私情 太陽が空高く昇り、暖かい光が差し込んでくるのを感じながら、アレインは起き上がって一つ欠伸してから背伸びをした。窓辺から外を眺めると、ここ最近の暖かさで咲いた花や草木に付いた朝露が、光を反射して煌めいている。命の芽吹きを感じるパレヴィア島の春が、アレインは季節の中でも一等好きだった。
(今日はジョセフが帰ってくる日か)
寝衣を脱いでいつもの服に着替えながら、二週間振りに会えるであろう聖騎士の顔を思い浮かべ、アレインの気持ちは上向いた。
この島に逃げ落ちて以降、ジョセフはゼノイラに反旗を翻すための戦力を集めようと、度々船でコルニアとここを行き来している。島に来たばかりだった頃は、まだ幼いアレインを気遣ってなのか船に乗る頻度は低く、昔からの友人だという神父にアレインを預けてから行っていたが、アレインが一人で生活できるようになってからは、それなりに頻度が増えていった。
ジョセフは島を出る前、戻ってくる予定の日にちを毎度伝えてくれる。勿論、コルニアで不測の事態が発生することもあるだろうし、そもそも天候に左右されやすい船を使っての移動であるから、予定通りに帰って来る日は珍しいのだが、それでもアレインはこの日が近づく度に嬉しくて仕方がなく、子供じみていると分かっていながらも浮き足立ってしまうのだ。
自室から出て居間に向かうと、無人の部屋にジョセフが持って出ていった荷物の袋が長椅子に置かれていることに気付き、アレインはおやと首を傾げる。
「……もう帰ってきたのか」
今日がその珍しい日だったことを嬉しく思うも、小さな違和感が浮かんだ。
ジョセフがアレインの眠る真夜中に帰ってくること自体はそれなりにあるので、特に疑問には思わない。しかしそういう時は──いや、ジョセフがこの家にいる時は必ず、ジョセフがアレインより先に起きて朝食を作っていたから、この時間になっても彼が起きていないのが不思議だった。荷物だけ置いて、どこか外に出かけているのかと思い玄関を見に行ったが、二人分の靴がきっちりと揃えられていた。
(…まあ、眠っているだけなのなら、そっちの方が寧ろ嬉しいんだが)
自分がいなくても一人で生活できるようにと、ジョセフから家事を教えてもらい、簡単なものとはいえ料理も作れるようになった。しかし教えくれたのは、あくまでもジョセフがパレヴィア島にいない時のためらしく、家事をしているジョセフに何か手伝おうかと尋ねると「従者に気を遣う必要はありません」と渋い顔をされる。それでも強引に押し切って手伝いをしているのだが。
突然預けられた子供の世話と鍛錬の指導をする傍らで、ゼノイラに悟られないようにしながら決起の時に備えて動く、というのをあの人は何年間も続けている。ちゃんと休んでいるのか、いつか無理をしすぎて倒れてしまうのではないかと、常日頃から心の内で心配している。
故に彼がしっかりと休めているのなら、アレインにとっては朗報なのだ。とはいうものの、あそこまで主君と従者の境界線を厳格に分けてくる彼が、疲れているからという理由だけで起きてこないのか、実は怪我や病気で倒れているのではないかという不安もある。アレインは暫く悶々としていたが、やがて決意を固めると、長椅子にある袋を持ってジョセフの部屋へと向かっていった。
扉の前で一つ深呼吸をし、すまない、と心の中で無作法を謝罪をしてから、ノックをせずにドアノブを握り、なるべく音を立てないようにして、少しだけ扉を開ける。隙間からそっと部屋の様子を伺うと、机に向かって座る人影が見えて焦って閉めようとしたものの、よく見ると机に突っ伏していた。アレインは数秒そのままの体勢でいたが、やがて扉の隙間を広げ、部屋の中へと入った。
(よかった、ただ寝てるだけみたいだな)
持ってきた荷物を置き、足音を立たないようにジョセフの近くへ寄って顔を覗き込む。規則正しい呼吸と穏やかな寝顔からして、自身の想像が杞憂だと悟り、一先ず胸を撫で下ろした。
(……とはいえ、これはなぁ)
机の上には、解放軍に関わるであろう書類と思しきものが無造作に広げられている。恐らく、家に戻ってきてからも休まずに仕事をしている途中で寝落ちしたのだろう。アレインはため息をつきかけ、慌てて堪えた。
本当のことを言えば、ジョセフが自分の身をここまで犠牲にしてゼノイラに立ち向かおうとする姿を、疑問に思うことがある。
コルニアの王子として、愛する祖国を取り戻したい気持ちは勿論ある。母の仇を討ちたい気持ちもある。しかし、この平和なパレヴィア島で過ごしていると、自分達は過去にしがみつくコルニアの亡霊で、この決起は平穏なフェブリス全土を戦乱に巻き込む、恐ろしい行為なのではないかと考えてしまう。
しかし、アレインはこの悩みをジョセフに打ち明けたことはない。彼の元で庇護され、アレインが島の外を知らないからそう思えるだけの可能性もあると思っているから。
(なにより、貴方の言葉を信じたかった)
母のことを忘れなければと思い込んでいたアレインに寄り添い、悲しみに囚われてはいけないが、それでも母を忘れず前を向いて進もうと話してくれたジョセフが、復讐に囚われずに、フェブリスの民達のために進んでいるのだと、そう思いたかった。要するに私情なのだ。
(でも、立ち止まっていいのにと思うのも、俺の個人的な都合だ)
これが民のためになるのかと悩んでいるのも本当の気持ちだ。しかしその裏で、ジョセフが使命を果たそうと、自身を傷つけながら進む姿を見たくないという気持ちもあるのだ。
いつもは凛々しく固められた髪が下され、前髪が垂れているジョセフを見て、アレインは逡巡の後、そっと手を伸ばし髪に触れる。この島に来たばかりの頃は、何者にも塗り替えられない彼の力強さを示すかのような黒髪であったのに、時が経つにつれて白髪が増え、今では黒髪の方が少なくなってしまった。
ふとカーテンの隙間から光が差し込み、白と黒の混ざった髪が、穏やかな春の光に照らされた。
季節の中では春が一等好きだ。様々な命の芽吹きを感じるから。自分が使命という名の鎖で雁字搦めにして、あるはずだった彼の自由と時間を奪っている罪悪感から、少しだけ目を逸らせるから。
こんな話、誰にも言えやしない。いや、罪悪感だけならましだった。ジョセフの時間を奪いたくないなんてのたまいながら、彼と共に過ごす時間に喜びを感じている自分が確かにいる。
(その喜びでさえ、純粋な、後ろめたい暗さがなければまだよかった。まだ言い訳ができたのに)
そっと髪に顔を近づける。心の臓が、彼を起こしてしまうのではないかと思うほどに五月蠅く跳ね回っている。そのまま顔を寄せ、髪に唇が触れかけて、
「う……ん……」
ジョセフが身じろぎしたのを感じ、アレインは弾かれたように顔を離し、逃げるようにして部屋の扉に後退りをした。ずるずると座り込みながら、早鐘を打つ心臓を落ち着かせようと深く深呼吸をし、やがて両手で顔を覆い隠した。
(俺は、なんて、とんでもないことを)
魔が差した、としか言いようがなかった。が、一生かけて隠し通そうと決めていたのに、初めてあんなに近い距離でジョセフに触れた、というだけで襲いかけてしまうなど救いようがない。私情で線引きを踏み越えてしまう、どうしようもなく愚かな人間であることを突き付けられ、アレインは顔を覆ったまま深く項垂れた。
暫くの間そのままでいたアレインは、罪滅ぼしにもならないがせめて休める時間を少しでも増やそうと、なるべく音を立てないよう扉を開け、二人分の朝食を作りに向かった。