名前はまだないことにしてある「斑はん! やぁっと見つけた!」
「ん? どうしたんだあ息を切らして」
あっけらかんとした様子の斑はんの脇腹をどつく。どうしたんだ、など分かっているに決まっている。数日前から何度も五月十六日の予定を尋ねているというのに、そして既読は一瞬にしてつくというのに、全くもって返信が来ない。そして星奏館でもぜんぜん見つからない。いい加減にしてほしい。
ホールハンズの画面を眼前に突きつけて、「これ!」と言う。斑はんは困惑を装って「これがどうしたんだあ?」と相変わらずの様子。
「予定を聞いとるんじゃボケ! はよ答えんかい!」
「……」
「それとも文字も言葉も分からんくなったんがおどれは! 五月! 十六日! 空いとるん!?」
「…………」
そうしてまくしたてるように予定を聞き、おや、と思う。斑はんはどうやら本当に困惑しているようなのだ。
目を見開いて首をかしげ、「別にその日にこだわる必要なんてないだろう」と答える斑はん。今度はわしが困惑する番だった。
「その日にって、アホかおんどれは、まさか忘れたん……!?」
「……? 君にとっては別に、特別な日でもなんでもないだろう?」
「……」
彼があまりに当たり前のようにそう言うものだから、わしは呆れてものも言えなくなってしまう。俺にとっては特別な日かもしれないが、君にとっては違う――そんなことを言いたいらしい斑はんの、今度はみぞおちを軽く殴った。
「ぐぇッ!? な、なにをそんなに怒って……」
「相棒の! 誕生日!」
その言葉を――相棒、という言葉を選んだものの、わしは勝手な確信をしていた。わしが胸に抱えるこの苦しくも美しいような感情は、斑はんの胸の中にあるものと同じであると。だってそうでなければわしが突然現れて声を投げつけた瞬間に、あんな顔を――ふわりと幸福が湧き上がってきたような顔をするはずがない。……と、勝手に思う。
親友である月永はんに話しかけられたとき、彼は満開の花のように楽しそうに笑う。大事な人であるらしいプロデューサーはんに話しかけられたとき、頼られるのが嬉しい兄のように笑う。
わしだけだ。あんな顔を向けるのは。おそらく、きっと。
「祝いたいに決まっとるやろ!!」
「…………、そうかあ……?」
「そうじゃ! 分かったら予定聞かせい! 空いとるんか空いとらんのか言え!」
「……」
納得したのか、それともわしが余程の剣幕だったのか。斑はんは少しの間困惑した表情のままだったが、最終的に弱々しい声でこう答えた。
「夕方から夜、なら……空いてるぞお」
「……。わかった。ぜっ・た・い・に、空けといてな」
*
そうしてやって来たのが今日である。五月十六日。俺の誕生日。こはくさんにとっては何の特別さも無いただの一日であると思っていたはずの、今日この日。指定された待ち合わせ場所に少し早めに来てみれば、小さい影がそわそわと落ち着かない様子で既に待っていた。
スマホを見たと思えばすぐに閉じてきょろきょろし、またスマホを見てから手に持ったスマホを胸に当ててぐいと下を向く。
俺の気配に気が付かないほどに、彼は緊張しているようだった。
「……」
話しかけづらい、と思った。ついてしまった手前声をかけないわけにもいかないのだが。
こはくさんは、たぶんきっと俺のことが好きだ。そして俺も、こはくさんの、ことが。ただそれに答えを求めてはいなかったし、求めるのがおそろしいとすら思っていた。だってこはくさんと俺が今までともに経てきた経験はいびつな形をしている。お互いに何かを勘違いしているんじゃないか、だってそうでもなければ、そんなの幸せすぎるだろう。
俺は自分が幸せになれるなんて、思ってもいなかった。近頃やっとのことでそんなことはないと少しずつ思えてきてはいたが、しかし、それでもこれは幸せすぎる。初恋の相手と気持ちを通じ合わせるなんて、そんなに都合の良い話は存在しないと思ってしまうのだ。
だから怖かった。この気持ちに、関係性に、名前がつくのが。
「……、」
だからといって、放置しておくわけにもいかない。決心した俺はおそるおそる「こはくさん」と名を呼んだ。
「……ッ、ま、だらはん! は、早いやん……?」
「君こそ早すぎるだろう。二十分前だぞお。ちなみに十分くらい離れたところから見てたから、三十分前には既にしっかりついてたことになるなあ」
「……ぬしはんも三十分前から来とるやん」
そう指摘されてしまっては返す言葉もなかったので、「それで、すごくそわそわしていたみたいだが」と話題を変えることにした。俺の発言にこはくさんは「あ~、」と答えづらそうに返答を濁し、髪をかき上げてから「しゃあないやろ」とだけ答えた。
「仕方がない?」
「だって、わし、こんなん初めてやし」
「……初めて? 君とこうして一緒に出掛けるのは初めてでもなんでもないだろう」
「…………。」
俺の言葉は何か間違えていたらしい。こはくさんは深く深く溜息を吐いてから、ほんまに言うとるんかおんどれは、と小声で吐き捨てる。そしてもう一つ溜息を吐き出すと――一瞬にして距離を詰めて俺の手首をがしりと掴んだ。
唐突に近づいた距離に、一瞬本能的な警戒心が発動する。いや、心臓が早鐘を打っているのは本当に警戒心? 警戒心であるのならば、それはもっと居心地が悪いはずで。
警戒ならば、『高鳴る』という表現は似つかわしくない。しかし今俺の心臓の状況を表すのであれば、どう考えたってそれ以外存在しない――と、思う。
どうして? どうして? 困惑した。自分の心が分からない。縮まったこはくさんとの距離に戸惑っていれば、顔同士の距離は更に近づいた。こはくさんが背伸びをして俺の顔に近づいてきたのだ。
紫の瞳が近く近くで俺を捉える。嫌でも視線がかち合う。
「誕生日デート。そのつもりじゃ、わしは」
「……」
互いにこの気持ちは分かり合っているのだと、理解してはいた。俺が臆病なだけで。前に進もうとするこはくさんの気持ちをどう受け止めれば良いか分からなくて深呼吸をし、何か返そうとしたところで、こはくさんは手首を掴んでいた手をするりと動かして、俺の手を握った。
そしてそのまま引っ張っていく。彼しか知らない行先に。
「デートスポットっちやつは斑はんが教えてくれたしな。お互い早く着きすぎてしもたし、ゲーセンでも行ってからにしよか♪」
「……君なあ」
「今度は自分でぬいぐるみ取ったる」
「…………」
「ほんで、斑はんにプレゼントする」
「………………ふ」
やる気満々のこはくさんに思わず頬が緩んで笑いがこぼれる。彼の気分を損ねていないか不安になったが、どちらかというと俺がやっと笑ったことに安心した表情をしているように見える。
お互い微笑みを浮かべ視線を交わし合う。こういったとき伝えるべき二文字はどちらも口にせず、見つめ合ったまま。
……と。
「……うわっと!?」
「ははは! 前を見ないと危ないぞお! 電柱があるからなあ!」
「やかましいわ! ぬしはんも見てへんやんってなんで避けられんねん!?」
本当に、そこまで気を張れないくらい緊張しているらしいこはくさんが、愛おしくて仕方がない。そんな可愛い彼のお祝いは、きっと本当に幸せな気分にさせてくれるのだろう。
幸せになる。想いに名前をつけずとも、間柄の名を変えずとも、それでも理解し合っているから。
「……行こうか」
「ああ、行こ」
そうして踏み出した一歩は、どこへ向かうのか。どこへ行くとしても、この握った手の温もりがあれば、どんなところだって幸せだと――そう、思った。