8/17 インテ サンプル「まるでサイダーのように」 激しく夏の虫の音が響き渡る。疲れた頭にはガンガンと騒音のように鼓膜を震わせる。また、夏が来てしまった。照りつける日差しは一層強く、夏を忘れるなと言わんばかりに熱を放射する。
「あつ、」
あの人は去年卒業したから、もうこの東京合宿には参加していなかった。あたりまえ。師とは同じコート上で正式な試合はできない。
月島にとって黒尾鉄朗という師は、一言で言うと越えられない存在。春高で烏野のチームとして勝ったものの、ブロックもディグも全部が全部同等にできたわけではなかった。
練習試合中何を考えているんだか。首を軽く振った矢先、普段ならあり得ないミスをしてしまった。練習試合終了後、日向に月島は一言もらう。
「月島さんは今日集中してないんですか!」
「ちょっと、黙っててくんない?自分でも調子悪いのわかってるから」
いつも騒がしい奴に指摘され、余計に苛立ちが募る。僕だって集中したい。あの人のせい。そう、あの人の。
「そうだぞ日向!疲れてる時にそれ言われたら嫌でしょ」
山口の声で少し頭が冴える。あの人のせいという考えに至っただけで良くない。悪循環。考えれば考えるほど、疲れ切った脳にはうるさく鳴り響くサイレンのように気持ちを無視しようにもできないのだ。
「……山口うるさい」
「ごめんツッキー!」
いつも、いや、今までの合宿と無意識に比較してしまう。なぜか。それは明白だった。
「そういえば、黒尾さんと木兎さんいないから静かだなー」
日向の言う通り体育館は静かだった。余分な声が飛び交うことのない、去年とは違う。そう、やっぱり黒尾はいない。やっぱり追いかけてしまうんだ。自分自身に無理矢理押さえ込んでいた気持ちがこぼれかける。
「あたりまえでしょ、うるさい人たちいないんだから」
いない。この東京の合宿に。こぼれかけた気持ちに再度封をしようにも反発してどんどん大きくなるというのがこの世のさが。少しの隙間からぽつり、ぽつりと止まることを知らない。
「月島、仲良さげだったのに先輩にそんなこと言うんだ」
「客観的に見たらそうでしょ」
早くこの気持ちをどうにかしたい。もやがかかっていくように思考が鈍る。ふつふつと流れてくる汗をタオルで拭い、程よく冷たいスポーツドリンクを喉に流し込む。
「なんだよ、月島変なの〜プールでも入ったらスッキリするか?」
「何その、野生児発言。やめてくれる?」
「なにをー!」
蒸し暑い時のプールなんてそれはそれで冷静さを取り戻すにはちょうど良いかもしれない。野生児にしてはちょっとは良いこと言うじゃん。絶対に言ってやらないけど。
「……各自ご飯食べて風呂入るように」
主将の声が辛うじて耳に入り、重い脚を動かす。食堂に行き、夕食を目の前にするも手や口は動かしづらく、一般的な並の量でさえいつもの数倍多く感じる。思考をクリアにするべく心地よいはずのシャワーを浴びるも、湯気が溜まるばかりでメガネを外した視界は余計に輪郭を捉えることを遮った。湯船に浸かろうも、どこか心が落ち着かない。そんなモヤを抱えながらいつの間にか布団の上。寝れるわけがなかった。
「……はぁ、」
エアコンがついているもののほんの少し暑さが紛れるだけ。思考による寝つきの悪さと暑さによる寝苦しさが去年の記憶を思い出せた。
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あの日も寝苦しい夜だった。初めて来たところでスヤスヤと眠れる単細胞組が月島は羨ましかった。何度瞼を閉じても寝ることが出来る気がしない。何か飲めば気休めになるかもしれないと他の部員を起こさないようにそっとドアを動かした。他校の先輩に自販機の場所を教えてもらった通りに行った。
「はぁ、嘘でしょ……」
しかし、財布を持ってくることを忘れてしまった。ため息をこぼしながら自販機前のベンチで腰をかけた。月島が通った道と反対方向から聞き馴染みの声が聞こえた。
「え、ツッキー?」
「……こんばんは、黒尾さん」
黒尾は前髪をたくし上げ、不思議そうに挨拶を返す。
「こんばんは??律儀に挨拶するんだ、ちょっと意外」
「はぁ、」
「しかもよく俺だってわかったね、風呂入ったから髪の毛下ろしてるのに。誰だって聞かれることの方が多い」
首にタオルを巻き、水滴がついた髪を見て聞いた通り風呂上がり。いつもの見慣れた主張の激しい頭を持ち合わせていなかった。月島は知っていた。よく参考に見ていた、そして指示を聞くためよく耳をすませた相手。間違えるはずがなかった。適当に濁して月島は答える。
「……声が黒尾さんだったので」
「へー、そこまで覚えられてるとは」
「たまたまですよ」
そう、ほんの偶然。気になりはじめたのも。もっと話してみたいと思ったのも。他校の先輩と後輩以上の関係をもってみたいと思ったのも。
「つーか、こんな時間に一人でどうした?何、ツッキー寝れないの?」
髪の毛の水気を大雑把にワシワシとタオルで拭く黒尾に、月島は不覚にも目を逸らし俯いてくぐもった声で答える。
「落ち着かなくって」
とす、とベンチが揺れた。明らかに近い。顔を覗き込むように見られた。黒尾は胸に手を当て、胡散臭い顔でニヤリと口角を上げていた。
「先輩が話を聞いてあげよう」
「他校ですよね」
「そんなに線引きしなくても。とって食うことはねぇよ」
「何を言ってるんですか」
「さて、何を言っているでしょう」
バレーだけでなく言葉の文が上手く相手を転がすのは専売特許。それが月島から見た黒尾。一言一句気にするだけで相手の思うツボ。あえて触れずに月島は流した。
「ツッキーは甘いもの飲む?」
急に静寂を恐れるかのように黒尾は話す。
「ええ、まぁ、はぁ」
「じゃあ、これ俺の奢り」
自販機からガコンと二つ飲み物を買い、見慣れてる方を差し伸べられる。いちごオレ好きそうって。いや、好きですよ。知っててやっているのかと疑う程の笑顔とその声に心が乱れていくのがわかる。
「……ありがとうございます」
「味わって飲んで」
サイダーを片手に、カシュ、と蓋を開け、ごくりと飲む黒尾の様子をなぜか月島は目を離せなかった。理由なんて明確であったが、気づいてはいけない感情だと頭が言っている。そんな感情に忙しい月島を黒尾は気にもせず一つの提案をした。
「ん、なぁに?一口飲む?」
「別に結構です」
「そう?」
黒尾は眉を下げ、少し残念そうに月島に渡しかけたペットボトルを持った手を引っ込めた。どうしてそんな顔するんですか、なんて聞けなかった。聞けるわけがなかった。聞けば封じ込めたい感情を二度と蓋をすることができなくなるとさえ思った。
ぷすり。月島はいちごオレにストローを差し、牛乳の中に紛れたいちごの味を必死に探した。いつもと違うのは甘いと感じるはずなのに、いちごの味さえしない。おかしい。
「ツッキー、頬赤いけど大丈夫?勢いよくいちごオレ飲み過ぎた?それとも暑さにやられた?」
ごほっ。急に話しかけられて咽せてしまう。嫌なところに入った。ストローから口を離し、大きく前に倒れ込む。
「咽せた?!ゆっくりでいいからな」
横にいた黒尾はペットボトルをベンチの上に置き、月島の背中に手を置き優しく摩った。背中越しにもわかるその手の大きさと温かさが痛いほど心に沁みる。早く咳止まれよ。思えば思うほど喉は痛くなり腹部が強く圧迫される。
「無理に止めなくていいよ。大丈夫。俺しかいないから」
それが大問題なんです。変に弱ってるところを見られたから。優しくしてくるから。ありえないけど、行き場のないこの感情を肯定された気がしたから。ぽたりと黒尾の髪から落ちた一滴が地面に落ちる。
「はーっ、は、ぅぐ……ふぅ」
気管に入った違和感は軽減され、咳をする回数が段々と少なくなった。咽頭のあたりが少しひりつくのを感じながらめい一杯空気を肺へ入れ込む。
「そうそう、上手上手。その調子で呼吸してみて」
咳は止みかけ先ほどに比べて呼吸しやすくなった。背中の手は一定のリズムで軽く優しく触られていた。
「はぁ……ありがとう、ございます。もう、大丈夫です」
右手で服の中央に大きく皺を作る。適当に口元を拭き、表情を隠すように覆った。深呼吸をし、心を落ち着かせる。
「良かった〜急に話しかけて驚いたよな、悪い」
背中に触れられていた手が離れることに寂しさが募る。その感情を表情に示す訳にはいかなかった。月島はぺこり、と顔を隠すように軽く頭を下げた。
「いえ、勝手に僕が咽せただけなので」
「次から急に話しかけないよう気を付ける。ゆっくりいちごオレ飲みなよ」
「はい、そうします」
開けっぱなしのサイダーに炭酸は残っていただろうか。いちごオレのパックは水滴だらけ。再び飲んでみればほとんど常温。一口目に飲んだ時とは違ってヤケに甘さが残っていた。ずぞ、最後のいちごオレを飲み切り、くしゃりと潰す。
「よーし、飲み終わったみたいだな。そろそろ戻るか。ツッキー寝れそう?」
「寝られるどうかはわかりませんが、目は瞑ってみます」
「目を瞑ることだけでも大事っていうもんなぁ、また寝れなくなったら話し相手にはなれるよ」
「そうですか、考えておきます」
「なんでそう塩対応なの!?ツッキーらしくていいけど」
「どういうことですか」
「秘密です」
秘密という言葉を貼られた以上、踏み込むわけにはいかなかった。その秘密がどんなものか嫌でも頭は考えてしまう。また一つ眠れない要因ができてしまった。