楓可不『Back Stage Snap』「熱かったら言ってね」
軽く湿らせた前髪を下から立ち上げるためにドライヤーを当てる。楓のものよりも細く柔らかな髪が風を受けて持ち上がる。顕になった丸い額は荒れたところひとつない。ついこの前まで人生のほとんどを病室で過ごし、日に当たる機会が極端に少なかったからだろうか。透き通るように白い肌は触れたら崩れてしまいそうにも見えたが、そんなことはなく、そこにあるのは血の通った温かな人間の皮膚だ。
伏せられた髪と同じ色のまつ毛が揺れる。色素が薄い分目立たないが、実は長いまつ毛がメイク用の明るいライトの光を受けてキラキラと輝いて見えた。
「楓ちゃん、うまくいきそう?」
「うーん……どうだろう……人の髪をセットすることなんてないからなぁ」
自信のなさを隠せずに尻すぼみになっていく楓の言葉を受けて、可不可が小さく肩を揺らして笑う。
「いつも通りでいいのに」
ドライヤーを止めて櫛で整える。ところどころ絡まっているところは特に丁寧に。普段はそのまま下ろされている前髪を少し立ち上げただけで、思っていた以上に雰囲気が変わる。
「やっぱり凪くんみたいにプロのヘアメイクさんにやってもらったほうが良かったんじゃないかなあ」
「え~……楓ちゃんそれ本気で言ってる?」
目を開けた可不可に詰め寄られた。薄くメイクを施されているからだろうか。意志の強さをそのまま落とし込んだ瞳の迫力に楓は思わず息を呑んだ。
「楓ちゃんとお揃いにしたかったの。楓ちゃんに僕のこといちばんかっこよくしてほしかったの。もしかしてその理由も言わなきゃダメ?」
ぷいっ、と音を立てそうな勢いで可不可がそっぽを向いた。可不可によく鈍感だとぼやかれる楓でも、さすがに可不可の言いたいことはわかった。唇を尖らせた横顔がほんのり紅潮していくのに釣られるように、楓も顔が熱くなるのを感じた。
「もう! なんで楓ちゃんがそんなに赤くなってんの」
「ははは……そんなことより、ほら続き! 撮影まで時間ないんでしょ」
仕上げに普段楓が使っているヘアバームを手に取る。いつもより気持ち少なめに取ったバームを手に馴染ませ、可不可の髪に揉み込む。少し手つきが乱暴になってしまったからだろうか、可不可が「くすぐったいよ」と肩を揺らした。最後にまた少し櫛で整えてどうにか可不可ご所望のセンターパートが仕上がった。
ありがとう、と言った可不可は立ち上がると楓から少し距離をとって、くるりとその場で一周してみせた。
「どうかな?」
「うん。かっこいいよ、可不可」
「ふふっ。思っていた以上にお揃いで嬉しくなっちゃった」
この撮影のために仕立てたというストライプのスーツで、いつもと違う少し大人びた髪型で、くすくすと笑う可不可の表情だけが子どもの頃と変わらなかった。
「あと、動くと楓ちゃんと同じ匂いがする」
じわり。湧き上がった衝動のままに手を伸ばしかけたが、パリッと仕上げられたスーツに皺をつけるわけにもいかず、すんでのところで留まる。中途半端に宙に浮いた手に可不可が首を傾げる?
「どうかした?」
「…………今すごく抱きしめたいのを我慢してる」
「え~我慢しなくていいのに」
「スーツが皺になっちゃったら困るでしょ」
「う……たしかに。じゃあ撮影が終わったらぎゅってして」
こてんと首を傾げる可不可に、抱きしめたい気持ちがますます膨らむ。返事に詰まった楓を見て満足げに口角を上げたからきっとわざとだ。浮いたままだった手を可不可の髪に伸ばし、前髪を少しだけよける。きっと自分の名前を呼ぶために開かれた口から声が聴こえる前に、楓は可不可の生え際に軽く口づけた。
名前を呼ぶはずだったその形のまま固まってる可不可に、今度は楓の方が満たされていくのを感じた。前髪をもう一度整え直したところで楽屋の扉がノックされ撮影の準備が整ったことが告げられた。
「はーい、今行きます。ほら、可不可、時間だよ」
「…………言いたいことがいっぱいあるんだけど」
「うん。撮影が終わったらいくらでも聞くよ」
可不可は何か言いたげなまま俯き、深く息を吐いた。大きく息を吸って、再び上げられた顔は、さっきまでとは違う、仕事モードの可不可だった。それもかなり切羽詰まっている時、集中力最大の。
「すぐ終わらせるから」
そう言った可不可は背を向けてドアノブに手をかける。
「うん。いってらっしゃい」
「何言ってんの」
くるりと振り返った可不可がつかつかと楓の方に戻ってくる。楓の手を掴んでそのままもう一度ドアへと向かう。
「可不可? 俺も行ったほうがいい?」
「当然! ちゃんと見てて! 僕から目を離さないでね」
振り返った可不可が楽しげに笑う。ほら急いで、と促されて楓も控室を後にした。可不可に掴まれた手を握り返して。