アダム・セルペンテ
穏やかで暖かな気候に、素晴らしい海の景色、歴史ある街並みに美味しいシーフード。豊かな大きい島に生まれ育つ。
セルペンテ家は最初は不動産で財をなし、今や膨大な土地、金、事業までも抱えている。そんな世界的にも超大富豪と括られる家に生まれたアダムはまた、生まれつきなんでも持っていた。顔、要領、記憶力、体力、運動神経までも最初から持ち合わせ、泣かず、2歳ほどで文章を解して、5歳ごろにはチェスで勝てる大人は家にはいなくなった。
大人びて考えすぎる性格で同年代の友達はできなかった。家に篭って家庭教師に一般教養や社交のルール、政経などを学び、空いた時間は本を読みながら海の見えるテラスでハンモックに寝ていた。
1番の話し相手は母親であった。母親は名をエバ・セルペンテという。身も心も豚のような巨富の醜男に、フランスの田舎から嫁いできた能天気な女。青薔薇の咲いたような癖毛、蛇のような瞳孔をはめ込んだタレ目、鋭い牙に長い舌、りんごのような頬、ふくよかな体。
使用人や外商は最初陰でこそこそと彼女の悪口を言っていたようだが、時間をかけて態度でイメージを変えていった。アダムが生まれる頃には、どちらが屋敷の主人かわかぬほどに慕われていた。
ニコリともしない息子に呆れることなく悲しむことなくよく語りかけ、本心ではずっと愛を返してくれてるのをそっと受け止めてくれていた。良き妻、そして良き母だった。
✴︎
「アダムちゃん。今日のおやつはね、お庭で採れたベリーのパイなの。楽しみだわ、ふふふ、踊りたくなっちゃうわ」
ある日の午前10時頃、ドレスの裾を引きずって、母がハンモックを覗き込む。母は善良な人間で、美しいのに頭が悪く、だからここに嫁いできたのだ。それがよくわかる、能天気な声がした。
「それから、今日のご飯はいわしのパスタなの。ねえ、何を読んでいるの? お母さんと遊ぼ?」
母は足の腱を切られており、非常にのろい速度でしか、自分の足で移動できなかった。
「無理に階段使ってテラスになんか来るな。使用人に運ばせればいいだろ」
「お母さん重いし……、それに、ここじゃないとふたりきりになれないわ」
アダムちゃんも、お母さんとふたりきりが嬉しいでしょう。
来るなと言われて一瞬だけしゅんとした顔を見せて、またすぐに笑顔になる。何思っていないわけではないのに、感情を表すことができない俺の代わりのように、本当によく笑って泣いて怒る。
「今日ね、あの人が帰ってくるから、お部屋に鍵をかけてね。出ちゃだめよ」
甘えていた癖に、母の境遇かわいそうだとは思わなかった
と、言えば嘘になる。
✴︎
"いつもの日々"が崩壊するのにかかる時間は、ほんの数時間である。
深夜に突然響く銃声。それだけでアダムは何があったかを察し、走り出した。家族を助けるため、ではなく屋敷にいる人間に指示を出すため。
電気をつけるな、ドアでも窓でもなんでもいい逃げろ火をつけられるぞ、家財は放っておけ。指示を出しながら、両親のいるはずの部屋に駆け込んだ。
守銭奴な父親はさぞかし大慌てかと思われた。が、そこにいたのは父親だった肉の塊と、腕を血で汚した母親だった。
母親に銃声が聞こえただろう、はやく逃げてと告げる。すれば、寂しそうに笑って、お母さんが全部仕組んだことなのよと返される。
母親はそのまま、ベッド脇の金庫を指差した。あけておいたわ、大事なものは全てあの中にある、あなたにあげる、それを持って隠れていて。
ごめんね、お母さんは君のことを目的のためにつくったのに、愛してしまった。どうか元気で。つまらない日常がステキだってこと忘れないでね。
呆然と立ち尽くすアダムにキスをして、いつもと同じように足を引きずりながら、母親だった女は部屋を出ていった。きっともう、会うことはないだろう。誰にでもわかることだった。
そのあとアダムは、見つかればその都度相手を殺しながら2週間ほど屋敷の中で隠れ続けた。
セルペンテはあまりいい稼ぎ方はしてこなかった。いつかの恨みの報告だろうと悲しくはならなかった。それよりも、積み上がるような量の父親だった豚と、使用人たち、どこかの組織の人間たちの死体の山が煩わしかった。意外と、人体は燃えないことを知る。
今後自分はどうすれば良いか、考えあぐねていた時に来客はあった。曰くマフィアのボス。なぜこんなところまでと思わなかったわけではないがアダムにとっては渡りに船そのもの。
母親に託された全てのものは、ほいと捨てるにはあまりに大きく、ただ自由にはなりたく、それでも手放したかったから。
怯えるでもなく、アダムがあまりにあっけらかんとしているのが不可解だったのか、マフィアの女は正気かどうかと尋ねてきた。
✴︎
「ああ、憤っている。"退屈で平穏で、矮小な……すばらしい日々"を壊されて憤っている」
そう、答えてみた。父親が死んだことなど本当に何にも心に訴えかけるようなことはなにもなかったからだ。
コソコソと逃げ回って生き残ってきたけど、これは勝てそうにない。諦めて、膝を折って何も持ってはいないと手を見せてみた。
終わりが来るのはいいことだな。でも、実を言うと、凄惨な光景に少しわくわくしてしまった。