底の底 「っ…!っは、は、…はっ!」
息を潜め、日が落ちていく空を見る。
空にいくつかの長い影がゆらゆらと漂っている。誰かが干していた帯でも飛んでしまったのだろうか、と思うかも知れないがそうではない。
規則的な動きにぐるぐると旋回する様はあの帯が意思を持っていることを示している。竜だ。
竜達の何か探すような動きに、息を切らしていた男は冷や汗を掻きながら動かぬ脚に必死に鞭打った。
桜雲街の中心に流れる美しい川は商いをする妖狐達にとっても、そこに住まう幼い妖かし達にとっても大切なものだ。
虫や川の流れる声、草木のざわめきが耳に心地良いそこを晶は息を切らしながら川の流れとは逆方向に走っていた。
暫く走り、街から大分離れた川のほとりで夜のぐっと冷えた気温に身震いしながら、混乱する頭を整理した。
そう、始めは今居る山中で目覚めた。すると、カラスのような羽の生えた美しい男が目の前にたっていたのだ。
羽をあしらった扇で顔を隠しつつも、倒れていた晶に手を差しのべてくれた。
カラスのような羽に最初は驚いたが、扇で隠していた顔を一目見れば息が止まるような美丈夫で目も合わせるのもためらうほどだった。
彼のひそめられた形の良い眉、舞い散る桜も霞む美しい唇に晶はとうとう自分は死んで天のお使いが来てくれたのだと勘違いした。
羽の生えた男はファウストと言って烏天狗だと自己紹介してくれた。
そこで晶も名乗ろうと思った。が、言葉が続かない。ここでようやく自分の記憶がないことに気づいた。
いや、晶自身、自分の鈍感さに驚いた。
ファウストは怪しがって晶を置いていこうか一瞬逡巡していたが、なに、彼の元来の優しい気質だろうか。警戒しつつも桜雲街まで連れて来てくれたのだ。
そこでは妖狐が酒場を開き、烏天狗が飯屋を開いていた。
ファウストは親切にも知り合い達に晶を知らないか聞いて回ってくれた。
だが、誰も彼も知らない。晶、君は何か分かるか? いや分からない。
というわけで何も分からぬまま、日が落ちた。
行く宛も自分も分からぬ晶は捨て子のような気持ちになって、ついファウストを見やった。
ファウストは優しい男だった。特にすがられるのに弱い。子供に甘い。
長いため息の後、2日、いや、一週間…いいや、三週間までなら。行く宛が無いなら家に来なさい。と渋々と言った体で了承してくれた。
晶が何度もありがとうございますと言えば、君も心細いだろう。それに僕はこの1日で大分、君を気に入ってしまったみたいだ。と優しく微笑んでくれた。
ファウストの家へ向かおうとしたそのときだ。
竜達が現れた。
その内の四匹が立ち塞がって二人を止めた。よく似た幼子の姿をした双子竜、長く美しい黒髪をした竜、そして、すらりとした角を持つ軽薄な印象の竜だった。
四匹の竜は災いにそれが関係しているやも知れない、とよく分からぬことを言って晶を捕らえようとした。
ファウストはそれを止めようとしたが、多勢に無勢。晶を抱えてカラスの羽で飛び上がり、扇で風を起こして逃げた。
双子竜はフィガロちゃんの弟子、なかなかやるのう、かわいいのうかわいいのう、しかしちとお仕置きが必要じゃなと言うと大きな天駆ける竜となって晶達を物凄い速さで追ってきた。
遠くでファウスト、戻っておいで! 双子先生やり過ぎないで下さいよ! という軽薄な竜の声が聞こえた気がした。
双子竜は存外しつこく、晶を抱えて飛ぶファウストは体力が削られた。
晶を探すため多くの竜達が空を駆けるなか、木陰に下ろされた晶はファウストに川に沿って川上へ逃げろと言われた。
晶が止める前にファウストは飛び上がり空に居る竜達の注意を引いて行ってしまった。
そして、今に至る。
(ファウスト…、俺のせいで…)
冷えた空気にかじかむ手で肩を抱く。体はぐったりしているが思考は冴えるばかりでファウストのことを考えては、己の無力さを嘆いた。
晶が川を上っていくと開けた場所に出て湖があった。
月が明るすぎる位で湖の先の先まで見通せた。
水面は澄み、空の月はその姿のまま浮かんでいる。
ふと、月がぐにゃりと歪んだ。
歪んだかと思うと割れ、水面に二本の枝が生えた。湖の月に生えた枝はゆっくりと成長し、やがて海底の色をした髪が現れた。
「っ!」
「待て」
低く澄んだ声に呼び止められれば動けなくなり体が凍りつく。術というわけではなく、ただその凛とした厳かな声に魅了されたのだ。
哀れな晶は声の主がゆっくりと水面から上体を上げるまで一分程硬直した。
湖の月の上に灰の中に翡翠を隠した瞳が上れば感嘆し、月よりも白くぼんぼりのように辺りを微かに照らす朧気な肌が晒されれば美しさと妖艶さに夢でも見ているような、酔っているような恍惚さで体の芯から熱くなった。
「…」
締まった腹筋を伝う湖の水でさえ、彼の様を移してあの世の美酒になってしまったようにさえ思う。
「人の子」
呼ばれて何とかはい、と返事をする。
(! 俺は妖かしじゃない)
人の子と呼ばれてようやく、晶は一つ自分のことを思い出した。
そこで改めて気づく。晶から20メートル程先の湖の月に浮かぶ半裸の男は夕暮れに晶を捕らえようとした竜の内の一匹、軽薄な竜だった。
「…フィガロ、ですか?」
おそるおそる名前を聞けば、驚いた顔をしてからにんまりと笑う。
体を刺されるような寒気と興奮に晶は恐怖して一歩後ずさった。
「私に畏まらない人間には初めて出会った。良い、許す。
取って食ったりはしない。」
「あっ……ぅ…」
「怖がらせて悪かった。…うん、こっちの喋り方の方が良いかな?」
そう、その喋り方、姿形。夕暮れにあったあの竜のままだった。
しかし、一つ違うのは水面下にうっすらと見える下半身。それは脚でも竜の尾でもない。蛇の尾だった。
湖の下に長い長いとぐろを巻いた、海の色を人匙垂らした灰色の尾はゆっくりゆっくりと動いている。
「俺はフィガロ・ガルシア。怖がらないで、君が一緒にいたファウストとは…ちょっとした仲だから」
「ちょっとした…?
ファ、ファウストは? ファウストは無事なんでしょうか? 俺のせいで、俺が…ファウストは俺を助けてくれただけなんです。だから…」
「分かってるよ、ファウストのことは君よりずっとね。
あの子が君に俺を会わせたんだよ」
「え…?」
驚き見つめると、ああ違う違うと嘘臭い笑顔を張り付けて少しずつ此方に近づいてきた。
「あの子が自分じゃ君を守れないと思って俺を頼ってきたんだ」
フィガロは胸に手を置き前屈みになる。髪を伝った雫が落ちた。
「まだ俺を頼ってくれてる。あぁ、愛されてるな、俺。
それより、俺と二人きりなのにファウストの話ばかりだね」
「え、えっと…」
岸まで来たフィガロは地面に肘を着き、下から見上げるように晶を見やる。決して水面から蛇の下半身を出さないように。
蛇の下半身は水面を揺らさないようにゆっくり動く。晶はその尾が本当に生きて血が通っているのだと少し感動を覚えた。
「竜、ではないんですね」
「いいや、竜でもある。親戚みたいなものかな。でも、昔は蛇神、水神、ナーガと呼ばれていたんだ。」
自分に話題が変わったことに喜んだのか、フィガロは尾の先を水面から出してゆらりゆらりと振る。
「長い間生きてきて、今は竜のふりをしているけど。
昔はね人間達に崇め奉られる神様だったんだよ。みんなが願うように雨を降らせたり、止めたり。ナーガは感情によって天気を制御出来る。
ただ、俺は少し上手くいかなかった。」
「?」
「ある年、守護していた村に雨を降らせられなくて。酷い干魃にしてしまった。ばたばた人が倒れて」
「…」
「そのとき双子竜と出会った。双子竜に弟子入りして力をつけて俺の村を守りたかったけど、ダメだった。
俺がみんな殺してしまったんだ」
「そんな!」
そんなことない。だってフィガロは必死に守ろうとしたんだから。だから、殺してなんかいない。
そう言いたかったが上手く言葉にならず足元に落ちる。足元のフィガロは試すようにも、優しく微笑んでるようにも見える笑顔で小首をかしげた。
堪らず、晶は彼の手を取った。逃げられないように強く握り、それでいて痛くないように大切に両手で包み込む。
言葉は間違えてしまわないように、傷つけてしまわないように慎重に大切に選んだ。
「フィガロ、大切なことを話してくれてありがとうございます。なぜ俺に話してくれたのか、分からないですし…。俺は何も出来ないですけど。
でも、俺は、フィガロが寂しいと悲しいです。
貴方が雨を降らせられなかったとしても、きっと、それまで、その村の人達に沢山の素敵なものを貴方は与えてきてくれたんだと思います」
こんな物きっと気休めにもならない、フィガロにとっては取るに足らない泡沫以下の物だろう。そう思いながらもどうにか、彼に渡したかった。彼の痛みを少しでも和らげる、寄り添えるような花束を。
「…優しいね、晶は」
月が雲に隠れ光を遮る。
ずるり、するり。
闇のなかで足元で、彼が晶を怖がらせぬようにはい上がる。それに合わせて晶も立ち上がった。
月光が遠くの湖から、そしてフィガロの灰色の尾を照らし出す。
光に晒された尾は奇妙で妖艶で、何より晶が惹かれた。
「優しい晶。俺の花嫁になって」
「…え?」
後ずさる隙も与えぬ速さで灰色の尾が巧みに晶の足に絡み付く。動こうにも脚が抜けない、逃げれない。
なぜだろうか、誰かのチェンバロと小鳥の鳴き声が耳の奥で聴こえる。
「な、なぜ」
「なぜって、きみを籠絡したいからさ」
目眩がする。
「人間なんて久しぶりに会った。俺は水の神、いわば与える神様だ。
こうしてまた人に会えたのも何かの縁。これは俺に巡ってきたチャンスなんだ」
「フィガロ…」
「君に尽くし、君が求めるものを何でも上げる。君だけの神様だよ。たかが後50年の寿命でしょ?完璧に愛して上げる」
フィガロの尾はとぐろを巻き地面から晶を絡め取った。脚が宙に浮き本当に逃げれないと悟る。
「大丈夫だよ。湖の底で俺だけにすがっていればいい」