色づきおれはひとりで海軍の雑務としての買い出しに出ていた。と言ってもそんなに大した量ではなく、本当にただの暇潰し程度でしかなかった。
少し時間が余ったので、中将と使うコンドームでも買い足そうかなぁなどとまたろくでもない事を考えながら陰気臭い路地裏に足を伸ばす。
――と、その時。
知らない手に腕を掴まれた。
男娼として働いていた事のあるおれにとってはこういう場所で引き止められるのは特段驚くようなものでもなかったので、適当にあしらおうとゆっくり振り向く、が。
「ようやく見つけた、久しぶりだね。会いたかったよ」
品定めするような耳障りな声。おれの事を知っている?心臓にへばりつく嫌な予感は残念ながら的中した。
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ふらふらとした足取りでスモーカー中将の部屋になだれ込む。
また怒られるかな、なんて考えながら勝手に作った合鍵も今はどうでもよかった。
いつもは揶揄うばかりの生意気なおれの様子がおかしい事に気づいた中将は、若干の戸惑いを見せながら迎えてくれた。
「…?おい、勝手に入ってくるなとか鍵をなんで持ってるとか言いたい事は山ほどあるが…どうした」
おれの顔を覗き込んでくるいつもの優しい中将に、おれは安堵と苦しさを覚える。
「…中将」
コートのはだけた中将の胸に、とんと額をあてる。
「おれが昔娼館で働いてたことは話しましたよね」
中将は ああ、となんの事だかよく分からないままに短く返事をくれた。
「…昔の客に、会ったんだ」
ぽつりぽつりと話し出す。
「愛してるって言われた。」
中将は驚いたような顔をしたが、すぐに先を促した。
「また金を出すからヤってくれって。本気で愛してるって」
依然として中将は静かに話を聞いてくれている。
「アイツはおれのこと愛してなんかいない、おれはただ貰った金の分の口上と身体で満足させてやっただけだ」
中将のコートを掴みながら整理の付かない感情が汚く滲む。何も分からない。
「アイツには奥さんもガキもいるんだぞ。それなのにおれに愛ってやつを求めてやってくる。愛ってなんだよ、分かんねえよ、なあ、中将、」
涙も出ない真っ黒の瞳で中将に縋る。かちりと目が合ってしまえば中将への歪な気持ちと皆が言う愛って奴への疑念がどっと溢れ出て止まらなくなってきた。
「おれは中将を愛してる。でもあいつらが言うようなあんな愛と同じならそれは嫌だ。わかんねえ、おれ、中将のためなら何度だって死ねるよ。どんだけ苦しんでもいい。でも中将はおれのことなんか愛してくれないって分かるからズタズタに傷跡付けたくてしょうがねえんだ。おれなしじゃ生きていけなくなっちまえば良いとも思う。でもさ、これって間違えようのない真っ直ぐな愛だろ?」
なぁ、と見上げる中で中将はただこちらを見下ろしている。縋るおれを振り払う事もせず立っている。
「おれは今まであいつらの言う愛ってやつを切り売りしてきたし、そういう汚ねぇ生き方しか知らなかった。そういう愛しか知らなかった。でも中将に抱く初めてのこの気持ちこそが本当の愛だって思う。おかしいのはおれか?あいつらか?」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきて、その呪詛にも似た何かはただ口から流れ出ていく。だが、堰き止められないそれは中将の僅かな動きで止められた。
中将がおれを抱きしめてくれたのだ。
「…あ?」
おれの脳は理解に時間を要した。
「分かったから、少し黙ってろ」
ガキをあやすような低い声。
じわりと伝わる体温、聞こえる穏やかな鼓動。
そのまま大きな手でぽん、ぽんと頭を撫でられた。
「お前の過去がどうあれ、俺はどうも思わねェよ。それにお前の事が気に食わないならとっくに消えてる。俺はどこにも行かねェ、ここに居るだろ。」
ダメな頭で中将の言葉をゆっくり噛み砕く。
"どこにもいかない"。
「……」
「今はそれでいいんじゃねえのか」
おれの髪をさらりと撫でてくれる手が心地良い。そうだ、中将がここにいると感じるだけでおれは幸せなんだ。今はあんな事しなくたって生きていける環境を中将のおかげで見つけ出せたのだから、もう悩み続けることは無いのかもしれない。脳はまだぐらぐら回る。
「はは、ヒデェ顔」
中将がおれの目を拭う。おれに触れてくれるどの動作も嬉しくて心臓が痛い。
そのままぎゅうと力を込めて中将を抱きしめ返して、中将の腕の中で深呼吸をする。今のおれにはこの人がそばにいてくれるんだと反芻する。中将はされるがままおれを受け止めてくれる。
「落ち着いたら仕事戻れよ。それまでは許してやる」
「ん」
中将の胸にぐりぐりと額を押し付ける。どうしようもなく好きだ。おれが幸せに浸っている中、中将は控えめに口を開いた。
「あと…今日の夜、部屋に来い。その…久しぶり、に。」
中将の余りにも下手なお誘いに、思わずおれは喉を鳴らして笑ってしまった。
「…いま」
わざとらしい潤んだ上目で見上げて強請る。
「調子乗んな、バカ。俺にも仕事がある」
デコピンを食らって引き剥がされた。
こういうのが効かない中将も好きだ。
「おら、そんなに元気なら戻れ。後でまだまだガキなお前をたっぷり甘やかしてやるから」
いつもおれに泣かされてるくせになぁ、と思いながらも気の抜けた返事をして部屋を後にする。
愛を言葉にしない中将だけど、それは歪な愛しか知らずに育った懐疑的なおれへの気遣いなんだろう。
やっぱり中将は大人だなぁ、と思いながらも今晩はどんな事をしてもらおうかと機嫌よく仕事に戻った。