れさし小説2「…あれ…」
結局全身びしょ濡れだからって風呂まで借りてしまった。びしょ濡れのまま上がるのも忍びないと思ってはいたが、手取り足取りされてしまっている。一度会っただけのような人間にここまで優しいとは…見習わなくてはな。
湯船にちゃんと入ったのもいつぶりだろうか。思い当たる日常生活のあれこれを言えば彼に怒られてしまいそうだ。この家の中の様子から見るに、俺より百倍はきちんとした生活を送っているだろう。
…それにしても、よくあの土砂降りの中で人影を見つけられたものだ。どす黒く濁った景色の中で人一人見つけるのも一苦労だろう。あのまま振られていたらどうなっていたことか…途中から雷も鳴り出していたし、きっと無事ではいられなかった。まぁ、その数分後にまさか風呂に入っているとは。夢にも思わなかった光景だろうな。
シャンプーやリンスの容器がラックの高いところから見下ろしている。静まり返った水面に髪から跳ねた水滴が弾ける。人の家ってこんなに静かなものなのか。誰かの家に招かれるなんてとてつもなく久しぶりだし、自分の家以外の風呂を使うのも仕事の出張で泊まったホテル以来じゃなかろうか。
…まずい。なんだか眠くなってきた。
逆上せそうになる前に風呂場から出ると、目の前の洗面台に数枚の服とタオルが綺麗に折り畳まれている。ぴったりとした長方形だ。やっぱり彼ってとても器用な人間なのかもしれない。俺なんかで仲良く出来るだろうか…
「出たか。」
廊下と浴室を繋ぐ扉の向こうから声が聞こえた。急に聞こえたせいで肩が跳ねてしまった。
「は、はい、」
「ちゃんとあったまったか?」
「うん…あ、あの、服とかって…」
「そこに置いてあるの使ってくれ。」
畳まれている服を広げてみる。モノトーンな私服達。何の変哲もないカットソーと何の変哲もないズボンだ。
どんだけ用意周到なんだ。もう既に着替えを出してあるなんて。
「…何から何までありがとう、すまないな…」
そう言った時だ。広げたと共に挟まっていた服が落ちてしまった。はらりとはみ出て落ちた布を何の躊躇もなく拾い上げる。
「…わぁ!!!!!」
喉が掻き切れるような、奇声のような大声が飛び出た。
「さ、サンデさん!!」
「サンデでいいと言ったが。どうした?」
「これ!流石にし、下着はまずいんじゃないか!?」
「嫌か?シンデの服は全部洗ってしまったぜ。」
「え、ええぇ!?い、いやというか!君の方は大丈夫なのかって話で、」
「俺なら大丈夫だ。」
「な…な、んなんだ…」
流石に下着は自分のものの方が良いなと思っていたが…どうやら本当にお構いなしのようだ。何故だ。どうしてこんなにも気にしないでいられるんだ。すごいな。
シンデが小さくもそもそと着替えている間にも、扉の前から人の気配は消えなかった。
「着替え終わったか?」
「あぁ、ありがとう。」
部屋着が部屋着なだけあって、まるで自分の家のような安心感を身に纏ってしまった。なんだか友達の家にお泊りに来たみたいだ。なんだか楽しくなってきた自分がいる。
「入っても?」
「…えぇ!?」
まさかそう来ると思っていなかった。予想通りなのだろうか。再びとんでもなく大声を出したシンデに、とうとうがちゃりと扉が開いてしまう。
その向こうから半分だけ顔を覗かせるサンデは期待と羨望の眼差しを向けていた。しっかりとシンデを見つめるその視線の向こうに、ドライヤーらしきもののヘッドが垣間見える。
「髪を乾かそうと思って。」
「あ、そ、それくらいなら俺が、」
「やりたいんだ。」
きぃっと深く扉が開かれ、とうとう彼の全身が登場した。向こう側から続いていたじっとりとした眼差しは未だその中心にシンデを捕らえたままだ。
「やらせてくれ。」
「…わ、分かった…?」
どうしてそんな目をするのかは分からないが、熱量だけは伝わった。
そのまま流れるようにその場に椅子を置いて、使い慣れた手つきで左右される温風に後ろ髪を弄ばれる。ちょうどいいくらいに熱い空気が自分を芯からあたためてくれている。
「…すまない、なんというか毛量が多いよな…時間も手間も掛かって面倒臭いだろう?」
「問題ない。」
どこか長閑な故郷を思い出させてくれる匂いだ。あのふかふかでちくちくな藁と青臭い雑草の匂いを、ここにきてから思い出したことなんて会っただろうか。鏡の前にいる自分を見る隙もなくその心地良さに思わず目を瞑ってしまう。時折ドライヤーの風に紛れて優しい指先に頬を突かれるが、もはやそれすらも気持ちいい。もう少しでもこのままにされたらここで眠れてしまいそうだ。
「そ、そっか…はぁ、気持ちいいぜ。」
「熱くはないか?」
「大丈夫だ。ありがとう。」
かくかくと首を上下させるシンデに代わり、サンデは自分より少し暗めな紫陽花の髪を指先で摘んでいる。使いたてのリンスの艶とその奥で深く香るシャンプーの匂い。公園で拾った人間とは思えないほど良い仕上がりになってしまった。後は至極丁寧に乾かしてやるだけだろう。なんとか眠らないよう時々ちょっかいをかけているのだが、相当限界らしい。
白く揺れる首筋から生えた長い髪を束にして持ち直す。
「…このわさわさっとした感じ…とても良いな。」
「えっ、」
「ん?」
「あ、いや…か、髪を褒められたのは初めてで…」
「そうなのか?とても良いと思う。」
「…どんなに梳かしても、まっすぐにならないんだ。いつしかやめてしまったが、だらしなく思われてると思ってたから…」
「そんなことないぜ。」
サンデは一瞬ドライヤーを下ろすと、その掴んだ髪束に顔を近づけすぅっと鼻筋を動かした。シンデがぽかんとしている反応を見る辺り、その一連の流れは綺麗に鏡の中に映っていたようだ。
「可愛い。」
「かっ…か、わ…?」
「あぁ。可愛い。とても。」
「ぁ…あ、りがと…ぅ…」
…耳まで真っ赤になってしまった。少しやりすぎたか。
「だいたい乾いたぞ。」
「おぁ…ありがとう。」
「すぐに戻る。リビングで待っててくれ。」
「はぁい…」
弱々しい返事とともにのろのろとリビングへの道を辿る。一瞬玄関の方へ歩き出しそうになったが、サンデが止める間もなく流石に分かったのかすぐにその踵を返していった。
「…」
さっきは玄関から風呂まで直通だった故にリビングというものをじっくり見ることが出来なかったな。まぁあまり観察してしまうのもどうかと思うが…
日常生活に必要であろうものが散らかっていない程度に散りばめられているところから、やはりサンデは相当人間らしいということを思い知らされる。物を買ってもどう飾り付けても殺風景になってしまう自分とは大違いだ。生活感がないと言われてしまうのもそのせいだろう。
緑色nカバーに覆われたソファーに座った。そういえば、この家の家具は暖色系のものが多い気がする。小人の家に迷い込んでいるみたいだ。一人で頬を緩ませていると、片付けを終えて戻ってきたサンデがシンデのいるソファーへと向かっていた。その右手には少し大きめのマグカップが握られていた。
「ホットミルクだ。」
「あ…ありがとう。」
握り締めた容器が白い湯気を吐く。昔は眠れない夜、母さんがわざわざ起きて淹れてくれていたな。懐かしい。
こんな話を今、こんなところで思い出すことになるとは。走馬灯でしか見られない景色だと思っていた。こんなことをしなければもう、故郷のことも思い出せなくなっていたのか。
「あったかい…」
こんな独り言のようなぼやきを零しても、静かなことに変わりはなかった。この静けさは自分と似たようなものを感じるな。
「…なぁ、シンデ。」
「ん?何だ?」
「もしよければなんだが。」
ソファーの空いた隣に腰を降ろすと、サンデは両の手をきゅっと組み視線を真っ直ぐシンデの方へ向けた。新鮮な光が黒く曇った空間の中に入り込む。
「君の話を聞かせてくれないか?」
思わず器を落としそうになってしまった。シンデは一瞬固まるとそれでも落ち着いたように笑い、静かに頷いた。ここまでしてもらっているのに自分から何も言わないのは、彼の良心に反する。
「…あぁ…」
「無理はしなくていいぜ。ただ、俺はあまりにも君のことを知らなすぎる。」
「いや…俺はいいんだ、ただ彼がどう思うか…」
「レンデのことか?」
やはり察しがいいというべきか。しかし彼の前では、というか集会の際には必ず彼の隣にいたし、そう解釈されるのも無理はないのか。逆に言うと彼はその時の俺しか知らないんだな。
しかし核心を突かれたのは事実だ。何も言えず、ただ頷くだけになってしまう。しかしサンデは気にも留めていないようだ。こんなに短い時間しか居ないのに、何だか何もかも分かっているような。知っている彼にとっては、自分の悩みなんてちっぽけなものなのかもしれない。そんな気がしてしまう。
「ならいい。彼の事情は大体知っている。」
「…そうだったのか…」
じゃあ、知らなかったのは俺だけ。隠されていたのは俺だけなのか。俺に隠そうとするほど、彼はきっと壮大で危険なことを黙っている。レンデは自分を明かせないんだ。それくらい、何か重大なことを隠しているのか。きっと、その身に余るほど。
「君は知らなかったのか。」
「…知りたくもなかったよ、あんな…あんなこと、平然とやってのけるなんてそんな…」
思わず声を荒げそうになってしまう。
「君にとってレンデはどんな存在だ?」
「…初めて会った時、助けてくれたんだ。俺の中の悪い部分に殺されそうになってて、それで…身を呈して守ってもらったんだよ。こんなの初めてだ。彼は自分が血を流してでも俺を止めてくれた。」
虚ろになりつつある瞳の奥からひく、とひしゃげた笑い声が溢れた。声色はぼんやりと明るく灯っているものの、その表情はまるで地獄を見たかのように深く沈んでいる。
「それに他にも、上着貸してくれたり俺が贈ったものを使ってくれたり…人並みに扱ってくれるというか、今までも普通に人間として接してもらっていたけど、何だか…蔑ろにすることなく接してくれることが本当に嬉しくて…でも、それでも苦しいんだ。」
「苦しい?」
「…彼は…やっぱり、レンデは違う。他の皆と違うんだ。今まで俺は、ずっと幸せだと思ってたんだ。シバナの側にいられて、そこにいることを許されて、それだけでとても幸せ者だって…だからどんな扱いされても良かったんだ。ずっと、死ぬまで隣にいてもいていいなら、彼にどんな言葉を言われたってどんなことをされたって良かった。側から見れば吐いてしまいそうなことも、彼が好きでやってるならそれで良かった。好きな人が俺を好き勝手して幸せになってくれるなんて、それ以上の幸せなんてないだろう?」
「…君の言う好き勝手は周りから見れば酷いことなのか?」
「そうかもしれない。あんまり言いたくないんだが…暴力とかって言うんだろうな…でもその後は必ず愛してるって言ってくれたし、同じベッドで寝てくれたし…酷いと思うのも烏滸がましいと、そう思っていた。レンデに会う前は…」
吐き出される本音の中に、どこか血なまぐさい塊が眠っている気がしてしまった。外の風に当たることも拒まれてしまうような、火薬にも似た匂い。彼から放たれるシバナという存在には、そんな平気のような表しが通用してしまう。
「レンデ、は…そう思っているのを間違ってるって、教えてくれたんだ。これはきっと俺を閉じ込めるためのもので、俺を酷い目に遭わせるためのものだって、俺はずっと…彼に虐められていたのかもしれないって、初めて気付かされた。守ってくれたのも近づくのを許してくれたのも、俺が本当は幸せじゃないってことも…」
さらさらとした汗が頬を伝い、その手元へと落ちているのが見えた。
「優しかったんだ…!」
酷く動揺している。誰もが一見して分かるような異常さに思わずサンデの肩が震えた。
「あの時…レンデの中にシバナと同じものを感じたんだ。渡した紅茶を飲んでくれるのも、上着を掛けてくれたのも、急にハグしても怒らないし、なんだか嬉しいのに、少し嫌な予感がするんだ。」
「嫌な予感?」
「…彼と同じなんだよ。」
白く歪む顔色に取り付けられ、いかにも具合悪そうに震えるその口元は未だに彼の名前を言う時だけ滑舌を悪くさせる。
「彼と同じだ、シバナと同じで優しくて、俺を人間として接してくれて…生きてるって、分からせてくれた。それが幸せだって気付いて、とても嬉しくなって、それで、」
「シンデ。」
上がりきってしまいそうな息を肩で繰り返すシンデに思わず歯止めを掛けた。
「無理はしなくていい。」
「…また、俺が壊してしまうのかもしれない…」
すぅっと細く小さく吸われた酸素がひゅうっと固まった氷を冷やすよう音を奏でる。あたためるつもりで手渡した牛乳もいつの間にかがちがちに凍ってしまっているような気がした。
「仲良くなることは嬉しいはずなのに、誰かを失いたくないって思うのは、怖くないはずなのに…今はすごく怖いんだ…もし、もしレンデがいなくなったら…」
サンデにカップを回収され空になった両手を重ねると、シンデは片手を血が出るくらいに強く握りしめた。今にもその薄い皮膚から糸を外すよう爪がプチプチと立てられていく。
「どうしよう…」
混迷を極めた声色だ。どうして、好きになると壊れてしまうんだ。緩いシャツに伸びた手首から覗く細やかな糸が、小さく震えている。痛みからか恐怖からか、信じられないくらい重い感情を抱えているのが見て分かった。
「…君のシバナは、どこにいるんだ?」
「っ…」
「いや、すまない。嫌な質問だったな。忘れてくれ。」
「…」
俺は弱い。今度こそ何も言えなくなったシンデは静かに、暴力的に自分の手首を締めている。
「おかわりは?」
「…す、まない、もう味、が…分からない…」
「腹は満たされたか?」
「…うん。」
「ならあとはゆっくり寝るだけだな。」
よっこらしょ。そんな軽い掛け声と共にそし再びシンデの体が浮き上がった。反射的に手足をばたつかせるも、あっという間に横抱きにされその四肢は宙の中だ。
「あ、そ、そんな、」
「ん?」
「おっ、降ろしてくれ!俺、重いだろう…!?」
「いやとても軽い。」
「かっ…!?と、ともかく!大丈夫だ!抱えなくても自分で歩ける!」
「ここには人の目なんてないぞ?」
「そ、そうだが!確かにそうだが!」
向かう先は寝室だろう。もはや反撃もなく白旗を上げたシンデを抱えたまま、サンデは案の定ベッドのある部屋へ彼を運んだ。ふかふかな布団を剥がしマットレスの隙間にシンデを滑り込ませると、肩まで布団を掛け直してやる。
「ほ、本当に良いのか?ここまでしてもらって…」
「構わない。」
「…どうしてここまで…」
やはりこの状況が追いつかないのか受け止められないのか、どんどん顔色を悪くしていく。少々、いやかなり心配性ではないだろうか。流石にこっちの方が少し心配になる。一瞬だけ呆れたような、どうすればいいんだと言うような溜め息を吐くと、サンデはその布団が被った腹の辺りをぽこぽこと手のひらで叩いた。
「君には門限があるのか?」
「な、ない…」
「ならいいじゃないか、友達の家にお泊まりしても。」
寝転び言葉を濁すシンデの空いた横に、サンデはぽすんと腰を下ろす。まぁ、彼の苦悩も分からなくはないのだ。ここで突き放すことは論外であるしそうする必要もない。
「君も災難だったな、シンデ。」
「…災難なのは彼の方だ。俺なんか全然、何もしてないのに…」
「彼を失ったような顔をしているのは君だ。」
ただ可哀想だから。それだけで差し伸べた手だ。こちらから手離すのはどちらにせよ気が引ける。サンデは遠くを見ながら、花に話しかけるよう小さく呟いた。
「心の拠り所みたいなものなんだろう。受け入れられないのも仕方がないことだと思う。」
「…レンデは、受け入れてくれると思うか?こんな俺のことを…」
「…それはレンデじゃなくちゃ分からない。だが、彼の救いたいと願う意思は本物だ。」
きゅ、と締められる喉奥にサンデの声がそっと入り込む。
「君達もう少し話し合った方がいいぜ。腐っても人間なんだ、せっかく同じ人種に生まれたんだからこの機会は大事にした方がいい。シンデも自分がどう思っているのかこの際打ち明けた方がいいと思う。どう返されようと少しは気が晴れるはずだ。」
「…そうだな…」
あまりはっきりせず沈んだままの声色にサンデはそっと声を掛ける。
「難しいことなのは分かってるぜ。このまま彼を避けて機会を伺う方が楽だ。レンデが何をどう話すかは分からないが、きっと君を放っておくことはないと思う。だが、君は本当にそれでいいのか?」
次に聞こえたのはかちゃりと部屋の扉が閉じられた音だ。最後に一言おやすみと言われたような気はしたものの、ただ死んだように横になることしか出来ない。まるでようやく目が覚めたような、そんな感覚だった。
「…すまないロトム、レンデに電話を繋げてもいいか?」
ポケットに入れておいたスマホを手に取り、中に入っているロトムへそう呼びかけると小さな機体からオレンジ色の光がひょい、と飛び出した。
「ありがとう。」
空っぽになり自己操作になったスマホを構え、焦り交じりに連絡先の欄を叩く。幸運にも一番上に彼の名前は置いてあった。迷う必要もない。電話など掛けたことなんてあっただろうか。向こうから掛けてくれたことはあったが、俺から掛けるなんて…夢にも思っていなかったな。
コールが鳴る。一回、二回、三回。
「…出ない…か…」
早々に留守番の音声が流れ始めてしまった。そうか、もう夜だし眠ってしまっているのかもしれない。それか…彼のことも、酷く傷つけてしまったかもしれない。
今からでも外へ行くことは…サンデがなんと言うだろうか。きっと許してくれないだろう。寝ることを勧めたのは彼だ。
…久しぶりに、何も考えずに眠りたい。今起こっていること全て忘れて、頭を休ませることが出来たら。どれほど幸せなことだろうか。薄くなぞられた隈をひた隠すようぎゅうっと目を瞑った。