そのうち両想いになる政略結婚じんまお(前編)「否」
書簡を突き返された男の眉が困ったように下がる。だが、猫猫には関係のない事だ。これ以上言葉を発する労力さえ無駄だ。
「良いのか、義妹よ。こんな機会、二度とないかもしれないぞ」
「否」
眼鏡の奥の細い目が悲しそうに歪む。だが、猫猫には関係ない。むしろ、少しくらいは困って欲しい。
「本当に良いのか……、確か今回の宴では、古今東西から集められた生薬が披露されるそうだぞ」
「え?」
「何でも、千頭の牛を用意してようやく見つかった珍しい石の生薬もあるのだとか」
「は?今なんて……?」
「聞いたことがあるだろう。皇弟は病弱で、あまり公の場に出てこられないと。今回、とある高官が皇弟のお身体を労わる為に宴を開くらしい。まぁ、本来の目的は見合い」
「そんな事はどうでも良い!まさか、その生薬とは、ご、牛黄……」
ごくりと唾を飲む。その名前を口にするだけで涎が溢れそうだ。そんな猫猫を見た羅半の目が弧を描いた。
「あぁ、確かそんな名前だった気がするなぁ」
「行く‼︎」
羅半の手にあった書簡をむしり取る。目の前の眼鏡の嬉しそうなニヤけ顔が気に食わないが、今はそれを気にしている場合ではない。手に入るはずもなかった、猫猫の人生を大きく変えてしまうような物が、直ぐそこに待ち構えているのだ。
「大袈裟だな」
今にも飛び跳ねそうなほどに喜ぶ猫猫を見て、羅半が呆れた声を出す。
しかし、結局それは大袈裟なことではなかった。そこには、間違いなく、猫猫の人生を大きく変えてしまう者が待ち構えていた。
◆
「どうだい、麗しの皇弟を実際に見た感想は」
「実際に見たって、覆面をしているじゃないか」
「見えないのか。あの覆面越しでも分かる、とびきりに美しい数字が」
「……」
やはりこの男と話すだけ無駄なようだ。図々しくも猫猫の義兄と名乗るこの眼鏡は、世の中の美しさが数字に見えているらしい。猫猫には全く理解出来ない感覚だ。
遠くに出来た人集りの中心に立つ背の高い覆面の男を見やる。顔の大半が布で覆われており、見えているのは目元だけだ。その切れ長な黒曜の瞳や優美な眉の形、布を押し上げる端正な鼻筋、無駄のない均整の取れた身体。羅半ほどではないが、猫猫にもその容姿が整っている事は感じ取ることが出来る。周りに集まった女性陣もうっとりとその姿を見つめている。
しかし、猫猫が男を見て思う事は一つ。
(あの覆面、息苦しそうだなぁ)
人間が集まれば集まるほど、そこには熱気が充満する。定期的に休憩しないと、そのうち逆上せてしまうぞ。猫猫が心配するべき事ではないが、尊敬する養父から授かった知識がそう簡単に背を向けせてくれない。具合の悪そうな人間を見ると、どうにも放って置けない性分なのだ。
失礼を承知で皇弟の側近に助言出来ないだろうか。辺りを見回す猫猫の肩に、羅半の手が乗せられた。
「……触るな」
「あの御方が女性であれば、僕は今直ぐにでも求婚しに行くのになぁ」
「鼻で笑われて追い返されるからやめとけ」
「分かっている。男同士だ。子は成せない」
(こいつ、気持ち悪いな)
鼻息を荒くしながら皇弟に熱心な視線を送る羅半を無視して、手に持った器を傾ける。流石、皇弟の為に用意された酒だ。普段猫猫が飲んでいる物と比べ、格段に美味い。
無視しようとする猫猫を更に無視した羅半が耳元で囁いた。
「だから今日、ここに呼んだんだよ。我が義妹よ」
「私はお前の義妹になった覚えはない」
「お前のような特徴のない顔なら、あの御方の美しさを十分に残した子を成せるだろう」
「……何を言っている?」
「さぁ、早速挨拶しに行こう」
「は?おい、ちょっと待て」
急に腕を引かれよろめく。低く痩せぎすな体型を隠す為、身体のあちこち詰め物をされた服装では上手く身体を動かす事が出来ない。転ばないよう必死で足を動かしていると、高貴な白檀の香りが鼻腔を満たした。
気付けば目の前に、麗しき皇弟。咄嗟に拱手の体勢を取る。同じく頭を下げた羅半が隣で口を開いた。
「ご機嫌麗しゅう、月の君」
「……羅漢のところの息子、名は羅半と言ったか」
「まさか私の名を覚えてくださっているとは、身に余る光栄です」
「先日は助かった。褒美はこんな宴への招待で本当に良かったのか」
「ええ、もちろん大変嬉しく思います」
「そうか、なら良かったんだが」
蜂蜜のような甘さを含んだ美声。姿形だけでなく、その声さえも美しいらしい。周りにいる女達が時折うっとりと目を閉じている理由が分かった。しかし、猫猫は甘党ではなく辛党なのだ。正直、これ程までの甘さは好みではない。胃もたれしそうな感覚に眉を顰めていると、横から背中を押された。つんのめりそうになり咄嗟に顔を上げると、覆面の隙間から覗く黒曜と目が合った。
「それで、もしよろしければ……うちの義妹もご挨拶させていただきたく……」
(は、何言ってんだ、こいつ)
羅半を睨みつけようと横を向いた猫猫に、更に甘さを増した声が降りかかった。
「……羅の一族には大変世話になっている。今宵の宴は存分に楽しむと良い」
「は、はい」
異様なほどの甘さに背筋がゾクゾクと震える。思わず鳥肌の立った腕を摩ると、僅かに黒曜の瞳が歪んだ。どこか冷たさを含んだ瞳をしたまま、皇弟は何も言わず背を向けて去っていった。
同時にくすくすと周りから声が聞こえる。どうやら猫猫を遠目から見ていた女達の笑い声のようだ。改めて自分の姿を確認する。羅半の入念な準備により多少ましな装いをしていたところで、醜女は醜女なのだ。これに情の湧く男など、よっぽどの特殊趣味だろう。周りの女の反応が正解だ。
「いててててっ!」
「私なんかに挨拶させて、何が起こると思ってたんだ」
羅半のつま先を遠慮のない加減で踏みつける。
「可能性が零か一なのかは、大きな違いがあるんだぞ。今日はその一歩さ」
「何を企んでるのかは知らないが、むしろ後退したと思うけどね」
「痛いって!」
悲鳴を上げながら離れていく情けない姿に、ふんっと鼻を鳴らす。羅半の考えている事は何となく分かる。美しい数字とやらに気持ち悪いくらいの情熱を注ぐ男の事だ。そのお眼鏡に適った美貌を手に入れる為、親族の女さえも巻き込んで無謀な作戦を実行しようとしているのだろう。
(絶対に巻き込まれるものか)
むしろ巻き込まれようとしても、こんな女に情を向けようとする男がいる訳がない。何故、羅半はそんな事も分からないのだろうか。ため息を飲み込むように、器の中の酒を一気に流し込んだ。
◆
「くっそ〜!偽物だったじゃないか‼︎」
賑わう屋敷から出た瞬間、思わず大声で叫んだ。宴で披露された高級生薬は全て、似通った素材で作られた粗悪品であった。もちろん、大変貴重な生薬の一つである牛黄も泥と金粉を混ぜて固めただけのガラクタだった。
(この為に来たのに、許せない)
生薬を馬鹿にするような悪徳業者も、それに簡単に騙される高官も、そもそもこの場所に連れて来た眼鏡野郎も、全員の事が許せない。それでも、猫猫がこの憤りをぶつけられるのは羅半しかいない。もう一度、足を踏んづけてやろう。予行練習として地面を強く踏み締めていると、苦味の混じった匂いが香った。
「これは……、この匂いは……!」
自然と足が走り出す。地面から生える白い塊に飛びつくと独特の匂いが鼻腔を満たした。羅半が用意した衣装に泥がついている気がするが、もうそんな事はどうでも良い。目の前には、何の成果も得られなかった猫猫へのご褒美が広がっているのだ。
果たして、人様の屋敷の庭に生えている植物を勝手に取って良いものだろうか。しかし、こんな無造作に生やしていては、勿体のない薬草なのだ。どうせ、何が本物なのか分からないような主人だ。猫猫が有効活用してやった方が良いのではないだろうか。
葛藤しながらも、徐々に伸びる手を止められない。猫猫の手が薬草に触れる、その瞬間。
「……おい、何をしている」
「っ!」
頭上から低い声が投げかけられた。飛び跳ねる勢いで驚き、顔を上げる。そこには、まるで絵から抜け出してきたかのような美貌が立っていた。月の光に照らされ輝く姿は、人の世の美を極めた存在に見える。
(女?……いや、男か)
まるで天女のような顔をしているが、声の低さから恐らく男なのだろう。どこかで聞き覚えのある声に首を傾げていると、警戒の滲む声が向けられた。
「何をしているんだと言っている」
「あ、いや〜、これは〜」
「怪しいな、護衛を呼ぶか……」
「違うんです!まだ何もしてません!」
「まだ?」
「はっ!」
手で口を押さえたところでもう遅い。猫猫を貫く疑惑の目線に観念して口を開いた。
「鹿の子草が、生えていましたので……」
「カノコソウ?それは何だ?」
「鎮静や不眠に効果のある薬草なんです。主に西方で生産されているので、こちらではあまり見かけることがなく、つい!うっかり!手が伸びてしまって……ですが、こんな所で野晒しにしているには勿体のない薬草なんです!薬だけでなく、西方では茶に混ぜて香りを楽しむ事もあるらしく、その際にも鎮静の効果が発揮され」
「お、おい……」
気付けば身を乗り出して男に迫っていた。やや後ろに背を逸らした男が、ぽかんと口を開けて猫猫を眺めている。生薬のことになると我を忘れる癖があるから気をつけるように。これも養父からの教えだ。
「……失礼しました」
「あ、あぁ……大丈夫だ」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れる。正直もう説明することはない。どこかに行ってくれないだろうか。少しの気まずさから足元を見る。そこには鹿の子草が生い茂っている。自然と唇が弧を描く。しばらく地面を眺めていると、ニヤつく猫猫の顎に何かが触れ無理やり顔を上げられた。視線の先に、不自然なほど綺麗な笑みを浮かべた男の顔が現れる。ぞくりと背筋が震えた。
「なんでしょうか……」
「お前は、俺の顔を見て何も思わないのか?」
「顔……?」
(何だ、美しいとでも言って欲しいのか?)
これ程までの圧倒的な美貌だ。数多の人間から称賛の言葉を浴びているだろうに、見ず知らずの他人からも言葉を欲するのか。容姿に恵まれていない猫猫にはよく分からない感覚だ。この男のわがままに付き合うのも癪ではあるが、わざわざ嘘を伝える性分もない。
「とても、美しいと思います」
「……そうか」
猫猫の言葉に、男がどこか残念そうに俯く。あまりにも平凡な言葉だっただろうか。しかし、猫猫にも言いたい事はある。
「ですが、いくら美しい人間だとしても、過労で顔が痩せ細っていては意味がありません」
「え?」
「目の下の隈が酷いです。それに唇も乾いています。しばらく寝ていないのでは?」
「……」
「どれだけ外見が優れていようとそうでなかろうと、不健康な状態では美しくありません。むしろ外見は優れていなくとも、健康的な身体をした人間を見ていて方が心地良いです」
「そう、か……」
「ですので!そんな過労気味なあなたにこそ、この鹿の子草を煎じた茶が必要だと思います!もしお望みであれば私が調合します!」
(だからこの鹿の子草を収穫させてくれ)
胸を拳で叩きながら頭上を見上げると、唖然とした表情の男が猫猫を凝視していた。また、引かれてしまったようだ。
「……お前は、そんなに生薬が好きなのか?」
「はい!とても!」
「では、これをやると言ったら、どうする?」
「⁉︎」
男の懐から取り出された小さな木箱。その中には、虫から生えた茸。喉から手が出るほど欲しかった物が、今、目の前にある。口から溢れそうになる涎を手の甲で拭う。
「こ、これを……私にくれると、言うのか……?」
「質問に答えたら、やるかもしれない」
「何を……?」
「これをやったら、俺の依頼を引き受けてくれるか」
「はい!何でもします!」
反射的に答えていた。頭の奥深くで養父の声がする。欲しい物が手に入るからといって見返りも知らずに承諾してはいけないよ、と。
しかし、その声は、手にした木箱から放たれる光の中に消えていく。
「受け取ったな。何でもという言葉、違えるなよ」
そんな男の声も、光の中に溶け、あっという間に消え去ってしまった。
◆
「ぐふっ、ふふふふ……」
小箱を開ける度、口から声が漏れ出る。
昨晩、猫猫に冬虫夏草を渡してくれた男は、すぐ満足したように去って行った。一体、何者だったのだろうか。そんな事を考えている暇はない。
(これで一体何を作ろうか……)
「猫猫!」
随分と焦った様子の羅半が部屋の中に飛び込んできた。しかし、今は他人に気を散らしている場合ではない。何よりも大切にしなければいけない物が、手の中に収まっている。
無視を決め込もうとした猫猫の肩を羅半が掴んだ。
「邪魔をするな眼鏡」
「お前、一体何をしたんだ……?」
「何の話だ」
「皇弟が、お前を呼んでいる」
「は?」
皇弟。誰だっただろう。
(あぁ、昨日の無駄に甘い覆面の男)
記憶を辿ろうとする猫猫の頭の中に、何故か月夜に照らされた男の姿が浮かび上がる。切れ長な黒曜の瞳、優美な眉、整った鼻梁、そして甘やかな声。
「……あれ?」
身体から血の気が引いていくのが分かった。もしかすると、とんでもなく偉い人に、とてつもない失礼を働いてしまったのかもしれない。
(首を切られる前に、冬虫夏草を調薬したい)
薬研に伸ばした猫猫の手は、届く前にはたき落とされてしまったのだった。
◆
皇弟が住まう屋敷に向かう馬車の中。羅半から皇弟に関する最低限の情報を教えられた。普段の猫猫であれば、右から左へ聞き流していた所だったが、今日は事情が異なる。首と胴体を切り離されたくはない。
皇弟。先帝と皇太后の間に産まれた子供だ。月に纏わる名を冠している事から、月の君と呼ばれている。十歳になる頃までは公の場に顔を見せていたが、ある時期を境に、その姿を見かける事はほとんどなくなった。見た者すべてが、その一瞬で心を囚われてしまうほどに美しい子供だったそうだ。
昨晩の光景を思い出す。夜空で輝く月よりも美しいと表現できてしまうような美貌の男。違っていてくれと願ってはいるが、話を聞けば聞くほどその事実は明確になる。猫猫が失礼な態度を取った相手は恐らく皇弟だ。
「病弱で公の場に出て来ないと言ってたけど、それって何の病なんだ?」
「それは明かされていなようだ。精神的な病ではないかと噂されている」
「まぁ、確かに。身体は丈夫そうだったなぁ」
(大分お疲れのようではあったが)
「何だ、よく見ているじゃないか。流石のお前もあれ程の美貌には見惚れてしまうのか?」
「……」
何かを期待するような目を向けられ、眉を顰め顔を背ける。こちらの冷めた態度など気にも留める様子もなく、羅半は少し嬉しそうに言葉を続けた。
「まだ噂はあるぞ。あの麗しい皇弟は相当な悪食らしい。今までありとあらゆる種類の美女が縁を結ぼうと皇弟の元にやって来たが、指先一つ動かなかったそうだ。だからこそ、お前の出番だった」
「……」
「大丈夫、蒲公英くらいにはなっていたさ、痛っ!」
昨晩の恨みを込めてつま先を踏むと、羅半は人一人分の距離を空けて座り直した。
今や見た目がどうこうという次元の話ではないのだ。相当な自信を持っているであろう美しい顔を貶し、お節介な助言まで付け足してしまった女にどんな処罰が待っているのか。
(鹿の子草を煎じた茶を作ってくれ、なんて呼び出しだったら良いなぁ)
何が待ち構えているのか考える事が恐ろしく、猫猫はひたすら現実逃避をするしかなかった。
◆
「鎮静効果のある茶、だったか。それを作ってくれないか」
「へ?」
「は?」
皇弟の一言に、猫猫と羅半の声が重なった。冗談かと覆面の顔を見つめるが、その瞳は真剣そのものだ。皇弟が指差した先には、鹿の子草の塊があった。
「えっと、今、ですか……?」
「今、と言うか、これから毎日だな」
「はい?」
「月の君、それでは意味が伝わらないかと」
皇弟の後ろに控えていた壮年の男性が、眉間に皺を寄せながら言葉を発した。こちらを警戒しているのか、刻まれた皺は深い。
「水蓮に読まされた本には、こう言えと書いてあったんだがな」
「御伽噺は参考にならさらない方が良いです」
(何の茶番だ)
唖然とする猫猫の目の前まで皇弟が歩いてくる。乱雑に脱いだ覆面の下から、壮絶なまでの美貌が現れた。やはり、昨晩の男は皇弟だった。隣で羅半が息を呑む音が聞こえる。
「月の君!」
「大丈夫だ。この娘には顔を見られている」
顎に長い指先がかかり、上を向かされる。どこか冷めた様な黒曜の瞳と目が合った。
「この顔を覚えているか?」
「……忘れられるようなお顔ではないかと」
「では、昨日の約束も覚えているよな」
「私は、何をすれば」
胸元に手を当てると指先に硬い感触がした。これが手に入るのであれば何でもする。そう言ったのは間違いなく猫猫自身である。一体、何を命令されるのだろうか。皇弟の身代わりに毒を飲め、そんな依頼であれば喜んで引き受けるのに。口を引き結び、続く言葉を待った。
「お前には、私の妃となってもらいたい」
「……え?」
「何でもすると言っただろう」
「あ、いや……、それはそうなんですけど」
「じゃあ、決まりだな」
(いや、馬鹿げている)
皇弟の発した言葉が理解ができない。隣にいる眼鏡の男の顔を見ろ。口を大きく開き、信じられないような顔をしているじゃないか。後ろの側近も大層険しい顔をしている。ここでおかしいのは猫猫ではなく、皇弟の方である。
混乱した頭を少しでも落ち着かせようと木箱を取り出すと、皇弟がにっこりと微笑んだ。
「それ、受け取ったよな」
(皇弟が悪食だという噂は本当だったのか)
「……どういう意味だ」
不自然なほどの美しい笑みに背筋が寒くなり腕を摩ると、皇弟がどこか不機嫌そう呟いた。どうやら、心の中の言葉が口から溢れていたようだ。
「月の君は、お美しい姿の上に大変慈悲深い方なのだなと」
「全くそんな風には聞こえなかったが」
呆れたような声を上げながら、皇弟が椅子に座り直した。眉間を揉みながら話す姿に疲労が滲んでいる。こんな醜女を娶ろうなどと奇怪な思考に至っているのだ。相当に複雑な事情があるのかもしれない。冬虫夏草を受け取った上に、今さら手放そうと思うことも出来ない猫猫には、聞くべき事情なのだろう。
「急な話だという事は分かっている。戸惑うのも当然だ。詳しい説明はするつもりだが、今日はもう遅い。改めて話させてもらおう」
そう言いながら、切れ長な瞳がちらりと猫猫の横を見た。どうやら羅半にはあまり聞かれたくない話らしい。
「こんな遅くに女性を返す訳にはいかない。是非、私の屋敷に泊まっていってくれ」
「月の君、それはつまり」
「皆まで言うな」
焦った声で羅半が詰め寄ろうとした所を、皇弟が片手を上げて制した。何かを言いたそうに口を開けたり閉じたりしている羅半を無視して、皇弟が横を通り過ぎる。
「猫猫と言ったか。後で部屋に寄らせてもらう。ゆっくり待っていてくれ」
去り際、猫猫の耳元で囁かれた言葉に、思わず身震いをした。
◆
「あなたが坊ちゃんのお相手の方ね」
「坊ちゃん……?」
「初めまして。この屋敷の侍女をしている水蓮よ」
「ど、どうも……」
用意された部屋の前に、妙齢の女性が立っていた。にっこりとした微笑みの奥に、隙のない鋭さが垣間見える。何かを見定められているようだ。
「この後、月の君がいらっしゃるのよね。その前に、色々と良いかしら」
「はぁ……」
ガッシリと掴まれた肩を押され、向かった先は風呂場。隅から隅まで身体を洗われ、普段猫猫が手にする事のない綺麗な衣に身を包まれた。布地に指を滑らすと、上質さを物語る滑らかさが肌に残る。本来、猫猫のような下賎の民が着てはならない物だ。
(何故、こんな状況に……)
戸惑いの感情が顔にも出ていたようで、猫猫の顔に優しく白粉を叩きながら水蓮が口を開いた。
「あなた、全く期待をしているように見えないけど、どうして?」
「どうしてと言われましても……」
期待するも何も、今の状況は猫猫が望んだ物ではない。机の上に置かれた小箱の中見をどうしようか考えて良いのであれば、大変期待に満ちた表情を作れるはずだ。しかし、恐らく今はそんな場合ではない。処刑されぬよう、粗相を一つでも起こすまいと気を張るべきなのである。冬虫夏草を思いのまま調薬する為にも。
自分の思考を失礼に聞こえないよう、どう説明するか悩んでいる猫猫の耳に扉を叩く音が聞こえた。
「入るぞ」
皇弟が部屋に入ってくると同時に、頭を下げた水蓮が扉の外に出ていってしまった。一人で皇弟の相手をしろと言うのか。
「遅くなってしまって、すまなかったな」
蜂蜜のように甘い声。わざとらしい程の綺麗な微笑みに背筋がぞくりと震える。
そんな猫猫の様子を気に留める素振りなく、皇弟はすっと目の前まで歩み寄って来た。咄嗟に立ちあがろうとする猫猫の肩は大きな手のひらに押し返され、息がかかるほどに顔が近づく。天女のような顔をした男は、その吐息まで芳しいらしい。高貴な白檀の香りに包まれる。
しかし、猫猫の頭は別のことでいっぱいであった。白磁のような頬をじっと眺めていると、皇弟の顔はゆっくりと離れていった。
「……ここまで近付いても平気なのか」
「平気、とは」
「普通の女であれば、今の時点で俺に馬乗りになっている所だ」
「はぁ、それは何とも……」
(お盛んなことで)
既にいくつか失言してしまっている状況で、更に上乗せはしたくない。漏れかけた言葉を飲み込んでいると、どこか気まずそうな表情をした皇弟が向かいの長椅子に腰掛けた。灯に照らされ、蒼白な頬がより鮮明に見える。
「どうして冷静でいられる」
(これ以上の失言はしたくない)
「何を言ったって良い。理由を教えてくれ」
どこか懇願するような皇弟の瞳に、固く閉じたはずの唇が自然と解けていった。
「……そんな青ざめた顔をしている殿方と乳繰り合いを始めたとしても、体調が気になって集中出来ません」
「俺の顔は、青ざめているのか」
「はい。とても具合が悪そうです。女性と寝るよりも一人で寝て欲しいです。ゆっくり、ぐっすりと」
「……」
額に手のひらを当て俯く皇弟。また沈黙が訪れてしまった。猫猫にとって沈黙は苦痛ではないが、体調の悪そうな人間の沈黙は気にせずにはいられない。皇弟の執務室から嬉々として持ち出した鹿の子草もあるのだ。せっかくであれば茶を淹れよう。立ち上がった猫猫の手に、節くれ立った指先が絡んだ。
「ま、待ってくれ」
「茶を入れてこようとしただけですけど」
「そ、そうか」
ほっと息を吐いた皇弟の手が離れていった。その表情からはわざとらしい笑みが消え、どこか少年のような幼さを感じる。
「こんな乱暴なやり方をしてしまってすまない。本当は君と交渉をしようと思って来たんだ」
「交渉、ですか」
「俺が目的を達成するまで、君には仮初の妃となってもらいたい。出来る限りの優遇はしよう。欲しい生薬があれば言ってくれ。手に入る物であれば用意する」
「そ、れは……!」
(魅力的過ぎる内容だ)
是と即答しそうになるが、頭の中の養父が今度こそと止めに入ってきた。何事も一旦、間を置く事が大切だ。
「すみません。一旦、茶を入れても良いですか」
皇弟が無言で頷いたのを確認し、水蓮が用意していた茶器に手を伸ばす。無理に話を進めようという気はないらしい。香り始めた茶葉の匂いを吸い込み気を落ち着かせていると、皇弟がゆっくりと話し始めた。
「婚姻を約束している相手はいないと聞いている」
「ええ、まぁ」
(事前に調査しているのかよ)
その用意周到さに呆れた視線を向けると、皇弟の眉が困ったように下がった。
「好いた男でもいるのか」
「いえ、別に」
「もしいたとしたら、目的を達成した暁には、その者に下賜することも出来る。俺は君に手を出す気は一切ない。身綺麗なまま、その者の元に返すと約束する」
(まぁそうだろうな)
自分の思うまま、好みの女性に好きなだけ手を出せる立場の男だ。わざわざこんな醜女を選ばずとも、その相手はごまんといるだろう。無理して猫猫に手を出そうとした結果、あれ程までに顔色が悪くなるのだ。皇弟が女嫌いの悪食だという噂は、ただの噂だったらしい。
茶器を差し出すと、真剣な目が猫猫を捉えた。
「どうだ。乗ってくれるか」
(下賤の民に選択肢などないだろうに)
何故か猫猫の承諾を得ようとする真摯な姿勢に、思わず口を開く。
「その目的とは、何なのでしょう」
「……」
(そりゃ言えないか)
皇弟の前に立ち、拱手の姿勢を取る。
「承知しました」
「可能な限り早く解放出来るようにするつもりだ」
「お気になさらず」
「早ければ一年。遅くとも三年以内には、何とかする」
(一体何をしようとしている事やら)
その真意を猫猫が知る時は恐らく来ない。皇族の内情まで知ってしまえば、色々と面倒臭い事この上ない。拱手の体勢を崩さない猫猫を横目に皇弟は立ち上がった。
「これから頼んだぞ」
皇弟が去った後に、手のつけられていない茶器が残った。
「毒が入っているかもしれないもんな」
貴き身分の方は、怪しい物をそう易々と口にする訳にはいかない。いつどこで毒を入れられるか分からないからだ。こうして警戒されているくらいが丁度良いのだろう。皇族と一介の下民として適切な距離感を。心を通わせた間柄になる事はないのだから。
◆
「何をしているんだ……?」
「お帰りなさいませ、月の君」
四つん這いの体勢を正し、頭を下げる。目を丸くした月の君が声を上げた。
「一体何をしているんだ」
「何って、掃除を」
「……好きなように過ごして良いと言ったはずだが」
「はぁ、なので好きなように過ごしております」
「それで掃除を?」
「はい」
普段から身の周りの事を他人に任せている皇族には、掃除という概念がないのだろうか。不思議そうに猫猫を眺める月の君の顔を見返すと、どこか気不味そうに視線を逸らされた。
「侍女として雇ったつもりはないのだが」
「はい。分かっています」
皇弟の妃として働き始めてから一月。仮初という名の通り、この男と対面する機会は殆どなかった。というのも、皇弟は大層忙しい立場らしい。朝早くから出仕し、夜遅くに屋敷へと戻ってくる。勿論、その後に猫猫の寝室に訪れる事などない。まだまだ若いお年頃である。仕事以外にも、その若さを発揮する場所に赴いているのかもしれない。しかし、それは仮初の存在には関係のない事だ。
「あの、続きをしても?」
「あ、あぁ……」
再び四つん這いになり布で床を擦りつけると、月の君が長椅子に座り、何故か猫猫を眺め始めた。猫猫が動く度に、黒曜の瞳も同時に動く。
「……何か?」
「気にするな」
(気になるが)
じっとりとした視線が横顔に突き刺さる。もしや、猫猫が何か不届な事をしでかさないか警戒しているのか。妃としての役割を全う出来ないお陰で生まれた暇な時間を、ただ有効活用したいだけなのだが。それを伝えたとして、その警戒心を解く事は出来ないだろう。
それからと言うもの、月の君は度々猫猫の元にやって来て、その行動を監視するようになった。
「今日は何をしているんだ?」
「ごきげんよう、月の君」
後ろからひょっこりと出てきた顔に思わず半目を向けると、月の君の眼が楽しそうに弧を描いた。今日もまた猫猫を監視しに来たらしい。皇弟の屋敷に来てから二月ほどの時間が経過している。そろそろ少しは警戒心を解いてもらいたい物である。猫猫だって、皇弟に害をなすと捉えられるような行動は避けてきたはずだ。一度だけ屋敷中に異様な臭いを充満させ、月の君直々の拳骨を喰らった事はあるが。
「水蓮さまに許可をいただいて、疲労回復に効く薬を調合しています」
「なんだ、疲れているのか?」
「私ではなくて、毎日過剰な労働を自分に課している殿方の為です」
「……それは、どの男の事だ」
「今、目の前にいる目の下にドス黒い隈のある方の事ですかね」
「っ、」
不機嫌そうに歪められた目の下に指を滑らすと、月の君の肩がびくりと震えた。陶器のように滑らかな肌が、僅かにかさついている。猫猫に政は分からない。一人の人間が、これ程まで疲れ果てなければいけない理由があるのだろうか。猫猫を見つめる男の姿が養父の姿に重なる。他人に任せる事も出来るはずなのに、重荷を一人で背負い込み、ゆっくりと消耗していく養父の姿に。
湧いたもどかしさにふんと鼻を鳴らしながら視線を上げると、石のように固まり動かない月の君と目が合った。何故か触れていた頬が赤く染まっている。
「熱でもあるんでしょうか?」
「うおっ、だ、大丈夫だっ」
額の熱を確認しようと伸ばした手を避けるように、月の君が勢いよく顔を逸らした。猫猫に触れられるのが、そんなに嫌だったのだろうか。確かに、診察の癖でつい触れ過ぎてしまった気がする。眉根を寄せ、何かに耐えるように目を瞑る月の君に頭を下げる。
「失礼しました」
「……いや、良い」
「ベタベタ触られて嫌でしたよね。今後は気をつけます」
「いや!いや、えっと……」
「?」
「おまえは医術に長けているのか」
「まあ、ある程度は。元々薬屋をやっていましたので」
(そういや話してなかったか)
月の君の妃となった日から、この男と腰を据えて話した事はない。仮初の立場なのだ。月の君もわざわざ興味のない女の身の上について知りたいとは思わないだろう。猫猫だって、そんな相手に自分の事を積極的に話そうとも思わない。そもそも口下手な性分である。それ故に、月の君についても晩年過労気味の男であるという一面しか知らない。
(私を監視している暇があるんだったら休んで欲しいんだけどな)
そもそも、月の君が猫猫を監視せずとも、部屋の外では護衛が常に見張っている。皇弟自ら監視役に買って出なくとも良いはずなのだ。何とか自室に追い返す方法はないか。思考にふけようと顎に当てた指に、月の君の長い指が絡んだ。指先に硬い胼胝の感触がする。長時間、筆を握っている人間に出来る働き者の証拠だ。
「己の妃だというのに、俺はおまえの事を何も知らないんだな」
「はぁ、まあ……」
(妃と言っても偽物だしな)
「もう少し、お互いの事を話す時間を作ろうか」
猫猫の指先を撫でながら、どこか面映そうな表情で月の君が呟いた。
「え、何でですか」
「何でって……。知りたくないか、俺の事」
「いえ、大丈夫です」
「そんな即答するか⁉︎」
「そんな事をしている暇があるのであれば、早く自室にお戻りください」
「あ、おい!」
長い指が猫猫の手を行き来する度、徐々に下がってくる月の君の瞼。そんなに眠いのであれば、今すぐにでも寝台に入って欲しい。深くお辞儀をした後、逃げるように部屋を後にした。月の君は何かを言いたげにしていたが、きっと猫猫には関係のない事だ。
◆
窓を開け全身に陽の光を浴びる。外に見える一面の緑にだらしなく口がニヤけた。
(さて、今日は何をしようか)
妃としての役割を免除されている状況は、随分と暇なものだ。妃という役職は、本来、皇族の子を宿し育て、その血統を絶やす事なく繋ぐ役目を担うものである。その為、常に緊張の中に身を置かなければならないはずだ。先日、産まれた東宮も、皇后と共にそれはそれは厳重に守られているらしい。しかし、猫猫の状況は異なる。皇弟は交渉の際に発した言葉通り、猫猫に一切手を出す素振りを見せない。その権力や外見で、他人を好きなように出来る立場であるのに。
(そもそも鶏がらのような身体に興味を示す訳がないしな)
一人ごちながら、まずは畑を耕す事から始めようと扉を開けた瞬間、目の前に大きな壁が現れた。
「……何をしているのでしょうか」
「お、おはよう」
「おはようございます」
「今日は、暇か?」
「え?」
「急に休みになってな。もし暇なら、偶には一緒に過ごさないか」
「はぁ、また何で」
「……」
首を傾げながら問いかけると、月の君の唇がツンと尖った。拗ねた子供のような表情だ。
「理由がなければ駄目なのか」
憮然とした声色で放たれた言葉と共に、手を掴まれた。熱い手のひらに引かれ、部屋の外に出される。
「ちょっと」
「美味いと評判の酒が手に入ったのだがな」
「あぁ!是非お付き合いします‼︎」
「現金なやつだな」
悔しそう口調の割に、どこか楽しそうな表情が猫猫に向けられた。
「ほら、酒だ」
「ありがとうございます」
(美味い!)
渡された一気に酒を呷る。何がおかしいのか、横から漏れ出るような笑い声が聞こえた。視線を向けると、黒曜の瞳がじっと猫猫を捉えていた。
「……」
「……」
「……何か話す事はないのか」
「何か、ですか」
(正直、話す事はない)
貴重な休みなのに、こんな色気も面白みもない女と過ごそうとするなんて変わった男である。皇弟ともなると、そう易々他人と食事を共にする事は許れていないのだろう。もし本物の妃が存在していたら、隣に座り話し相手にでもなっていたはずだ。そちらが提示してきた条件とはいえ、妃の役職を果たさず好き勝手に過ごさせてもらっている分、せめて話し相手くらいになるべきなのかもしれない。
「今日は、随分と顔色が良さそうですね」
「ああ、おまえの薬はよく効く」
「え、飲んでくださっているのですか?」
「俺の為に調薬してくれた薬なんだろ?」
「はい!自分の体力を過信して、倒れる寸前まで働くような馬鹿真面目な人間にも効果が現れるよう調合しました!」
「馬鹿真面目……」
「はっ」
両手で口を塞ぐが、もう遅い。自分の薬の効果に興奮し、うっかり失言をかましてしまった。機嫌を損ねたかと恐る恐る視線を上げると、何故か顔を赤くした月の君と目が合った。口を覆っている手に月の君の指がかかり、ゆっくりと握り締められる。
「俺は愚かなほどに馬鹿真面目なのだろうか」
「いや、あの、これは言葉のあやというか」
「良い、正直に言ってくれ。おまえの目に、俺はどう見えている」
「……」
縋るような瞳が猫猫に向けられている。まるで雨の中で助けを求める子犬のようだ。自分より倍ほどもある図体の男にそんな感想を抱くとは、美味い酒に酔ってしまっているのかもしれない。無意識に伸ばした手で錦糸のように滑らかな髪の毛を撫でると、男の喉が犬のように鳴った。
「勿体無いと思います」
「勿体無い……」
月の君の噂は、ありとあらゆる所から聞こえてくる。その噂の大半は容姿に関するものだ。皆、月の君がどんな顔をしていて、どれ程に美しい姿をしているのかという事にしか興味がないようだ。月の君が実直に仕事をしようと、例え堕落して遊び呆けていようと、この美しい容姿だけが褒め称えられるのだろう。目の前で疲弊していく姿を見ている猫猫としては、それが悔しくて仕方がない。
「こんなになるまで苦労して、頑張っているんですけどね」
頭を撫でていた手で薄い唇に触れる。綺麗な形に惑わされそうになるが、その表面は乾いていた。
(この唇さえ潤うほどの効能を考えて調薬しなければ)
頭の中で生薬の姿を思い浮かべていると、目の前の乾いた唇が近づいてきた。その輪郭がぼやけ、唇にカサついた感覚が触れる。
「んっ、んん⁉︎」
目を見開くと、目の前には長いまつ毛。猫猫の手を握っていた熱い手のひらは、いつの間にか後頭部に周り、顔を背けないよう押さえつけられている。
一体何が起きている。混乱する思考のまま、言葉を発しようとした猫猫の口の中に熱い何かが侵入してきた。
「あぅ、待って、」
「ん……」
男の妖美な吐息と共に、口内に白檀の香りが充満する。何か間違いが起きている。このままでいけない。自由になっている両手を思い切り振り上げた。
「いっ‼︎」
ばちんと乾いた音と共に、男が飛び上がった。口を大きく開き精一杯空気を吸い込む。真っ赤に染まった頬に手を当て、こちらを見つめる潤んだ黒曜の瞳を睨み返す。
「何のつもりですか」
「あ、いや……」
「どういった戯れか知りませんが、こういった事が洒落にならない立場だとお忘れでは?」
「ち、違うんだ」
「私はあくまで仮初の存在です。万が一が起こってしまえば、貴方だって迷惑でしょう」
もごもごと口を動かす男に痺れを切らし、勢い良く立ち上がる。この男も酒に酔い、場の雰囲気に飲まれたのだろう。疲労困憊状態での飲酒は、今後控えてもらうよう水蓮に伝えておかなければ。
一歩踏み出そうとした猫猫の身体は、熱く柔らかい物体に捉えられた。
「違う!」
「あの、」
「こんな感情は、初めてで……」
情けない声色に頭を上げると、眉毛を八の字に下げた子犬のような表情な男がいた。今にも泣き出しそうな瞳に、憤りの感情が引いていく。
「女という生き物が苦手だったはずなんだ。なのに、何故か、おまえを見ていると、とても楽しくて」
(え、何だこの流れ)
今にも噴火しそうな程に顔を赤くした男が、その潤んだ瞳で猫猫を見つめてくる。背中にじっとりと汗が浮かぶ。
「心の臓が温かくなり、締め付けられるような痛みが走る」
(女子供が喜ぶ小説の一説にありそうな言葉だな)
想定外の展開に、思考は現実を拒むよう宙を彷徨い始めた。
「なぁ、教えてくれ。この感情は何なんだ」
「……百戦錬磨の御方に、私が教えられる事など」
「百戦錬磨な訳あるか。おまえが……、猫猫が初めてなんだ」
焼けた鉄のように熱した大きい図体がのしかかってくる。
(どこの誰が、一切手を出すつもりはないって?)
口から漏れかけた悪態は、疲労で乾いた唇の中に吸い込まれていった。
◆
手を出された猫猫、恋愛初心者の皇弟に恋愛レッスンをする編に続く(多分)