的場ゆめ静寂の中、静司の耳に聞き慣れぬ鈴の音が響いた。草むらをかき分けながら進むと、そこには一人の少女が立ち尽くしていた。ぼろぼろの服に、傷だらけの細い腕。そして、静司の目を捉えたのは、その手の中で黒く濁る妖怪の死骸だった。
「……お前がやったのか?」
少女は顔を上げた。その白く濁った瞳が、まるで何も映していないようで、静司の背筋に冷たいものが走る。それでも、彼女は確かに頷いた。
「やっつけた。……怖かったけど、近づいてきたから」
彼女の声は震えていたが、奇妙に冷静だった。妖怪祓いとしての経験が豊富な静司は、即座に異変に気付いた。妖怪は自然に死なない。しかも、ここに倒れているのは、それなりに手強い部類のものだ。目の前の小さな少女がどうやってこれを倒したのか、彼には見当もつかなかった。
「あなた、何者ですか?」
少女はかすかに首を傾げた。「何者」――その言葉がわからないかのようだった。
「……知らない。でも、手が勝手に動いたの。『消えろ』って思ったら……こうなった。」
静司は足元に転がる妖怪の死骸をもう一度見下ろした。少女が本当にそれを祓ったのなら、単なる偶然では片付けられない。「消えろ」という思念だけで妖怪を祓える力。それは、並みの人間には到底持ち得ない力だった。
***
その後の数時間、少女――自称「いちご」は、自分がどこから来たのかも、名前以外の記憶も持たないことを静司に話した。そして、手が勝手に動いて妖怪を追い払うことがこれまで何度もあったことも。
「つまり、あなたは――」
静司は言葉を切り、目を細めた。「私が祓うのに苦労するような奴らを、簡単に消せる力を持っている…そういうわけですね」
少女は不安げな表情で静司を見上げた。「……迷惑なら、どっか行くよ。邪魔にはなりたくないし」
静司は短く鼻を鳴らして笑った。「ふふ…。迷惑どころか。私が放っておけるわけがないじゃないですか」
「なんで?」
「あなたは妖怪を祓える。私は妖祓いです。一緒にいることはお互いのためになります」
「なんで妖怪を祓わなきゃいけないの?」
「商売敵のため。」
しょうばい、がたき。少女は小さくそう呟いたあと、手を開いてぐーぱーぐーぱーと動かした。まるで言葉の意味を懸命に理解しようとするかのような動きに、彼女に教養がないことを察した静司は、簡単な言葉で言い直す。
「商売敵というのは、私と同じことをする人ということです。かけっこで、隣を走るようなかんじです。」
分かっているのか分かっていないのか。
少女はふるふると頭を振ってから ────うんうんと唸って、「わかった。」
と言った。
「私は、静司と一緒にいればいいんだね」
「……そういうことになりますね」
「じゃあそうする」と少女は言った。静司はその単純さに思わず苦笑する。
「あなた、名前は?」
「……わかんない。でも『いちご』って呼ばれてたことはあるよ」
絶妙な空白が二人の間を支配する。まるで二人の間の関係性を測るような、微妙な間がお互いを包んでから。静司が少女の前に手を差し出した。
「では、私があなたに名前をあげます。『的場』は私を表す苗字です。だから、あなたは今日から『的場いちご』です」
「わかった」と少女は言った。そして、その小さな手で静司の手を握り返した。
「よろしくね、静司」
***
「これは酷いねえ」
七瀬が見ているのは「いちご」の精神検査の結果紙だった。IQにバラつきがあり、その水準はいずれも低い。同年代の平均値とは比べ物にならない ─────それを見て、的場も七瀬も苦笑した。
いちごが元いた場所には検討がついている。あの体の傷に、幾つもの根性焼きの跡。この田舎で、噂話を中心として家を特定していくのは容易い。親から日常的に虐待を受けていたのだろう。
「いちごは…虐待を受けていたようです」
的場が言うと、七瀬は「やっぱりか」と呟いた。
そのせいか、いちごの発達には随分な遅れがあった。おまけに戸籍も住民票もない。宙ぶらりんになったいちごに警察は孤児院を勧めたが、当の孤児院側から的場家での引き取りを推奨される始末。いちごを引き取ることは比較的簡単だった。
「こんなことは代々続くウチでも初めてだよ。まさか式でも妖でもなく人間を育てることになるなんて」
七瀬がため息混じりにぼやく。的場は苦笑し、それから机に突っ伏して寝ているいちごの髪をそっと撫でた。
「私があの日、彼女を拾ったのは……きっと運命だったんです」
「まさか」と七瀬は笑ったが、的場の表情は真剣そのものだった。
「私は彼女を一目見たときから何か感じるものがありました。この子は守らなければならない……そう思いましたから」
「この子には的場家の人間兵器になってもらいます」
「それを言うなら部下だろう、静司」
「だって、かっこいいじゃないですか」
「まったく…」
的場の父は、呆れたようにため息をついた。
***
いちごは静司の予想を裏切らず、その類稀なる才能で的場に勝利をもたらし続けた。彼女の力は、的場家にとってなくてはならないものとなりつつあった。しかし、それは同時にいちごの存在を周囲に知らしめることにもなった。
ある日、いちごが学校から帰ると、玄関に見知らぬ靴があった。居間には父と知らない男がいた。男は父に向かって何かを話しているようだったが、その内容までは聞こえない。いちごはなんとなくその場に居たくないような気持ちになった。
「なぜうちの娘がここにいる!!」
びくりと体が震えた。なんでか、その声を今までも何度も聞いてきたような気がした。足に力が入らない。段々と頭がぼうっとして、意識が宙に上がるような気分になる。廊下のフローリングに自分の髪の毛が映るのが、なんだか遠い景色のように思えてくる。
「的場の仕事だ!!お前が口出しすることではない!!」
男は大声で何かを言っている。父はそれを黙って聞いているようだったが、やがて冷たい声で言った。
男が歯をむき出しにする。その様子を見て、いちごの呼吸はどんどん浅くなっていく。気分が悪い。息が苦しい。体に酸素が回らなくなってくるような感覚だ。ああまずいなあと思うが、もうどうすることもできない。
その時だった。
「どうしたんですか、廊下に突っ立って」
「静司」
「お父さんたちは大事な話の最中です。私と一緒にお菓子でも食べましょう。ね?」
そう言って、静司がいちごの手を引く。
静司に手を引かれると、いちごはようやく浅い呼吸を整えることができた。体中の力が抜けたような感覚で、ただ静司の後ろをついていく。
「ほら、座って。少し待っててください。すぐに甘いものを用意しますから」
静司は台所へと向かい、いちごを座らせたまま音を立てて何かを準備し始めた。その音が、先ほどの騒ぎの残響を少しずつ薄れさせていく。
静司が戻ってきたとき、手には湯気の立つカップと、小さな皿に盛られたお菓子があった。いちごはその匂いに誘われるように目を見開いた。
「ホットミルクとどら焼きです。あなた、甘いものが好きでしょう?」
静司が柔らかい笑みを浮かべて差し出すと、いちごは無言でうなずき、恐る恐るどら焼きに手を伸ばした。一口かじると、口の中に優しい甘さが広がる。次第に表情が和らぎ、ぎこちない動きでホットミルクにも手を伸ばした。
「おいしい?」
いちごは小さく頷いた。静司は安心したように椅子に腰を下ろし、彼女をじっと見つめた。
「……さっきの男、知り合いですか?」
いちごの手が一瞬止まった。その瞳には怯えの色が浮かんでいる。静司は続けた。
「いや、無理に答えなくてもいい。ただ、何か困ったことがあれば私に話してください。いちごが何も言わなくても、私はあなたを守りますから」
その言葉にいちごの手は震えながらも動き出し、どら焼きをもう一口かじった。
「……静司、ありがとう」
彼女の声は小さく震えていたが、確かに届いた。静司は目を細め、彼女の頭を軽く撫でた。
***
その夜、静司は父の書斎で一人、椅子に座って考え込んでいた。あの男――いちごの過去に関わる人物に違いない。いちごの態度と反応から、彼が彼女にとって恐ろしい存在であることは明白だ。
「いちごを殴っていた人とはあの人なんでしょうか」
いちごの根性焼きの跡がフラッシュバックする。やれと言われてもあんなことできない。あんなことする人間が心を改めるわけがない。
「……いちごは渡さない」
兄としての感傷か、それとも妖祓いのための利害か。
「……胸糞悪いな」
静司は小さく舌打ちをしたが、その目の奥には静かな怒りが宿っていた。
彼女と父親を近付けてはならないことは明白だった。しかし、実父の怒りを買って───────例えば下校中のいちごを襲われたりしたらたまったものではない。
(引越しも検討すべきか……。)
妖とは訳が違う。人間の問題は人間のルール間で解決しなければいけない分タチが悪い。その相手が人間のルールを遵守する者なのかわからない分尚更だ。
静司は書斎の椅子に深く座り直し、目を閉じた。人間の問題は、妖怪よりも厄介だ。引っ越しの選択肢を思案しながらも、静司は頭を振る。
(いや、それでは根本的な解決にはならない)
いちごを守るには、まず彼女の父親――あの男の存在をどうにかしなければならない。力でねじ伏せるのは簡単だが、それではいちごにとっても悪い影響を与える可能性がある。静司はため息をつきながら、机に置かれた資料を見つめた。
その時、ドアが小さくノックされる音がした。
「静司……?」
扉の向こうから、か細い声が聞こえた。静司は顔を上げ、椅子を引いて立ち上がる。
「どうしました?眠れませんか?」
扉を開けると、いちごが立っていた。小さな手で自分の袖をぎゅっと掴み、心細そうに静司を見上げている。
「……なんか、怖い夢を見た」
静司は少し驚いた。いちごは感情をあまり表に出さないタイプだと思っていたが、彼女の瞳には怯えがはっきりと浮かんでいた。
「大丈夫です。私がいますから、怖いことはありません」
静司はしゃがみ込み、いちごの目線に合わせる。そのまっすぐな声に、いちごは少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとう。でも、まだ怖い」
静司は少し考えた後、立ち上がり手を差し出した。
「じゃあ、一緒に眠りましょうか?私がそばにいれば、悪い夢は追い払えますよ」
いちごは驚いたように目を見開いたが、小さく頷いて静司の手を取った。
***
静司は寝室の端に布団を敷き、いちごを寝かせた。自分は椅子に腰掛け、そばで本を開いて見守る。
「静司……」
いちごがぽつりと名前を呼ぶ。
「ん?」
「……静司って、怒ると怖い?」
静司は少し眉を上げたが、すぐに柔らかい声で答える。
「怒ると、少し怖いかもしれません。でも、それは誰かを守るためです」
いちごは目を閉じ、静司の言葉を反芻するように黙り込んだ。そして、ぽつりと言った。
「……さっきの人……私、嫌い」
静司は少し驚きながらも静かに答えた。
「それでいいんです。無理に好きにならなくても大丈夫ですよ」
「……静司は?」
「私はあなたを嫌いになんてなりません」
その言葉に、いちごは小さく「うん」と頷いた。
「おやすみなさい、いちご」
静司がそう囁くと、いちごはようやく安心したように目を閉じ、静かに眠りについた。
***
翌朝、静司は七瀬を訪ねた。
「相談があります。いちごの父親――あの男を何とか遠ざける方法を考えなければならない」
七瀬は面倒そうに眉をひそめながらも、静司の話を聞いていた。
「確かに、実父という立場は厄介だよ。でも、彼がいちごを取り戻そうとしている明確な理由がわからない。単なる感情的なものなのか、それとも……」
静司は苦い顔をした。
「……もし感情的なものなら、暴力的な手段に出る可能性が高いです」
「そうなると、まずいな」
七瀬は頭を掻きながら考え込んだ。
「どうする?警察に頼るか?それとも……」
「警察の介入はできれば避けたいですね。もっと根本的な解決策を見つけたい」
静司の瞳には、いちごを守るための決意が強く宿っていた。
「……七瀬さん、あの男の身辺を探れますか?なぜ彼が今さらいちごに執着しているのか、それを知りたい」
七瀬は少し驚いた顔をしたが、静司の真剣さに頷いた。
「わかった。少し時間をくれ。何かわかればすぐに連絡する」
静司は深く頭を下げた。
「お願いします」
***
その夜、静司は再びいちごを寝かせた後、一人書斎で資料を広げていた。いちごの父親の情報を集めながら、彼女を守る方法を模索する。
(彼女を安全にするためには、この家だけでは限界がある)
翌朝、静司はいつもより早く目を覚ました。書斎で眠っていた彼の肩には薄い毛布がかけられていた。恐らくいちごが掛けてくれたのだろう。彼女なりの気遣いに、静司は思わず苦笑した。
「全く、手間のかかる子だ」
そう呟きながら毛布を畳むと、リビングへ向かう。台所ではいちごが小さな手で包丁を握り、何やら一生懸命に野菜を切っていた。
「おはようございます、静司」
いちごは振り返り、少し得意げな表情を見せた。静司はその姿に目を細める。
「危なっかしいですね。何を作っているんですか?」
「昨日のお礼に、朝ごはんを作ろうと思って。でも、あんまり上手じゃないかも」
まな板の上には不揃いな野菜が転がっていたが、彼女なりの気持ちが伝わってきた。静司は近づいて手を伸ばす。
「それなら手伝いましょう。あなた一人に任せるのは危険ですから」
二人で作った朝食は、いちごの手際の悪さも相まって見た目は少し不格好だったが、どこか温かさを感じる味だった。
***
その日の午後、七瀬から連絡が入った。
「静司、調べたぞ。いちごの実父……あの男のことが少しわかった」
七瀬の声はいつになく低かった。
「どうやら、いちごを引き取りたい理由は金のためだ」
「金?」
「ああ。いちごが貧困家庭で育ったのは事実だが、最近になって彼女の存在がとある組織に知られたらしい。その組織は妖祓いに興味を持つ裏社会の連中だ。いちごの能力を金で売り渡すつもりだろう」
静司の眉がピクリと動いた。
「……つまり、あの男は自分の娘を商品として扱おうとしているということですね」
「ああ。だが、それだけじゃない。どうやら奴は過去にも似たようなことをしている。いちごは単なる犠牲者の一人だ」
静司は七瀬の言葉を聞きながら、拳を強く握りしめた。その瞳には怒りが宿っている。
「わかりました。私が彼を止めます」
「待て、静司。感情的になるな。相手は人間だ。慎重に動け」
七瀬の言葉にもかかわらず、静司の決意は揺るがなかった。
「いちごを守るためなら、どんな手段を使ってでも私は彼を排除します」
***
その夜、静司はいちごに声をかけた。
「いちご、明日少し遠くへ出かけましょう」
いちごは少し驚いた顔をしたが、嬉しそうに頷いた。
「うん!静司と一緒なら、どこでも行くよ」
彼女の無邪気な笑顔を見た静司は、改めて心の中で誓った。
(この笑顔を守るためなら、どんな困難にも立ち向かう)
静司は彼女の頭を優しく撫で、微笑んだ。
「早く寝るんですよ。明日は少し早起きになりますから」
「わかった!」
いちごが部屋へ戻るのを見送った後、静司は再び書斎に籠もり、計画を練り始めた。彼の脳裏には、いちごを守るためにやるべきことが次々と浮かんでいた。
(明日が勝負だ。あの男には二度といちごに近づかせない)
静かな夜に、静司の決意だけが重く響いていた。
翌朝、静司といちごは早くから家を出た。目指す先は、的場家が代々受け継ぐ「隠れ屋敷」と呼ばれる安全な避難場所だった。表向きには使われていない古い屋敷だが、外部からの侵入を防ぐ結界が張られ、的場家の危機管理の拠点として密かに利用されてきた。
「ここ、静司の家なの?」
いちごは屋敷の門を見上げて不思議そうに呟いた。周囲には高い塀が巡らされ、古びた木の門が重厚な雰囲気を醸し出している。
「そうですね。まぁ、少し古いですけど」
静司が軽く肩をすくめて答えると、いちごは少し笑った。
「静司の家って、いろんなところがあるんだね」
「的場家は昔から妖祓いをしてきた家系なので、こういう場所が必要だったんです。安全を確保するために」
門をくぐると、いちごは目を輝かせて屋敷の中を見回した。古びた木造の廊下や広々とした庭が広がっている。
「ここなら安心だよ。静司がいるし、なんかあったかい感じがする」
その言葉に、静司は微かに笑みを浮かべた。
「そう感じてくれるなら良かった。少しの間、ここで過ごしましょう」
***
静司が屋敷の周囲に結界を張り直している間、いちごは庭の縁側に座り、静かな時間を過ごしていた。しかし、その安らぎを破るように、突然、屋敷の外から鈴の音が響いた。
「……静司!」
いちごが慌てて声を上げる。静司はすぐに庭へ駆けつけた。その表情は厳しく、いつでも戦えるよう手に妖祓いの符を握り締めていた。
「どうしました?」
「外から……鈴の音がしたの」
静司は耳を澄ませた。確かに微かだが、不規則な鈴の音が屋敷の周囲を巡っている。妖の気配は感じられないが、不気味さが胸をざわつかせる。
「……いちご、中に入っていてください。ここで待っていなさい」
「でも……!」
「大丈夫です。何があってもあなたを守りますから」
静司の真剣な声に、いちごは渋々頷き、屋敷の中へ戻っていった。
***
静司は屋敷の門を開け、外へ出た。そこには、鈴を手にした黒ずくめの男が立っていた。その顔は薄笑いを浮かべている。
「あなたがいちごの保護者……的場静司さんですか?」
静司は男をじっと見つめながら、冷たい声で答えた。
「そうですが、それが何か?」
「娘を返してもらおうと思いましてね。いちごは私の子供だ。私が引き取るのが当然でしょう?」
その軽薄な言葉に、静司は内心で舌打ちした。
「……あなたのような人間がいちごを引き取る資格はない」
「それはあなたが決めることではないでしょう?」
男は一歩近づき、鈴を揺らした。その音に混じって、空気に異様な気配が漂う。
「この鈴には、妖を呼び寄せる力があるんですよ。あなたの結界がどれほど強力でも、これを突破できる奴らはいる」
静司の目が鋭く細められる。
「……いちごを餌に妖を呼ぶつもりですか?」
「さあ、どうでしょうね。お前が素直に娘を渡せば何も起こらないかもしれない。だが、渡さないというのなら……」
男が鈴を振ると、周囲の空気が急激に変わり始めた。静司は冷静に符を取り出し、戦闘態勢に入る。
「いちごは渡しません。そして、あなたもここから帰すつもりはない」
「ほう、やりますか?」
男が不敵な笑みを浮かべた瞬間、周囲の影が蠢き始めた。鈴の音に引き寄せられた妖たちが姿を現し、静司を囲む。
「見せてもらいましょうか。的場静司、あなたの力を」
***
屋敷の中では、いちごが不安そうに耳を澄ませていた。外から微かに聞こえる鈴の音と、何かがぶつかる音が胸を締め付ける。
「……静司、大丈夫かな」
彼女はその小さな手をぎゅっと握りしめた。自分には、静司を助ける力があるのだろうか。頭をよぎるのは、今まで無意識に発揮してきた「消えろ」という思念の力。
「……私、何かできるのかな」
不安と恐怖を押し殺しながら、いちごは静かに立ち上がった。その瞳には、小さな決意の光が宿っていた。
外では、静司と男が対峙していた。鈴の音に引き寄せられた複数の妖怪が、暗闇から姿を現し、静司に向かって唸り声を上げている。
「さぁ、どうしますか、静司さん?これだけの妖怪相手に、あなた一人でどうにかできるかな?」
男が鈴を振るたびに、妖たちは更に苛立ち、牙を剥いて静司に迫る。しかし、静司の表情は微動だにしなかった。
「私一人では確かに厄介ですが――残念でしたね。私は一人じゃない」
その言葉と同時に、屋敷の扉が音を立てて開いた。中から現れたのは、震えながらも真っ直ぐ歩を進めるいちごだった。
「いちご!戻れ!」
静司が叫ぶが、いちごは首を横に振った。
「……静司を守りたいの」
静司の瞳がわずかに揺れる。いちごはそのまま彼の隣に立つと、小さな手を胸の前で組み、凛とした瞳で妖たちを見据えた。
「もう怖くない。……やっとわかった。私の力、静司を守るためにあるんだ」
彼女の言葉が空気を切り裂き、その場の空気を変えた。
「お前の力だと?くだらない!」
男が鈴を振り、妖たちが一斉に飛びかかってくる。その瞬間、いちごの瞳が強く光を放った。
「……消えろ」
たった一言。その声に反応するように、いちごの周囲に見えない波紋が広がり、迫り来る妖たちが一瞬にして塵となり消えた。
静寂が戻る中、男は目を見開いて後ずさった。
「な、なんだ、その力は……!」
いちごはふらりと膝をつきそうになるが、すぐに静司が支えた。
「よくやりました、いちご。でも、無理はするな」
「……うん。でも……」
いちごは消えた妖たちがいた場所を見つめ、唇を噛んだ。
「……私、消しちゃった。静司の家で見た式と同じなのに……あの子たちと遊んだのに……」
その小さな声には深い罪悪感が滲んでいた。静司は優しく彼女の肩に手を置き、静かに言った。
「いちご、あれは式でも妖でもなく、君に襲いかかる存在だった。君が守らなければ、私が傷ついていたかもしれないんだ。だから、君は何も間違っていない」
その言葉に、いちごの目から涙がこぼれた。
「でも、静司……」
「大丈夫だ。君が守りたいものを守った、それだけで十分だよ」
静司の言葉にいちごは小さく頷き、涙を拭った。
***
「茶番は終わりか?」
突如、男が声を上げた。彼は静司といちごを睨みつけながら、冷たい笑みを浮かべている。
「さて、娘を返してもらおうか。お前にはもう用はない」
男がいちごに向かって歩み寄ろうとした瞬間、静司が間に立ちはだかった。その瞳には冷徹な怒りが宿っている。
「……物みたいに扱うのはやめろ」
「何を言っている?」
「聞こえませんでしたか。二度言わせないでください。いちごを物扱いするな」
静司の低く響く声に、男は一瞬怯んだ。しかし、すぐに強がったように鈴を振る。
「どれだけ吠えたところで、お前には関係のない話だ。私は親だぞ。子供をどう扱おうが私の勝手――」
その言葉が終わるより早く、静司の拳が男の顔面を打ち抜いた。鈴が地面に落ち、カラン、と音を立てる。
「勝手にしろ?ふざけるな」
男がよろけながら顔を押さえる。静司は無表情のまま、さらに一歩前に出た。
「お前に父親の資格なんてない。いちごを引き取る資格も、触れる資格も、名前を呼ぶ資格すらない」
男は恐怖を浮かべながらも睨み返す。
「貴様、ただの妖祓いだろうが!」
「そうだ。だが、今ここにいるのは妖祓いではない。守るべき人を傷つけようとする者を許さない、ただの兄だ」
静司の拳を握り締める音が響いた。
***
いちごはその場を固唾を飲んで見守っていた。静司の背中は頼もしく、そしてどこか悲しげに見えた。
「……静司」
彼女の小さな声に、静司は振り返らなかった。
「いちご、大丈夫だ。君はもう何も怖がらなくていい」
そう言い放った彼の言葉に、いちごは初めて心から安心し、彼の背中を信じることができた。
「……くそっ!」
男は地面に転がった鈴を掴み、再び振り上げようとした。しかし、静司はそれを見逃さなかった。次の瞬間、男の腕を掴み、鈴を叩き落とす。
「これ以上、不快な音を聞かせるな」
静司の冷たい声に、男は怯えたように体を震わせる。
「お前にいちごを傷つける資格も、彼女を利用する資格もない。ここから先、二度と彼女に近づくな」
静司は鈴を拾い上げると、それを握りつぶし、無残な鉄くずと化した鈴を男の足元に投げ捨てた。
「わかったか?」
静司の低い声に、男は唇を噛み締めながら睨み返す。
「……お前のような外野がしゃしゃり出るな。この子は私の娘だ!」
その言葉を聞いた静司の目がさらに鋭くなった。
「いちごはあなたの道具ではない。彼女は……大切な家族だ」
静司の言葉に男は何かを言い返そうとしたが、その時、不意にいちごの声が響いた。
「……静司、もういい」
静司が振り返ると、いちごがゆっくりと前に進み出ていた。その小さな体は震えていたが、目には強い意志が宿っている。
「私、わかったよ。静司が守ってくれたから、やっと気づいた。私の力は、誰かを傷つけるためじゃなくて……大切な人を守るためにあるんだ」
彼女の言葉に、静司は目を細めた。その顔には僅かな安堵の色が浮かんでいる。
いちごは男をじっと見つめた。恐怖や怯えはその瞳にはもうなかった。
「……あなたが父親だっていうのは、たぶん本当なんだと思う。でも、私は……あなたと一緒にはいられない」
男は口を開こうとしたが、いちごの言葉に遮られる。
「私は静司といるのが一番安心するし、幸せだよ。だから、私に近づかないで」
その小さな声に、男は一瞬言葉を失った。そして、唇を歪ませ、悔しそうに呟いた。
「……勝手にしろ」
そう吐き捨てると、男は踵を返し、屋敷を後にした。
***
男が去った後、いちごはその場に座り込んだ。静司は彼女のそばに膝をつき、その肩に手を置く。
「よく言いましたね、いちご」
静司の言葉に、いちごは小さく頷いた。
「……静司がいてくれたから、怖くなかった」
その言葉に静司は微笑み、いちごの頭を優しく撫でた。
「もう大丈夫です。あの男は、もう君に近づけません」
「……ありがとう、静司」
いちごの小さな声に、静司は深く頷いた。
***
それから数日が過ぎ、屋敷には再び静けさが戻った。いちごは以前よりも穏やかな表情を見せるようになり、庭で静司と一緒に散歩をする姿も増えた。
ある日、いちごは縁側に座りながら、静司に問いかけた。
「……私、ちゃんと強くなれるかな?」
静司は少し考え、柔らかい声で答えた。
「君はもう十分強いですよ。自分で自分の力の意味を見つけましたから」
「でも……私、まだ怖いよ。誰かを傷つけることが」
いちごの言葉に、静司は少しだけ苦笑した。
「怖いと感じることは悪いことではありません。その気持ちは、君が優しい証拠です。そして、優しさを持ったまま強くなれば、きっと君は誰よりも素晴らしい妖祓いになります」
その言葉に、いちごは驚いたように静司を見つめた。
「……私が、妖祓いに?」
「そうです。君がそうしたいと思うなら、私は全力で手伝います」
静司の言葉に、いちごは少しだけ考え、力強く頷いた。
「……うん、私、やってみたい!静司と一緒に妖を祓うの!」
その明るい声に、静司は微笑み返した。
「では、今日から少しずつ訓練を始めましょうか」
こうして、いちごと静司の新しい日々が幕を開けた。
いちごが妖祓いになると決めてから数日、静司は彼女に「言霊」についての基礎を教える時間を設けていた。
「いちご、君の力は非常に強力です。けれど、それだけに制御が重要です」
静司は庭の一角に腰を下ろし、いちごに向かって指を一本立てた。
「例えば、この木を『従え』と命じたらどうなると思いますか?」
いちごは首を傾げ、木を見つめた。
「木は動けないけど……もし動けるなら、命令に従っちゃう?」
「その通りです。そして、その命令の意味を曖昧にしたままだと、対象が命令に応じようとして暴走する可能性があります」
静司の言葉に、いちごはハッと息を呑んだ。
「……暴走する?」
「そうです。命令が強すぎると、相手を壊してしまうこともあります」
その言葉を聞いて、いちごは少し顔を曇らせた。これまで何度も静司のお願いで「言霊」を使ってきたが、深く考えずに発した言葉が相手に与えた影響について、思いを巡らせたことはなかった。
「でも、いちごの力が怖いものではなく、守るためのものだと証明できるのは君自身です」
静司の言葉に、いちごはゆっくりと頷いた。
「わかった……私は、この力をもっとちゃんと使えるようになりたい。誰かを守れるように」
静司はその決意を受け止めるように頷いた。
「では、次の訓練を始めましょう。今日は、いかに正確に、そして冷静に命令を伝えるかを学びます」
***
数日間の訓練で、いちごは言霊を使う際の制御や冷静さを保つ方法を学んでいた。静司が用意した簡単な障害物や小さな式に対し、いちごは「従え」や「留まれ」などの命令を正確に発する練習を重ねていた。
しかし、その中でいちごが最も苦労していたのは、自分の恐怖心を抑えることだった。
ある日の訓練で、静司が妖を模した式をいちごの前に出したとき、彼女は一瞬躊躇してしまった。
「……怖い」
小さな声が漏れる。その瞬間、いちごの言霊は力を失い、式が制御不能に暴れ出した。
「いちご!落ち着いて!」
静司がすぐに間に入り、符を使って式を封じ込めた。式が動きを止めると、いちごはその場に座り込んでしまった。
「……ごめんなさい、静司。私、怖くなっちゃった……」
彼女の目には涙が浮かんでいる。静司はそっと彼女の隣に座り、その小さな頭を撫でた。
「大丈夫です。誰だって怖いときはあります。それでも、君はちゃんと向き合おうとした。それだけで十分です」
「でも、静司がいなかったら……きっと私は何もできなくて……」
いちごの言葉に、静司は穏やかに微笑んだ。
「だから私がいるんです。君が完全に強くなる必要はありません。一緒に乗り越えていけばいい」
その言葉に、いちごは涙を拭いながら小さく頷いた。
***
その日の夜、静司は書斎でいちごの言霊についての古い資料を読んでいた。彼女の力にはまだ多くの謎が残されている。特に、いちごが恐怖心に囚われると力が発揮できない理由には、何か特別な因果があるのではないか――静司はそう考えていた。
(いちごの力は彼女の胆力次第で無限に強くなる。だが、それは同時に大きな危険も孕む)
彼女が力を完全に制御できるようになるには、まだ時間が必要だ。しかし、静司は信じていた。いちごはその優しさと決意を糧に、必ずその力を自分のものにする日が来ると。
「いちご、お前は強くなれる」
静司はそう呟きながら、本を閉じた。
***
翌朝、いちごは庭で静司と再び訓練を始めた。その目には、昨日とは違う決意の光が宿っている。
「今日は、絶対に怖がらない!」
その力強い宣言に、静司は満足そうに頷いた。
「その意気です。では、始めましょう」
いちごと静司の新たな挑戦の日々がまた一歩、動き始めた。
設定がとても奥深く、物語の可能性が広がりますね!いちごと静司の対比や、それぞれが抱える葛藤を活かして続きを書いてみます。いちごの成長と静司の内面を掘り下げる展開にしてみますね。
「見せて」
いちごの小さな声が庭に響く。目の前に座る式の瞳が一瞬揺らぎ、次の瞬間、いちごの視界が変わった。彼女はまるで自分がその式の中に入り込んだような感覚に包まれる。
「……すごい、これが式から見た景色……」
式の目を通して見る庭は、少し違った角度から世界を切り取っていた。静司がいちごをじっと見つめている姿が、式の視界の中に映り込む。
「どうです?視界の共有は問題なくできていますね」
静司が静かに声をかける。いちごはゆっくりと息を整え、式を動かそうと集中した。しかし――
「……難しい」
式の動きはぎこちなく、まるで糸が絡まった人形のようだ。いちごは必死に意識を集中させたが、思うようには動かない。
「力を入れすぎです。もっと柔らかく、自分が式になったつもりで動かしてみてください」
静司のアドバイスに従い、いちごは目を閉じた。自分が式の中に入り込み、その体を借りて動かしている……そんなイメージを強く描く。
「……あ、少し動いた!」
式の足がゆっくりと前に進む。いちごは嬉しそうに声を上げたが、その瞬間、胸の中に奇妙な違和感が広がった。
(この子には自我がない……だから、何をしても可哀想じゃない。でも……)
自我がある妖だったら、どうだろう?無理やり命令して、動かして、それでいいのだろうか?いちごの心は急速にざわつき始めた。
「静司……私、もしこの式が自我を持ってたらって思うと……なんだか、可哀想に思えてきちゃった」
静司はその言葉に少し驚いたようだったが、すぐに表情を柔らかくした。
「そう感じるのは、君が優しいからです。でも、式は君の力を借りて動く存在です。彼らにとって君の命令は本能のようなものだから、可哀想だと感じる必要はありません」
「……でも、それって妖も同じなの?」
いちごの声は震えていた。
「私、妖を消したり式にしたりしてきたけど……それって、親と同じなんじゃないかな?私のことを物扱いした親と……」
その言葉に静司の瞳が鋭く揺れた。しかし、すぐに深い呼吸を一つつき、穏やかな声で答えた。
「いちご。君と君の親は全く違います。君は力を使う前に考えます。それだけで、君は十分優しい人間だ」
「……本当に?」
静司は目を閉じ、少し懐かしむような表情を浮かべた。
「私も昔、妖に対して同じような感情を抱いていたことがあります。……もし、自分と契約してくれる妖がいたら、大切にしようって。けれど、的場家に生まれた私は、そんな妖に出会えませんでした」
静司の声には、どこか諦めと苦味が混じっていた。
「的場家の妖に対する扱いは、君が見てきた通りです。私はその中で、妖に優しさを持つことが無意味だと思うようになりました」
いちごは静司の言葉にじっと耳を傾けながら、静かに呟いた。
「それでも、静司は……優しいよ」
静司は目を細め、いちごを見つめた。
「優しいと思うのは君が優しいからです。でも……君にはその優しさを捨ててほしくない」
「え?」
静司は微かに笑った。
「私にはできなかったことを、君ができるかもしれない。君が妖にも式にも優しさを持つことで、新しい道が開けるかもしれない。だから、自分の感情を大切にしなさい」
その言葉に、いちごは胸が熱くなるのを感じた。
「……わかった。私、自分の力をもっと学んで、もっと強くなる。そして、静司と一緒に新しい道を見つける!」
静司はその決意を受け止めるように頷いた。
「では、次の訓練に進みましょう。今度は、君が式を完全に動かせるようになるまで練習します」
***
その夜、静司は書斎で一人考えていた。いちごの優しさに触れ、自分が失ってしまったものを思い出していた。
(いちごの優しさがあれば、的場家に新しい風を吹き込めるかもしれない)
「いや、考えすぎか」
静かな夜に、静司の微かな笑みが浮かんでいた。
「静司、これ!」
いちごがホームに駆け寄り、新幹線の大きな案内板を指さした。初めて見る光景に目を輝かせている。
「すごい!この電車、めっちゃ大きい!早そうだね!」
静司はその無邪気な様子に少し微笑みながら、手に持った切符を見せた。
「これが乗車券です。これを持っていないと、新幹線には乗れませんよ」
「へえ……切符ってこんなに小さいんだね」
いちごが興味津々に切符をじっと見つめる。静司はやや心配になりながら注意を促した。
「絶対に無くさないでください。無くすと乗れなくなりますから」
「わかった!……たぶん!」
いちごの不安げな返事に、静司は軽くため息をついた。
***
新幹線が動き出すと、いちごは窓にへばりつくように外の景色を見ていた。
「静司!ほら、あの山がどんどん小さくなっていく!すごい速いね!」
「そうですね。新幹線ですから」
「でも、なんで新幹線って言うの?」
「……名前の由来を聞かれるとは思いませんでしたが、まあ、速いから、ということで覚えておいてください」
いちごは不満げに唇を尖らせた。
「そんなの覚えたくないよー。でも、新幹線、面白いね!」
静司はそんな彼女の様子を眺めながら、微かに微笑んだ。
「楽しんでくれるのはいいですが、これから仕事ですから、切り替えてくださいね」
「うん、わかってる!」
いちごは真剣な顔で頷いたが、その小柄な体がシートに沈み込む様子がどこか微笑ましい。
(まったく、この子には気が抜ける……)
静司は目を細めながら、目の前の書類に目を戻した。今回の依頼は、遠方の村に住む大妖に関するものだった。その妖は数百年にわたり村を守ってきた存在だったが、最近になり暴れ始め、周囲に被害を出しているという。
(大妖……いちごを連れて行くべきではないかもしれないが……)
静司の心中には迷いがあった。しかし、いちごが本格的な妖祓いになるためには、こうした経験も必要だと判断したのだ。
***
目的地に到着した二人は、依頼人である村の長老と面会した。長老は心配そうな顔で説明を始めた。
「この妖は、村を守る神のような存在でした。ですが、突然、村人に危害を加えるようになりまして……」
「暴れ始めたのはいつ頃からですか?」
静司が尋ねると、長老は眉をひそめた。
「半年ほど前からです。その頃から神社の中に入るのも危険になり、誰も近づけなくなりました」
「……わかりました。私たちが対処します」
静司は静かに頷き、いちごに目を向けた。
「いちご、君の力が必要になるかもしれません。準備はいいですか?」
いちごは少し緊張した面持ちだったが、真剣に頷いた。
「……うん!私、やってみる!」
***
神社に向かう途中、二人は静まり返った参道を歩いていた。古い木々が立ち並び、空気がどこか冷たく感じられる。
「静司、ここ……すごく怖い」
「大妖の気配が濃いですね。警戒してください」
その言葉に、いちごは少し震えながらも歩みを止めなかった。
神社に近づくと、境内に巨大な影が現れた。それはまるで狼のような形をした妖で、目は燃えるように赤く光っていた。
「人間よ、なぜここに来た」
その低い声が響くと、いちごは思わず後ずさった。しかし、静司が一歩前に出て彼女を庇った。
「私たちは、あなたの暴走を止めに来た。なぜ村を襲い始めたのか、理由を話してもらおう」
妖は静司を睨みつけ、低い唸り声を上げた。
「……私を封じるために来たのか?」
「違います。ただ、あなたの行動が村人たちを苦しめている。それを止めたいだけだ」
静司の冷静な声に、妖は少し黙り込んだ。
その時、いちごが静かに前に出た。
「……見せて」
彼女の言葉と共に、妖の目に映る景色がいちごの中に流れ込んできた。
「この妖、村を守るために戦ってた……でも、力が強すぎて、抑えられなくなっちゃったんだ」
いちごの言葉に、静司は驚いたように彼女を見た。
「いちご、君に見えているんですか?」
「うん……この妖、悪い妖じゃない。ただ、助けてほしいだけなんだと思う」
いちごは妖に向き直り、その瞳をじっと見つめた。
「私、助けるよ。あなたがもう苦しまなくて済むようにする」
妖はその言葉に目を見開き、少しだけ唸り声を弱めた。
「……助けられるものなら、やってみろ」
その言葉に、いちごは深く頷き、静司に目を向けた。
「静司、私、やってみる。大丈夫だよ」
静司は少しだけ迷ったが、彼女の決意に気づき、静かに頷いた。
「……君ならできる。やってみなさい」
いちごは静かに目を閉じ、心を集中させた。そして――
いちごが妖に向き合い目を閉じた瞬間、静司は周囲を警戒しながら村人たちの様子を見ていた。神社の境内から少し離れた場所に集まった村人たちは、不安そうにざわついている。
「的場さん、状況はどうですか……?」
長老が声を潜めて尋ねてきた。彼の背後には、同じように怯えた表情の村人たちが集まっている。
「私たちには何も見えないのですが……本当に大丈夫なのでしょうか?」
その言葉に、静司は一瞬だけ視線を戻し、冷静に答えた。
「問題ありません。我々が全て対処しますので、どうかお引き取りください」
村人たちには妖の姿も、その危険性も見えていない。それゆえに、彼らの不安は理解できるものだったが、下手に近づけさせるわけにはいかなかった。
「どうかご安心を。いちごも私も、こうした事態には慣れています」
静司の冷静な言葉に、村人たちは一瞬戸惑いながらも頷き、境内からさらに距離を取った。
***
その頃、いちごは目を閉じたまま、心を集中させていた。
(この妖さん……ずっと叫んでるみたい。心の中で「苦しい」って……)
彼女の中に伝わってくるのは、大妖の悲しみと怒りの感情。それは、力が暴走し、自分では止められなくなったことで引き起こされたものだった。
「……大丈夫だよ。私が助けるから」
いちごは静かに言葉を紡いだ。そして、意識を妖に向け、自分がその中に入り込むような感覚で呼びかけた。
「見せて」
いちごの声が空間に響くと、妖の視界が彼女の中に流れ込んできた。そこには、かつてこの村を守り、感謝されていた頃の穏やかな日々が映し出されていた。しかし、次第にその光景は色を失い、人々から忘れ去られ、孤独に苛まれる日々へと変わっていった。
「……そうだったんだ。ずっと、誰にも気づいてもらえなかったんだね」
いちごの言葉に、妖の目が少しだけ揺れた。
「そうだ……私はこの村を守り続けた。だが、やがて人間たちは私を恐れ、疎んじ始めた。私は……孤独だ」
その低く震える声に、いちごの胸が締め付けられる。
「大妖さん、あなたは悪い妖じゃない。ただ、苦しかっただけなんだね」
いちごはそっと手を伸ばし、妖に近づいた。
「……もう大丈夫。私があなたを解放してあげる」
その言葉に妖は目を見開き、一瞬唸り声を上げたが、やがてその目には涙のような光が浮かんだ。
「……解放、してくれるのか?」
いちごは深く頷き、静司に振り返った。
「静司、私、この妖さんを助けたい。消すんじゃなくて……力を抑える方法を試したい」
静司は少し驚いたが、すぐにその目に優しい光を宿した。
「……君がそう思うなら、それでいい。全力で手伝います」
いちごは再び妖に向き直り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……従え」
静かな声が響いた瞬間、妖の体から暴れ狂う力が少しずつ収まっていった。いちごは自分の意識を妖の中に重ね合わせるように、さらに言葉を重ねた。
「……眠っていいよ。もう、誰もあなたを責めないから」
妖は大きく息を吐き、ゆっくりとその体を小さく縮めていった。そして、やがて境内の中央に、小さな光の珠のような姿で留まった。
「……終わった」
いちごは静かに立ち上がり、その場に倒れそうになったが、すぐに静司が支えた。
「お疲れ様。よくやりましたね」
静司の言葉に、いちごは少し顔を上げて微笑んだ。
「……ありがとう、静司」
***
その後、村人たちに状況を説明した静司は、妖が再び暴走しないように結界を張ることを提案した。村人たちはその説明に戸惑いつつも、彼らに感謝の言葉を伝えた。
「本当にありがとうございました。私たちには何も見えませんでしたが、的場さんとそのお連れの方が守ってくれたことはわかります」
静司は軽く頭を下げた。
「私たちの仕事です。どうかこれからは、村を守ってきた存在を忘れないであげてください」
その言葉に、長老は深く頷いた。
「必ず伝え続けます。彼がずっとここで村を守ってくれたことを」
***
帰りの新幹線で、いちごは窓の外を見つめながら呟いた。
「私、まだまだ訓練が必要だね。今日は静司がいたからできたけど、一人だったら絶対無理だった」
静司はその言葉に少し微笑み、隣のいちごに目を向けた。
「一人前になるには時間がかかります。でも、焦る必要はありません。君の優しさと決意があれば、きっと大丈夫です」
いちごはその言葉に顔を輝かせ、小さく「うん」と頷いた。
静司はそんな彼女の横顔を見つめながら、ふと胸の奥に暖かい感情が広がるのを感じる。
その感情を、静司はそっと胸の奥にしまい込み、目を閉じた。
「静司、これ見て!」
いちごが自室から駆け出してきた。手に抱えているのは、小さな光を放つ珠だった。それは、つい先日解放したあの大妖の姿そのもの。
「いちご……それはまさか」
静司は目を見開き、珠を指さした。その声の調子に気づいたのか、いちごは少しだけ身を縮めながら、珠を抱き直した。
「えっと、その……持ってきちゃった」
静司は深いため息をつき、額に手を当てた。
「……なぜ持ってきたんですか?」
「だって、あの妖さん寂しいって言ってたじゃん。あのまま放っておくのは可哀想だなって思って……」
「だからといって、持ち帰りますか!?」
静司の声が少し大きくなる。いちごは珠をぎゅっと抱きしめながら、少しだけ頬を膨らませた。
「だって、私が解放したんだもん。私がちゃんと面倒見ないと……」
「面倒を見る?いちご、あれは大妖ですよ。君が扱える代物じゃありません」
「でも、あそこにはもう結界を張ったし、大妖の気配が残ってるから、しばらく妖怪は寄ってこないよ。それに、もし支障がありそうだったら戻しに行くし!」
静司はその言葉に一瞬言葉を失った。彼女の言い分は一理ある。しかし、それでも持ち帰るという選択が常識的ではないことに変わりはない。
「は、はあ……」
静司はもう一度深いため息をつき、椅子に座り込んだ。
「いちご、君がどうしてもそれを持っていたいというのなら、一つだけ条件があります」
「え?」
「その珠を使って、ちゃんと大妖の力を制御できるようにすること。それができなければ、元の場所に戻します」
静司の真剣な表情に、いちごは一瞬迷うような顔をしたが、すぐに頷いた。
「……わかった!私、ちゃんとやる!」
***
その夜、いちごは静司に見守られながら、珠に意識を集中させていた。
(この中にいる妖さん、私に従ってくれるかな……)
「見せて」
いちごの小さな声が部屋に響くと、珠から微かな光が漏れ出し、いちごの視界が歪むような感覚に包まれた。そして、再びあの大妖の記憶が流れ込んできた。
「……お前か。私をここに連れてきたのは」
妖の声が直接いちごの心に響く。どこか疲れたようなその声に、いちごは優しく答えた。
「うん。私、あなたを放っておけなかったんだ」
「……私をどうするつもりだ?」
「一緒にいてほしいの。私と静司の力になってほしい」
その言葉に、妖は少し驚いたような沈黙を見せた。
「お前は私を封じたのではなかったのか?」
「封じるつもりなんてなかったよ。ただ、苦しんでるあなたを助けたかっただけ」
いちごの真っ直ぐな言葉に、大妖は静かに息を吐くような気配を見せた。
「……私が本当にお前に従うと思うか?」
「うん、思う」
その揺るぎない声に、妖は再び沈黙した。そして、しばらくしてから静かに答えた。
「……ならば試してみるがいい」
***
次の日、静司は庭でいちごと珠の訓練をしていた。
「いいですか、いちご。その大妖が式になるには、君が完全に意識を通わせる必要があります」
「うん……やってみる!」
いちごは深く息を吸い込み、再び珠に意識を集中させた。そして――
「お願い!」
彼女の言葉に応じるように、珠から光が溢れ出し、大妖の姿が浮かび上がった。以前よりも小さくなったその姿は、威圧感を抑えた穏やかなものに見える。
「……私はお前に従う。だが、忘れるな。この契約が破られることがあれば、私は再び暴走するだろう」
「うん、わかってる。でも、私がちゃんと守るから!」
いちごの決意に満ちた瞳を見た大妖は、静かに頭を下げた。
「名を呼べ、人間」
いちごは一瞬考えた後、笑顔で言った。
「じゃあ、『護光』ってどう?あなたが村を守ってきたから」
その言葉に、大妖――護光は少しだけ目を細めた。
「……好きに呼ぶがいい」
静司はそのやり取りを見守りながら、いちごの成長を感じていた。